149 『リリスちゃんの封印を解いて復活させたのは…××、だったんだ』
『え…あれ?』
シロちゃんは、驚きと不安が入り混じる表情で犬神さまを眺めていた。
空洞を開いたはずの犬神さまですら、どことなく困惑しているように見える。
…けど、それも当然か。
シロちゃんは、自分の世界に戻れるはずだった。
ずっとずっと、それを願っていた。ワタシたちも、それを応援していた。
切望していたその機会が、ここで訪れた。
世界の崩壊などという危機の所為で、この世界の『壁』に亀裂が生じた。でも、その亀裂のお陰でシロちゃんたちの世界の犬神さまがこちらの世界に顕現できる隙間が生まれた。
けど、危機も去った今、その隙間を通り、シロちゃんは犬神さまに元の世界に連れ帰ってもらえるはずだった。
映画でいえば、エンドロールと瀟洒なBGMが流れているところだ。
しかし、元の世界に戻るための『穴』に、シロちゃんは拒絶された…?
『ぼく…帰れない、の?』
シロちゃんは、再び目に涙をためていた。さっきまでは、その涙を我慢していたのに…帰れなくなったのかと、家族に会えなくなったのかと、涙を抑えきれなくなった。
「シロちゃん…」
ワタシは、それ以外に何も言えなくなっていた。
シロちゃんがこの世界に残ったままの未来を、想像してしまって。
みんなでまた、笑いながらお散歩にいく未来を、想像してしまって。
…シロちゃんが自分の世界に帰りたい気持ちは、ワタシたち『転生者』が誰よりも分かっているはずなのに。
『手助けが要りますかねぇ?』
そこで聞こえてきたのは…『悪魔』の囁きだった。
ワタシの大好きな、悪魔の女の子だった。
「リリス…ちゃん」
『リリスちゃんの手助けが必要ですかねぇ?』
もう一度、リリスちゃんは無垢に囁いた。薄い微笑みを浮かべながら。
ワタシは、その囁きに問い返す。
「でも、そんなことできるの…?」
『できますよ。あの白いワンコくんの記憶を消せば、ですけれどねぇ』
…リリスちゃんは、悪魔のような言葉を、口にした。
天使みたいに、微笑んだままで。
「シロちゃんの…記憶を消す???」
意味が、分からなかった。
そして、その意味が分からなかったのはワタシだけじゃない。慎吾や雪花さん…当然、シロちゃんと繭ちゃんも、だ。
『別に、先生たちに意地悪を言っているわけではないですねぇ…あの白いワンコくんが帰れないのは、無意識のうちにあの子自身がそれを望んでいるからですねぇ。戻りたくない、と』
「…そんなこと、あるわけないよ」
あのシロちゃんが、自分の家族に会いたくないはずがない。
しかし、リリスちゃんは言った。
『戻りたくないは言い過ぎでしたかねぇ。ですが、この世界から離れたくないという気持ちが根強く残っていることも確かなはずですよ』
「それは…そうかもしれないけど」
そこで、遅蒔きながらに気が付いた。
リリスちゃんの言葉の真意に。
「ちょっと待って、シロちゃんを送り返すためには…この世界でのシロちゃんの記憶を消さないといけないって、ことなの?」
『だからそう言ったはずですねぇ。元の世界に戻ることを拒んでいるのは、あの子自身の未練ですよ』
リリスちゃんの言葉は、ワタシたちから奪う。
…賑やかで楽しかった、あの日々を。その残滓まで、根こそぎ。
「そんなの…駄目だよ」
思い出でお腹は膨れない。思い出では、怪我も病気も治せはしない。
そして、思い出では、元の世界には戻れない。
…それでも、この世界で過ごした思い出は、既にシロちゃんの心臓の一部になっている。
『そうですか、では…別の方法を取りますかねぇ』
リリスちゃんは、そこであっさりと意見を翻した。
マタドールよりも、ひらひらと。
「っていうか…あるの、別の方法が?」
あまりのことに、ワタシも何を言っていいのか分からなくなる。何を言っていいのか分からないまま、言葉を続けた。
「もう、驚かせないでよ、リリスちゃん…他にも選択肢はあったんじゃない」
『…そう、ですね』
そう言ったリリスちゃんの表情は、ワタシからは見えなかった。
だから、ここでこの子がどんな顔をしていたのか、ワタシは知らなかった。
無意識のうちに、避けていたのかもしれない。
『では、いきますかねぇ…』
軽く息を吸った後、リリスちゃんは両手をあの青い空洞へと翳した。そして、魔力を解き放つ。その魔力が空洞に接触した瞬間、周囲に風が吹いた。
…あの空洞とリリスちゃんの魔力が、反発し合っているようだった。
当然、リリスちゃんにかかる負荷もかなりのものに見えた。
「大丈夫、リリスちゃん…」
『まあ、なんとかしますか、ねぇ…』
集中しているからか、リリスちゃんの声は低音だった。
けど、その言葉の通りに…空洞に変化が起こる。
先ほどまでの暗い青色よりも、鮮やかな色に変化していた。その鮮明さにより、周囲の景色から空洞が浮き上がったように見えてくる。
『今なら、通れるのでは…ないですかねぇ?』
リリスちゃんの声を聞いたシロちゃんは、恐る恐る、再び空洞に手を入れた。
…今度は、拒絶されなかった。
『大丈夫…みたいなの』
シロちゃんはまだ困惑の表情を浮かべていたが、異世界と異世界をつなげるゲートは、つながった。
ただ、シロちゃんは、そこで動けずに固まってしまった。もう数歩そこに踏み出せば元の世界に戻れるはずなのに、シロちゃんはそこから、進むことも戻ることもできない。
シロちゃんは、躊躇っていた。
けど、いつまでも後ろ髪を引かれていられるだけの猶予なんて、ない。いくらかわいいとはいえ、時間がシロちゃんだけを依怙贔屓してくれることなど、ない。
…通れるのならば、シロちゃんは早く戻らなければならない。元の、世界へと。
そして、リリスちゃんも無理を押し通して空洞を開いているからか、その表情にも苦悶が…。
それを察したシロちゃんは、やや早口で言った。
ワタシたちに、別れの言葉を。
『それじゃあ、繭ちゃん、みんな、ありがとう…悪魔のお姉さんも、ありがとうございますなの』
そこで、シロちゃんは振り返る。その背中しか、見えなくなる。
慌てて、ワタシもシロちゃんに叫んだ。心残りが、ないように。
そして、慎吾や雪花さん、繭ちゃんも続く…。
「気をつけて帰ってね、シロちゃん!」
「達者でな、シロちゃん!」
「さようならでござるよ、シロちゃん殿!」
「ええと…今までありがとうね、シロちゃん!ボクのこと、絶対に忘れないでね」
もう一度、ワタシたち全員でお別れをやり直した。
…正真正銘、これが最後のお別れで、カーテンコールは存在しない。
『忘れないよ…ぼくの大好きなみんなのことは!繭ちゃんのことは!』
その言葉を残して、シロちゃんは『扉』の向こうへとぴょんと跳んだ。そして、消えてしまった。
これで、この異世界ソプラノからシロちゃんは完全にいなくなってしまった。
…その小さな足跡だけを、残して。
「シロちゃん…」
聞こえない声で、呟いた。
けど、ワタシだけじゃない。慎吾や雪花さん、繭ちゃんも心の中でシロちゃんの名を呼んでいた。
ワタシたちの瞼には、シロちゃんが浮かべていた泣き笑いの表情が焼き付いている。それはきっと、これからも消えない。
消えないからこその温もりと痛みも、あるのだけれど。
そして、犬神さまもシロちゃんの後から空洞の中へと消えた。きっと、シロちゃんを安全に向こうの世界に連れ帰ってくれるはずだ。最後に、ワタシたちに向けた視線がそう物語っていた。
その後、虚空に浮かんでいた空洞も、消えた。
この世界とシロちゃんの世界をつなぐトンネルが、消えてしまった。
…シロちゃんは、ちゃんと、青い空洞の向こうへと旅立ったんだ。
「これで、よかったんだよね…花ちゃん」
繭ちゃんの声は、隠していたけれど小さく震えていた。
当然、ワタシの声も震えている。内緒だけれど。
「そうだね、これで向こうの世界に…お母さんたちのところに、シロちゃんは帰れるんだよ」
「うん、だから、これでよかったんだよね…花ちゃん」
「うん、だから、これでよかったんだよ、繭ちゃん…なんたってシロちゃんは、この世界を救った英雄の一人なんだからね。最強のお土産話をもって、お母さんたちのところに帰ったんだ」
まあ、そういう英雄譚がなかったとしても、シロちゃんは、この異世界で過ごした時間を決して忘れないけれど。
そして、それはシロちゃんにとって…いや、ワタシたちにとっても、色褪せない宝物になる。
…ただ、やっぱりさみしいのは、さみしいけどね。
二人して肩を落としていたワタシと繭ちゃんだったけれど、ここでまた、別の問題が浮上していた。
シロちゃんとのお別れの余韻に浸る暇も、なかった。
「どういう、ことなの…リリスちゃん」
リリスちゃんにもお礼を言わなければと思った矢先、ワタシは目を疑った。
…そこにいたリリスちゃんは、薄く、消えかかっていた。
「リリスちゃん…が?」
ワタシの中から、現実感が乖離していく。
これまでにも、幻想が現実を駆逐する場面を何度も目撃した。
その中には、世界の崩壊などという埒外の幻想も含まれていた。
…けれど、今、ワタシの目の前に存在している幻想は、最もワタシの精神を抉るものだった。
「リリスちゃんが…消えちゃう?」
リリスちゃんの体が、透けていた。
影が薄い、などの比喩表現ではなく、本当に体の向こうが、透けて見えていた。
…魂が浄化された『黒いヒトビト』と、同様の現象だった。
「なん、で…ワタシの目が、おかしいの?」
シロちゃんを送り返した安堵で、ワタシの頭に不具合でも出たのか?
『もっと単純な話ですよ、リリスちゃんが力を使い過ぎただけですねぇ』
「力を…それって、もしかして?」
『さすがに異なる世界への扉をこじ開けるとなると、大悪魔であるリリスちゃんでも無理があったようですねぇ』
「でも、それじゃあ、リリスちゃんが消えかけてるのは…」
…ワタシのせいでは、ないか。
ワタシが、シロちゃんが自分の世界に戻れるように、リリスちゃんに手助けを願ったからだ。
それで、リリスちゃんは限界以上に力を使い果たしてしまった…。
『まあ、計算通りではあるのですけれどねぇ』
「…計算通り、って?」
リリスちゃんは、何を言っている?
『そのままの意味ですよ。今は限界以上に疲弊していますからねぇ。ここで魔力を使い切れば、リリスちゃんの体が消滅することは分かっていました』
「だからどうしてそんな計算をしたのっ!?」
リリスちゃんは、自らの消滅を、自らで願った?
そんなのおかしいよね!?
『仕方がなかったのですよねぇ…このままでは、リリスちゃんの肥大化した魔力にあの子が耐えられませんから』
「…………」
…そういう、ことか。
この大きなリリスちゃんの体は魔力で創造された体だけれど、本来はあの小さなりりすちゃんと体を共有している。
ただし、現在、その関係に限界がきていた。
復活したリリスちゃんの魔力が、大きくなり過ぎたからだ。その魔力に耐え切れず、このままでは小さなりりすちゃんが命を落としてしまう、と。
『まあ、このままきれいさっぱり消える方が、後腐れがなくていいのですよねぇ』
「…いいわけ、ないでしょ」
ニヒルに呟くリリスちゃんに、ワタシは言った。
だって、本当にそれでいいはずがない。
…この子は悪魔だけれど、人間のエゴによる生粋の被害者だ。
「リリスちゃんを振り回したのは人間たちだよ。リリスちゃんは、村人たちに頼まれて教会を建てたのに、その約束を反故にされた上で、封印までされちゃったんだよ。そして、今度は人間たちの都合で復活させられ…」
…ああ、そうか。
そのことに、気付いてしまった。
本当に、今更だけれど。
「リリスちゃんの封印を解いて復活させたのは…ワタシ、だったんだ」




