20 『挨拶前のアンブッシュは一度だけ認められているのでござるよ』
息を殺し、物陰に身を潜めていた。
分厚い雲に覆われた、曇天の宵闇の中で。
「…………」
息を潜めていたのは、ワタシだけではない。
この夜も、同じだった。
耳が痛くなるのほどの静謐の中、今宵は全てのものが息を潜めていた。
夜を縄張りとしているはずの生き物たちも、今だけは周囲にいなかった。
もしかするといたのかもしれないが、気配も呼気も、何も感じられない。
夜は、停滞をしていた。
時が進むことすら、拒むように。
ワタシは、そんな夜と同化していた。
一切の音が、世界から消えていた。
この場に存在している唯一の音は、心音だけだ。
少し強張ったワタシの心臓の音だけが、唯一の音として夜の世界に存在していた。
その不揃いな音だけが、この朧げな夜の世界の中、ワタシという人間の存在を保証してくれていた。
「………!」
そんな無音の世界に、雑音が混じった。
まだ遠いが、それは人の声だ。それも、複数の。
それらの声も抑えられていたが、静寂が支配するこの夜の中では、耳障りな異物としての存在感をかもしていた。
声は、徐々に近づいてくる。
人目を憚り、足音を殺して。
この夜の暗さに紛れて。
シルエットだけで、十分に理解できた。
それは、疚しいことがある人間の動きだった。
「………!」
人影は、目的の場所まで歩を進めた。
夜の暗闇が覆い隠しているので正確な数は分からないが、五、六人ほどはいる。体格のいい人間が複数と、それらの人影よりも一回りほど小さな影が、一つ。しかし、その中心にいたのは、小さな人影だ。その小さな人影は、そんなことを望んではいないだろうけれど。
「………すよ」
弱々しい声が、聞こえてきた。声量も小さく、それが小柄な人影から発せられたものだということは、この距離からでも理解できた。
ワタシは、その声を知っていた。
「まだ、待ってください」
ワタシは、傍らにいたあの人に小声で言った。今すぐにでも、この人が飛び出しそうになっていたからだ。
「もう少し…もう少しだけ」
ワタシは闇に目を凝らす。
人影たちの一挙手一投足を、見過ごしてしまわないように。
月明かりのない夜の中では、夜目の利かないワタシには至難の業だったけれど。
けれど、こっちの事情など知ったことではない影たちは、好き勝手に動く。
同時に、状況も動く。
膠着していた夜も、動く。
小柄な人影が、開いた。
あの、祠を。
祠が開いた後、大きな人影が小柄な人影を押し退け、開いた祠に手を入れた。
そして、引き抜く。その手には、小箱が握られていた。
ざわざわと、人影たちの気配が小波のように伝播してくる。見えなくても分かった。人影たちが浮足立っていることが。目的を果たしたと、油断をしていたことが。
なら、足元を掬うのは、ここだ。
「今です!」
ワタシの声に合わせ、周囲に潜んでいた騎士たちが灯りで人影の一団を照らす。
人影たちが纏っていた夜が、そこではがされた。
「う…うぉ?」
「な…んだ!?」
宵闇の渦中から昼間ほどもある明るさをぶつけられた人影たちは、混乱の極致にいた。夜に慣れた目に、この明るさは凶器そのものだ。魔石を利用した灯りは強力で、夜の暗さ駆逐し、その暗さを悪用する不届き者に天誅を下す。
しかし。
「…こっちに来い!」
人影たちは…もはや正体不明の狼藉者ではない。光を当てられた不審者たちは、その姿を晒している。人影たちは、ただの男たちだ。怪しげな仮面で顔を隠してはいたが。
そんな仮面の男たちの一人が、小柄な人影…あの人に腕を伸ばし、捕まえようとする。小柄な人影だけは、粗野な男たちとは違うからだ。
けど、その動きも想定内だ。
「雪花さん!」
ワタシは、あの人の名を呼んだ。
唐突に、あの人が…雪花さんが現れた。夜の中から。
と、思った瞬間には、腕を伸ばしていた人影が…仮面の男が腕を抑えてうずくまる。その伸ばしていた腕を、雪花さんが棒切れで叩き落したからだ。
「こいつ…どこから出てきやがった!?」
男は極度に狼狽していた。無理もない。あの男からすれば、雪花さんがいきなり目の前に現れたことに…いや、棒切れに叩かれた後で雪花さんが突如として出てきたことになる。
これは、雪花さんのユニークスキルである『隠形』だ。その『隠形』を使用することにより、雪花さんは姿を隠し、誰の目にも映らなくなる。だけでなく、壁などの遮蔽物もすり抜けることができる。ただ、雪花さんが自分の意志でナニカに接触した時、『隠形』は解除される。ここで『隠形』が解けたのは、雪花さんがあの男の腕を叩き落としたからだ。向こうからすれば理不尽な不意打ちを喰らったことになるが、同情する余地などない。
「この…卑怯者がぁ!」
どの口が言うのかと思うが、仮面の男は雪花さんに激昂した。
けど、雪花さんは飄々としたままこんな戯言を口にしていた。
「知らないのでござるか?挨拶前のアンブッシュは一度だけ認められているのでござるよ」
言いながら、雪花さんは腕を掴まれそうになっていた彼女を…セシリアさんの手を取り、彼女を保護する。役者でとしては、雪花さんの方が一枚も二枚も上手のようだ。
「逃がすか…というか、お前だったのか」
仮面の男は、なおもセシリアさんを捕らえようと腕を伸ばしかけたが、雪花さんの顔を見た途端に驚き、動きを止めた。
…そうか、あの男がそうなのか。
向こうも、ここで雪花さんが出てくるとは思っていなかっただろうけれど。
「早く、こちらでござるよ」
雪花さんはセシリアさんの手を取り、仮面の男たちから距離を取る。
「逃がすかと…言ったはずだ」
一度は動きを止めた男だったが、雪花さんとセシリアさんの後を追う。悪足掻きとしてセシリアさんを人質にでもするつもりだ。けど、時間ならもう稼いでいる。雪花さんたちは、すぐに騎士さんたちと合流する。
それに、切り札は雪花さんだけではない。
『逃がすか、はこちらの台詞じゃな』
そう、あの子がいる。
地母神さまを名乗る、あの子が。
「なん、だ…これはぁ!?」
ティアちゃんが右手を振りかざすと、地面が波のように隆起して仮面の男を吹き飛ばした。異世界といえど、地母神さまにしかできない芸当だ。
『ふはは…ふぁあああ』
高笑いをしようとしていたようだが、ティアちゃんは途中から欠伸をしていた。普段ならとっくに寝てる時間だからなあ、あの子も。目がしぱしぱしていて、今にもお眠になりそうだ。それでも追撃の手を緩めない幼女だったけれど。
「くそ…なんだあのかわいげのないガキは!」
仮面の男たちは、幼女の不思議パワーに追い詰められ、悪態をつくことしかできない。ティアちゃんは『わらわ様ほどかわいげのある幼女はおらんぞ!』などとぷんすこしていたが。
そんな状況の中、王都の騎士さんたちが仮面の男たちを取り囲む。この辺りの手際の良さはさすがとしか言いようがない。騎士団長があの人とは思えないほどの見事な連携だ。
「それ以上、近づくな…こいつが目に入らねえか!」
完全に追い詰められた仮面の男は、水戸黄門みたいな台詞とともに、高く掲げた。
あの祠から取り出した、木箱の中に入っていたモノを。
それは、石だった。球形をした、こぶし大ほどの大きさの。
「…………」
今にも飛びかかろうとしていた騎士たちも、その足を止める。
あの男が掲げているモノを警戒したからだ。
「てめえらもコレが何か知ってるんだろ…?」
仮面の男は、仮面の下で歪んだ笑みを浮かべる。
そして、叫んだ。
「こいつは『秘石』だ…それも呪われたなぁ!」
男は、勝ち誇ったように笑う。
宵闇と灯りが混ざり合う夜の中、その不気味さはいっそう増していた。
「お前たちが近づけば…この『秘石』を破壊する!そうなればどうなるか、騎士のお前たちなら知ってるよなぁ?」
けれど、誰もその要求を聞かなかった。
騎士たちは、一歩、二歩と歩を進める。
「さっさと離れろって言ってるんだよ!俺たちから離れろぉ!こいつが破壊されれば、辺り一帯を吹き飛ばすんだろうが!王都そのものがなくなるんだぞ!」
仮面の男は癇癪を起こし、獣のように叫ぶ。
「やればいいじゃないですか」
ワタシは、宵闇の中を歩く。
いい歳をして仮面を被った盗賊たちに、無防備に近づく。
「やるぞ…本気だぞ」
「だから、やればいいじゃないですか」
素っ気のない声で、ワタシは言った。
「くそが、こうなりゃ…てめえらも道連れだぁ!」
仮面の男は、地面に叩き付けた。
掲げていた、あの石を。
そして、石は割れた。
「…………」
時間は、そこで止まった。
空気も風も、夜さえもその時間を止めた。
そこで、世界は終わりを迎えたからだ。
と、そう思っていたのは、仮面の男たちだけだったけれど。
「何も…起こらない?」
地面に転がり、二つに割れた石を眺め、男は呆然と呟いた。
「なぜだ…『秘石』を破壊すれば、爆発が起こるんじゃなかったのか?一帯を灰燼に帰すんじゃなかったのか!?」
確かにその通り、だ。『秘石』は、破壊されれば周囲を巻き込むほどの大爆発を起こす。
だとすれば。
「答えなら、もう出てるじゃないですか」
仮面の男に、ワタシは告げた。
「何が答えだぁ…ふざけんじゃねえよ!」
仮面の男は二度、三度と割れた石を踏みつける。
石が爆発を起こすことなどは、ない。
「それが『秘石』じゃないってことですよ」
ワタシは、仮面の男に突き付けた。
真実の断片を。




