23 『お母さまが好きな朝ご飯の名前を忘れてもうてねー』
『知らんな』
素っ気なく言い切ったのは、ティアちゃんだ。尊大な態度で、お行儀悪く手と足を組みながら。
「そうでしょうな、地母神さまほどの御方なら魔女とはいえ人間のことなど…」
老齢の紳士が…アンダルシアさんがそう言いかけたところで、ティアちゃんが遮る。
『知らんと言ったのは、そのアリアという名と世界を救った、と言ったことだ。『名もなき魔女』の噂ぐらいなら、わらわ様も聞いたことがあるのじゃ』
「妻のことを、ご存じでしたか…?」
アンダルシアさんは、低く驚きの声を上げた。深く刻まれた目元の皺が、さらに深くなる。その表情には、少しの驚きと少しの歓喜が入り混じっていた。
『これでも地母神じゃぞ。わらわ様の耳には、情報なり噂話なりは嫌でも入って来る』
そこで、ティアちゃんはワタシに視線を向けた。
「…………」
ワタシは、その名もなき魔女の名を、心中で反芻した。先ほどから、アンダルシアさんは、その魔女の名を呼んでいた。
アリア・アプリコット、と。
「その名もなき魔女って、すごい人なの?」
繭ちゃんが、無垢な声で尋ねる。繭ちゃんも、ワタシがこの世界でアリアと名乗っていることを知っている。けれど、この子はそこには触れなかった。おそらく、意図的に。
…ただ、その隣りでは、雪花さんがずっとコーヒーにふーふーと息を吹きかけていた。
猫舌なのは知ってたけど、この状況でずっとそれやる?
視界の端に入って気になるんですけど?
「そうだな…一言でいえば、彼女は天賦の才の持ち主だったよ」
老齢の紳士は、ゆるやかな口調で語り始めた。思い出の箱をそっと開けるように、ゆっくりと。
「しかし、彼女は天与の才能に胡坐をかく人間でもなかった。常に向上心を持ち、勤勉だった。だからこそ、数多くのスキルを会得したし、エルフでもないのにいくつもの魔法すら習得していた。そして、そのことを鼻にかけることもなく、人当たりもやわらかかった。誰に対しても気遣いができていた。だから、彼女は誰にでも好かれていたし、誰もが彼女には頭が上がらなかった。当然、このワシも含めて、ね」
亡き妻を語るアンダルシアさんは、慈愛の微笑みを浮かべていた。それだけで、この人の中でどれだけの比重を彼女が占めていたかが、容易に理解できる。
…それなの、に。
雪花さんはまだコーヒーをふーふーしているし、ティアちゃんはワタシのコーヒーに砂糖とミルクを入れ、侵食と冒涜を同時に開始していた。本っ当に空気とか読まないな、コイツらは。
「そして、成長したアリアは旅に出た。各地で困っている人たちを、それこそ見境なく助けていたよ、彼女は」
「お話に出てくる聖女さまみたいですね」
ワタシは、率直な感想を口にした。名もなき魔女などという、物々しい二つ名で語られていた人物像とはイメージが重ならなかったからだ。
「ああ、まさにそうだったよ。けど、彼女は照れ屋だったから、人助けをした後でも自分の名前を絶対に口にはしなかった。だから、名もなき魔女なんて通り名が定着してしまったんだ。ただ、本人はその異名が気に入っていなかったみたいで、「かわいくないから好きじゃない」と、時折り口を尖らせていたよ、幼子みたいに」
そう語るアンダルシアさんの口調は、軽かった。その表情と、共に。
「まあ、ワシとしても魔女は大袈裟かとは思っていたけれど、アリアの魔法やスキルを目の当たりにすれば、それも仕方ないところか。ただ、本人には意外と子供っぽいところがあったんだや。辛い物が食べられないとか朝に弱いとか…」
そこから、さらにアンダルシアさんの口調が軽くなった。
…というか、加速した?
「他にも、寝るときはウサギの人形がないと眠れないとか、一人で着替えができないとか高い場所が怖いとか子猫でも怖がるとか物を食べるときにはよく口元を汚していたりとか字が汚いとかすぐ迷子になるとか一人でお使いができないとか洗濯物がたためないとか縄跳びが跳べないとか…」
…なんか見覚えがあると思っていたら、これ、推しキャラを語るときの雪花さんだ。
好きなものを語るとき、やたらと早口になるアレだ。
「だが、そういう子供っぽさに反して、彼女のプロポーションは最高だった。腰元は締まっていたのに、胸元ははち切れそうなくらい大きかったんだ」
といったところで、老紳士がワタシの胸元を一瞬だけ盗み見た。
…おい、こっちも見逃してないからな。
一瞬だけとはいえ、ワタシの胸を見て残念そうな表情をしたところは。
『結局、何が言いたいのじゃ?』
不遜な態度と言葉でアンダルシアさんを遮ったのは、ティアちゃんだが…そんなこの子は、砂糖とミルクをしこたまぶち込んだワタシのコーヒーのカップを両手で持ち、くぴくぴと飲んでいた。
「これは失礼しました…久しぶりに妻の話ができて、浮かれておりました」
老齢の紳士の口調は、そこで戻った。
そして、続ける。ワタシの瞳を、見つめながら。
「そちらのお嬢さんが、若いころの彼女に似ていた…気がしましたので」
「そう…なんですか」
思わず、声が上ずった。
それほど似ていた、のだろうか。
ワタシと、その名もなき魔女は。
けれど、ワタシたちが出会ったのは、あの仄暗い洞窟の中だった。
なのに、この人はワタシを見てその名を呼んでいた。
「確かに、こうしてみると妻とはあまり似ていない気がしますが…なんというか、面影を感じた気がしたのです、我が妻の」
老紳士は、そこで微笑んだ。
だが、そこに浮かんでいたのは、寂寥だ。
そして、そこで沈黙の帳が降りた。誰もが言葉を噤んだ。黙祷、のように。
「お、うまいでござるな、このコーヒー」
そこで、ようやく雪花さんがカップに口をつけていた。
…というか、この静謐な空気の中でよく呑気にコーヒーの感想なんて口にできたな。
「ん…どうかしたでござるか?」
場の静寂に気づいた雪花さんが、ワタシに問いかける。
「いえ、この状況で話を聞かない雪花さんは大物だなって思っただけですよ…もちろん、皮肉ですけれど」
「いやいや、ちゃんと聞いておりましたぞ。花子殿のお母さまが好きな朝ご飯の名前を忘れてもうてねー、という話でござろう?」
「勝手に、人のお母さんを好きな朝ご飯を忘れる人にしないでくださいます!?」
知ってた!そろそろボケてくるって知ってた!
本当にこの人は…。
「にぎやかで楽しそうなお仲間だな」
そんなワタシたちにも、アンダルシアさんは笑いかけてくれた。本来ならつまみ出されても文句も言えないところだというのに。
「騒がしくして、本当にすみません…」
「いや、妻はにぎやかなのは好きだったんだ…妻も落ち着きのない人間だったし、お互い様だよ」
そこで、老紳士は視線をずらした。
その先には、一枚の肖像画がある。
そこに描かれていたのは、黒い髪をした、若い女性だった。ワタシよりは少しだけ年上のようにも見えたが。そんな彼女は紺色のドレスに身を包み、微笑んでいた。少しだけ、気恥ずかしそうに。
「お亡くなりに、なられたんですよね…」
ワタシも、肖像画の中の彼女に視線を向ける。
…ほんの少しだけ、その顔に見覚えがあるように、感じられた。
きっと、彼女が名もなき魔女だ。
「ああ、アリアは、世界を救ってくれたんだ…その命と、引き換えに」
「命と…引き換えに?」
オウム返しに、ワタシは呟く。ワタシには、それしかできなかったからだ。
『さっきもそんなことを言っておったな』
ワタシの分のコーヒーまで飲み干したティアちゃんは手持ち無沙汰になり、テーブルの上の空のカップを眺めていた。
「五十年ほど前…彼女は、その身に邪神を封じたのです」
老紳士は…アンダルシア・ドラグーンは、語った。邪神、と。
英雄譚を語るには、重すぎる口調で。
…しかし、ここにきて、また、邪神か。
『バカが、人間なんぞにあの邪神が封じられるわけがないであろうが…無駄に命を散らすだけだ』
ティアちゃんが目くじらを立てていた。不愉快さを隠そうともせず。
そうか。ティアちゃんは地母神だ。不条理に命が失われることが、許せないんだ。
「ですが、アリアがそうしなければ、五十年前、邪神は復活しておりました…そして、あの場所で邪神が復活していれば、人間が、エルフが、ドワーフが、軒並み死んでおりました」
『だからといって、たった一人の人間を犠牲にしたところで…』
ティアちゃんが言いかけてやめたのは、アンダルシアさんがこぶしを握りこんでいたからだ。震えるほど、爪が肉に食い込むほど。
「確かに、いかに名もなき魔女とはいえ、その身に邪神の全てを封じることなど、できませんでした…それがほんの一瞬だったとしても、アリアの体は弾け飛んだことでしょう」
全身を強張らせながら、老紳士は口を開く。
最愛の人の、最期を。
それは、拷問以上に、この人の心を切り裂いている。
「ですが、アリアは邪神の魂だけを、その身に取り込んだのです」
『魂だけを…?』
「はい…組成途中だった邪神の体から、その魂だけを抽出したのです」
『だが、魂だけとはいえ、邪神の魔力量は、人間が耐えられる許容量を超えておるはずだ。長くはもつまい。そして、その魔女が死んでしまえば邪神はすぐにその魂を取り戻し、何食わぬ顔で復活しておったはずだ』
銀髪の幼女は、そこで、詰問した。
そして、さらに問いかける。
『なのに、なぜ、そうなっていない?』
確かに、今日まで、邪神は復活していない。シャルカさんも、邪神は復活する気配さえない、と言っていた。
…そのからくりは、なんだ?
「…邪神の魂を取り込んだ名もなき魔女は、超えたのです」
苦悶の声で、アンダルシア・ドラグーンは、魔女の結末を語った。
「名もなき魔女は…アリア・アプリコットは、邪神の魂を抱えたまま、もう一つの世界へと、消えたのです」




