2 『ウソダヨネドンドコドーン!?』
「…月ヶ瀬先生が漫画をやめるというのは、本当なのですか?」
夕刻の帰り道、そんなことをのたまう女性と、ワタシたちは出会った。
それは、値の張りそうな赤いストールを襟に巻いた、気品のある年配の女性だった。
そんなご婦人がここまで動揺している理由が、ワタシには微塵も理解できなかった。抱えていたリンゴが入った袋を落としたほどだから、ご婦人の動揺はおそらく本物だ。
一応、そのご婦人には「多分、一時的な発作なのでやめませんよ」とは言っておいた。その女性から、詳しい事情などはこれっぽっちも聞いていない。基本的に、ワタシは事なかれ主義者なのだ。
…特に、雪花さん関連のことなど、下手に首を突っ込めば絶対に面倒くさいことになる。
ワタシから「雪花さんはやめない」という言葉を聞いたあの女性は、胸を撫で下ろして帰路についた。
…雪花さんが漫画やめたら、何がそんなに困るの?
少なくとも、ワタシたちは微塵も困らない。一緒にいた慎吾もティアちゃんも、あの場では何も言わなかった。
ティアちゃんも『ぬるぬるイワシ兵士長』(雪花さんのセンスのないペンネーム)のファンではあったが、ぬるぬる何某の正体が雪花さんだと分かると、『ウソダヨネドンドコドーン!?』と嘆いていた。雪花さんが、同人誌の後書きでは自分のことをかなり美化していて、ティアちゃんがそれを真に受けてしまっていたからだ。
…あんなろくでもない内容のBLを描いている人が真人間のわけないのに。
ティアちゃんがそこで人間不信にならないか心配ではあったけれど、翌日には『…『ぬるぬるイワシ兵士長』先生と雪花は別の生き物じゃな』と割り切っていた。どうやら、ティアちゃんは引きずるタイプのオタクではなかったようだ。
そんな雪花さんが漫画をやめてくれるのなら、ワタシたちにはメリットしかない。いや、今までがデメリットしかなかった、というべきか。
「…………」
兎に角、漫画を描いている時の雪花さんははた迷惑なのだ。
先ず、お風呂をサボりがちになる。これにより雪花さんが臭う。あの人の部屋からも異臭が漂う。雪花さん以外の生物があの部屋に入れなくなる。
さらに、原稿中の雪花さんは、奇声を上げる。ネタが出ないだのいい絵が描けないだのショタのお尻が見たいだの、成人女性が口にしてはいけない泣き言が矢継ぎ早に出てくる。しかも夜中に。お陰で、ワタシたちは寝不足になる。この家の周囲に民家がないのが、唯一の救いだった。
とどめに、締め切り前にはベタ塗りを手伝わされる。主にワタシが。この人には学習機能が搭載されていないので、毎回、締め切りギリギリになるのだ。
その時、雪花さんは口癖のように叫んでいる。「某もう漫画やめる!」と。一応、泣きながらも最後まで仕上げるのが雪花さんなのだが、毎回そんなくだらない修羅場に付き合わされるワタシとしてはたまったものではない。ワタシだって思っているのだ。「誰だよ、異世界で同人誌の即売会とか始めたヤツは!?」と。
と、みんなで食卓を囲んでいる夕飯時、ワタシは先ほど出会ったご婦人のことを口にした。
最初に反応したのは、ワタシがお勤めしている冒険者ギルドのギルドマスターでもあるシャルカさんだ。
『それはきっと、妖怪『雪花のファンを名乗る幽霊』か何かだな』
「…妖怪なのか幽霊なのかどっちなんですか」
かなり適当に言ってるな、シャルカさん。
まあ、既に日本酒(このソプラノにもお米はある)やら蒸留酒やらをちゃんぽんで吞んでいるこの人が、まともなことを言わないのは周知の事実だ。そして、この人が天使だというのだから驚きだ。へべれけの天使なんて、聖書のどこにもいないだろ。聖書なんて読んだことないけど。
「…さすがに幻覚扱いはひどいんじゃないですか?」
フォローするように言ったのは、慎吾だ。
ちなみに、今日の夕飯はコンソメスープ、生野菜のサラダと鳥の唐揚げだ。あと、白菜の浅漬けが食卓に並んでいる。慎吾が農家をしているので、新鮮なお野菜には事欠かないのだ。
ワタシは、自作のにんにくドレッシングをサラダにぶっかけ、唐揚げはすりおろしたにんにくに浸して食べていた。そして、白いご飯にはふりかけ代わりに砕いたにんにくチップスをかけている。
うーん…今日はちょっとにんにく成分が足りないかな。後で追いにんにく的な何かを摂取しなければ。
「でも…さすがにあの年齢の女の人が雪花さんの漫画を読んでるっていうのは」
違和感あるよ、という言葉はにんにく唐揚げと一緒に胃の腑に落ちていった。
「ん、うん…いや、けど」
慎吾も、その後のフォローの言葉が続かなかったようだ。以前、雪花さんが描いた漫画…どぎついBLの洗礼を受けた慎吾は、「これはご禁制!ご禁制です!」と混乱しておられた。耐性もないのにあんな劇薬を目にすればそうなるに決まっているのに。読ませたのはワタシだったけれど。
と、ワタシや慎吾があれこれ言っている横で、当の本人である雪花さんはもくもくとサラダやら唐揚げやらを口に運んでいた。
…妙だな。
いつもの雪花さんなら、ワタシたちが雪花さんのファンと会ったなんて話を聞けば「我が世の春が来たー!で、ござるよ!」とか叫び出しそうなものなのに。ご近所迷惑とかTPOとかこれっぽっちも考えないから。
「どうかしたんですか、雪花さん?」
「え、ああ…美味しいでござるな、このダーチェンガンシャオユーは」
「なんて?」
雪花さんが食べてるのただの唐揚げなんですけど?
よくそんな名前の中華料理がすっと出てきたな。
「ん、ああ…ガイ・パット・ガティアム・プリックタイでござったか」
「なんて?」
唐揚げだっつってんだろ。
言ってないけど。
『あは、ダーチェンガンシャオユーほはあっはのか?あへしょーほーしゅにあふから私にほくえ』
「なんて!?」
すっかり酔いの回ったシャルカさんまでボケだした。
「呂律が回らないのによくダーチェンガンシャオユーだけキレイに発音できましたね!?」
ワタシもよく言えたな、ダーチェンガンシャオユー。
というか、シャルカさん完全に二日酔いコースじゃん。明日になったらまた『頭が痛い』だの『酔い過ぎて死ぬ』だの『もうお酒やめる!』だの言い出すやつじゃん。でも、結局お酒は絶対にやめないじゃん。恋の病だけではないのだ。お医者さまでも草津の湯でも治せないのは。
…とりあえず、シャルカさんのことは置いておこう。
「本当にどうしたんですか、雪花さん?」
さすがに様子がおかしい。おかしいのはいつものことなのだが、今日はベクトルが違っておかしい。
「いやいや…何もないでござるよ?」
「そうですか?前に男子小学生のスケッチをしてるところを憲兵さんに見つかって、三時間くらいお説教をくらった後とか、お洗濯をたたむ時に繭ちゃんのパンツをまじまじと眺めてて、それを繭ちゃんに目撃されてジト目で抗議された後と同じくらい呆けてますよ」
…改めてろくでもないな、この人。
でも、この人、ここにいる転生者の中では最年長なんだよな。
「ん、ああ…そうでござるな」
「雪花さんって…逆カプもいける人でしたよね?」
「ん、ああ…そうでござるな」
「…思った以上に重症だね」
この人は、『逆カプ者は絶対ゆるさないマン』だからだ。
逆カプとは逆カップリングのことで、ウケとセメが逆転することな…説明するのもバカらしくなってきた。
兎に角、以前それで王都中の腐女子さんたちを巻き込んだ大騒動に発展したのだ…いや、あれは他の腐女子さんたちにも問題はあったけれど。
「ただいまー」
と、玄関から可憐な声が聞こえてきた。
どうやら、ワタシの心のオアシスが帰ってきたようだ。
「おかえり、遅かったね、繭ちゃん。ちゃんとスタッフの人に送ってもらった?」
ワタシは、玄関に向かって声をかける。
今日は帰りが遅くなると、繭ちゃんは事前に言っていた。その繭ちゃんが帰宅したのだ。
「ただ、いま…あのね、花ちゃん」
と、玄関から聞こえてきた声とはそこで声音が違っていた。
繭ちゃんは、顔だけを出して上目遣いでこちら窺っている。
…ん?繭ちゃんまで様子がおかしいのか?
「あのね、花ちゃん…この子、ここで飼ってもいい?ちゃんとお世話するからさぁ」
甘えた猫なで声でそう言った繭ちゃんは、小さな子犬を抱えていた。
『ぬぅあああああぁ!?』
大声で叫んだのは当然、地母神さまだ。
…この子、小型犬相手でも力負けするからなぁ。
仕方ない、ワタシが助け舟を出すか。
「でもね、繭ちゃん…ペットなら、うちにはもうティアちゃんがいるでしょ?」
『地母神さまをペット扱いとは何事じゃあ!?』
けど、繭ちゃんもそう簡単には引き下がらない。
「じゃあ、ティアちゃんのお世話もボクがちゃんとするから!」
『わらわ様をペット扱いしたまま話を進めるでないわ!」
ティアちゃんは断固反対といった感じだったが、繭ちゃんも譲らない。
繭ちゃんに抱えられたままの子犬は、なんだか寂しそうな瞳でこちらを眺めていた。言葉は分からなくても、歓迎されていないという雰囲気は伝わっているのかもしれない。
『僕、他にいくところがないんです』
ふと、声が聞こえた。しかも、聞き覚えのない声が。
…え?だれ?
と、思った瞬間、繭ちゃんが光った。
いや、光源は繭ちゃんではない。
「え…え?」
光はすぐに収束し、元の食卓の光景を取り戻した…と思ったが、違っていた。
そこに、裸の…男の子が、いた?
…裸の男の子ぉ!?
大問題だぞ!?
「…………」
誰も、言葉を発することは、できなかった。
どれだけの時間が経ったのか、経っていなかったのか、それは分からなかったが「とりあえずボクの服を貸してあげるね!」と繭ちゃんが自分の部屋に男の子を…元子犬の男の子を、連れて行った。
「…あれ、さっきの子犬が変身した男の子ですよね?」
繭ちゃんと子犬くんが食卓から出て行った後、ワタシは呟いた。
「多分…そういうことだよな?」
慎吾も、ワタシと同意見だったようだ。
というか、そうとしか見えない現象がワタシたちの目の前で起こった。
異世界に来てから大抵の不思議にはなれたつもりだったが、まだこれだけ驚くことが起こるとは。
『いや…ありえない』
そう言ったのは、シャルカさんだ。
先ほどまでのポンコツ具合はどこかへ消え、今は真顔で繭ちゃんたちが消えた方に視線を向けている。
「何がありえないんですか?」
今さら、ありえないことなんてありえないと思うのだが。
『いないんだよ…このソプラノには』
シャルカさんは、続ける。
『人に化けられる犬なんて…このソプラノには、いないんだよ』
第一話の後書きで書いておくべきでしたが、書き忘れたのでこちらで書かせていただきます…。
今シリーズは幕間のお話となりますので、転生者は送ってこない予定です…途中で何か思いついたら、どこかから送ってくるかもしれませんが。
あと、短編になる予定です…途中で何か思いついたら長くなるかもしれませんが。
そして、ダーチェンシェンガオユーは漢字だと大千干焼魚と書くそうです。
また見切り発車で始めてしまったので、正直どうなるかは分かりませんが、最後までお付き合いいただけましたら、嬉しいです。
ついでに、評価やブックマークなどをしていただきますと、割りと本気で飛び跳ねるくらい喜びます。




