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転生者なんか送ってくるな! ~看板娘(自称)の異世界事件簿~  作者: 榊 謳歌
Case4 『駄女神転生』 2幕 『祭りの始末』

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146 『家に帰るまでが異世界です』

 黒という色が、ワタシは嫌いだった。

 その濃度が高ければ高いほど、嫌っていた。

 …いや、嫌っていたというか、(おそ)れていたのか。

 黒という色は、ワタシに夜を想起させる。誰もいない、ワタシだけが一人ぼっちだったあの病室の夜を思い起こさせる。


「…………」


 あの時の黒色と同じ『黒』に、ワタシは包まれていた。

 世界の全てが、均一の黒に塗り潰される。

 黒いカノジョが、全ての呪詛を世界に解き放った。その呪詛は、この異世界ソプラノで何百年、何千年と積み重ねられたカノジョたちの怨嗟だ。それらが世界へと散らばり、撹拌(かくはん)される。

 

「世界の終わりに、見た光景だ…」


 何もかもが黒一色に染め抜かれた景色は、あの光景と同じだった。

 元の世界で、ワタシが死の間際に見たあの景色と同じだった。

 なら、ワタシはまた、終わるのだろうか。

 …ここでワタシの命が絶たれても、次の転生は、ない。


「…………」


 …けど、終わらなかった。

 終わってなんか、いなかった。

 黒い世界は、少しずつ終わりを告げていく。

 昏かった空から、光が、差し込み始める。

 最初は、蜘蛛の糸ほども細い光が、一筋だけ降ってきた。

 それは心許ない光でしかなかったけれど、徐々にその数が増えてくる。

 二つ、三つ、四つ。

 黒だけしかなかった世界に、色彩が戻る。

 夜明けの薄明かりに、それは似ていた。


「終わった…」


 この世界が、ではなく、崩壊の危機が。

 楽観したわけではないが、晴れ間が覗き始めた空を見上げ、日の光を感じながら呟いた。


「本当に、終わった…よね?」


 これまでにも、現実離れした光景なら何度も見てきた。けど、今こうして青空が広がっていることに安心を覚え、同時に不安も感じていた。それだけ、非現実な状況にワタシが侵食されていたということか。


「ああ、そうみたい…だな」


 隣りから声が聞こえてきた。それは、ワタシがこの異世界で最も馴染んだ声でもあった。ひっそりと、小さくワタシの胸が鼓動を打つ。それは、ワタシがまだ生きていることを教えてくれる太鼓の音…。

 その音に押されるように、その名を呼んだ。


「慎吾…」

「見ろよ、花子…あの黒い魂が、空に還っていく」

「…そうだ、ね」


 カノジョたち『黒いヒトビト』は巨人の姿となり、この世界に呪詛を解き放った。

 …いや、解き放ったのはカノジョたちの魂か。

 カノジョたちは、自分たちを縛っていた呪いを、自分たちで解き放ったんだ。

 だから、こうしてその魂が空に昇っていく。

 少しずつ、その姿も薄くなっていく。

 そして、ワタシの隣りには慎吾がいた。これは、当たり前のことだった。慎吾にとっても、この異世界に転生してから最も話した相手はワタシだった。

 だから、当たり前のことだったけど、特別なことでもあった。今は、この当たり前を噛みしめていたかった。

 …この後のことを、想うと。


「この光景は、花子が成し遂げたんだ」

「違うよ、ワタシなんてほぼ何もしてないよ…」


 謙遜ではなく、本心から出た言葉だった。だって、ワタシじゃないみんなが頑張ったから、あの『黒いヒトビト』が呪詛から解放されたんだ。

 でも、それでよかった。ワタシの功績なんて何もなくていい。ただ、あのヒトたちの魂が空に還るところを見られただけで、よかった。

 だって、あのヒトたちとワタシたちは同じだから。

 同じように、抱えきれない未練を抱えた者同士だったから。

 そして、徐々に、ワタシの周りの黒も消えていく。

 …少しだけ、名残惜しく感じられた。

 その黒はワタシが怖れたあの黒とは違い、少しだけ肌触りのいい黒だったから。


「それでも、私は君の功績に敬意を払おう」


 そこで、慎吾とは違う声が聞こえてくる。


「ベイト神父さん…」

 

 そこにいたのは、ベイトさんだった。妹さんを失い、その妹さんが『黒いヒトビト』と化してしまった、神父さんだ。


「君のお陰で、私は妹と再会できた」

「…………」


 そう言ったベイトさんに、ワタシは何も言えなかった。

 確かに、この人は妹と再び会うことができた…のかも、しれない。

 …しかし、その再会は、兄妹にとっての救済となったのだろうか?

 確かに、妹である彼女は兄であるベイト神父の危機を救った。

 でも、それは、『黒いヒトビト』と化してしまった妹だったけれ…?

 そこで、ワタシは異変に気付いた。


「姿、が…」


 彼女の…ベイト神父の妹の姿が、変わって、いた?

 先刻まで、彼女は確かに黒い塊だった。

 それなのに、今は…。


「あの、ベイトさん…」


 戸惑いながら、ワタシはベイト神父に言った。


「ああ、だから言ったんだ…君のお陰で妹と再会できた、と」


 ベイト神父は事も無げに言った。今、ベイト神父の傍にいるのは、黒い塊ではなかった。

 シルエットが、人の形を成していた。ただ、それでも人の輪郭を成していただけで、茫洋とした黒い姿だったのは変わらないけれど。

 …それでもこの神父にとっては、それが妹だと分かるんだ。


「久しぶりだな…」


 ベイト神父が、これまでに聞いたことのない穏やかな声で話しかけていた。黒いシルエット姿の、妹へと。


『…………』


 妹からの返答は、なかった。

 それでも、何もなかったわけではない。彼女は、手を伸ばした。ベイト神父へと向かって。

 当然、ベイト神父も手を伸ばす。

 ベイト神父の伸ばした右腕は、黒く染まっていた。『黒いヒトビト』と同じ、黒色だ。

 …そうか、この人は、生きたまま『黒いヒトビト』になりかけていたんだ。

 妹を理不尽に奪われ、それだけの呪詛を、抱えていたから。

 その妹と、神父の手が触れそうになったところでワタシは言った。


「それは、危険かもしれませ…」


 先ほど、ワタシも『黒いヒトビト』に触れている。

 その際に、逆流してきたんだ。カノジョたちの、怨嗟の渦が。


「問題はないよ」


 その言葉の通り、ベイト神父が彼女に触れても何も起こらなかった。黒い妹の黒い右手と、神父の黒い右手が、そっと重なる。

 そして、彼女の姿が、少しずつ、黒ではなくなっていく…『黒』が、晴れていく。

 …けど、それは彼女の呪詛が晴れていくと同時に、彼女である基盤が失われていくことを意味する。


「ベイト…さん」

「君は、何も気にしなくていい。というか、本当に感謝しているんだ…私だけではなく、妹も」


 薄れていく妹さんと手を触れあったまま、ベイト神父はそう口にした。二人が触れ合う時間は、やさしく流れていく。それは、誰にも邪魔されない神域だった。

 しかし、時間というものは流れていくことしか、できない。留まることもできないし、逆巻くこともできない。

 彼女の姿が、朧気に、虚ろになっていく。


「これで、最後なのか…」


 ベイト神父は軽く言ったが、それはきっと、軽い言葉ではない。

 確かに、妹とは再会できた。命だって、助けてくれた。

 この再会は奇跡の賜物だったはずで、この結末はハッピーエンド以外の何物でもないはずだった。

 けど、その再会の奇跡には、時間制限があった。

 だからこそ、この神父は口にすべき言葉が見つけられなかった。

 …それでも、その別れは、すでに秒読み段階に入っている。


「抱きしめてあげれば、いいんじゃないですか?」


 ワタシは、この兄妹とそれほど面識があるわけではない。兄であるベイト神父とは何度か会っているが、妹のカイアさんとはこれが初対面だ。自己紹介すらできていない。なのに、無責任とも言える発言をワタシはした。

 ベイト神父も、ワタシの言葉にやや狼狽している。


「いや、私ももういい年をした大人なのだし、それは少し…照れくさい気もするのだが」

「最後だと言ったのは神父さんですよ…というか、二度と会えないと分かっているのに、四の五の言っている場合ですか。恥や外聞なんて、ここでは何の価値もありません」


 ワタシは、知っている。ベイト神父だって、知っているはずだ。

 死別という別離が、どれだけ遠い離れ離れになるのか、と。


「そうだ、な…」

 

 ベイト神父は、そこで一歩を踏み出して、黒い妹を抱きしめた。

 照れくさいなどと言っていた割にはしっかりと。

 けど、それを茶化したりはしない。

 この再会が無二のものだと、知っているから。

 そして、ベイト神父に、ワタシは問いかけた。


「最後に、妹さんに伝えたい言葉はありますか?」

「言葉はあるんだが…多分、私の言葉は届かないだろう」


 確かに、『黒いヒトビト』とは普通にコミュニケーションを取ることは不可能だった。

 だからこそ、ワタシは言ったんだ。


「しょうがないですね、貸し一つですよ」

「何を言って…?」

「『念話』を発動させます…このスキルは、心と心でお話ができるんですよ」

「カイアと、話が…」


 そう呟いたベイト神父に、ワタシは無言で頷いた。

 そして、妹と抱き合うベイト神父の背中に手の平で触れた。意外と筋肉質なその背中は、この人が妹を守る『兄』なのだと認識させた。


「どうぞ、ベイトさん…妹さんに、伝えたい言葉を言ってあげてください」

『私が言いたいことは一つだけだよ…不甲斐ない兄で、妹も守れなくて、すまなかった』

 

 ベイト神父は、小さな声で謝っていた。それは、とても誠実な謝罪だった。確かに、妹さんは亡くなった。この世界から、不本意な形で退場することになった。

 …でも、違うよね。

 だから、口を挟んだ。それが、野暮な行為だとしても。


「ベイトさん…そんなものが最後の言葉でいいんですか?」

「…そんなものと言われても、私にはカイアにかけるべき言葉は、他にない」


 ベイト神父が妹に向けた最後の言葉は、懺悔でしかなかった。


「でも、妹さんは、もっと別の言葉が聞きたいんじゃないですか」

「…私にその資格は、ないよ」


 頑ななまでに、ベイト神父はその姿勢を変えなかった。この人は、自分を咎人だとしか思っていない。

 …そこに、『声』が聞こえた。


『にい…さん』

「「…え?」」


 ワタシとベイト神父は、同様に驚きの表情を見せていた。

 だって、その声は、彼女から聞こえてきた。徐々に透明になっていく、あの彼女から。


『「カイア…なのか?」』

『にいさ…ん』


 透き通る姿で、透き通る声で、彼女は兄に呼びかける。人のシルエットはとっているが、その表情は昏く見えない…はずなのに、薄っすらとその表情が見えた。

 そして、妹は口にした。兄に最も必要な言葉を。


『あり  が  と う』

『「…………お前に礼を言ってもらえる資格など、本当にないんだ」』


 苦渋の声。何年も兄を苦しめた、自責の声だった。


『あ  りが と  う…ありが    と  う』


 妹は、繰り返す。

 声が、薄くなっていっても。

 体も、薄くなっていっても。

 ベイト神父が抱きしめていたはずの妹の身体が、すり抜けた。


『「カイア   !」』


 彼女を抱きしめられなくなったベイト神父は前のめりに倒れそうになったが、踏み止まって振り返る。

 そこにいた彼女は、薄氷よりも薄く、透明だった。

 …それでもまだ、彼女はそこにいた。


『「カイア…カイアァ!」』


 兄の尊厳も神父の威厳もなく、ベイトさんは妹の名を呼ぶ。


『あ  いし るよ…にい さ ん』

『「まだ、いかないでくれ、カイア…」』

『に いさん…い  き て』


 その言葉と共に、彼女は天に帰った。

 けど、その最後の瞬間、ワタシは見た。

 朗らかに微笑む、幼い少女の顔を。


『「カイ…ア」』


 未練と共に、神父は項垂(うなだ)れていた。顔を上げることさえ、今のこの人にはできそうにない。だから、ワタシが代わりに口を開いた。


「今は、どん底まで落ち込めばいいんですよ」

「…………」


 ワタシの言葉は、ベイト神父には届かない。当たり前だ。今、この人の心にあるのは妹を二度も失ってしまった喪失感だけだ。それでも、言った。あえて、安い言葉で。


「どん底まで落ち込んで、それから上を向いたらいいじゃないですか」

「…………」

「そうしないと、妹さんの置き土産が無駄になりますよ」

「おき…みやげ?」


 妹という言葉に、兄は反応していた。どれだけ気落ちしていても、その言葉だけは無視できないんだ。


「ベイト神父のその右腕…『黒』に侵食されていましたよね」


 ワタシは、神父さんの右腕を指差した。妹を失い、生きる意味も失ったこの人の右腕は『黒いヒトビト』と同じ『黒』に蝕まれていた。


「元に、戻っていますよ」

「確かに、私の腕が…治って、いる」


 刻印と化していた『黒』の(かせ)が消えたからか、ベイト神父の声が少し軽くなっていた。実際、この人はあの黒色が(うず)くたびに苦悶していた。

 そんなベイトさんに声をかける。


「妹さんが治してくれたんですよ…感謝しないといけないですね」

「感謝、か。私は、何をすればいいのだろうか…妹に、カイアに報いるために」

「生きればいいじゃないですか…彼女自身がそう言っていたんですから」

「生きる…か」


 それが難題であるかのように、ベイト神父は俯く。

 確かに、この人からすれば理不尽に妹を奪われたこの世界で生きることが、どれほど難しいだろうか。


「それが難しいっていうなら…妹さんが喜ぶようなことをして生きていくというのは、どうですか?」

「カイアが喜ぶことを…?」

「そうすれば、きっといつまでも一緒にいられますよ、妹さんと」

「カイアの喜ぶ生き方をすれば、あいつと共に生きていくことになる…か」


 ベイト神父は俯いたままだった。

 それでもほんの少し、その声にはこの人の意思が灯っていた。


「何をすれば妹さんが喜ぶのか分からないのなら、先ずはそれを探すところから始めてみるのもいいんじゃないですか?」

「カイアが喜ぶことを探す、か…まあ、考えておくよ。ただ、今は少しだけ、歩きたい気分だ」


 ベイト神父は、実際に歩き始めた。その背中が、ワタシから遠ざかる。

 けど、少し歩いたところで振り向いた。


「もし、カイアが喜ぶ生き方が分からなくなったら…君に相談してもいいかい?」

「相談料はドーナツになりますけど、それでよければ」

「そういえば…カイアもドーナツが好きだったな」

「…え?」

「それじゃあ、また」


 ベイト神父は、次は振り向かずに歩いて行った。

 でも、『また』とあの人は言った。とりあえず、今生の別れではない、ということだ。


「私には…『次』はなさそうですね」


 そう言ったのは、『魔女』である彼女だった。


「ドロシーさん…?」


 その光景に、目を疑った。

 ドロシーさんの体は薄く発光していて、今にも消え入りそうだ。

 …いや、実際に、この人も消えるの、だろう。


「どうやら、私も用済みとなったですね…あなた方の勝利ですよ」


 ドロシーさんは、そう語った。

 この人は『魔女』だ。そして、この異世界ソプラノにおける『魔女』とは『黒いヒトビト』に異世界から呼ばれた彼ら、彼女らの巫女のような存在だった。

 平たく言えばそれは、この世界の崩壊の片棒を担ぐ存在、ということだ。

 そして、この異世界の崩壊は、免れた。

 …だとすれば、『黒いヒトビト』の巫女である『魔女』の今後の処遇は?


「また、次の時代に飛ぶんですか…?」

 

 ワタシは、『魔女』に問いかける。

 これまでにも、『黒いヒトビト』は何度かこの世界を崩壊させよう顕現した。しかし、ドロシーさんが乗り気ではなかったため、世界の崩壊は起こらなかったんだ。けれど、そのたびにドロシーさんは次の時代へと…『黒いヒトビト』が顕現できるだけの条件が整った時代へと、飛ばされていた。何度も何度も、この人はその流浪を味わった。元居た世界からこのソプラノに呼び出され、何度も時代を超えさせられた。


「多分、次はありません…」


 …『魔女』は言い切った。

 ドロシーさんのその言葉に、息が詰まった。


「次は、ないって…」

「これまでは、あのカタガタによって次の時代へと飛ばされていた私ですが…その雇い主であるあのカタガタが、この異世界から消えてしまいましたからね」

「それじゃあ、ドロシーさんは、どうなるんです…か?」

「このまま消えてしまうのではないですか…朝露のようにでも」


 自身の末路を、軽い口調で言ってのけた。


「そん、な…でも、これからどうなるかはドロシーさんにも分からないはずですよね?」

「そうですね、私にも分かりません。何しろ、初めてですからね…あのカタガタを成仏させる人間が現れるなんて」


 そう言って、『魔女』は笑っていた。

 その微笑みは、『魔女』という肩書きに反して、人懐っこいものだった。

 …ズルいですよ。最後の最後でそんな顔を見せるのは。

 だから、ワタシは『魔女』の手を取った。

 しっかりと、どこからもドロシーさんが零れ落ちてしまわないように。

 それでも、ドロシーさんの体は徐々に薄くなる。

 けど、まだ、彼女の手を握ることは、できていた。


「ドロシーさん…ドロシーさん」


 ワタシは、懸命に彼女の手を握る。

 両手で、しっかりと。


「何をしているのですか、花子さん…?」


 彼女の手を握り、彼女の名を呼ぶワタシは、ドロシーさんからすればかなり奇異に見えたことだろうね。

 …でも、必要なことなんだよ。


「『念』を…込めているんですよ」

「…ねん?」


 小首を傾げるドロシーさんに、ワタシは言った。


「そうですよ…ドロシーさんが、元の時代の、元の自分の世界に戻れるように、念を込めているんですよ」

「私が、元の世界に帰れるように…?」

「だって、ドロシーさんだって家族に会いたいでしょ」

「それ、は…」


 沈黙したドロシーさんに、ワタシはさらに念を込める。効果があるかどうかは分からない。でも、きっとあると信じて念を込めた。

 だって、ここは異世界ソプラノだ。奇跡の一つぐらい、起こしてくれるよ。

 …そして、奇跡は起きていた。

 ワタシが願った奇跡では、なかったけれど。


「ドロシー…さん?」


 …ドロシーさんの頬を、涙が伝っていた。

 小さな水滴は、発光する体により、さらに輝いていた。


「え…あ、ああ」


 泣いていたことに、ドロシーさんは遅蒔(おそま)きながら気付いた。

 そして、慌てて涙を拭う。初めて、この人がワタシと同年代の女の子だと思えた瞬間だった。


「ドロシーさん…」

「勘違いしないでください…ちょっと目にゴミが入っただけですよ」

「またベタな言い訳をしましたね…」


 でも、ワタシの中でこの人の好感度が上がった。

 そんなドロシーさんは、軽くそっぽを向きながら言った。


「このまま異世界で朽ち果てるのだと思っていましたが…ほんの少しだけ、あの世界に戻れる気がしてきましたね」

「ドロシーさんだったら帰れるんじゃないですか…でも、家に帰るまでが異世界ですよ」

「なんですか、それ…」


 ワタシの言葉に笑っていたドロシーさんの手を、ワタシの手がすり抜けた。

 …もう、触れることもできなくなったようだ。

 だから、ドロシーさんは言った。


「本当に、花子さんともお別れのようですね…」

「…気を付けて、帰ってくださいね」


 この人は、異世界ソプラノにおける災厄だった。

 けど、普通の女の子でも、あったんだ。ただ、ちょっとだけ飛ばされた場所が悪すぎただけの、『ドロシー』だ。

 そんな『魔女』に、ワタシは尋ねた。

 

「ドロシーさんの世界って、どんなところなんですか?」

「こことは大して変わりませんよ…強いて違いを上げるなら、ドーナツが一つ十円で売ってることぐらいでしょうか」

「ワタシもその世界に行ってみたいんですけどぉ!?」


 何なの、その夢のような異世界は。

 そんなワタシを見て、ドロシーさんは微笑む。薄い光に、包まれながら。


「じゃあ、今度は花子さんが遊びに来てくださいよ」

「そうですね…行ってみたいですよ」

「約束ですよ」

「約束ですね」


 すり抜ける指と指で、ワタシたちは指切りをした。

 どうやら、この異世界にも指切りは伝わっていたようだ。

 …そして、ドロシーさんは消えてしまった。

 果たされない約束を、この場に残して。

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