150 『それまでにはそのへそ曲がりを治しておいてよね!』
「リリスちゃんの封印を解いて復活させたのは…ワタシ、だったんだ」
ワタシの呟きは土埃とともに風に巻き上げられ、乾いた虚空に消えた。
その声は、リリスちゃんの耳にも、届いていたはずだった。
それでも、リリスちゃんは素知らぬ顔でマイペースに呟く。
『まあ、別にリリスちゃんが消えたところで問題はないのですよ。結局、リリスちゃんはどこに行ってもおじゃま虫でしかないのですからねぇ』
「そんな悲しいこと言わないでよ、ワタシたち…」
友達でしょ?
たったそれだけの言葉を、口にすることができなかった。
…だって、今のワタシに、その言葉を口にする資格は、ない。
「いや、でも、あのね、リリスちゃん…」
まともな言葉が、出てこない。何を言っても、耳障りな言い訳にしかならない。
…結局、ワタシもリリスちゃんを裏切った人たちと、同じなんだ。
ワタシは、世界の為に、リリスちゃんを利用した…いや、これから、利用することに、なる。
その卑しい事実に呼気が苦しくなり、視野が、急速に狭窄していく。
『先生』
「…リリス、ちゃん」
リリスちゃんも、ワタシの異変には気が付いている。それでも、リリスちゃんは普段と変わらない声だった。
先ほどよりも、リリスちゃんの体は薄くなっているというのに。
そうだ、この子に関しても…時間は特別扱いなどしてくれない。
…こんなお別れは、いやなのに。
おしゃべりしたいことは、もっとたくさん、あるというのに。
そして、リリスちゃんは言った。
『先生…リリスちゃんのことを、先生の友達だと言ってください』
「ともだ…ち?」
ワタシに、そう呼べと?
でも、ワタシにその資格は…。
『先生が最初に言ったんですよ。リリスちゃんは、先生の友達だ、と…だったら、先生には責任を取る義務があるはずですねぇ』
「けど、リリスちゃん…」
『リリスちゃんがいいと言っているのですからいいのですよ。ほら、いつもの豚のように従順な先生はどこに行ってしまったのですかねぇ』
「それ友達に向けていい言葉じゃないよね!?」
けど、いつも通りのくだらないやり取りだった。いつも通りの、くだらなくて肩肘の張らないやり取りだ。
…そのくだらなさに、ホッとしてしまうワタシがいた。
『何をどうするのかは知りませんがねぇ…リリスちゃんを復活させたのが先生で、よかったと思っていますよ』
「リリスちゃん…」
リリスちゃんは、小さな微笑みを浮かべていた。普段と変わらない、へそ曲がりな微笑みだ。
そんなリリスちゃんに、ワタシは手を伸ばす。
…その手は、すり抜けた。
リリスちゃんを掴もうとしたワタシの手が、リリスちゃんの体をすり抜けた。
ワタシの想いが独り善がりの一方通行だと、思い知らされたようだった。
『この世界に留まるだけの魔力も、リリスちゃんにはもう残っていないようですねぇ』
「そんな…それじゃあ、ワタシの中に入ればいいんじゃないかな!?」
咄嗟に思いついた言葉を、口にした。
でも、そうすれば、消えないよね?
…ワタシの前から、リリスちゃんまでいなくなったりしないよね?
『先生の…中に?』
「リリスちゃんの魔力が弱くなってるなら、ワタシの中に入ったって問題ないはずでしょ!?」
『自分が何を言っているか、分かっているのですかねぇ…リリスちゃんは悪魔ですよ?今はそれほど影響がなかったとしても、魔力はまた元に戻ります。その時、先生にどんな影響があるか分かりませんよ』
リリスちゃんは、普段よりも硬質な声で言った。その声から察するに、ワタシがリリスちゃんを受け入れることには大きなリスクがあると思われる。
…それがどうした!
「どんな影響があったって関係ないよ…ワタシなら、リリスちゃんを受け入れられるよ!」
真っ直ぐに、リリスちゃんを見据えた。勿論、そこに嘘はない。だから、ワタシは一歩も引かない。
けど、リリスちゃんも引かなかった。
『先生の中なんてお断りですねぇ』
「どうして!?」
このままだと、リリスちゃんは確実に消えちゃうんだよ!?
『先生の中なんて、絶対にんにく臭いじゃないですか』
「ぐ、それは…」
『あと、血中コレステロールとかも高いんじゃないですかねぇ?』
「そこは、その…ちゃんと改善していますから!ドーナツも一日で三つまでに減らしてますから!」
『世間ではそれを減らしているとは言わないのですけれどねぇ…』
けど、まさか、そんな理由でリリスちゃんに拒否されるとは思わなかった。
いや、きっと違う…。
そういう底意地の悪い言い方をして、あえてワタシを遠ざけているんだ。
…『人と悪魔は共存できない』と。
リリスちゃんは、身をもってそれを知っているから。
『そもそも、リリスちゃんを受け入れられる人間なんて、この世界には存在していないのですからねぇ』
皮肉っぽく口にしていたが、それはおそらく、リリスちゃんの本心だ。
これまでずっと人に拒絶されてきたこの子だからこそ言える、心の内だ。
…そして、少なからずワタシもその片棒を担いでいることになる。
「私ならそれが可能ですよ」
そう言ったのは、ワタシではなかった。
そこにいたのは、リリスちゃんにそっくりの小さな少女だ。
いや、リリスちゃんが、こっちの小さなりりすちゃんに似ているのか。オリジナルは、この子なのだから。
『可能なはずがないですよねぇ…そもそも、あなたではリリスちゃんの肥大した魔力に耐えられなかったではないですか』
大きなリリスちゃんは、小さなりりすちゃんに言ってのけた。突き放すように剣呑な言葉だったけれど、それは、小さなりりすちゃんを守るためのヴェールでもある。
「確かに、私には無理ですね…けど、それは現在の話、ではないですか」
小さなりりすちゃんは、年不相応にしっかりとした言葉だった。実年齢では、この中で最も幼いというのに。
『あなたが成長すれば、悪魔の力を取り戻したリリスちゃんでも受け入れられる、と…その皮算用は無謀としか言えませんねぇ』
「それは、私がただの女の子だったとしたら、ではないですか」
『…自分はただの女の子ではない、と?』
大きなリリスちゃんの言葉に遠慮はない。小さなりりすちゃんの言葉にも遠慮はない。そんな気遣いの必要がないんだ。この二人は、生まれた時からずっと同じ体で過ごしてきた。ワタシよりも、ずっと長い時間をこの二人は共有してきた。
…ちょっと妬けちゃうよね。
「私は、『教会』の次期教皇に選ばれたんですよ」
小さなりりすちゃんは、円らな瞳で真っ直ぐに大きなリリスちゃんを見据えていた。
『それが、なんだと言うのですかねぇ』
「ただの女の子が、教皇になれると思いますか?」
『…………』
大きなリリスちゃんは、小さなりりすちゃんの言葉に反論できなかった。
「私には、潜在的な力があります…今はまだその力が眠っていますけど、大人になれば、その力は開花します。いえ、開花させてみせます。そうすれば、リリスさんだって受け入れることができるはずです」
ワタシたちは見守っていた。小さなりりすちゃんの、大きな演説を。
この小さな少女は、今ここで、羽化しようとしている。大きなリリスちゃんのために。
『…そんな保証が、ありますかねぇ』
「私は、引っ込み思案な子供でした…いえ、今も大して変わっていないかもしれませんね。そして、そんな私が困っていた時、助けてくれたのはいつもリリスさんでした」
小さなりりすちゃんは、悠然と語る。大きなリリスちゃんと過ごした二人三脚の日々を。
だからだろうか、その声に涙の音色が混ざり始める。
…リリスちゃんを失うことは小さなりりすちゃんにとっても半身を失うことだ。
「次は、私がリリスさんを助ける番です…借りた分は返さないと、アンフェアですからね」
涙をこらえながら、小さなりりすちゃんは最後まで言い切った。
そして、無垢な微笑みを浮かべていた。
大きなリリスちゃんと小さなりりすちゃんの間に、沈黙が帳を下ろす。
…けど、根負けして口を開いたのは、大きな『あの子』の方だった。
結局、へそ曲がりでは純心に勝てないんだ。
『アンフェアですか…なら、仕方がない。その甘ちゃんな言葉に甘えましょうかねぇ』
「リリスさん…」
そこでリリスちゃんは小さなりりすちゃんに手を伸ばした。半透明のその手は、小さなりりすちゃんの体も通り抜ける。けど、それは拒絶ではなく、受容だった。小さなりりすちゃんが、大きなリリスちゃんを信頼して受け入れたからこそ起きた順当な奇跡だ。
『では、リリスちゃんはまたしばらく休眠させてもらいますけれど…育ち盛りだと言って、ドーナツなどを食べ過ぎたりしてはいけませんからねぇ』
「分かっていますよ…私だって無駄にお尻が重たくなるのはご免ですから」
「なんでそこでワタシに流れ弾が飛んでくるかなぁ!?」
…まあ、仲間に入れてもらえたみたいで、ちょっと嬉しかったけど。
『それじゃあ、りりす…それから、ついでに先生も』
そこで、大きなリリスちゃんはいたずらっ子のように笑って…手を振っていた。
リリスちゃんにしては珍しく、ハイテンションなリアクションだった。
『次は…もう少しマシな未来で会いたいものですねぇ』
そして、大きなリリスちゃんは消えていく…小さなりりすちゃんに、吸い込まれるように。
二人の少女が溶け合うように、二人の境界が消滅していく。
大きなリリスちゃんと小さなりりすちゃんが、重なった。
最後のその瞬間、ワタシにはリリスちゃんが泣いているように、見えた。
…リリスちゃんも、やっぱりさみしいのかな。
だから、ワタシは、叫んだ。
長いお別れのさみしさを、少しでも埋めるために。
「リリスちゃん…ワタシたち未来で待ってるから、それまでにはそのへそ曲がりを治しておいてよね!」
ワタシの声は、消えていくリリスちゃんに届いただろうか。
きっと、届いたよね。
だって、リリスちゃんは最後に聞こえない声で言っていた…『ばか』と。
…そして、世界にはワタシたちだけが取り残された。