144 『…返せよ、それは、ワタシの慟哭だ』
「人間が感じる最大の痛みとは、何だろうか」
細かくなるまで骨が粉砕された、骨折だろうか。
それとも、じゅうじゅうと焦げるほど肉を焼かれた大火傷だろうか。
どちらも相当に痛いだろうね。ワタシだったら、人目も憚らず泣き喚いちゃう自信があるよ。
「でも、最大となると、それは痛覚を超えた痛みのこと、じゃないかな」
聞こえない声で、呟いた。
眼前には、この空を覆い尽くすほど…ではないが、それなりに巨大な黒い人影が存在していた。
それは、黒い大蛇だった『黒いヒトビト』が変容した姿だ。黒一色なので容姿などは分かりづらいが、どうやら女性のような肉付きをしていた。髪も長髪で、それを振り乱している。
けれど、サイズでいえば、確実にダウンサイジングしていた。
彼女ら、彼らが顕現した当初は、本当にこの異世界の全てを呑み込むほどの巨大な異様さを持っていたが、現在はそれが、軽く見上げる程度の体積しか持ち合わせていない。これで、この異世界を崩壊させられるのか、とも思う。
…ただ、その異常の本質は、そこにはなかった。
『わたしのむすめをうばったセカイが…そんざいしていることがユルせない!』
思いの丈を、『黒いカノジョ』は叫んだ…。
これまでにも、『黒いヒトビト』が意思を示したことはあった。けれど、それらの声はやや不明瞭だったり、聞き取れないこともあった。
それなのに、この台詞だけははっきりと聞こえた。
それだけの念が、カノジョの叫びには込められていた…。
この異世界が、私の娘を奪ったのだ、と。
「その痛みはきっと、世界で一番、大きい」
痛覚を超越した痛みこそ、人は耐えることができない。
しかも、そこで失われたのは最愛の娘の命だ。
今、ワタシはカノジョの痛みの片鱗に触れた。
それは酷く鋭利で、けれど軋んでいて、だからこそ純粋で、聞く者の胸を抉る。
『どうやら、現在の黒いカタガタの意識はカノジョに統一されているようですね』
アルテナさまが、小さく呟く。
ワタシは、そんなアルテナさまに問いかけた。
「カノジョが『黒いヒトビト』の主導権を握っているということですか…けど、そんなこと、あるんですか?」
あれだけの数の『黒いヒトビト』の意識を、たった一人のカノジョが統一したということか?
…それを可能にしたのが、母親の執念なのか?
『詳しいことはワタクシにも分かりませんが…これまでにあった『揺らぎ』みたいなものが、今は微塵も感じられません』
「揺らぎ…ですか」
『一見すると先ほどより弱っているように見えるかもしれませんが、それはありえません…現在のあのカタは、これまでよりもずっと先鋭化されています』
アルテナさまの声からは、深い緊迫感が伝わってくる。
そして、再び上空から『声』が降ってきた。
『のろう…セカイをノロう!』
黒いカノジョは、再び吼えた。声量はそこまで大きくはなかったけれど、それでも伝わってくる。カノジョが抱えている…いや、抱えきれず、零れ落ちた憎悪が。
「あの…」
声をかけようとして、その声をとめた。いや、声を発することができなかった。他のみんなも同じだった。
…今、ワタシたちの目の前にいるのは、この世界の正当なる被害者だった。
『かえせ…あのコをカエせ!』
カノジョはきっと、この世界の理不尽に娘を奪われた。それが未練となり、カノジョを『黒いヒトビト』へと変貌させた。
…娘を失った痛みに、耐えられなかったんだ。
「それでも…」
ワタシたちは、カノジョを止めなければならない。この芋蔓式の悲劇を、ここで止めるために。
「アルテナさま…」
『分かっていますよ、花子さん』
アルテナさまはクリシュナさまと協力して魔力の『光』を照射し続けていた。それを受け、黒いカノジョもさらに浄化されていく。
…そう、浄化だ。
それは、望ましいことのはずなんだ。呪詛に囚われた哀れな魂が、空に還っていくのだから。
けれど、苦悶を浮かべたように身を捩らせるカノジョの姿を見ていると、どうしても物悲しい感情が萌芽する。
そして、カノジョは叫んだ。その声は、物悲しい咆哮となり世界に波及する。
『ちからをかせ…ヨコせ、おマエたちもこのセカイにウバわれたんだろうが!』
その咆哮に応えたのか、黒い衝動がカノジョを包む。黒い重圧が、ワタシの足元にも押し寄せてきた。
その重圧は、ワタシの体温の奪取を始める。
「アルテナ…さま!?」
『これは少々…まずいかも、しれませんね』
アルテナさまが手を抜いているわけではない。クリシュナさまだって懸命に光の放出を続けている。それでも、抑えきれなくなっていた。
…黒いカノジョの黒い執念が、淡々と零れ落ちてくる。
「女神さまが、二人がかりなんだよ…?」
それなのに、黒いカノジョは女神さまたちの光を押し返していた。
…そこに、カノジョの深淵を、見た。
あの光に包まれれば、カノジョたちは消滅する。けど、その消滅は救済だ。永劫とも思えるほどの長い時間ずっとカノジョたちを蝕み続けた、呪詛の浄化だというのに。
「それを拒否してまで、この世界を崩壊させたいの…?」
黒いカノジョたちが抱える怨嗟は、ある程度ならワタシだって理解できる。抱えた未練が大き過ぎたからこそ、ワタシもこの異世界に転生した。けれど、その囚われた未練から解放されたいと、ワタシならきっと願う。
…だって、ダレカを呪い続けるのって、きっとしんどい。
それこそ、世界を崩壊させるほどの呪いなんて、抱え続けたくない。
でも、あのカノジョだってきっと同じだ。こんなに長く世界を呪ったところで、その乾きが満たされることなんてない。それを一番、理解しているのはカノジョたちのはずだ。
「だけど、恨むことを、やめられないんだ…」
…失われたものが、自分よりも大事な存在だったから。
だから、カノジョたちは今も世界を呪い続けている。
『アルテナ…目覚めたばかりでこれはちょっときついのですけれど』
『泣き言なら後にしてくださいよ、クリシュナさま!』
『ですが、このままでは女神の干物になってしまいそうですよ』
『大丈夫ですよ、クリシュナさまの肌は元からカッサカサですから』
『はー!?私の肌はまだまだピッチピチなのですけれどぉ!それより、あなたの腰痛の方が心配なのですけれど!』
『ワタクシ女神なので腰痛なんてありませんよ!?』
コントのようにテンポのいいやり取りをしているけれど、アルテナさまたちに余裕は感じられない。女神さまたちが力を合わせても、黒いカノジョを抑えらない。
…不穏な気配が、そこでまた黒い胎動を始める。
カノジョが、黒い感情を膨張させていた。
世界に、津々と負荷がかかる。
『ウオオオオオオオオォン!!』
『ウアオオオオオン!』
その咆哮は、黒いカノジョのものではなかった。ワタシたちが大好きな、あの子の声だ。
「シロちゃん…」
白き犬耳に犬尻尾のシロちゃんと、純白の毛皮に包まれた犬神さまだ。
二人があげた白き咆哮は、黒いカノジョをよろめかせた。
『うぉ、お…』
女神さまたち、そしてシロちゃんたちに押されながらも、黒いカノジョは辛うじて踏み止まる。決定打には、まだ届かない。積年のカノジョの執念が、まだ上回っているんだ。
『ねたましい…わたしたちを、だれもタスけなかったのに』
苦悶の声で、黒いカノジョは言った。全身を黒に覆われているのでその表情は見えないが、その声だけで伝わる。カノジョとその娘が、どれほどの災厄に見舞われたのか、が。
…そして、その災厄のお裾分けだと言わんばかりに、カノジョは吼えた。
『ネタましい…わたしのムスメはいないのに、へらへら笑っているこのセカイがああ!』
黒い閃光が、爆ぜた…?
漆黒のはずなのに、それがワタシたちの目を眩ませる。
…光なのに、世界が黒に包まれた。
『アルテナ…!?』
『クリシュナさまぁ!』
アルテナさまとクリシュナさまは、今も黒いカノジョを抑えるために力を注いでいる。けれど、抑えきれない。黒い閃光は黒い余波となって、吹き荒ぶ。
「あれ…は?」
真っ黒な柱が、黒いカノジョの周囲から立ち昇っていた。
高く高く、それは天に昇る。
…高純度の怨嗟が映し出す、エンジェルラダーだった。
柱と柱は共鳴し、怨嗟の重圧が増していく。
揺らぎを生じながら、黒は密度を増す。
「これ、本当に危ないんじゃ…」
ワタシが言うまでもない。全員が、その脅威を感じ取っていた。
…あれは、この世界を粉砕する、と。
アルテナさま、クリシュナさま、シロちゃんに犬神さま…みんながみんな、限界以上の力を振り絞っている。
ワタシも、ナニカをするべきなのだけれど…悲しいほどに、ワタシは非力だ。
『だったら、リリスちゃんが先生の分まで頑張りますかねぇ』
「リリス…ちゃん?」
いつの間にか、リリスちゃんがワタシの隣り寄り添っていた。
「でも、ワタシの分までって…」
『どうせ、お人好しの先生のことだから、自分だけが役立たずのゴミムシだとでも思っていたのでしょう?』
「ゴミムシとまでは卑下してないけどね…」
さすがにそれは悲しすぎるのだ。
『まあ、そんな役立たずの先生の代わりに、超有能なリリスちゃんが助太刀をして差し上げますよってことですよ』
「でも、リリスちゃんだってそこまで有能じゃないでしょ」
言い返したワタシに、リリスちゃんは眼前で人差し指をリズミカルに振りながら『チッチッチ』と若干ウザいアピールをしていた。
『リリスちゃんは『悪魔』ですからねぇ。先生とは違うのですよ、先生とは』
「悪魔っていっても…」
封印されてたでしょ、と言いかけたところで口を噤んだ。これは、言わなくていい台詞だ。
それを察したように、リリスちゃんは軽く瞳を閉じてから続けた。
『兎に角、ここは美少女悪魔リリスちゃんにお任せですねぇ』
「あ、リリスちゃ…」
言いかけたワタシを置き去りに、リリスちゃんも魔力を解放した。リリスちゃんの周囲に、力場が発生する。それはリリスちゃんのスカートを軽く翻していた。
『いき、ますよぉっ!』
リリスちゃんは、右手を軽く振りかぶり、黒いカノジョへと翳した。リリスちゃんの周囲に発生していた力場が、そっくりそのままカノジョへと投じられた。
『ぐ…ぬ?』
…効果は、あった?
リリスちゃんが、あの黒いカノジョを抑えている?
いや、リリスちゃん一人じゃない。みんなで抑えているんだ。
「すごいよ、リリスちゃ…」
喜色を浮かべながらリリスちゃんを見たワタシは蒼褪めた。
…リリスちゃんの小さなお鼻からは、赤い鼻血が滴っていた。
明らかに、埒外の負荷をかけている。
「リリスちゃん…鼻血が!」
『これくらいなんでもないですよ…リリスちゃんは悪魔ですからねぇ』
「悪魔だからって、痛いのとか辛いのとか我慢できるわけじゃないでしょ!」
もうとっくにバレてるんだからね。悪魔だとしても、リリスちゃんだって普通の女の子なんだって。
『先生は知らないようですねぇ…悪魔って、意外と見栄っ張りなんですよ』
「だからって、リリスちゃん…」
リリスちゃんの鼻血は、止まらない。けど、リリスちゃんにはその鼻血を拭う余裕もなかった。赤い血をぽたぽたと滴らせながら、リリスちゃんはそれでも歯を食いしばっていた。
ただ、言いたくはないのだけれど、あの黒いカノジョを完全には抑えきれていなかった。女神さまたちがいて、犬神さまがいて、そして、悪魔までいる。メンツとしては間違いなくオールスターで、どれだけ敏腕な映画会社だとしてもこのキャスティングは不可能だ。しかし、それでも黒いカノジョを封殺することは、できていない。
…寧ろ、カノジョの周囲に発生した黒い柱の輝きは深化し、黒く透き通る。
呪詛というのは、それほどまでに消えないものなのだろうか。
いや、たった一人の呪詛ではないけれど。
長い長い年月を積み重ねた呪詛だけれど。
ここまでして、人は人を呪い続けるものなのだろうか。
『さて、わたしも最後にもうひと踏ん張りさせてもらおうかな』
「おばあ…ちゃん?」
立ち尽くし、何もできないワタシの前でおばあちゃんことアリア・アプリコットが言った。
「でも、おばあちゃん…」
『わたしはおばあちゃんじゃないけどね…でも、花子ちゃんだけは、そう呼んでもいいことにするよ』
「おばあちゃん…」
そこで軽くそっぽを向いたおばあちゃんは、少しだけ頬が赤くなっているようにも見えた。
けど、緩んだ空気はここまでだった。おばちゃんは、すぐに顔を引き締めて口にした。
『どうやら、『邪神の魂』の心残りは、あのヒトたちのことみたいだからね』
「邪神の…心残り」
呟きながら、ワタシはそのことを思い出していた。
ワタシの中には、おばあちゃんから受け付いだ邪神の魂…そのレプリカのような魔力の塊が存在していた。そして、その邪神の魂が『花子』という形でこの異世界に顕現した。『花子』は語っていた。『邪神』には心残りがある、と。
「元々、『邪神』って邪神じゃなかったんだよね…」
寧ろ、いい神さまだった。
…ただ、悲しいことにいい神さま過ぎた。
人々の戦争を止めるため、人間たちが抱えていた怨嗟をその身に受け続けた。結果として戦争は止められたが、戦争終結後も人間たちはその神さまに邪気を注ぎ続けた…結果、神さまは本物の『邪神』に堕ちてしまった。
その後、邪神と化した神さまは世界を滅ぼしかけた。何度も何度も。
でも、ワタシのおばあちゃんがその身に邪神を封印し、ワタシが元居た世界へと転生をした。そうしなければ、邪神の完全な封印はできなかったからだ。
そして、ワタシの中にも『邪神の魂』と呼ばれる邪神の欠片が残留したけれど、その邪神の魂が『花子』という形で顕現した。
その『花子』が口にしていた。
邪神には心残りがある、と。
「…その心残りが、『黒いヒトビト』だったんだね」
善神だった神さまは、『黒いヒトビト』の救済も願っていた。けれど、その高潔な道は、邪な人間たちの手で閉ざされた。
それでも黒いヒトビトを救いたいという願いが、邪神となった後も心残りとして刻まれていたのか。
『だから、わたしが何とかしないといけないんだろうね…相手が『邪神』とはいえこれも、何かの縁だろうから』
おばあちゃんの周囲の空気が、密度を増す。
おばあちゃんの髪が、軽く波打つ。
そして、溜めていた魔力が、放出された。
『相性はいいはずだよ…わたしの中にあるのは『邪神』の魔力だからね』
その言葉の通り、だった。
おばあちゃんの放出した魔力は、黒いカノジョを捕える。
「効いて…る?」
黒いカノジョは身を捩るが、これまでよりもその動きは制限されていた。
そして、ほんの少しずつ、その身が浄化されていく。
「すごい、よ…おばあちゃん!」
完全に、黒いカノジョを制圧していた。
ワタシのおばあちゃんは、こんなにすごい人だったんだ。その高揚感に、目頭が熱くなってくる。いや、これはただの高揚感じゃない。
おばあちゃんが傍にいてくれるという安心感に、ようやく心が追い付いてきたんだ。今までずっと、おばあちゃんを感じられる余裕がなかったから。
…けれど、好事においてこそ、魔は多い。
そういう場所にこそ、潜める隙間が多いからだ。
『危ない、花子ちゃん!』
「え………?」
もはや動けない、はずだった。
黒い、彼女は。
神さまやら悪魔やら英雄やらに囲まれて、大団円という終焉が顔を覗かせていた矢先だった。
しかし、問屋というのはそう簡単に卸さないものらしい。
「…………え!?」
気付くと、ワタシは空を見上げていた。
砂埃の舞う地面に横たわり、黒と青が鬩ぎ合う空を茫洋と眺めていた。
自分に何が起こったのか分からなかったけれど、自分に何が起こったのか理解をする前に、おばあちゃんに起こった異変を理解してしまった。
黒い脊柱が、おばあちゃんを貫いていた。
背中から、お腹まで、貫通していた。
「………………………………」
悲鳴を上げようとしたが、できなかった。
おばあちゃんを助けようとしたが、動けなかった。
涙も、出なかった。
感情の全てが、途絶えた。
細胞の一つ一つが、死に絶えたように。
人間というのは、理解を超えた出来事に対してここまで無力なのか。
…ワタシはただ、おばあちゃんが大好きなだけなのに
その意味のない呟きは、誰にも届かなかった。
呟きにすら、ならなかったからだ。
そこで、ワタシの代わりに、声が響いた。
『う うぁ う ぁぁ うああああああああああああああああああああぁ!!』
それはそれは、深い嘆きだった。
そこで慟哭したのは、黒いカノジョだった。
顔がなくても分かる。その表情は、泣いていた。
…………けど、コイツが泣くのか?
…返せよ、それは、ワタシの慟哭だ。




