139 『ところで、平凡なワタシよ…下を向いている暇はあるのかな』
成し遂げたい願望があるのなら、そこには、大なり小なりの代償が必要となる。
そして、その願望と自身の能力差の乖離が大きければ大きいほど、そこに費やさなければならない代償は大きくなる。目標の高さによっては、一生を費やしても届かないことさえ稀ではない。
しかし、その願望と代償は、明文化されている場合も少なくはない。
例えば、スポーツ選手になりたければひたすら練習、たくさんの睡眠、バランスのいい食事による体作りなどが挙げられる。
他にも、研究者になりたければ効率のいい勉強、その分野の情報の収集、さらには柔軟な発想が必要となるだろうか。
つまり、願望を叶えるための代償は、ある程度はその目的に紐づけられている、ということだ。
「…要するに、目的地に辿り着きたいのならそこに向かうための船を用意しろってだけの話だよね」
わざわざ大声で言うほどのことでもない。ただ、世の中はそこまでシンプルというわけでもない。
目標に到達するための代償が釣り合わないどころか、目標と代償が嚙み合わないというケースも、稀にではあるが存在している。具体例として、今のワタシの目の前に。
「ドロシーさん…この世界を崩壊させるために、生け贄は必要だったんですか?」
ワタシは、問いかけた。この終末世界の只中にありながら、冷淡な表情を浮かべる『魔女』に。
ドロシーさんはこの異世界ソプラノにおける『魔女』だ。その最終的な目的は、この世界の崩壊である。彼女自身が、それを望んでいようがいまいが。
「…………」
ドロシーさんは、無言だった。その身に纏う気配にも、色はない。無比なる透明で、ワタシのような若輩者には、彼女の思考は微塵も読めなかった。それでも、ワタシは語りかける。一人語り上等だよ。こちとら、ボッチとしては年季の入り方が違うんだ。
「ドロシーさんは、何百年も前に、ここにいるロンドさんを生け贄に捧げようとしたんですよね…この世界の崩壊を、引き起こすために」
遠い遠い遥かな昔、ドロシーさんは『魔女』としてタタン・ロンドという少女を生け贄の炉にくべた。
しかし、ロンドさんの命は救われた。アルテナさまの先代である女神クリシュナさまが、身を挺してロンドさんと自身の体を入れ替えたことで、だが。
その時にクリシュナさまの命は失われ、ロンドさんはずっと、入れ替わった女神さまの身体で生き続けなければならなくなった。自分の身体ではなく、赤の他人の姿で永劫とも思える時間を過ごしたロンドさんの胸中はいか程の…いや、今は生け贄の経緯などは置いておこうか。
その代わりに、語らなければならない言葉を口にした。
「でも、この世界の崩壊に、生け贄なんて必要『ない』はずですよね」
ワタシの言葉は風に乗り、終末世界に溶け込んでいく。それで、この世界の純度が上がるわけでも下がるわけでもなかったけれど。
「今、この世界は『黒いヒトビト』に破壊されそうになっています。世界を崩壊させるだけなら、あのヒトたちの力で十二分なはずですよね」
この世界を滅ぼしたいのなら、あの『黒いヒトビト』の力をそのまま振るえばいい。それだけで、異世界ソプラノは一たまりもなく一蹴される。確かに、『黒いヒトビト』はひどく虚ろな存在で、基本的には存在すら不安定だ。現在のように顕現して力を振るえるのは、何百年かに一度、その存在が活性化している時だけだ。
そして、今現在、『黒いヒトビト』は顕現している。その力も、存分に振るっている。
これのどこに、生け贄の必要性があったというのだ?
「世界の崩壊という目的に、生け贄という代償は必要だったんですか?」
暖簾に腕押しとは思ったけれど、それでもドロシーさんに問いかける。
『生け贄が…必要なかった?』
そこで反応したのは『魔女』ドロシーさんではなく『不死者』ロンドさんだ。そして、さらに追及してくる。ロンドさんこそが、その生け贄の当事者なのだから。
『花子さん…それは、本当なのか?』
「…『黒いヒトビト』は、今、生け贄なしでこの世界に顕現しているじゃないですか」
『なら、私は何のために…』
ロンドさんは、そこで言葉を失っていた。
無理もない。過去の世界で、ロンドさんは生け贄に捧げられた。この異世界を滅ぼすというお題目のために。そのせいで、先代の女神さまも犠牲になっている。少なくとも、二つの健全な未来がそこで失われた。
けれど、その犠牲がそもそも必要のないものだったと仮定すれば?
ロンドさんとしては、受け入れられるはずもない。そもそも、生け贄にされたこと自体、受け入れていないのだから。
「答えてくださいよ、ドロシーさん」
言葉を失っていたロンドさんに代わり、ワタシが問いかけた。
けど、ドロシーさんは言葉を発しなかった。無言のまま、あの『祠』を眺めていた。
祠は、まだ独りでに開閉を繰り返していた。何かを、訴えかけるように。
「そういえば、ロンドさんはあの『祠』を知っていたんですね」
ドロシーさんに相手にされなかったワタシは、生け贄の当事者であるロンドさんに言った。
『そうだよ…生け贄にされる直前、私はあの『祠』を見た』
間違いなくあの祠だった、とロンドさんはそう付け加えた。
忌々し気に、祠を眺めながら。
「生け贄にされる、直前に…」
『けど、そこで私は意識を失った…次に目を覚ました時には、誰とも知れないこの体で目を覚ました』
「…それが、女神クリシュナさまの体だったんですね」
ワタシとロンドさんで交互に穴を埋めていく。隙間のままで放置されていた、この異世界の裏側の物語を。
「魂を吸引するものなんですよ、あの『祠』は」
そこで、口を開いた。沈黙を続けていた『魔女』が。
けど、その言葉に納得がいかなかったワタシはドロシーさんに問いかける。
「魂を吸引…でも、あの『祠』は邪気を吸い取ってくれるものじゃなかったんですか」
実際、この王都の邪気を浄化してくれている。おそらく、この王都の治安に少なくはない貢献をしてきたはずだ。そして、『祠』を作ったのはドロシーさんだと彼女自身がそう言っていた。
そんなドロシーさんは、続ける。ひどく、億劫そうに。
「本来の用途は、別にあったんだよ」
「…本来の用途?」
あの『祠』に、そんなものがあったのか…?
「邪気を浄化する以外の用途が、あの『祠』にあるってことですか?」
ワタシは、『魔女』に問いかける。
ドロシーさんとは、今までに何度も会話をしてきた。この人のバックボーンも、垣間見た。それでも、この人の根っ子にあるものが、まだ見えていない。いや、そんな簡単に見えるものではないのか、人間の根幹なんて。
けど、それなら話してもらえるまで聞くだけだけどね。
「その用途とは、何なんですか…」
ワタシのしつこさに辟易としているようだったけれど、ドロシーさんは口を開いた。
しかし、ワタシたちはドロシーさんの言葉を聞けなかった。
『…………』
不意に、頭上が、濁る。
濁るというか、上空から昏い重圧が滲んでいた。
そして、終焉が、幕を上げる。いや、今はただの幕間だった。幕ならば、とっくに開いていたじゃないか。
「あ…………」
見上げた空から、『黒いヒトビト』の欠片が、再び落ちてくる。最初はただの黒点だったものが、徐々に大きくなってくる。あんなモノが落下すれば、王都は消し飛ぶ。絶望が、ワタシの網膜に焼き付く。
「いや、まだだよ…」
先刻は、あれを止めてくれた。伝説の『犬神さま』が、こちらにはいる。
ただ、その時から犬神さまには何の反応も見られない。繭ちゃんやシロちゃんが懸命に神さまのための神楽を舞い続けているけれど、犬神さまは大した反応を示してはくれなかった。
その間にも、『黒いヒトビト』の欠片は、落ちてくる。
「…お願いです、犬神さま」
ワタシの呟きに応えてくれたわけでは、ない。自分でもそれは断言はできた。
けど、動いてくれた。純白の毛皮のオオカミさまが。
「ボクたちのお祈りが、届いたのかな…」
小さく肩で息をしながら、繭ちゃんが空を見上げる。
そこには、空に駆け出す犬神さまの姿があった。空に架けられた梯子を駆けあがるように、犬神さまは一直線に『欠片』に向かっていく。この異世界を、守るために。
…ただ、それと同時に、轟音も聞こえていた。
空の彼方から落下してくる『欠片』は、最初は無音だった。だから、初めはディスプレイ越しの光景のように現実感がなかった。けれど、空を裂く『音』は徐々に大きくなっていた。だから、否応なしにワタシたちに気付かせる。あの『欠片』は、これまでで最大級の質量を持っている、と。
その『音』と、『犬神さま』が、空の彼方でぶつかる。
一瞬、見えるはずのない明滅が見えた。
そして、破裂音と、衝突の余波が地上にいるワタシたちにまで波及する。
余波という言葉の範疇を超えた暴風が落ちてきて、ワタシは尻餅をついた。
「なんの、これしき…!」
尻餅をついた状態から立ち上がろうと気合いを入れたが、次の『余波』には耐えられなかった。
「…ちょっと、一体、何が?」
状況が理解できず、混乱したまま周囲を見渡した。
すぐ傍に、純白の大狼が横たわっていた。
現実離れした出来事の数々に、ワタシの恐怖心は麻痺していたのかもしれない。尻餅をついたまま、ワタシはその姿を呆然と眺めていた。
…もし、この巨躯がワタシの真上に落ちていたら?
臓物をばら撒いて、ワタシは潰れていた。
「犬神…さま?」
そこにいたのは、間違いなく『犬神さま』だ。
…けど、どうして?
犬神さまは、オオカミの姿だけど、神さまだよ?
神さまだから、絶望にも負けないはずなんじゃないのかな?
ワタシはそこで、二の句が継げなくなった。
「犬神さま、黒いヒトたちの欠片を消してくれたんだけど…でも、相打ちだったみたい」
呆けたままのワタシに、繭ちゃんが説明をしてくれた。
その間も、ずっと犬神さまは横たわったままだった。小さく、前足の先が痙攣しているだけだった。
それ以外は、これっぽっちも、動かなかった。
これ、虫の息というやつではないだろうか。
…じゃあ、次はダレが、ワタシたちを守ってくれるの?
『犬神さま…大丈夫?』
呆然とすることしかできなかったワタシとは違い、シロちゃんは犬神さまの傍によって心配していた。
『犬神さま、犬神さま…怪我しちゃったの?』
シロちゃんは、今にも泣きだしそうだった。
…当然、だよね。
だって、神さまとはいえ、『犬神さま』はシロちゃんと、おそらく同族だ。たった一人でこの異世界に漂着したシロちゃんが、やっと出会えた仲間なんだ。そんな大事な『お仲間』が、自分を守って大怪我をした。そのことに責任を感じないシロちゃんではない。シロちゃんは、今も『犬神さま』に声をかけながら犬神さまに触れていた。自分の元気を、犬神さまに分け与えるように。それでも、犬神さまは動けない。虫のいい奇跡なんて、この世界では起こらない。
「いや、どこの世界でも、起こらないのか…」
だから、以前の世界で、ワタシは命を落とした。いとも、たやすく。
横臥したまま起きない犬神さまを眺めていると、ワタシの心が腐食していくのが分かった。
『犬神さま…ウオオオオオオオオゥ!』
シロちゃんは、そこで吼えた。一度だけではなく、何度も何度も。
その遠吠えは懸命だった。けれど、消え入りそうでもあった。
きっと、シロちゃんの中にもあるんだ。絶望や、不安が。
それでも、小さなこの子は叫んでいる。
犬神さまがんばって、と。
そして、いつの間にか、繭ちゃんも同じように犬神さまに吼えていた。
…そうだよ、この子たちは諦めては、いない。
自分たちにできることを、やり遂げようとしている。
「ところで、平凡なワタシよ…下を向いている暇はあるのかな」
繭ちゃんもシロちゃんも諦めてなんていないのに、ワタシだけが早々に泣き言を言っている場合ではない。
ワタシにもできることは、まだあるはずだ。
おそらく、また『黒いヒトビト』の欠片は落ちてくる。もしかすると、もっと直接的にこの世界を壊してくるかもしれない。
なら、ワタシにできることは…。
「…馬鹿の一つ覚えかもしれないけど」
ワタシは、『念話』を発動させた。どれだけ距離があろうと、ワタシの『念話』は誰とでも会話ができる。
その、相手は…しかし、そこで、聞こえてきた。ワタシの『念話』を遮って。
『うんざり だ』
…『声』が、響いた。
地の底から滲んできたような、昏い声。
実際には、その『声』は頭上から聞こえてきたけれど。
「これは…」
それは、憎悪を煮詰めた『声』だった。誰の声かは、確認するまでもない。
ワタシは、頭上を見上げた。
…黒い塊が、蠢いていた。
濛々と、空自体が蠢いている。あの大空の殆んどを、『黒いヒトビト』が埋め尽くしているのだから。
「これは、本当に駄目かも…」
泣き言は口にしないと決意した矢先に、圧倒的な『世界』の違いを違いを見せつけられた。
…だって、あの空にいるのは、この異世界ソプラノの負の歴史そのものだ。
ぽっと出の転生者にどうこうできるものでは、ない。
「え…?」
…そこで、ワタシは、足首を掴まれた。
最初は、その感覚に恐怖しか感じなくて悲鳴を上げそうになった。一体、誰がこの場面でワタシなんかの足を掴むのか、と。
視線を落としたワタシは、さらなる恐怖に顔を引き攣らせた。
だって、そこでワタシの足を掴んでいたのは、小さな小さな『黒いヒトビト』だったから。
いや、ヒトビトではなく、『黒いヒト』と呼ぶべきだろうか。
それでも、『黒いヒトビト』だ。本体のサイズと比較すると、片鱗にも満たないサイズだったとしても、『黒いヒトビト』だ。
なのに、やけに弱々しかった。
「というか、この『子』は…」
あの人の、『妹』じゃないか。




