第15話 イルのいないエッヂア家①
「ええい、遅い、遅すぎる!」
エッヂア家の屋敷で、イルの父であるザファー・エッヂアは怒鳴っていた。
怒鳴られたメイドや執事たちは戦々恐々の面持ちでザファーを見つめている。
ザファーの怒りは収まらない。
「掃除、洗濯、炊事、こんな簡単なことになぜ時間がかかっているんだ! 今までは門下生100人分程度、すぐに準備できていたではないか!」
執事たちは互いに顔を見合わせる。
彼らの顔には、大体の仕事はイルが一人でやってたもんな……と書いてあった。
「し……しかし旦那様、我々も休憩時間を削り対処しているのです」執事長がザファーに反論を試みる。「私も3日の間眠っておりません!」
執事長がそう言った瞬間、その隣に立っていた副執事長が倒れた。
恐らくは超過労働による過労と睡眠不足、その他諸々のストレスが原因だろう。
メイドたちが倒れた副執事長を医務室へ運んでいく。
余談だが、医務室には既に限界を迎えた執事やメイドが数人、既に治療を受けていた。
激務に耐えきれず肉体や精神を病んでしまったものたちだ。
ザファーにとっては、そうしてリタイアした彼らの処置も悩みのひとつだった。
労務災害で訴えられたら大変だからだ。
最近では王都で過労自殺を認めさせるための訴訟が起き、自殺の原因が超過労働にあるものとして使用者に損害賠償が求められたケースもあると聞く。
うーん、困った。
今のうちに裁判官たちを何人か手懐けて、万が一裁判を起こされたときにこちらへ有利な判定を出すよう働きかけておかねば。
賄賂はいくら程度が妥当だろうか……。
余計な出費、というワードがザファーの脳裏をよぎる。
クソ、私は騎士団長だぞ。なんでこんな経理のようなことを考えなければならないのだ……そんなことを考えるザファーは、既に執事たちを説教のために呼び出したのが自分だということを忘れている。
「では逆に尋ねよう。執事長、なぜ準備が遅れるようになったのだ?」
「そ―――それは」
初老の執事長の頭の中には、イルの顔が浮かんでいた。
しかしそれを言葉に出せば今までいかに自分たちが怠けていたかを証明することになってしまう。
執事長の脳はフル回転した。
そして絞り出した――生死を分かつ一世一代の一言‼
「イル様――いや、イルが、我々の道具を使えなくして出て行ったのです!」
「なん……だと?」
ザファーが眉を顰める。
執事やメイドたちは固唾をのんでその様子を見守っていた。
「そ、そうです! すべて彼の責任です!」
「では、家事のための道具を取り揃えれば元通り業務がこなせるというわけだな?」
「は――はい、そうです! あ、いや、それだけでは……現在休んでいる者どもの代わりと、さらなる増員が必要です」
「増員だと? なぜだ」
「ええと……イルが――そう、奴の傍若無人なふるまいによってPTSDを発症しているものが何人もいるのです。業務の能率が落ちているのはそういう者がいるからで……つまり、スタッフの増員が必要なのです!」
「ほう、そうか。大幅な入れ替えが必要だというのだな」
「あ、いえ、入れ替えというか増員を」
「いや、その必要はなさそうだ。私は業務効率が落ちる原因を見つけだぞ」
「な、なんでございましょう?」
「……お前だよ、執事長。お前はクビだ。明日からは副執事長―――は倒れたのだったな。誰でもよい、次の執事長を雇用するまで代わりを務めておけ。道具と代わりの人員に関しては近日中に補充しておく」
「お、お待ちください旦那様っ!」
ザファーに縋りつこうとする執事長を、ザファーは汚いものを触るように払いのけた。
執事長は床を転がり壁に叩きつけられ、動かなくなった。
慰謝料、という言葉がザファーの脳裏に浮かんだ。