23 『この世にはね、不思議なことなんて何一つないらしいですよ!』
「この祠の前で命を絶とうとしていた私は、あの人と…お母さんと、皮肉にもこの場所で再会したんだ」
アンさんは、静かな声で綴る。
寂寥が添えられた物語を。
「ただ、その時にはもう、お母さんはほとんど視力を失っていたから…私を見ても、私とは、分からなかったんだけれど」
何年も経っていたし、無理もないか。
アンさんは、そう言って笑った。笑っていなかったのに、乾いた声で笑っていた。
「そして、なんだかんだのなし崩しで、私はお母さんの家政婦なんてやることになってしまった。目の見えないお母さんが、私だと気付いていないのをいいことに、アンなんて偽名まで名乗ってね…どの面を下げてそんなことをしたのか、我ながら理解に苦しむよ。お母さんの忠告も聞かず、この王都を出たのは私なのに」
お母さんが私を許すはずは、ないのにね。
そう語ったアンさんの頬を、涙が伝う。
いや、月明かりだった。
たった一筋の月の光が、アンさんの頬を瑞々しく照らす。
それは、彼女だけのスポットライトだった。
だから、なぜか、ワタシは、口を挟んでしまった。
今、この場所は、この人のための舞台だったというのに。
「そんなことは、ありませんよ」
「花子…だっけ、あなたは私があの人の娘だって、気付いていたね」
アンさん声に頷いてから、ワタシは言った。
「アンさんはワタシに言いましたよね。セシリアさんの右目は、昔から見えていなかった、と…その怪我は、セシリアさんが小さな頃の娘さんと一緒にいた時に負ったものだった、と」
この人の舞台に割って入ってしまった心苦しさからか、ワタシは早口になっていた。そんなワタシは、早口のまま続ける。
「そして、セシリアさんがこう言っていました。その右目の怪我のことを知っている人は、もう王都にはいない、と…それなのに、最近、王都に来たはずのアンさんが、セシリアさんの右目の怪我のことを知っていました」
これらの台詞は、きっと、蛇足だった。
この二人の物語を語る上では。
それでも続けた、けれど。
「なら、そのセシリアさんの右目の怪我を、アンさんはどこで知ったのか…それは、最初からですよ。最初から、アンさんはそのセシリアさんの怪我のことを知っていたんです。だって、セシリアさんが右目を怪我した時、子供の頃のアンさんが一緒にいたんですから」
捲し立てるように言った後、大きく息を吸って呼吸を整えた。
「そうか、私が自分で言ったのか。本当に、駄目な人間だな、私は。だから、自分の親にも気付かれないんだ…たとえ、目が見えなくなっていたとしても」
アンさんは、そこで溜め息をつく。
その瞬間の表情は、宵闇に隠れて見えなかった。
だから、ワタシが言った。
どうせ蛇足なら、最後まで付け足してやる。
「そんなことは、ないんですよ…だって、セシリアさんはアンさんが自分の子供だって、ちゃんと気付いていましたよ」
「…え?」
アンさんは無垢な子供のように驚き、言葉を失っていた。
「確かに、セシリアさんの右目はほとんど見えていないんでしょうね。けど、残った左目はそうじゃありません。あの人の左目は、普通に見えています」
「花子…それは、本当なのか?」
「本当ですよ。ワタシがセシリアさんの家に行った時、セシリアさんには見えていました。壁掛け時計の、正確な時間が」
時計までは、そこそこの距離があったはずなのに。
だから、セシリアさんの目がほとんど見えていないというのは、ウソだと気付いた。
そして、同時に疑問が浮かんだ。
なぜ、セシリアさんは、見えているはずなのに見えていないと言っているのか。
それは、ダレに向けてのウソなのか。
「それなら、なおのこと、お母さんは私を許していない、ということだ。本当は目が見えていたのに、見えていないことにしていた。それは、不肖の娘である私のことを、見たくなかったからだ…結局、私はこの王都でもあの舞台の上でも同じだ。誰からも見てもらえてはいなかった、ということだ」
アンさんの声は、そこで沈み込む。
夜の闇と溶け合うように、沈殿する。
「そんなことは、ないんだ…サザンカ」
そこで声を発したのは、セシリアさんだった。
セシリアさんは、アンさんの名を…本当の名を、呼んでいた。
その声は、夜と同化しかけていたあの人に、届く。
「というか、許してもらえていないのは私の方だと思っていたんだ…私は、役者になりたいというサザンカの想いと、真摯に向き合わなかった。ただ、お役目という言葉だけであなたをこの場所に縛ろうとしていたんだ」
セシリアさんは、娘であるサザンカさんを、見る。
しっかりと、その目で、視る。
「私の方が、愛想を尽かされていると思っていた…だから、またサザンカに会えたあの日、驚いた。同時に、怖かったんだ」
また、見捨てられるのかもしれない、と。
俯きながら、セシリアさんは、そう呟いた。
「だから、娘じゃなくても、あなたが傍にいてくれるのなら、なんでもよかった…目が見えていないことにして、娘だと分からないフリをした。あなたに傍に、いて欲しかったから、道化でもなんでも演じたんだ」
セシリアさんは、一歩、踏み出した。
サザンカさんも、一歩、踏み出した。
宵闇の夜の中、二人の距離が、縮まった。
「それが、こんなことになってしまうなんて、ごめんね…サザンカ」
「お母さんは、何も悪くなんてないよ…というか、役者を目指してた私より演技の才能あるんじゃないの」
サザンカさんは、軽く微笑んだ。
それはきっと、この人の芯から溢れた微笑みだ。
この夜が、その微笑みに色を添えていたけれど。
「よかったじゃねえか、雨降って地固まるってヤツかぁ?」
そこまで無粋な声を出せるのは、この場にはあの仮面の男しかいなかった。
仮面の男は、さらに無粋を撒き散らす。
「どうせ、お前みたいなのは役者どころか何者にもなれやしねえんだ…せめて、その枯れた母親の面倒でもみてやれよ、生い先も短いだろうからな」
「…なら、あなたは何者だというんですか」
堪忍袋の緒がぷちぷちと切れそうになるのを感じながら、ワタシが割って入る。
「俺は、悪党だよ…とっておきのな」
「さっきまでおどおどしていたのに、急に態度が変わりましたね」
「…うるせえよ、小娘」
そう毒づく仮面の男には、先ほどまでの狼狽がなかった。だから、ワタシは言ってやった。先回りをした言葉を。
「応援なら来ませんよ」
「…なに?」
仮面の男の表情が、如実に変わる。仮面があろうとなかろうと関係がない。それだけ狼狽えれば、誰にでも分かる。そして、器の底も、そこで知れる。
「急にあなたが饒舌になったのは、時間が経ったからですよね。あなたたちが定刻通りにアジトに戻らなければ援軍が来る…そんな手筈になっていたんでしょう」
「小娘…お前」
仮面の男は、体を震わせながら言葉を失っていた。
だから、ワタシは最後の言葉を口にした。
「あなた、自分が何者なのか、バレていないとでも思っていたんですか?」
「何を言っているんだ…お前は」
間抜けな顔を晒す仮面の男に、ワタシはオマケの一言もくれてやる。
もってけドロボー!
「年貢の納め時なら、とっくに過ぎてるんですよ」
そこで、ワタシは視線を変えた。
仮面の男から、ワタシの大切なお姉ちゃんに。
「それと、雪花さん」
「え、私?」
不意に名を呼ばれた雪花さんは、キョトンとした瞳で素の一人称を口にしていた。
「雪花さんの漫画は、現実化なんてされていません」
雪花さんは、人知れず苦しんでいた。
自分が描いた漫画の出来事が、現実に起こっているんじゃないか、と。
その内容の通りに、最後には、ダレカが命を落とすのではないか、と。
だから、ワタシは雪花さんに叫ぶ。
「願い箱なんてウソっぱちの迷信ですよ。雪花さんが気に病むことなんて、何もないんです!」
ワタシは、ここで大見得を切った。
変な角度で右手を上げたり左手を曲げたりと、ポーズなんかは適当だったけれど。
そして、仕上げの台詞を口にする。
「あなたの妹を信じてください…この世にはね、不思議なことなんて何一つないらしいですよ!」
…よし、これは千両役者だ。
まあ、そう思っていたのは、ワタシだけだっただろうけれど。




