2 『ワケガワカラナイデスヨ』
『素敵な仲間が増えます…よ?』
最初は高揚していた口調の女神さまだったが、途中から尻すぼみにその声音が低くなる。
まあ、今のワタシの惨状を見れば、その浮ついたテンションも保てまい。目の下には深いクマができていたし、後ろでまとめていた髪もところどころが解れている。傍目に見ても、ワタシが窶れていたことは一目瞭然だった。
『あの…お疲れのようですね、花子さん?』
「…この世界でのワタシの名前はアリア・アプリコットです」
そう易々とそこを譲るつもりはない。たとえ世界の半分をくれると言われても、だ。
『いえ、そんなことはどうでもいいのですが』
「どうでもよくはないのですが…」
ワタシが二日も徹夜して考え抜いた名前なんだぞ。
『いったい、なにがあったのですか?』
鏡越しに…というか、鏡の向こう側から女神アルテナさまが心配そうにワタシを覗き込む。この鏡には通信用の魔法がかけられていて、天界にいる女神さまとこの異世界ソプラノにいるワタシがこうしてコンタクトをとることができていた。
そして、ワタシがいるこの場所は、冒険者ギルドの事務室だ。アルテナさまとの通信中は『人払いの魔法』とやらが発動しているらしく、第三者が入ってくることはない。
まあ、今はそんな裏事情はどうでもいい。先ずは、ワタシが疲労アンド苦労している元凶を知ってもらわなければならない。
「アイツの所為ですよ…」
『…アイツ?』
アルテナさまは小首を傾げた。破格の奇跡を行使する女神さまなのに、こうした何気ない仕草がかわいらしいのはずるいと思うのですが。
「この間、女神さまが転生させた…あの桟原慎吾とかいうアイツですよ!」
あの鼻血ヤロウがこの異世界ソプラノに来てから、一月と半分ほどが経過していた。
今日は、その経過報告でもあった。
そして、その被害報告でもあった。
『ああ、慎吾さんですね』
アルテナさまは、軽く手を叩いてから安穏とした面持ちで続ける。
どうも、節くれ立ったワタシの心情とは乖離があるようだ。
『慎吾さんは元気にやっていますか?怪我などはされていませんか?独りぼっちにはなっていませんか?冒険者として活躍されていますか?」
一人暮らしを始めた息子の近況でも聞くような、ちょっと心配してちょっとはしゃいだ女神さまの声だった。
「元気なのは元気ですね…デリカシーとかリテラシーとかは元の世界に置き去りにしてきたみたいですけれど」
この一月半で、あのヤロウがワタシの神経をどれだけ逆撫でしてくれたことか。
「あと、冒険者はやっていません」
やればよかったのに。
名誉の討ち死にとか不名誉な野垂れ死にとかすればよかったのに…まあ、さすがにこれは冗談だけれども。
『あら、慎吾さんは冒険者にはならなかったのですね』
「…それほど意外でもないという顔ですね」
あの無粋ヤロウは、生粋の体育会系だ。冒険者などは天職だろうと、ワタシなどは思うのだが。
『冒険者だけが人生ではないですから』
「確かにそうかもしれませんが…」
転生者というのは、冒険者になるために転生をするようなものだと思っていた。ギルドの職員などになったワタシの方が変わり種なのだ、と。
ただ、こちらとしてはギルドの新戦力としてけっこうあてにしていたのだ。初心者用の魔獣モンスターの討伐依頼とかも用意していたし、薬草の採取やキャラバンの護衛なども頼もうと思っていた。そこで経験を積めば、一端の冒険者にはなれたはずだった。
この異世界ソプラノでは、獲得した経験値と引き換えに、有益なスキルなどが覚えられるようになるからだ。
「…………」
それなのに、アイツはそれらの依頼を軒並み断りやがった。「薬草の種類なんて憶えられない」とか、「猫好きのオレが獣となんて戦えるか」とか、「オッパイの護衛ならやってやらなくもない」とか、虫唾の走る戯言を言われた…。
『それでは、慎吾さんはこの世界に来てからなにをされているのですか?』
「ええと…なんというか、基本的には農業でしょうか」
やや口ごもりながら、ワタシは答えた。
『いいですね、農作業は文明の基礎ですね』
「そうですね…農業だけなら、問題もなかったのでしょうけれど」
あのヤロウは、農家として種を蒔くだけではなく、ワタシの頭痛の種も蒔いている。今現在も進行形で、だ。
『何かあったのですか?』
ワタシの苦悩を感じ取った女神さまが問いかける。
「…を、持ち込んだんです」
『え、何ですか?』
「アイツは…この異世界に野球を持ち込んだんです」
こめかみの辺りを小刻みに震わせながら、ワタシはそのことを伝えた。
『異文化を持ち込むことは、特に禁じられてはおりませんが…』
ワタシは苦悶の表情を浮かべていたが、アルテナさまには、その苦悩の5%ほども伝わっていない。
「ただ野球を広めただけなら、それほど目くじらを立てることもないんでしょうけど…」
バタフライエフェクトにしても、バグだとしか思えない珍事が玉突き事故を起こしていた。バントでホームランが微笑ましく感じられるほどだ。
「慎吾のヤツ、最初は刈り入れの終わったトウモロコシ畑で子供たちを相手に野球教室の真似事みたいなことをしてたんですよ…」
『フィールドオブドリー〇スみたいですねえ』
…女神さまも映画とか見るのだろうか。
「途中から、子供だけじゃなくて大人も混じり始めたんですよね。しかも、そこで集まったのが、人生に挫折して希望を失った人たちばっかりでして…でも、その人たちにも野球を通じて新しい出会いがあったり、新しい生き甲斐が生まれたりして、最終的には前を向いて生きられるようになったんです」
『いいお話ではないですか』
「それだけなら美談で終わってくれたんですけれどね!」
『…本当になにがあったのですか?』
何度目かの『なにがあったのですか?』だ。遅々として報告が進んでいないが、これはワタシの要領が悪いわけではない。これでも、きちんと順を追って説明しているのだ。
ただ、この先を語ろうとすると、ワタシの正気が疑われるだけだ。
「ええと、ある程度の人数も集まってきたので、本格的に野球ができる環境をみんなで作り始めたんですけれど…」
グラウンドを作るためにみんなでゴミ拾いをしたり、球場近くの道路をみんなで整備したり、みんなでグローブなどの野球道具を手作りしていたのだが…。
「…………はぁ」
そのゴミ拾いが、なぜか、暴走したゴーレムを制止するという活躍につながった。道路の整備をしていたはずが、なぜか、三百年の眠りから目覚めた伝説の大蛇を追っ払うという奇跡につながった。みんなでグローブを制作していただけなのに、なぜか、侵略者っぽい宇宙人っぽいナニカと和解するという顛末につながった…。
「ワケガワカラナイデスヨ!」
異世界だからといって、何をやっても許されるというわけではないのだ!