19 『跳べる!踊れる!リリスちゃんである!』
人は、いとも簡単に無力になる。
自身が持ち得る常識が通用しないと分かった、その時に。
人は、その常識を足場にしている。
常識という足場を土台にして、人は自分の立ち位置を確保している。
だから、その常識が揺らぎ、土台として機能しなくなった時、人は足場を失い無力となる。
「…………」
今のワタシが、その状態だった。
常識という足場が揺らぎ、自身の立ち位置を失っていた。
ただ、ワタシが持ち得る常識は、他の人たちよりも少ない。
常識とは、知識だけで得られるものではない。経験と知識の二つが揃い、それらが噛み合った時、常識は足場として成立する。知識と経験、そのどちらかが欠けていても、そのどちらかだけが長じていても、足場は安定しない。
そして、知識はあっても、ワタシには圧倒的に経験が足りなかった。
この異世界での経験も、元の世界での経験も。
要するに、ワタシは頭でっかちだ。足元が覚束ないんだ。
だから、ワタシの足場は、ひどく脆い。
「…………」
先刻、ワタシはあの神社を訪れた。
けど、そこで出会った巫女の彼女…シャンファさんから、ありえないはずの言葉を聞いた。
「祠は、昨日も開いていた」と。
祠が開いている間は、あの祠は周囲の呪詛や毒素を取り込んでくれるのだそうだが、その祠を開くことができるのは、現在この王都にはセシリアさん一人しかいない。
そのセシリアさんが、昨日は祠を開いていないと断言した。にもかかわらず、昨日も祠は開いていたとシャンファさんは口にした。明確な、矛盾だった。
当たり前が、何食わぬ顔をして瓦解した。
「…開かれていない祠は、なぜ、開かれていた?」
…ダメだ。
意味深に呟いてみたが、頭は働かなかった。
そして、考えなければならないことは、これだけではない。
雪花さんが描いた漫画が、本当に現実化しているのか?
あの人が描いた通りの出来事が、この王都で再現されている。
橋の崩落。街中での火事。
どちらも、雪花さんの漫画に描かれていたことだ。
「本当に、願い箱は…ダレカの願いを叶えるのか?」
それが本当ならば、どう阻止すればいい?
ワタシにできることは、なんだ?
…ワタシなどに、そんなことができるのか?
考えなければならないことが山積しているのに、どれから手を付ければいいのか分からない。こうして歩いていれば考えもまとまるかと思ったけれど、突破口どころか思索の糸口すら掴めない。
こういう時に痛感する。
ワタシの足場は不安定だ、と。
すぐにぐらついて、一人で立っていることすらままならなくなる。
そんな時だった。
「あ、先生じゃないですかー」
そんな声がかけられたのは。
「え…リリスちゃん?」
そこにいたのは…ワタシを「先生」などと呼ぶ、あのリリスちゃんだ。彼女は今日もパーカー姿で、頭にフードを被っていた。だから、ワタシは最初、遠目にはリリスちゃんだと分からなかった。
「ドーモ、花子先生、リリスちゃんですねぇ」
「そうだね…リリスちゃんだね」
「跳べる!踊れる!リリスちゃんである!」
「…なんで今日そんなにテンション高いの?」
「いやー、こんなところで花子先生に会えると思ってなかったので、ちょっとテンションのネジを外してしまいました」
「そのネジはちゃんと締め直しておこうね…」
雪花さんとか、たまに(しょっちゅう)頭のネジを締め忘れて後悔ばっかりしてるからね。あの人、大人なのに叱られてばっかりなんだよ。この間だって、お花屋のお姉さんにお花のポスターを描いてくれってお仕事を依頼されたのに、出来上がったのは美少年が二人でくんずほぐれつしてるポスターだったからね。背景に薔薇が入ってるから問題ないって、雪花さんは本気でそんなこと考えてたけど。もちろん、お花屋さんからは怒られたよ。「店頭に貼れるか!」って。
…まあ、花屋のお姉さんはそのポスターを自室に貼ってるとかなんとか言ってたけど。
「…………」
少し脱線しすぎたね。
目の前にいるこのフードのリリスちゃんは自身を探偵助手だと称し、ワタシを探偵と呼ぶ。
こんな不出来なワタシを、探偵と呼ぶ。
「あのね、リリスちゃん…どうしてワタシが探偵なの?」
ワタシは、何度かこの質問を彼女に投げかけているが、あまり明確な答えは返ってこない。
「その資質があるからですねえ、花子先生には」
「ワタシにあるとは思えないんだけどなぁ…そんな資質なんて」
最初にリリスちゃんがワタシを探偵などと呼んだ時は、探偵ごっこがしたいのかな、ぐらいにしか思っていなかった。謎を探して歩いて、その謎に右往左往して二進も三進もいかなくなって、そんな風にてんやわんやして遊びたいのかな、と。
いや、そもそも、ワタシはこう思っていたくらいだ。
この異世界に探偵などいるのか、と。
そんな言葉がこの異世界にもあるのか、と。
ただ、ワタシにしろ慎吾にしろ、自力でこの異世界の言葉を習得したわけではない。それでも、こちらの人たちと意思疎通ができているのは、こちらの言葉が理解できるようにあの女神さまが翻訳の能力(?)を授けてくれたからだ。
おそらく、リリスちゃんの言う『探偵』という言葉も、ワタシたちの知っている『探偵』とは少しニュアンスが異なるのだろう。この異世界での『探偵』というのは、多分、『謎を明かす賢者』といった意味合いのはずだ。他に該当する言葉がなかったから、その『探偵』という言葉が当てはめられただけなのだ。
…どちらにしろ、ワタシには荷が重い役回りだけれど。
「それより聞いてくださいよ、花子先生」
リリスちゃんは、ホップステップで駆け寄って来た。軽快な足取りに負けない、軽やかな笑みを浮かべたままで。
「どうしたの、リリスちゃん?」
「あの、崩落した石橋があったじゃないですか」
「うん…あったね」
そこで、リリスちゃんは真剣な眼差しをワタシに向け、言った。
「あの橋なんですけれど…あれ、ダレカに壊された可能性が高いようですよ」
「え…そう、なの?」
この王都で起こっている最近の異変…その最初の異変が、石橋の崩落だった。しかも、かなり重要な交通の要所だ。そこが崩れたおかげで、多くの人が今も往来に難儀している。
けど、そこが、人為的に破壊されていた?
ワタシたちが見た時は、ある程度の片付けが進んでいたので分からなかったけれど。
「橋の周辺で聞き込みをしていたら、たまたま橋が壊れた瞬間を目撃した人がいたんですよねぇ…で、その人が言うには、橋が崩れる瞬間に人影を見たそうなんですよ」
リリスちゃんはやや声を潜めて説明をしてくれた。
「橋が壊れた時は夜明け前で真っ暗だったそうなんですけど…その暗がりの中、壊れていく橋の傍から逃げる人影がいたと、その目撃者は教えてくれたんですよねぇ」
「でも…いきなり橋が壊れたからびっくりして逃げただけかもしれないよ?」
「それなら、橋から離れるだけでいいじゃないですか。その人影は、闇に紛れながらどこかへ消えたそうですよ」
「…そう、なんだ」
あの橋の崩落に、何者かが関わっていた?
…なぜ、だ?
その目的は?
あの橋が破壊されたとして、結果として何が起こった?
そもそも、あれだけの規模の石橋を破壊しようとすれば、どれだけの準備がいる?
個人でそんなことが可能か?
「…………」
ぐるぐると、脳裏で疑問が回る。
…けど、それだけだ。
答えになるような言葉が、一つも浮かばない。
結局、ワタシなどはこの程度だ。探偵役としては、役不足だ。
「どうしたんですか、先生」
リリスちゃんが、ワタシの顔を覗き込む。くりくりとした瞳には、茫洋としたワタシの顔が映っていたはずだ。
「なんだかおかしいですよ、先生」
「…ワタシには無理だよ」
口に出して、言ってしまった。
その言葉は、止まらなかった。
「ワタシには…探偵なんて無理だったんだよ」
つい先ほどまで、ワタシは洋々としていた。
浮かれた足取りでセシリアさんの家に向かい、盗まれた『秘石』の在り処を探り当てるつもりだった。
…けれど、それは空振りに終わった。
セシリアさんが祠を開けていないのなら、呪われた『秘石』をあの祠に隠すことはできない。
そこで、『秘石』を追うことはできなくなってしまった。
天狗になっていたワタシは、そこで鼻っ柱をへし折られたんだ。
「結局…ワタシがやっていたことは、ただの探偵ごっこだったんだよ」
そう、この一言に尽きる。
ワタシはただの凡人で、一端の探偵の真似事をしていただけだ。
自分は特別な何者かになれるかもしれないと、自惚れていただけだ。
「ふーん…そうなんだ」
リリスちゃんが、ワタシの顔を覗き込んでいた。
彼女の黒目が、その深みを増していく。
「そうやって、花子さんは命を浪費していくんだね」
「…命を浪費って」
「時間を無駄にすることは、命を無駄にすることと同じなんだよ」
リリスちゃんの黒目が、さらに深く色味を増す。
…深淵、という言葉が浮かんだ。
「折角ご両親がくれたその時間を、花子さんは「できない」の一言で無駄にするんだね。これからも、そうやってなし崩し的に生きていくんだね」
「…ワタシは、命を無駄にしたりしない」
命の重さを、誰よりも知っているのがワタシだ。
ワタシたち、転生者だ。
…おばあちゃんにだって、誓ったんだ。
この世界で生きる、と。
あの誓いを、嘘にはしない。
「リリスちゃんには…ううん、他の誰にだって、命を浪費してるなんて言わせないよ」
ワタシは、睨みつけるような視線をリリスちゃんに向ける。
「…へえ、いい顔ができるじゃないですか」
リリスちゃんは、そこで小さく舌なめずりをした。
ワタシより年下のはずのこの子が、やけに妖艶に見えた。
そんなワタシたちの間を、乾いた風が素知らぬ顔で通り過ぎて行った。
「…………」
その時、ワタシの視界の端にあの人が…アンさんが映った。
そこで、不意に脳裏に浮かんだ。
一つの、答えが。
「こんにちは、アンさん」
ワタシは、出会ったアンさんに声をかけた。
その一つの答えを手繰るために。
「え、ああ…こんにちは」
ややぎこちない表情で、アンさんは返事をした。
そんなアンさんに、ワタシは問いかける。
「すいません、いきなりですけれど…アンさんがセシリアのヘルパーさんを始めたのって、最近ですよね?」
「あ…そう、ですかね」
ぎこちなく答えるアンさんに、ワタシはさらに質問を重ねた。
「その前は…王都とは別の場所にいたんですよね」
「え、あ…そうですけれど」
それが何か?
と、言いたそうで言えないアンさんだった。
そんなアンさんに、ワタシはまだ問いかけようとしていたのだが、リリスちゃんが横合いから言った。
「先生…なんだか騒がしくないですか?」
「…え、そういえばそうだね」
人が騒ぐ声…というか、怒号のような声が聞こえていた。
ただ事ではないことは、すぐに理解できた。
「ちょっと待っててね」
ワタシは、『念話』を発動させた。
ナナさんはまだ王都に戻っていないはずだから、シャルカさんに向けて。
「シャルカさん、何か騒ぎが起こっているみたいなんですけど…ギルドには何か連絡がきていませんか?」
『花子か…ちょっと面倒なことが起こったぞ』
そして、その面倒なことが、シャルカさんの口から語られた。
セシリアさんが、何者かに連れ去られた、と。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございます。
現エピソードもそろそろ終盤となっております。
エピローグまで手抜きはいたしませんので、よろしくお願いいたします。




