143 『クリシュナさま、『アレ』を使います!』 『ええ、よくってよ』
「個人のアイデンティティとは、何処から来るものだろうか」
その人の性格だろうか。
それとも獲得した能力だろうか。
はたまた、生来の出自などから来るものかもしれない。
そもそもアイデンティティとは、自身と他者を区別し、自分がナニモノなのかと確認する概念のことだそうだ。だとすれば自身の性格や能力、さらには出自などよりも先に、自身の容姿が来るのではないだろうか。
「それこそが、自分と他人を比較できる手っ取り早い情報のはずだ」
世間一般の人たちも、そのように他者と自身の容姿を比べて自分の立ち位置を確認しているのではないだろうか。
…ただし、その自身の姿が失われてしまった場合、自分というアイデンティティをどこに求めればいいのだろうか。
本来ならそんな突飛なことはありえないのだけれど、ありえない事象が起こるのが、異世界という幻想世界だった。
『だったら、ここは私の出番なのでしょうね』
そこに立っていたのは、『不死者』であるカノジョだった。
ただ、不死という破格の個性と引き換えに、この人は自身のアイデンティティの根源とも呼べる容姿を失ってしまったけれど。
…そう、この人は、自分自身の本来の姿を失ってしまった。
その時から何百年もの永い時を、漂うように生きている。
それは、この人にとっては漂流する牢獄だったのかも、しれない。
「ロンド…さん」
ワタシの呟きの先で、タタン・ロンドさんは凛々しく立っていた。
自身の姿を失った代わりに、この人は別の身体を得た。
それは、女神クリシュナと呼ばれる存在の身体だった。
…本来なら、とっくの昔に失われたはずの。
『私のこの体は、女神さまのモノでした』
クリシュナさま…いや、ロンドさんは言った。
「そうらしい、ですね…」
大昔、『魔女』ドロシーさんは、タタン・ロンドという少女を生け贄に捧げた。
この異世界ソプラノを、崩壊させるために。
けれど、寸でのところでクリシュナという名の女神さまがロンドさんを助けた。自身の身体とロンドさんの身体を入れ替えて。
そして、ロンドさんは女神クリシュナさまの身体を得た。代償として、女神クリシュナさまはロンドさんの身代わりにあの『祠』へと捧げられた。
そこで、ロンドさんが再び口を開いた。
『なら、私がこの身体を女神さまに返却すれば、女神さまは目覚めるのではないですか』
「それは分かりませんが…」
…けれど、クリシュナさまが復活する可能性を否定することは、できない。
ただし、その時に失われるのは、この人のアイデンティティではないだろうか。
『可能性があるだけでも、やる価値はありますね』
ロンドさんは、祠に向かって歩き出した。
…その足取りが、断頭台へと向かっているように感じられた。
「ちょっと待ってくださいよ、ロンドさん…」
ワタシは、そこでロンドさんを引き止めてしまった。
それが、卑怯で残酷な言葉であると、知りながら。
『いえ、これ以上は待っていられないでしょう』
「それ、は…」
あの黒い大蛇は、今も力を溜めている。
この世界を崩壊させるための、黒い力を。
でも、だからといって、ダレカを犠牲にすることは、正しいのか?
いや、その犠牲は無駄ではないのかもしれない。世界だって、それで救われるのかもしれない。
…けど、正義かどうかは、ワタシなんかには、分からない。
ああ、慎吾たちも、さっきはこういう気持ちだったんだね。『ワタシが犠牲になる』なんて言い出したから。それがどれだけ軽率で軽薄な台詞だったか、本当の意味でワタシは分かっていなかった。
『花子さんたちは、何も気にする必要はありません。私はもう、飽きるまで生きました。そもそも、返却時間はとっくに過ぎているのですよ、この身体の』
「ロンド、さん…」
『もう少ししたら、ロンドではなくクリシュナに戻っているのでしょうね』
ロンドさんはそこで薄く笑っていた。その微笑みからは、一切の虚偽が感じられない。
この人は、ここで終焉を迎えることに何の躊躇いも、ない。
…生きることに飽きたというのは、本心なのだろうか。
それだけの長い時を生きていれば、誰でも倦んでしまうのだろうか。
だとすれば、ワタシは、この人にどんな言葉をかければいい…?
「…半端者のワタシにかけられる言葉なんか、あるわけない、よね」
聞こえない声で、呟いた。
でも、このまま黙って行かせることが正しいかどうかも、分からない。
…ああ、もう考えるのは止めだ。
間違っていた場合は、後で死ぬほど『ごめんなさい』と反省をすればいい!
「ロンドさん…」
『だから、これ以上は…』
言いかけたロンドさんだったけれど、ワタシはそこで彼女に抱き着いた。お互いに埃っぽかったけれど、お互い様なのだから気にする必要はない。今は、ただ伝えるだけだ。
「ロンドさん…また今度、一緒に釣りをしませんか?」
この人には、出会い頭に殺されかけたこともあった。
あの時、この人はワタシの命になど、微塵も関心はなかった。
…それでも、一緒に過ごした時間はあった。
そして、その時間はワタシにとっても貴重な時間になった。
だって、釣りなんて初めてやったからね。意外と楽しかったんだよ。
『釣り、ですか…そうですね。花子さんにも、もう少し釣りのコツを教えてあげないといけませんからね』
「…ロンドさんだけボウズだった事実を忘却していませんか?」
初心者のワタシですら釣れましたし、『花子』に至っては川の主まで釣ってましたよ?
というか意外と釣りに向いてない性格をしてるんだよね、この人…。
『では、今度こそ行ってきますね』
「…ロンドさん」
『そんな顔をしないでください。預かっていた体を返してくるだけですよ』
「でも…」
『私は、もう十二分に生きたんですよ』
「だけど、ロンドさんだって…」
消えたくは、ないはずだ。
…けれど、分かっていた。
ここでワタシが何を言おうが、それはロンドさんを困らせるだけの枷にしかならない、と。
この人は、もう既に覚悟をしている。
ロンドさんは、言った。振り向かず、表情を見せないままに。
『存外、しんどいものなんですよ…知っている顔が、私よりも先にこの世界から退場していくというのは』
「…………」
もう、何も言えなくなってしまった。
やっぱり、それは辛いんだね…。
自分が知っている人たちがいなくなっても、自分だけは変わらずに居残るということが。
その喪失について、ワタシは想像することしかできない。
でも、その痛みについての心当たりは、嫌というほどあった。
…ワタシも、おばあちゃんやお母さんたちよりも先に、あの世界からいなくなってしまったから。
『ああ、そうだ。最後に一つ謝っておきましょうか…最初に出会った時、殺しかけてしまってすみませんでした』
「もう気にしていませんよ」
『私が言うのもなんですが、少しは気にした方がいいですよ…』
そう言って、小さく微笑んでからロンドさんは歩き出した。あの『祠』に向かって。
その背中を見送ることしか、ワタシにはできなかった。
…それが、ロンドさんを見殺しにする行為だと分かっていながら。
『さて、お久しぶりですね、本物のクリシュナさま…いえ、私としては面識がないようなものだから、ほぼ初めまして、なのですけれど』
クリシュナさまの魂が眠る祠に向かい、ロンドさんは軽口を言っていた。
多分、それが最期の言葉になっても、あの人は微塵も後悔しない。それだけ自然に、悠然と歩いていた。
「ロンドさ…」
未練がましくワタシはその名を呼ぼうとしたが、背後から、黒い衝動が冷たく這い寄ってきた…。
その衝動は、これまでよりも仄暗い。
けど、暗いからこそ、浮き彫りになっていた。その根底にある、殺意の大過が。
…そして、黒い異質は、そこで弾けた。
「…………!?」
可視化された黒い衝撃が、覆い被さるように襲ってきた。
ワタシのようなちっぽけな存在は、簡単に吹き飛ばされ…た、のだけれど。
「これだけ…?」
あの『黒いヒトビト』が本気でこの世界を崩壊させようとすれば、衝撃はこの程度では済まない。少なくとも、王都そのものが灰塵と化す。それなのに、こうして転倒しただけだ。
「ロンド…さん?」
立ち上がろうとしたワタシの視界に、タタン・ロンドさんの姿があった。
え、いや…これ、ロンドさん?
やや俯き加減だったのでその表情は見えなかった。それでも、分かった。ロンドさんの雰囲気が、大きく変化していることが…いや、これはもはや変化などという言葉では語れない。
…ロンドさんは、別の存在へと化けていた。
『大変なことが、起きているようですね』
ロンドさんのイントネーションは、ロンドさんでありロンドさんではなかった。『声』の質は同じだったのに、同一人物とは思えない。
…ああ、この人は本当に、女神さまに戻ってしまったんだ。
「ロンドさん…」
未練がましく、ワタシはそう呼んだ。
その名を呼ぶと、生温い寂寥感がワタシを包む。
…あの人が、完全にいなくなってしまったように感じられて。
「縁が…」
聞こえない声で、呟いた。
そう、縁だ。元の世界で、ワタシが殆んど得られなかったものだ。
だから、ワタシはロンドさんとも普通に話ができていたんだろうね。
…その縁が、途切れてしまうことが怖かったから。
『まさか、あの『呪詛の獣』が復活しているとは思いませんでした…起き抜けにしては、あまりに過酷な状況ではないでしょうか』
その『声』も台詞も、タタン・ロンドさんではなかった。
容姿は、全く同じだったというのに。
『本当に、クリシュナさま…なのですか?』
慎重に、恐る恐る、問いかけていたのは女神アルテナさまだ。
深く緊張したその声は、ワタシですら初めて聞いたものだった。
『もしかして、あなたは…アルテナですか?』
クリシュナさまは、そこでアルテナさまの姿を確認した。小さくなったアルテナさまに驚きを隠せないようだったけれど、ここに、当代の女神さまと先代の女神さまが揃ったことになる。
…希望は、つながった。首の皮一枚ほどに、儚いけれど。
『どうしてアルテナがここに…というか、あなたはどうして縮んでいるのですか?あと、ここはどこなの、でしょうか?』
覚醒したばかりのクリシュナさまは記憶が混乱しているようで、ここが異世界ソプラノだということにすら気付いていないようだった。
『ええと、何から説明すればいいのか分かりませんが…』
アルテナさまも困惑していたけれど、その困惑すら、状況は許してくれない。
…また、黒い衝動がたまっていた。
その膨張が、こちらにも、漏れてくる。
あの衝動が弾ければ、次こそは、この世界が崩壊するかもしれない。
いつまで防げるか、その保証はないのだから。
『兎に角、今はあの黒い大蛇を抑えることに集中しましょう…ワタクシも、最後の力を振り絞りますので!』
アルテナさまは叫び、両手をかざした。
…この女神さまも、覚悟を決めたんだ。
『アルテナと私の二人で、どこまで抑え込めるでしょうか…あの黒い大蛇は、この異世界を崩壊させるモノですよね』
覚醒したばかりで状況が呑み込めていないはずのクリシュナさまではあるが、アルテナさまと同じようにかざした両手が光り始める。そして、光は黒い大蛇を抑えていた。
…けっこう、効いている?
と、そこで気が付いた。
「あ、そうか…女神さまが二人がかりだもんね」
『いえ、それだけではありませんね…あの『呪詛の獣』が、随分と弱っている気がしますよ』
クリシュナさまが、ワタシにそう言った。
ワタシは、オウム返しにぎこちなく問い返す。
「弱っている…んですか?」
『ええ、私が知っている状態よりも、随分と弱っています…それでも、気を抜けるわけではありませんけれど』
クリシュナさまは、力を放出して黒い大蛇を抑えている。確かに余裕があるようには見えないが、それでも拮抗していることはワタシにも分かった。
『こうして、クリシュナさまと一緒に戦うのも久しぶりですね…』
『そうですね、アルテナ…ひどく懐かしい気分ですけれど』
女神さまが二人がかりで、黒い大蛇の動きを封じていた。
黒い大蛇もその巨躯をうねらせているが、それだけだ。大暴れはできな…いや、黒い大蛇から放たれる黒い呪詛が、さらに屈折し始める。
…嫌な予感が、さらに膨張する。
「アルテナさま…」
『…分かっています、花子さん』
手短に言ったアルテナさまはそこでもう一度、足を踏ん張る。頭の上で身構えるのでワタシの頭皮に若干のダメージはあったけれど、とりあえず何も言わなかった。そして、アルテナさまがクリシュナさまに合図を送る。
『クリシュナさま、『アレ』を使います!』
『ええ、よろしくてよ』
…女神さまズの間で、どこかで聞いたことのありそうな何らかの合意がなされた。
けれど、その言葉通り、女神さまたちは連携した。
アルテナさまから放たれた光がクリシュナさまに注がれ、その光が増幅される。女神さまたちの波動が、さらに肥大化する。これが、女神さまたちの本当の力なのだろうか。
ただ、その渦中でクリシュナさまが口を開いた。
『ところでアルテナ…私、あなたに何か貸していたような気がするのですけれど』
『い、今はそれどころではありませんから集中しましょうっ!』
…必至だな、アルテナさま。
借金のことを思い出されそうになっていたアルテナさまは、冷や汗を飛ばしながら誤魔化していた。まあ、確かに今はそれどころではない。
この世界が滅ぶかどうかの、本当の瀬戸際だ。
『あああああぁ!』
『うああああぁ!』
アルテナさまもクリシュナさまも、女神の沽券やら何やらを全て放り出して叫ぶ。女神さまたちの身体全体が、光り輝く。その光に気圧されるように、黒い大蛇から薄黒い煙が立ち上っていく。
「あれ、煙じゃなくて魂だ…」
浄化された『黒いヒトビト』の魂が、空に還っていく。その光景は少しだけ寂しげだったけれど、きっと、間違ってはいない。呪詛に囚われていた魂たちが、解放されたのだから。
…しかし、暗雲の全ては晴れなかった。
『おわれるか…オわれる、ものか』
黒く、明瞭な『声』だった。
それまでの『黒いヒトビト』が発していた朧げな『声』ではない。
確固とした声が、そこにあった。
『ゆるせない…ゆるせない、ユルせない』
その『声』は、うねる。うねり、滲み、反響する。
さらには屈折と凝縮を繰り返し、一つの『個』としてのアイデンティティを、そこで獲得していた。
…黒い大蛇は、巨大な人の姿へと変貌した。
『わたしのむすめをうばったこのセカイが…そんざいしていることがユルせない!』
黒い叫びは、この異世界の隅々にまで伝播した。
けれど、その叫びを満たしていたのは、悲哀だった。




