142 『その台詞は読めませんでしたね…この花子の目をもってしても』
『でしたら、あの祠には、生け贄の先客がいらっしゃるのではないですか?』
素っ頓狂な台詞を真顔で口にしたのは、女神であるはずのアルテナさまだ。
…あの祠に、生け贄の先客?
いや、本当にどうしてそんなことを口走ったの?
先ほど、アルテナさまは『魔女』ドロシーさんにこう問いかけた。
『その生け贄というのはあちらの祠に捧げられるのですよね?』と。
そして、ドロシーさんは『…ええ、そうですね』と肯定の頷きを返していた。
その返答を聞いたアルテナさまが口にした台詞が『あの祠には先客がいる』という奇天烈なものだった。
「…そもそも生け贄の先客って、何?」
これまでにも、アルテナさまの突拍子もない言動に頭を抱えることは少なくはなかったけれど、その中でもトップクラスに意味不明だった。
「…………」
ほら、『魔女』のドロシーさんでさえ言葉に詰まっちゃったじゃないか。
「アルテナさまが変なことを言い出すからですよ…」
『ですが、花子さん…いますよ、今も、あの祠には』
「え…………?」
ワタシは、そこであの祠に視線を向けた。観音開きの扉を開いたり閉じたりを、『祠』勝手には繰り返していた。
…さながら生き物の、ように。
そういえば、さっきからそうだった。あの祠は、独りでに開閉を繰り返していたんだ。誰も、手を触れていないというのに。
「本当に、あの祠の中にダレカがいるんですか、アルテナさま…」
『先ほどからずっと気配がありますよ』
「でも、一体、誰が、生け贄の先客なんかに…」
ワタシの脳が、理解を拒否する。
だって聞いたことがないよ、生け贄の先客なんて言葉は…。
「いや、落ち着け…」
聞こえない声で呟いてから、呼気を整えた。深く息を吸うと、肺の中の空気が循環する。先刻からの大立ち回りで、周囲の空気が埃っぽくなっていたのが残念だったけれど。それでも、新鮮な血液がワタシの脳を巡る。視界が、鮮明になる。
「…生け贄といえば、ドロシーさんですよね」
ワタシはそこで『魔女』ドロシーさんに声をかけた。そう、過去にその『生け贄』を捧げたのは、『魔女』であるこの人だ。
「あの祠の中に、既に生け贄がいるというのは本当なんですか」
「どうやら…そのようですね」
祠の方を眺めながら、『魔女』は呟く。おそらく、この人にとっても想定外の出来事だったんだ。
「どうして『魔女』のドロシーさんがそんなに曖昧な言い方をするんですか」
「だって、私にも分からないんですよ…今、あの『祠』で何が起こっているのか」
「『魔女』のあなたが分からないって…」
そこで、ふと脳裏に浮かんだ疑問を、ドロシーさんに投げかけた。
「ドロシーさん…『生け贄』の儀式って、今までに何度、行ったんですか?」
「…一度だけ、ですね」
「それは、間違いないんですね」
ワタシがそう尋ねると、『魔女』は頷いた。
…そういうこと、か。
そこで、『あの子』が問いかけてきた。そういえば、この子もいてくれたんだったね。そのことを思い出し、胸が少し軽くなる。悪魔だろうが何だろうが、やっぱり、この子はワタシの相棒だ。
『何か分かったんですかねぇ、先生』
「うん、分かったよ、リリスちゃん」
『そうですか…まあ、先生がそういう顔をしていましたからねぇ』
リリスちゃんとのいつも通りのやり取りが、ワタシの背中を押す。
だから、ワタシは次の言葉を口にできた。
「アルテナさまも、気付いているんじゃないですか…あの『祠』の中にいるのが、女神クリシュナさまだ、と」
ワタシの声は、静寂を引き起こした。誰も、即座には反応しなかった。
そんな沈黙の中、最初に言葉を発したのは繭ちゃんだった。
「クリシュナさまって…アルテナさまの前の女神さまなんだよね?」
「そうだよ」
「でも、クリシュナさまって行方不明になっちゃったんだよね?」
「でもね、繭ちゃん…クリシュナさまの『身体』は、今もそこにいるんだ」
ワタシは、タタン・ロンドさんを指差した。不老不死と呼ばれている、彼女だ。
ロンドさんは、やや俯きながら呟く。
「大昔、生け贄にされそうになっていた私が、次に目を覚ました時にはこの女神さまの身体と入れ替わっていた…そして、私のこの身体が女神さまのものだったということは」
ロンドさんは、過去に自分の身に起こったことを追想する。
「私の身体には、女神さまが入っていたことになる…そして、あの祠が生け贄を捧げるためのものだったというのなら」
指折り数えるように、ロンドさんは一つ一つ確認をしていた。
そして、結論を口にする。それは、遠い時を超えた答え合わせだった。
「生け贄として、あの『祠』に捧げられたのは…女神クリシュナだ」
場の全員が、祠に視線を奪われていた。
…ただ、答え合わせが示されたからといって、それが正解とは、限らない。
「アルテナさま…クリシュナさまの意識は、まだあの祠の中に存在していると思いますか?」
恐る恐る、アルテナさまに問いかけた。
その答えを聞くのが、怖かったけれど。
『ワタクシにも、それは分かりません…』
アルテナさまは、ワタシの頭の上で言った。
けど、そうか、アルテナさまにも分からないのか。
「だったら、確かめた方が早そうですね」
『確かめる、とは…?』
おそらく、頭の上で小首を傾げているアルテナさまにワタシは言った。
「勿論、『念話』で問いかけるんですよ」
『なるほど…さすが花子さんですね』
「他人事みたいに言わないでくださいよ、アルテナさまも一緒に『念話』で話してもらいますからね」
『え、ワタクシも…ですか?』
「アルテナさまの先代なんですからアルテナさまが話さないでどうするんですか…別に会話ができない理由なんてありませんよね?」
『ワタクシ、あの御方からお金を借りたままなのですけれど…』
「その台詞は読めませんでしたね…この花子の目をもってしても」
あー、もうなんでこんなぐだぐだな空気になるかな、この緊迫した場面でさあ!
…でも、ワタシたちらしいといえば、らしいのかもしれないね。
「と・に・か・く…『念話』を発動しますからね!」
もう四の五のと言ってはいられない。ワタシは、『念話』で語りかけた。あの『祠』に向かって。これまで数え切れないほど『念話』を発動させてきたけれど、無機物に向かって話しかけるのは初めてだった。いや、祠の中に女神クリシュナさまがいれば、何の問題もない。
『クリシュナさま…女神クリシュナさま』
緊張で呼吸が乱れながら、ワタシは語りかけた。
アルテナさまの前任である、女神クリシュナさまに。
…祠は、今も独りでに開閉を繰り返していた。
『…………』
しかし、祠からの、クリシュナさまからの返答は皆無だった。
無視されたようで少し辛くなったワタシは、アルテナさまに問いかけた。
「本当に、祠の中にいるんですよね、クリシュナさま…」
『クリシュナさまかどうかは、ワタクシにも分かりませんが…』
「でも、ドロシーさんが生け贄の儀式を行ったのは一度だけなんですよ…だとすれば、あの祠に捧げられたのは女神クリシュナさまのはずなんです」
そして、女神ならばその意識が残っていても、不思議ではない。
…と、思ったのだけれど、反応は微塵もなかった。
『クリシュナさま…聞こえているのなら、お応えください』
再度の『念話』にも返答はなかっ…。
…微かな振動が、ワタシの胸を打った。
『きこ…………え』
…『声』が聞こえてきた。
あの、『祠』から。
「クリシュナ…さま?」
驚いたワタシは、思わず『念話』を解いてしまった。
けど、即座に『念話』を再開する。ワタシの血が、熱くなるのを感じながら。
…だって、間違いなく、あの祠にはダレカがいる。
それが女神クリシュナさまである可能性は、決して低くない。
『クリシュナさま…聞こえていますか、クリシュナさま』
『きこえ…て』
…聞こえている、と伝えたいのだろうか。
ワタシは、さらに語りかけた。精神を研ぎ澄まして。
ここで、クリシュナさまの『声』を聞き逃したりは、絶対にできない。
『クリシュナさま…お願いです、応えてください』
『きこ…え』
…駄目、か?
女神クリシュナさまは、同じ言葉を薄い声でリピートするだけだ。こちらの言葉が通じているとは、思えなかった。
どうすれば、クリシュナさまにワタシの言葉が届く?何を言えば、反応してもらえる?
「…………!?」
そこで、悪寒がワタシの背筋を這う。
…なんだ、この感覚は?
いや、疑問に思うまでもない。ワタシは、その悪寒の源泉を手繰る。
そこにいたのは、黒い大蛇と化した『黒いヒトビト』の集合体だ。
「ほんの少しずつ、『黒いヒトビト』同士で浄化をしてくれているけれど…」
それも、焼け石に水でしかない。彼ら、彼女らが受けた積年の呪詛が、僅かな水程度でどうこうできるはずはなかった。
そして、彼ら、彼女らはどす黒い殺意を増幅させている。
…それらは、今にも解き放たれようとしていた。
『お願いです、クリシュナさま…そこにいるのなら応えてください!』
ワタシは、懸命に『声』を届ける。
それでも、女神さまからの返答はなかった。
…なら、もうこれしかない。
女神クリシュナさまが、女神アルテナさまの先代であることに賭けるだけだ。
『クリシュナさま…アルテナさまが借りていたお金を返しに来ましたよ!!!』
懸命に、そして滑稽に叫んだ。
もはや、形振りなんてかまわない。
…だって、こんなところで死んでたまるかぁ!
『クーリーシューナーさーまー!アルテナさまが、借りていたお金を耳を揃えて返してくれますよー!!!』
『さっきから何を言っているのですか、花子さん!?』
頭の上でアルテナさまが大慌てだったけれど、こっちは打てる手は全て打つつもりなのだ。そのためなら、アルテナさまがお尻の毛まで毟られたって知ったことではない(元々アルテナさまの自業自得だしね)。
『ある…て、な?』
…反応に、変化があった。
クリシュナさまが、ワタシの言葉を認識してくれたんだ。
『そうです、クリシュナさまからお金を借りパクしたアルテナさまがここにいますよ!』
『先ほどから風評被害がひどくないですか、花子さん!?』
「言うほど風評被害ではありませんよね…?」
アルテナさまの言い方だとワタシの方が悪いみたいだけど、悪いのは百パーセントでアルテナさまですからね。
『アル…テナ』
「やっぱり、反応がある」
それは、祠の中にいるのがクリシュナさまだという証明だ。
…けど、まだ意識の覚醒には至っていない。
なら、後はどうすれば…。
『クリシュナさまー!今ならアルテナさまが利子付きでお金を返してくれるそうですよー!』
『何百年越しの利子だと思っているのですかぁ!?』
「それはその時に返さないアルテナさまが悪いと思うのです…がぁ!?」
そこで、黒い衝撃が周囲で爆ぜた。
何度目かの転倒を、ワタシはした。
何が起こった?などと考えるまでもない。
あの『黒いヒトビト』が、動いたんだ。たったそれだけで、甚大な被害が出る。
…当然か。あのヒトビトは、この異世界そのものを崩壊させられるのだから。
「でも…………?」
確かに、衝撃はあった。
けれど、ワタシはすぐに立ちあがった。先ほどまでの衝撃よりも、粘度が低く感じられたんだ。
…あんまり、痛くなかった?
「何が…?」
…光の柱が、水平に伸びていた。
あの、『祠』から。
「クリシュナ…さま?」
祠から伸びた光が、『黒いヒトビト』が変化した黒い大蛇に照射されていたんだ。そのお陰なのか、黒い大蛇はのたうつように身を捩っていた。
…黒い大蛇の動きを、抑えてくれている?
「こんなこと、女神さまにしかできない…よね?」
目の前の奇跡に、困惑を隠せなかった。
けれど、これこそワタシたちが望んだ奇跡じゃないか。
『クリシュナさま…クリシュナさまですよね!?』
ワタシは『念話』で先代女神さまに語りかける。
『わたし…は、くりしゅ、な?』
初めて、ワタシの『声』にクリシュナさまが応じてくれた。とはいえ、まだ自分のことすら分かっていない様子だ。でも、反応してくれたんだ、女神クリシュナさまが。
ワタシは、なおも『祠』に向けて『念話』で語りかける。
『そうです、あなたは、女神クリシュナさまです…覚えては、いませんか?』
『わたしが、めがみ、くりしゅな、おぼえ…ている?』
クリシュナさまはワタシの声に応じてくれているが、ワタシの言葉をオウム返しに繰り返しているだけでもあった。
…なんとか、もう少し深いコミュニケーションが取れないものか。
『クリシュナさま…ワタクシです、アルテナです』
そこで、アルテナさまが口を開いた。
ワタシを通して、『念話』でクリシュナさまに語りかける。
『ある…てな?』
『そうです…あなたと一緒に、カエルのお尻に爆竹を入れて遊んでいたアルテナです』
「…女神さまが二人もいて何をしてるんですか」
というか誰だよ、こんな二人を女神にしたのは…。
『あるて、な…わたし、はくりしゅ、な』
けど、反応はあった。クリシュナさまの声は、先ほどより明瞭に聞こえてくる。
どうやら、アルテナさまの『声』が届いたようだ。
しかし、アルテナさまがそれを否定した。
『クリシュナさまの意識は戻りつつあるようですけれど…それでも、肉体が存在しない現在ではこれが限界ではないでしょうか』
「限界…」
…そう、か。
今の女神クリシュナさまは、あの『祠』に封印されている。
そこで、再び黒い衝撃が襲ってきた。
「え…どうし、て?」
あの『黒いヒトビト』は、クリシュナさまが抑えてくれていたのではなかったか…?
あ、そのクリシュナさまの意識が中途半端に覚醒しているから…か?
それを裏付けるように、今現在、『祠』からは先ほどの光が消えていた。
…だとすれば、このままでは、『黒いヒトビト』を抑えられない?
その危惧が当たったように、黒い衝動が徐々に強くなる。
次に、その黒い衝動が爆発した時、この世界は、終わるのかもしれない。
「クリシュナさま…」
そこで祠に視線を向けたが、クリシュナさまの覚醒は果たされていない。
…このまま、世界が、終わる?
「みんなが、頑張ってくれたのに…」
みんなで、協力してここまできたのに。
あの『黒いヒトビト』でさえも、一部とはいえワタシたちを助けてくれている。
そして、先代女神のクリシュナさまとも、コンタクトが取れた。
…ただ、それでもまだ、クリシュナさまは意識が戻らない。
「クリシュナさまが、意識を取り戻してくれれば…」
『その女神さまが目覚めれば、いいのですね』
そこで、声がした。
その声は、確固とした意志で覆われていた。
「あなた、は…」
『だったら、ここは私の出番なのでしょうね』
そこに立っていたのは、『不死者』であるカノジョだった。




