148 『ダークチップヲツカウノデス』
『あの、そのね…』
そう言った『あの子』の真っ白な尻尾は、儚く揺れていた。
かわいらしい唇から漏れるその声も、儚く揺れていた。
「どうしたの、シロちゃん…」
シロちゃんの声に真っ先に反応したのは、繭ちゃんだ。
繭ちゃんの声にも、小さな不安が滲んでいる。
…多分、繭ちゃんも察している。この後の、シロちゃんの言葉を。
『ぼく、元の世界に帰れるみたいなの…』
…何となく、そう言い出すのではないかと、思っていた。
シロちゃんの物悲しい声から、判断すると。
「ええと、それ…どういうことなの?」
繭ちゃんが、スカートの裾を軽く握りながら言った。土埃が何度も舞い上がったこの場所にいたんだ、繭ちゃんのスカートも埃まみれだった。けど、そんなことに頓着している場合では、ない。特に、繭ちゃんにとっては。
『あのね、ぼく…元の世界に、帰れるかも、しれないの』
もう一度、シロちゃんは同じような台詞を口にした。繭ちゃんと同じように、埃まみれのスカートの裾を握りながら。
こんな時でも、繭ちゃんとシロちゃんはお揃いだ。
…それが、物悲しさに拍車をかける。
「シロちゃん…」
ホンモノの別離が、ワタシたちに訪れた。
いや、これまでのドロシーさんたちとの『おわかれ』が偽物だったというわけではない。
それでも、まだそこまで仲の深い人たちとのお別れではなかった。
けど、今度のお別れは、ワタシたち家族にとってのホンモノの『おわかれ』だ。
…だって、シロちゃんだよ?
今までずっと一緒だった。一緒に遊んで一緒に笑って、一緒にご飯を食べて、一緒に歩いた。積み重ねた思い出の、深みが違う。
それが、唐突にここでおわかれ…?
ぷっつりと、糸が切れるように?
「…………」
この日が来ることは、分かっていた。
そして、この日が訪れるのを願ってもいた。
いつかは、シロちゃんを自分の世界に返してあげないといけないはずだった。
ワタシや繭ちゃんたちみんなで、その約束をしたはずだった。
…それでも、訪れたお別れは、あまりに唐突だった。
「帰れるかもしれないって、どういうことなの?」
そう尋ねたのは、ワタシたちのお姉ちゃんである雪花さんだ。普段のおちゃらけた口調は、ここでは封印している。ただ、その声は少なからず震えていた。
『あのね、あの白い神さまがね、教えてくれたの…今なら、元の世界に、帰れるって』
シロちゃんは、言葉を細かく区切りながら説明していた。そうしなければ、言葉がバラバラになってしまいそうだと言わんばかりに。
「そう、なんだね…でも、どうやって、帰るのかな」
雪花さんも、そう口にするのがやっとだった。それだけ、動揺が抑えきれていない。
けど、当然、雪花さんよりも動揺していたのは、この子だった。
繭ちゃんは問いかける。シロちゃんから、瞳を逸らしながら。
「…ねえ、なんで?」
文脈として、繭ちゃんのその問いかけはおかしかった。ここは、理由を問う場面ではない。自分でもそう思ったのか、繭ちゃんは問い直した。
「ねえ…それって、今じゃないとダメなこと、なの?」
繭ちゃんは、アイドルとして何度も舞台に立ってきた。歌やダンスだけじゃなくて、マイクパフォーマンスのセンスも、この子は頭抜けている。けど、今の繭ちゃんの喋り方は随分とたどたどしかった。どんな大舞台でも、気後れしたことなんてなかったのに。
「あのね、せっかく、ボクたちみんなで世界を救ったんだしね。シロちゃんも疲れてるだろうから、ゆっくりお風呂に入りたいと、思うし…もし、シロちゃんが帰っちゃうなら、お別れ会もしたいと思うよ、主に花ちゃんとかが」
「え、ワタシ…?」
そこで、繭ちゃんがワタシの傍に寄り添っていた。捨てられた子犬のように、この子は弱々しかった。ここでワタシに話を振ったのも、その弱気の表れだ。
だから、『お姉ちゃん』であるワタシが言った。
「そうだね、お疲れ会もかねて、みんなでやりたいよね…シロちゃんが好きなお芋の天ぷらもいっぱい用意しようね、腕によりをかけてワタシが揚げちゃうよ」
軽く腕まくりをしながらそう言ったけれど、それは不可能なことだと、ワタシは分かっていた。そして、おそらく繭ちゃんも、分かっていた。
…多分、シロちゃんも。
シロちゃんは、純白の犬神さまを見上げていた。
犬神さまはシロちゃんに鼻先を近づけ、小さく口を開いていた。親犬が、我が子を慈しむような仕草だった。
『ダメ、みたい…ぼくにはよく分からないけど、今この時じゃないと、世界がつながっていないんだって』
「そうなんだ、ね…」
やはり、『お別れ会』の時間なんてないと思っていた。あの犬神さまが現れたのも『黒いヒトビト』が顕現したからだろうし、この世界そのものが今は多分、歪んでいる。でなければ別世界からほいほいとこちらに来られるはずもない。そして、その歪みを利用して、あの犬神さまは現れたと推察される。
…当然、その歪みにもリミットは、あるはずだ。
『そろそろ、行かないと、いけないみたいなの』
シロちゃんは、俯きながら、そう言った。
その肩は、震えていた。凍える冬の日に、そうするように。
…ダレカが抱きしめてあげないと、砕けてしまいそうだった。
そして、シロちゃんは別れを告げた。青空から光が差し込む、その下で。
『じゃあ、繭ちゃん…さよなら、だね』
「シロちゃん…」
『今まで、ありがとう、ね…繭ちゃんと出会えて、幸せだったよ』
「シロちゃ…ん」
シロちゃんの名を呼ぶ繭ちゃんに、シロちゃんはそこで背を向けた。
おそらく…いや、間違いなく、ワタシたちは二度と、シロちゃんに会うことは、できない。
だから、もう、シロちゃんと会話を交わすことも、ない。
そんなこと、ワタシたち全員が知っ…。
「いやだあっ!」
場の空気を裂いたのは当然、繭ちゃんだ。
繭ちゃんは、シロちゃんの背中に抱き着いた。抱き着いて、シロちゃんがどこにも行けないようにその足を止める。そのための、枷になる。
…シロちゃんがその枷を外せないことは、繭ちゃんだって、分かっているはずなのに。
『繭ちゃん…』
「どこにも行っちゃダメだよ、シロちゃん…」
繭ちゃんは、ただの駄々っ子と化していた。
「ずっと、ボクたちと一緒にいようよ…きっと、絶対に楽しいよ?」
『繭ちゃ…ん』
「あ、そうだ…今度、一緒にステージで踊ろうよ、シロちゃんもダンスが上手くなってきたしさ、それに山登りしてキャンプとかもいいよね。あ、そろそろ新しい服も買いに行かなきゃだね」
繭ちゃんは、弱々しい声で捲し立てる。
そんな繭ちゃんにワタシは言った。
「繭ちゃん…あのね」
「分かってるよ!!」
繭ちゃんは、俯いたまま叫んだ。
その声は地面に反射して、虚空に消えていく。
「ボクだって分かってるよ。シロちゃんは、ここで帰らないといけないって…だけど、さみしいんだよ、シロちゃんがいないと、さみしいんだよ!胸が痛くなるんだよ!」
繭ちゃんの叫びを受けて、シロちゃんが振り向く。その顔は、涙で大洪水になっていた。そのぐしゃぐしゃの顔のまま、シロちゃんは繭ちゃんを抱きしめた。
『ぼくも、さびしいよ、もっとここにいたかったよ、繭ちゃんと離れ離れは、いやだよ…でもね、ぼく、お母さんやお父さんにも、会いたいよぉ』
ワタシは、みんなのことを家族だと、思っている。
繭ちゃんも雪花さんも慎吾も、そして、シロちゃんも…。
…だけど、やっぱり本物の家族には、勝てないよね。
本物の家族に、会いたいよね。
そのことを思い知らされたけれど、でも、それが当たり前だということは、分かっていた。
「ごめんね、シロちゃん…困らせちゃって、ごめんね」
涙に濡れたシロちゃんを目の当たりにしたからか、繭ちゃんは少しだけ落ち着いていた。我が儘を言っていい場面じゃないことは、繭ちゃんだって分かっている。
「そうだよね…シロちゃんだって、帰りたいよね」
『でも、それと同じくらい、ここに残りたい気持ちも、ぼくにはあるんだよ…』
「分かってる…分かってるよ、シロちゃん」
繭ちゃんも、涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
そして、二人で抱き締め合う。それは、何人たりとも邪魔できない、不可侵の聖域だった。いや、この二人を引き離せるものが、たった一つだけ存在していた。
…それは、時間だ。
時間だけは、神さまが相手だろうが忖度などしない。
当然、この二人の少年に対しても。
『…………』
それまで沈黙を保っていた白き犬神さまが、ゆっくりと動いた。
そして、抱き合う繭ちゃんとシロちゃんの二人の傍にやって来る。それを見たシロちゃんは、繭ちゃんから離れた。かなり、名残惜しそうに。
『ごめんね、みんな…そろそろ、本当に行かないといけないみたいなの』
シロちゃんは涙をごしごしと拭っていたが、拭っても拭っても、涙は後から溢れていた。
そんなシロちゃんを、今度は雪花さんが抱きしめる。
「シロちゃん…いや、シロちゃん殿。向こうに帰っても、拙者たちのことを忘れないで欲しいでござるよ」
雪花さんは、あえて普段と同じ口調だった。
『うん、ぼく忘れないよ…雪花お姉さんみたいな喋り方をする人、向こうにはいないから』
シロちゃんは、微笑む。涙で濡れたほっぺたが、陽の光で輝いていた。
その次は、慎吾だった。
「それじゃあ達者でな、シロちゃん。ちゃんと、たくさん野菜を食べるんだぞ…って言わなくても大丈夫か、花子とは違うもんな」
「ワタシ、野菜を残したりしてませんけど!?」
「そうだな、野菜も食べてるな…それ以上に間食が多いけど」
「間食しても晩ご飯を残したりしてませんー。ちゃんと野菜の栄養素もとってますー」
「だから体が重くなるんだろ…」
「女の子にそんなこと言っちゃいけないんだよ!?」
なんでこっちに流れ弾が来るんだよ。
などというやり取りをしていたワタシたちを、シロちゃんは笑って眺めていた。
この光景を、瞼に焼き付けるように。
…うん、残っていたらいいな。シロちゃんにとっての、この世界の思い出の一つに。
「最後はボクだね…」
そうだね、最後は一番の仲良しである繭ちゃんだね。
そして、繭ちゃんはシロちゃんと向かい合う。
「シロちゃんとは、一緒にたくさんの時間を過ごしたけどさ…やっぱりまだ、遊び足りなかったよ」
繭ちゃんは、素直に心の中を打ち明けた。
「でも、シロちゃんは家族と会えるんだもんね…だから、ちゃんと帰って、お母さんたちを安心させてあげないといけないよね」
『繭ちゃん…ぼく、繭ちゃんからたくさんのものをもらったよ』
「それは、ボクも一緒だよ」
そこで、二人の少年は微笑みを浮かべる。顔は似ていないのに、それは、とてもよく似た微笑みだった。きっと、笑顔の構成要素が同じなんだね。
「でも、シロちゃんにお土産くらいは渡したかったなぁ、ボクのことが忘れられなくなるような…あ、そうだ」
そこで、繭ちゃんはいたずらっ子のような笑みを浮かべて、そっとシロちゃんに近づいて…。
シロちゃんにキスをした。
…………え?
「なに、を…?」
目の前の光景から、急に現実感が消え失せた。
けれど、あの少年二人がキスをしていたのは、現実だった。
いや、でも現実感なんてないし、これは現実じゃないのか…?
と、現実という言葉がワタシの中でゲシュタルト崩壊を起こす。
…だって、キスだよ?
しかも、あの二人の接吻、だよ?
これで動揺しないはずがないよね???
「ええと、繭ちゃん…?」
キスをされた側のシロちゃんも、言葉を失っていた。おそらく初めての経験だったろうね。まあ、ワタシも未経験だけど…いや、それはどうでもいいんだけどね。
「シロちゃんにお土産だよ…これで、絶対にボクのことを忘れたりしないよね」
軽く言っているけれど、繭ちゃんは耳まで真っ赤にしていた。
…勢いでやってしまったけれど予想以上に恥ずかしかったようで自爆している、といったところか。
そして、ワタシの隣りで同じように雪花さんも驚いていた。ただ、両手で口元を押さえて叫び声を上げないようにしていたのはいいんだけど、その分、鼻息が荒くなっててワタシの首筋に直で当たってたんだよね…その鼻息がかなり生温かくて不快だったのだ。
『そ、そんなことしなくても…ぼく、繭ちゃんのこと、絶対に忘れないよ』
「ボクも、シロちゃんのことは、絶対に忘れないよ」
お互いに『約束』を交わしていたけれど、二人ともかなり赤面していた。
…ただ、美少女の皮をかぶった美少年二人に隣りの雪花さんの鼻息がさらに荒くなる。
一応、釘を刺しておくか。
「雪花さん…分かってると思いますけど、今のを同人誌のネタとかにしないでくださいよ?」
「それは分かってるんだけど、拙者の中でナニカが囁くのでござるよ…『ダークチップヲツカウノデス』と」
「誘惑に弱いのをダークチップの所為にするのやめてくれませんか…?」
…ナマモノには手を出すなっていつも言ってるよね?
と、そんなワタシたちの薄汚れた会話とは無縁のシロちゃんは、言った。
『あのね、繭ちゃん…そろそろ本当に、行かないといけないみたいなの』
「うん…行ってらっしゃい、シロちゃん」
『行ってらっしゃい…?』
シロちゃんは、繭ちゃんの言葉に小首を傾げていた。
ワタシには、何となくその理由は分かったけれど。
「シロちゃんが、いつでもこっちに帰って来てもいいように…『御呪い』の挨拶だよ」
『いつでも…』
シロちゃんはそこで考え込むような仕草を見せていたが、すぐに顔を上げて、微笑んだ。
『うん…それじゃあ、行ってきます』
軽く手を振り、シロちゃんは歩き出す。涙は、見せなかった。我慢しているようだったけれど、それはワタシたちに…特に、繭ちゃんには見せないようにして。
『ありがとう…ぼくを見つけてくれて、ありがとうね、繭ちゃん!』
「ボクこそ、出会ってくれてありがとうだよ、シロちゃん…それじゃあ、元気でね!」
『繭ちゃんも元気でね…あと、あんまり頑張り過ぎないでね!』
二人が言葉を交わしている間に、純白の犬神さまが…何もない空間に青い穴を、開けた。
きっと、それがシロちゃんの世界へとつながる扉だ。
…繭ちゃんとシロちゃんの『おわかれ』が、確定した瞬間だった。
そして、シロちゃんが繭ちゃんに何度も声をかけながら…青い空洞に体を入れようとしたところで、火花?のようなもの?が散った。
「もしかして、シロちゃんが元の世界から拒絶…されてるの?」
ワタシの目には、そのように映ってしまった。
シロちゃんが、青い空洞に入れなかったからだ。
…その瞬間に、とある未来を想起してしまった。
ワタシがいて、慎吾がいて、雪花さんがいて、繭ちゃんがいて…その隣りにシロちゃんもいる。
そんな、ありふれていて、満ち足りた未来を。




