35 『これはね、ゲームではあっても遊びじゃないんだよ!』
「あなた…背中が煤けてますよ」
口元を手で隠し、無表情のベールで感情を覆い隠し、ワタシは呟いた。
その視線の先にいたのは、月ヶ瀬雪花さんだ。
彼女も、射竦めるような眼光でワタシを見据える。ワタシと雪花さんは、テーブル上の盤を挟んで睨み合っていた。ワタシたちの視線は中空で衝突し、一進一退を繰り返す。
この場は、ワタシと雪花さんだけの戦場だった。それ以外の何人をも、そこに介在を許さない。
たまに仕事中のサリーちゃんが忙しなく横切ったりしているが、この場では、何人も介在を許さない。
「まさか、花子殿がそうくるとは…」
ワタシが指した一手が、雪花さんの喉元に迫る。
その喉笛を掻き切ろうと、淡々と爪を研ぐ。
「投了するなら今の内ですよ、雪花さん」
「まだまだ…この程度で取れるほど、拙者の首は安くないでござるよ」
「やれやれ、介錯は好きではないんですけれどね…教えてあげますよ。絶望が、雪花さんのゴールだということを。雪花さんのその身をもって、ね」
ここから先は、狂気で斬り合う乱痴気騒ぎだ。さあ、存分にその身を刻んで差し上げましょう。
「お邪魔します」
ワタシと雪花さんが剣呑な火花を散らす中、随分と呑気な声が聞こえてきた。
そこにいたのは、慎吾と地母神さまだ。今日も今日とて、この二人はニコイチだ。大地の気が浄化できる慎吾の傍にいなければ、ティアちゃんの力はすぐに枯渇して顕現できなくなるからだ。
「約束の時間よりちょっと早いけど来たぞ…って、花子たちは何やってんだ?」
慎吾は気の抜けた声をかけてくるし、ティアちゃんは気の抜けた欠伸などしている。
まったく、腑抜けている。
ここがどこだと思っているんだ。
「慎吾…今、ここは聖域なんだよ」
「せい…いき?」
状況が呑み込めていない慎吾に、ワタシは説明をした。
「そう、ここはね、ワタシと雪花さんが互いの矜持を賭けている、神聖なる戦いの場なんだよ」
「いや、説明したからって理解が得られると思うなよ…っていうか、なんだそれ?」
慎吾は、ワタシと雪花さんの間に置かれた盤を指差した。
「これこそが、ワタシと雪花さんの戦場なんだよ」
「だから、そういう面倒くさいのいいから」
「男の子なら、こういうノリには参加する義務があると思いますー」
ワタシと雪花さんが、ここまで鬼気迫る攻防を繰り広げているというのに。
「繭ちゃんさんが考案した、ソプラノ将棋(仮)というものらしいですよ」
部屋の…というか、ギルドの隅にいた彼女が慎吾の傍に歩み寄り、そう説明していた。
「あ、フィーネさん…こんにちは」
「はい、こんにちは、慎吾さん」
慎吾の挨拶を受け、微笑みと共に挨拶を返したのは、フィーネさんだ。薄い茶色の髪は背中まで伸びており、ロングのスカートに白い手袋という姿は、深窓の令嬢そのものだった。慎吾もそんな彼女の優美さに気後れしているように見えるが、実はそうではない。慎吾が恐れているのは、この人の本性だ。これが彼女の化けの皮だということを、慎吾も知っている。
この人、普通に雪花さんの同類だしね。
この人、『熱血ヤキイモ大辞典』先生だしね。
…どうしてこんなお上品な人が雪花さんの同類になっちゃったのかな。マジモノのご令嬢なんですけど。
この清楚な見た目とお淑やかな物腰なのに根っ子の気性が腐女子だからね、そりゃ慎吾だって気後れするわ。
「というか、この将棋を繭ちゃんが考えたのか」
慎吾は興味深そうに盤を眺める。
そんな慎吾に、ワタシは言った。
「繭ちゃん、基本的には女の子なんだけどね。こういうゲームとか考えるの好きみたいだよ。そんなとこは男の子なんだよね」
「なるほどな、取った相手の駒を自分の駒にできるのか…まるで将棋だな」
「そ、そうだね…」
慎吾の発言なので、おそらく他意はない。そんな慎吾は、ワタシの真横から盤上の駒を眺めていた。
「あとは…駒の種類とかマス目の数とかが、将棋とは少し違う感じか」
と、そこで慎吾は気付いた。
「なあ、花子…持ち駒と一緒に置いてある、そのコインはなんだ?」
「お、目の付け所が中々にシャープだね。これこそが、繭ちゃんが考案したソプラノ将棋(仮)の最大の特徴だよ」
ワタシは、自慢気に笑みを浮かべる。うちの子(予定)が考えたゲームだから、ワタシが自慢してもいいのだ。
「このゲームは将棋と同じで、取った相手の駒は自分の駒として扱えるんだ…けどね、駒を取られたその時に、相手に身代金を払えば、その駒を自分の持ち駒に戻すことができるんだよ」
「駒を取られても、そのコインで取り返すことができるのか…」
慎吾は、感心した様子で盤の上を眺めていた。繭ちゃんが褒められるとワタシも嬉しくなるので、追加の補足をした。
「勿論、身代金の額は駒によって違うけどね。強い駒ほど身代金は高くなるんだ」
「自分と相手の持ち駒だけじゃなくて、相手のコインの数も把握しておかないといけないのか…これ、けっこう難しいんじゃないか」
慎吾がそう呟いた向こうでティアちゃんはソファに寝そべり、牛乳をくぴくぴと呷っていた。きっとまた大量の砂糖をぶちこんでいるのだろう。そのうち糖尿とかにならないか心配だ。
そして、そんなティアちゃんは…いや、ワタシはそこでとんでもないモノを見てしまった!
「ちょっとティアちゃん!?それワタシのにんにくチップスなんですけどぉ!?」
ティアちゃんは、ワタシの秘蔵のにんにくチップスをパリパリと食べていた。
『少しくらいよいではないか、ケチくさいのぉ』
「よくないよ!それもう売ってないんだからね!?買った人から『臭いが兵器レベル』だとか、『一週間経っても部屋からにんにく臭が消えない』だとか、『これ食べてデートに行ったら彼氏にフラれた』だとか、謂れなき誹謗中傷の迫害を受けて廃番になっちゃった悲劇の商品なんだからね、ソレ!」
『…それだけ明白な謂れがあってよく被害者面ができたな』
と、ティアちゃんとやり合っていたワタシだったが、その隙をついて雪花さんが動いた。
「これで…どうでござるか、な」
雪花さんは、動かした。
このソプラノ将棋(仮)の最強の駒である『忍者』を。
「まさか、ここで忍者を動かしてくるなんて…」
ワタシは、その豪胆さに肝を冷やした。
雪花さんは、不敵に笑う。
「ふっふっふ、キングは一人、この拙者だぁ!」
「さすがですね、雪花さん。なら、ワタシはこう返すだけです…さあ、世界を革命する力をっ!」
ワタシは、守備の要である槍兵を前に進めた。
「やるでござるな、花子殿…」
「雪花さんこそ、後退のネジはとっくに外してあるようですね」
ワタシと雪花さんは、ぎりぎりの鍔迫り合いを堪能していた。
ワタシの中の、獣の本能が咆哮する。
汝の敵を屠れ、と。
そんなワタシたちを見ていた慎吾が呟いた。
「オレ、途中からしか見てないんだけど…これ、まだ序盤も序盤なんじゃないのか?」
「そうですね。お二人とも、まだ数手しか指しておりません」
フィーネさんが、慎吾に話しかけていた。
「…それなのに、あんな竜王戦の佳境みたいなふてぶてしい雰囲気を出してたのかよ」
「しかも、雪花さんも花子さんもこの手の遊戯はかなり不慣れなようですね。打ち筋が初心者以下です」
「確かに守りとかバラバラだし…花子のヤツ、よくそれであんな能書きが口にできたな」
「ごっこ遊びの好きな人たちですから」
外野のヤジは無視の方向で、ワタシと雪花さんは盤を挟んで睨み合う。
「けど、ごっこ遊びにしちゃ二人ともやけに真剣だな」
慎吾が呟いた言葉に、ワタシは反論した。
「当たり前でしょ…これはね、ゲームではあっても遊びじゃないんだよ!」
「今日は、いつにも増して花子の言っている意味が分からないんだが…」
「要するに、これは『第二次繭ちゃんの親権争奪戦』なんだよ」
「…お前、本人不在のところで繭ちゃんの人生を左右するのホント止めてやれよ」
「繭ちゃんだって、自分の作ったゲームで人生が左右されるなら本望だよ」
「繭ちゃんに代わって言うが、絶対に本望じゃねえよ…」
当然、慎吾の戯言はワタシと雪花さんには聞こえていない。
さあ、ここからが本番だ。
賽はとっくに投げられた。




