40 『…私の妹たちに、これ以上、何もするなぁ!』
「よく頑張ったね」
ワタシの前に立つ人影は、背中越しに穏やかな声をかけてくれた。
逆光で、その姿はぼやけていた。
ワタシの瞳が潤んでいたから、というのもあるかもしれないが。
その姿はよく見えなくても、その声がワタシたちを守ってくれる人の声だということは、その声音のやわらかさから容易に理解ができた。
…この場所に来て、初めてかけられた、やさしい声だった。
それまで張りつめていたモノが、ほんの少しだけ、緩んだ。
狂いかけていたワタシの中の歯車が、狂わずに、すんだ。
そこで、人影は振り返った。
ようやく、その姿を視認できた。
そこにいたのは、あの老紳士…アンダルシア・ドラグーンさんだ。
「ここからは…引き受けよう」
ワタシの顔を確認する前と後で、アンダルシアさんの声の調子がまるで異なっていた。
後半は、低く煮え滾る声だった。
…鼻血に濡れた、ワタシの顔を見たからだ。
アンダルシアさんは、一歩、歩を進めた。
それだけで、場の気配が一変する。
「…………」
…ただ、違って、いた。
ワタシがシャルカさんに頼んだ助っ人とは、違う人が、来てしまった。
いや、来てくれただけで、僥倖としか言えない。
繭ちゃんも、そしてワタシも、あのままなら命を奪われていた。首の皮一枚のところで、助けられた。
…けれど、よかったのか。
この人を、巻き込んでしまっても。
「先ほど、ギルドマスター殿に会ったんだ」
背中越しにワタシにかけられたその声は、温もりのあるものに戻っていた。
「この場所に行って欲しいと…花子さんたちが危ないと、教えてくれたよ」
老紳士の声に温もりがあったのは、そこまでだった。
「好き勝手をしてくれているようだな…小僧ども」
アンダルシアさんの表情は、ワタシからは見えなかった。
お互いに見えなくて、よかったのかも、しれない。
おそらく、あの人も、今の自分の表情を見られたくないはずだ。
アンダルシアさんの声は、憤怒に染まっていた。
表情は、それ以上の憤怒に染まっている。はずだ。
「貴様のような老体が出てきたところで…」
「あれは、アンダルシア・ドラグーン…『英雄の心臓』と呼ばれた、老人です」
頭首の脇にいた復讐者が、告げ口のように伝えた。
「ワシのことを知っているか…ワシは、貴様らのことなど知らんがな」
「我の名はガガロだ…憶えておけよ、ロートル」
頭首の男…ガガロはプライドを傷つけられ、激昂する。
だが、それ以上に激昂していた。この、老紳士は。
「貴様こそ忘れるなよ…その手で誰を傷つけたのか」
アンダルシアさんは右足を上げ、それから二、三度と地面を踏み鳴らした。
すると、消えた。
発光していた地面のあの光が、きれいさっぱりと消失した。
「なに…をした?」
「何をしたのかも分からなかったのか」
アンダルシアさんは、ガガロに言ってのけた。蔑むように、嘆息しながら。
それだけで、ワタシにも理解できた。この人とあのフードの男との、格の違いが。
「面汚しにもほどがある。一族としての、な」
「我々が…俺が、一族の面汚しだと?」
アンダルシアさんに罵倒され、頭首の表情が如実にが変わった。
先ほどまでの余裕がかき消され、小物の本性が顔を出す。
「俺はここで邪神を超える…世界が俺に平伏すんだよ!」
「世界の深さも知らんガキが」
吐き捨てるような、アンダルシアさんの台詞だった。
「やれ!殺せ!まとめて殺せ!」
語彙のない殺意で焚き付け、ガガロは部下たちをアンダルシアさんにけしかけた。
フードの男たちは、頭首の声に応じて一斉にアンダルシアさんに襲いかかる。
それぞれが、何らかのスキルを発動させていた。
それぞれの手の甲に、あの忌々しい魔法の刺青が浮かぶ。
「…………」
アンダルシアさんは無言のまま、呼吸を乱すこともなくそれらの全てを軽くあしらった。
殴りかかられたら掌で捌き、蹴りが飛んでくれば体の軸をずらして往なす。
「何やってる…相手は爺だぞ!」
不甲斐ないと叫ぶ頭首だが、素人目に見ても力の差は歴然に見えた。
それでも、フードを被った男たちは再びアンダルシアさんに襲いかかる。
再放送のようにあしらわれただけだったが。
「見苦しい姿を見せるな。一族の恥さらしども」
老紳士は、軽く息を吐きながら言った。
「…そうか?」
不意に、頭首の男の声が、変わった?
失われたはずの余裕が、戻っていた?
「老いというのは恐ろしいものだなぁ…同情するよ、元英雄」
ガガロは繭ちゃんの髪を掴み、自分の前方に転がした。
鎖で縛られた繭ちゃんは、そのまま転倒する。
「この小娘をやれ」
頭首は、言葉を発した。
繭ちゃんを、指差しながら。
殺せと、命じた。一切の躊躇いもなく。
「…おおぉ!」
「あああぁ!」
汚らわしい雄叫びを上げながら、男たちは繭ちゃんに殺意を向ける。
「繭ちゃ…」
駆け出そうとしたが、動けなかった。
アンダルシアさんが疾風のような速さで動いたからだ。
老紳士は、フードの男たちと繭ちゃんの間に割り込む。
男たちは、また各々がスキルを発動していた。
今度も、アンダルシアさんは全ての攻撃を捌き…いや、一度、その腕でまともに受けてしまった。これまで受け流すような防ぎ方とは、違っていた。肉が叩かれる厭な音が、場に響いた。
「…ぃ」
アンダルシアさんが、苦悶の表情を浮かべる。
「年寄りの冷や水というやつだろ、ご老人」
舌なめずりでもするように、舐め切った笑みを頭首の男は浮かべる。
「辛いのだろう?スキルを発動させるのが…その老体では、スキルの負荷に耐えられないのだろう?そう何度も使えないのだろう?使えるのはあと何回だ?今の攻撃で骨にヒビでも入ったか?」
勝ち誇ったように、頭首の男が饒舌になる。
「アンダルシアさん…」
ワタシはアンダルシアさんと繭ちゃんの傍に駆け寄る。
繭ちゃんの鎖をほどいてあげたかったが、固く結ばれていてすぐには外せない。
「このまま、この子を連れて逃げてくれるかい」
小声で、アンダルシアさんはワタシに指示した。
「でも、アンダルシアさん…」
「花子さんたちが逃げてくれたら、隠している本気を解放して全力で戦えるんだよ…すごいぞ、ワシの本気は。あまりにすごいから、周りにいる味方まで傷つけてしまうんだ」
老紳士は、そこで笑みを見せた。
こめかみから冷汗を滴らせ、先ほど負傷した腕を庇いながら。
…おそらく、隠している本気など、この人にはない。
余力すら、殆んど感じられない。
「頼むよ…孫の前で、格好をつけさせてくれないか」
老紳士…アンダルシア・ドラグーンさんは、表情を顰めながらも微笑む。
その微笑みは、本当の孫に向けた笑みと、何ら遜色はない。
「作戦会議は終わったか?」
…この男は、弱者を甚振ることを何とも思わない。
わざと時間を与え、ワタシたちの恐怖を煽っている。
「逃げ切るのは…不可能ですよ」
アンダルシアさんに、小声で答えた。
あのフードの男は、アンダルシアさんが盾になってワタシたちを逃がすことも想定している。
目配せで配下の男たちを動かし、ワタシたちの周囲を取り囲んでいた。
「それでは、先ずは『英雄の心臓』とやらの心臓でもいただこうか」
趣味の悪い発言と同時に、頭首の男は右手を上げる。
同時に、ワタシたちを包囲していた男たちが動いた。
それぞれが、それぞれの下卑た笑みを浮かべている。
そして、襲いかかってくる。四方八方から。波濤のように。
アンダルシアさんは、ワタシと繭ちゃんを庇いながら襲いかかるフードの男たちを迎え撃っていた。
…けど、さすがに多勢に、無勢だった。
しかも、アンダルシアさんは徐々に体力を削られている。
さすがのアンダルシアさんも全てを迎撃することは、できなかった。
再び…今度は、はっきりそれと分かる形で、アンダルシアさんはフードの男の拳を受けてしまった。
「おじいちゃん!」
思わず、叫んでしまった。
手傷を負わされ、アンダルシアさんは後方へ弾かれる。
ワタシたちを庇ってくれていたアンダルシアさんが、いなくなった。
無防備になったワタシと繭ちゃんに、男たちの一人が襲いかかる。
「繭ちゃん…!」
鎖を巻かれ、動けない繭ちゃんにワタシは覆いかぶさった。
繭ちゃんは、ワタシに「逃げて!」とその瞳で訴えかけていたけれど。
…ワタシは、繭ちゃんのお姉ちゃんなんだよ!
「…………」
覚悟を、していた。
けれど、何も、起こらなかった。
…閉ざしていた瞳を、開いた。
「…私の妹たちに、これ以上、何もするなぁ!」
震える手で棒切れを握った雪花さんが、そこに立っていた。




