140 『ワタシ以外の誰かにできたとしても、ワタシが逃げていい理由にはならないんですよ!』
恐怖というものは、安全弁でもある。
人は、未知のものを恐れた。同時に、既知のものも恐れた。
恐怖を感じれば人は身を竦ませ、思考も判断も鈍る。恐怖に絡めとられれば、人は、動かなければならない時に動けなくなる。
けれど、恐怖を悪だと判断するのも早計だ。恐れとは、『警戒せよ』という本能からのシグナルでもある。最悪の時に人を動かすのも、恐怖なんだ。
だからこそ、恐怖というのは人間にとっての安全弁でもある。
ただ、非常時においてそれが正常に機能するかと問われれば人によるとしか言えない。安全弁が正常に機能しない間抜けも、稀にではあるが存在している。
…まあ、その間抜けとは何を隠そうワタシのことなんだけどね。
「どうした、の?」
できるだけゆっくりと、問いかけた。
ワタシの足首を掴む、『彼女』に。
本来なら、ワタシはもっと恐怖を感じなければならなかった。
それこそ、今が非常時だ。
『…………』
…『彼女』は、何も言わなかった。
当然だ。
だって、ワタシの足首を掴んでいたのは、『黒いヒトビト』だったから。
いや、群体である『黒いヒトビト』から零れ落ちた、一滴の朝露のような存在だったから。
だから、ワタシの恐怖心は麻痺していた。欠片とはいえ、『黒いヒトビト』に足を掴まれていても微塵も怖くなかった。
「…『黒いヒトビト』って、本来は儚いんだ」
彼ら、彼女らはこの異世界を呑み込むほど巨大だ。
けれど、一人一人はとてもか弱く、か細い。
ただ、彼女ら、彼らが抱える呪詛は、とても根深い。
それほどの仕打ちを、彼ら、彼女らはこの世界から受けた。
そして、世界を呪いながら、命を落とした。
…そんな命が、儚くないはずはない。
「でも、ワタシも彼女たちの同類だ」
彼女ら、彼らと同じように、根の深い未練を抱えたまま命を落とした。世界の全てを呪うことも、厭わなかった。
ただ、全ての『黒いヒトビト』が憎しみに囚われ続けているわけではないと、ワタシは知った。
一部のヒトビトは、ワタシの『声』に反応をして、応えてくれた。
それどころか、ワタシと友達になってくれるとさえ、言ってくれた。
「あなたは、ベイト神父の妹さんですよね?」
ワタシは、足首を掴む『黒いヒト』に問いかけた。『彼女』は、既に人としての形状を失ってしまっているけれど、おそらく、失くしてはいない。人としての、心は。
先ほど、それを示してくれた。『彼女』は、兄であるベイト神父を身を挺して庇っていた。
『…………』
ワタシの足首を掴む『彼女』の手は弱々しく、縋るようだった。
ふと、思い出していた。
…ワタシが弱々しく伸ばした手を、おばあちゃんが握り返してくれたあの日のことを。
やっぱり、『彼女』たちとワタシは同類だ。
そのことに安堵をしている自分がいた。
『大丈夫ですよ、ゆっくりお話ししましょう』
ワタシは、『念話』で語りかけた。
きっと、『彼女』はワタシに伝えたいことがある。弱々しくも伸ばしたその手が、既に『答え』だった。
『…あ、ぅあ』
弱々しい、『声』が聞こえた。
消え入りそうに小さかったけれど、それは『声』だった。
…『彼女』はまだ、生きているんだ。
呪詛に蝕まれても、その心は死んでいない。
『大丈夫…一言一句、聞き逃さないからね』
屈み込んで、そっと『彼女』に手で触れた。思ったほど柔らかくなかったけれど、そのほんの少しの硬さが、ワタシに命を感じさせてくれた。
「花子…」
「大丈夫だよ、慎吾」
ワタシを心配して慎吾が声をかけてくれたけど、本当に何ともなかった。『彼女』がワタシの心や体を害することはなかった。
それはそうだよね。『彼女』たちは、ただの被害者だ。
そして多分、この世界の崩壊なんて、望んではいない。
ただ、悲しかったんだ。この世界の理不尽に巻き込まれたことが。
世界が、『彼女』たちを助けてくれなかったことが。
「でも、きっと一人ではそこから抜け出せないんだ」
自分でもどうすればいいのか、『彼女』たちは分からなくなってしまった。どこにも出口がないから、周囲の『黒いヒトビト』と同じように世界を憎むことしかできなかった。
『だから、お話しをしましょうよ…こう見えてもワタシは、意外とお喋りなんです』
『どの角度からどう見ても花ちゃんはお喋りにしか見えないけどね』
『ちょっと繭ちゃんさん!?』
繭ちゃんがくっ付いてきて、ワタシと『彼女』の『念話』に割り込んできた。そして、さらに続ける。軽快な語り口調で、楽しそうに。
『だって、前にも道を聞かれただけのおばさまと三十分以上も無駄にお喋りしてたじゃない。しかも、最後には『にんにく増産運動』に参加してくださいとか訳の分からないことまで言い出してたし…』
『…だって、それは』
『ボクいつも言ってるよね?自分の趣味に人を巻き込んじゃいけませんって』
『確かに、自分の趣味に人を巻き込むのはよくないでござるな』
そこで月ヶ瀬雪花さんも『念話』に参加してきたが、繭ちゃんの矛先が今度は雪花さんに向けられた。
『雪花お姉ちゃんこそ、そこら辺の人にいきなりBL本の布教とか始めるの恥ずかしいから止めて欲しいんだけど…』
『それは腐女子の嗜みと言いますか…』
『嗜みじゃなくて慎みが必要だと思うよ、雪花お姉ちゃんには』
普段通りの、無添加な会話だった。いつも、ワタシたちが家でやっているようなとりとめのない会話だった。けれど、やけに懐かしく感じられた。それだけ、ワタシたちから『日常』が遠ざかっていたということだろうか。
だから、ワタシたちはみんな自然と笑っていた。
『…………あは』
そこで、聞こえた。
ワタシたち以外のヒトの、笑い声も。
その声は素朴で、けれど確かにそこにある声だった。
「笑って、くれた…よね?」
ワタシの呟きに、繭ちゃんたちも頷いた。ワタシだけの聞き間違いではなかった。
確かに『彼女』も笑っていた。その笑い声は、ワタシの足元から聞こえていたんだ。
…それは、『彼女』の声だった。
『ごめんなさいね、騒がしくしてしまって…』
ワタシは『念話』で足元の『彼女』に語りかける。ひっそりと、泣きそうになりながら。だって、嬉しかったんだ。『黒いヒトビト』である『彼女』に、笑ってもらえたことが。
…笑うって、やっぱり素敵なことだよね。
笑えるだけで、笑ってもらえるだけで、そこには希望が芽吹くんだ。
『あ はは』
『は はは』
…二つも、聞こえた。
聞こえていた笑い声は、ベイト神父の妹さんのものだけだったはずだ。
それが、もう一つ、増えていた。
「他にも、笑ってくれるヒトがいた…?」
そう思う間にも、声は増えていた。
『はは 』
『あ はは』
『ふふ 』
それらの声は、頭上からも聞こえてくる。声が増えるたびに、少しずつ空が明るくなっていった。明かりが、一つ一つ、つながっていく。これまで空を覆っていた黒が、薄れていく。上空にあった黒い重圧が、ほんの少しずつ剥がれていく。
「みんな、笑ってる…」
それは、ワタシたちと友達になりたいと言ってくれた、あの『声』だった。それらの声が膨れ上がるほど、空は明るくなっていき、軽くなっていく。
…このままこれが続けば、『黒いヒトビト』が崩壊の力を失っていくのでは?
それが、最も円満な解決となるはずだ。
そして、その実感もあった。上空から感じられる重圧が、さらに減少していった。
「…………!?」
淡い期待を抱いた瞬間に、空が揺れた。
振動は、上空からこちらに向かって落ちてくる。ワタシたちの頭を押さえつけるように。
巨大な壁がそのまま落ちてきたような感覚だった。
「もう、『みんなで仲良くなりました』ってことでエンディングに入っていいんじゃないのかな…」
だって、こんなにもいるじゃないか。『黒いヒトビト』の中にも、平穏を求めているヒトたちが。
…それなのに、まだ、終わらないの?
「そもそもみんな、平穏を求めて生きていたはずでしょ…」
誰だってそうなんだよ。誰も、不穏なんて求めていない。人が欲しがるものなんて、大体は同じだ。家族に危害なんて加えられたくないし、自分だって危険なことはしたくない。たとえ、それがテンプレートな毎日だったとしても、そこに家族がいてくれたら、それだけで心は満たされる。幸せの基本形って、みんなそんなに変わらないよね?
「…その『基本形』が理不尽に奪われたから、『黒いヒトビト』になっちゃったんだろうけれど」
そして、それでも、世界は同じように回り続ける。見て見ぬふりで、素知らぬ顔をして。
だから、許せないんだよね。その気持ちは、ワタシには痛いほど理解できる。ワタシだって、世界に置き去りにされたんだ。
『「でも、だからこそ…ここで、終わりにしましょうよ」』
空に向かって、『念話』を飛ばした。
けど、それを拒否するように、再びの衝撃が降って来る。
それも、ずっとずっと重厚な衝撃が。
…このまま、ワタシたちは潰される。
そう思ったけれど、そうはならなかった。辛うじての尻餅で済んでいた。
「ええと、セーフ…なのかな?」
しかし、セーフかアウトかの判断は、まだ早かった。
お尻の誇りをパンパンと叩きつつ、尻餅の体勢から立ち上がる。
ワタシの目の前に、大蛇が浮かんでいた。
いや、最初は大蛇だと認識できなかった。その大きさが、小山ほどもあったからだ。そして、その小山のように巨大な大蛇が、蠢いていた。全身が漆黒で、濁流のように体を揺らす。天災そのものの具現化だった。
「…『黒いヒトビト』?」
最初は、理解が追い付かなかった。どうして、空に濁流が流れているのか、と。
けど、違う。あの高密度の黒色は、『彼ら』や『彼女』らだ。あのヒトビトが、黒い大蛇へと姿を変えたんだ。
「最終形態ってところなのかな…」
大河のような黒蛇の姿だったけれど、ワタシには逆に、あのヒトビトの統率が取れていないように見えてしまった。
実際、サイズは小さくなっている。
確かに巨大ではあるけれど、上空にいた時は、もっとバカげたサイズだったはずだ。
「…『黒いヒトビト』が、少しずつ解放されているんだ」
呪いに囚われたヒトたちが、その呪いから解き放たれていた。だから、ここまでダウンサイジングしている。
とはいえ、それでもまだまだ巨大なのだけれど。
「いや…」
漆黒のはずの黒い大蛇が、ちらほらと小さく光っていた。黒い体躯の中、その光はやけに目立っている。そして、光は空に向かって昇って行く。
…これ、今も『黒いヒトビト』の魂が解放され続けてるんだ。
『あは はは』
『ふふ ふふ』
『ははは はは』
その証拠に、笑い声は今も聞こえていた。
そして、解放は、まだ終わっていない。それどころか、ずっと継続している。
「そうか…その辛さを一番、理解しているのが自分たちだもんね」
誰だって、苦しいのは嫌だ。悲しいのは嫌だ。
そして、ダレカが苦しんでいる姿だって、見たくはない。
「黒いヒトたちだって、『黒いヒトビト』を救いたいんだ」
だから、こうして同胞の解放を続けている。
少しずつでも、その呪詛を浄化しているんだ。
…このままなら、本当に全てのヒトビトの魂を解放できるかもしれない。
けど、ことがそうすんなりと進まないことも、ワタシは知っていた。
「なんだか、ワタシのことを見ていませんか…?」
宙に浮かぶ黒い大蛇に、瞳はない。黒いシルエットが、蛇の形をとっているだけだ。それでも、理解はできた。この黒い大蛇が、ワタシに視線を合わせている、と。
そして、ゆらりと動く。
動き出しは、緩慢だった。
尻尾の部位を軽く掲げたかと思うと、それを、ワタシ目がけて薙ぎ払った。
「………きゃあぁ!?」
何度目かの尻餅を、ワタシはついた。濁流のような突風が、ワタシたちを弾き飛ばす。
…けど、生きてる?
あれだけの質量が直撃すれば、濁流どころの騒ぎではない。一瞬で肉塊と化していた。
けれど、そうなってはいない。ワタシの頭は潰れていないし、胴体が泣き別れになってもいない。とりあえずは五体満足で、尻もち以外は無事だった。
「オオカミさま…」
ワタシたちが事なきを得たのは、純白の毛皮に覆われた『オオカミさま』が守ってくれたからだ。けど、力を使い果たし、先ほどまで横たわっていた。なのに、なけなしの力を振り絞ってワタシたちを守ってくれたんだ。
「シロちゃん繭ちゃんの神楽のお陰かな…」
二人が真剣に神楽を舞っていたから、オオカミさまが力を取り戻したのかもしれない。
しかし、力を取り戻したと思った矢先に、オオカミさまは四肢に力が入らず、倒れそうになる。それでも懸命に踏ん張っていたが、あの黒い大蛇と渡り合えるほどの力は残っていないと思われた。
「オオカミさま…」
呟きながら、周囲を見渡した。
…何か、ないのか。
このまま、あの大蛇による第二波が来れば、次は全滅だ。ほんの少しずつだけれど、『黒いヒトビト』の浄化も進んでいるというのに。
そこで、ワタシに声をかけてくる人がいた。
「まだ、諦めるつもりはないようだね」
「当たり前じゃないですか、ドロシーさん」
ワタシに声をかけてきたのは『魔女』であるドロシーさんだ。この異世界を滅ぼすという使命を背負わされた『魔女』は、この世界が滅ぶかどうかの瀬戸際においてさえ、行動を起こしてはいなかった。まあ、この人は使命は勝手に背負わされたものなので知ったことではないのかもしれないが。
でも、それならそれで、どうしてこんな場面でワタシに声をかけてきたのだろうか。いや、こんな場面だからこそ、かもしれないが。
「誰かに任せてさっさと退散したって、誰も花子さんを責めないとは思いますけれどね」
「ワタシ以外の誰かにできたとしても、ワタシが逃げていい理由にはならないんですよ!」
ワタシにできることなんて、それこそ一つもないかもしれない。
だとしても、ワタシだけが尻尾を巻いて逃げるわけにはいかない。
…ワタシたちは、みんなで一緒に帰るんだ。
「そうですか…」
そこで、ドロシーさんはため息交じりをつく。アンニュイに吐き出されたその吐息は、ひっそりと空に昇って行った。
そして、『魔女』は言った。
「では、花子さんが『生け贄』になりますか?」