137 『太ももはね、太いから太ももって言うんだよ』
異世界ソプラノの空は、昏い『ヒト影』に覆われていた。
この異世界ソプラノを、覚めない終焉へと導くために。
その権利を、彼ら、彼女ら『黒いヒトビト』は有していた。
彼女ら、彼らはそれだけの仕打ちをこの世界から受けていたから。
しかし、その昏い異世界を、白い奇跡が切り裂いた。
神々しく光る艶のある白い毛が、上空の強風に棚引く。
神話で語られた純白の白狼が、そこにいた。
荘厳な光景に、ワタシは吐息を漏らすことしかできない。
「あれが…ホンモノの神さま」
『ワタクシもホンモノの女神さまなのですけれど?』
「とりあえず、今はなんちゃって系の女神さまは黙っていてくださいますか?」
『なんちゃってなどではないのですけれど!?』
お人形サイズのアルテナさまはワタシの頭の上でぴょんぴょんと飛び跳ねながら抗議をしていたけれど、今はこの人(?)に感けていられない。
「異世界から来訪した、神さま」
それが、白く輝く体毛を持ったオオカミの姿で空から顕現した。その体躯は想像よりも巨大で、悠然と佇んでいる。水鏡神社で語り継がれていた白き狼の『神さま』が、混迷したこの状況下でワタシたちの目の前に姿を現した。
そして、こちらを見下ろしている。
…その透明で鋭利な瞳に、ワタシの肝は冷えていた。
「こっちを敵視したりは…しないよね?」
だって、ワタシたちにはお仲間のはずのシロちゃんがいる。それに、あの白い『神さま』は先ほど落下した『黒いヒトビト』の欠片も消してくれた。
…だとすれば、味方のはずだ。
けれど、ワタシはなぜか激しい動悸に見舞われていた。
ワタシの脳裏に、先ほどのシロちゃんの呟きが浮かぶ。
『でも、ぼく…あんな『神さま』なんて、知らないよ?』
あのオオカミの『神さま』の姿を見たシロちゃんは、そう口にしていた。
…あれは、どういう意味だろうか。
シロちゃんも、あの『神さま』と同様に犬の姿に変化ができる。繭ちゃんがその犬の姿のシロちゃんを発見し、拾ってきた。
単にシロちゃんがあの『オオカミさま』について聞いたことがない、という意味ならば問題はないと思われるが。
「…………ん?」
そこで、白く輝く『オオカミさま』の姿が、大きくなった…ような?
いや、大きくなったわけではない。こちらに向かって落ちてきたんだ。
それは、隕石が落ちてくるのと同じだった。いや、先ほどの『黒いヒトビト』の欠片が落下してくるのと同じか。それだけの質量が、大空から無造作に落ちてくるのだから。
…などと悠長に呆けている場合ではない。
「みんな…逃げて!」
そう叫んだけれど、ワタシ自身が、その場から動けなかった。
けれど、そんなワタシは後方に倒れ込んでいた…というか、慎吾に抱き抱えられていた。
「慎吾…」
慎吾は、ワタシだけじゃなくて雪花さんや繭ちゃん、シロちゃんたち全員を抱えて伏せていた。そして、みんなを庇うように覆いかぶさっている。
…しかし、あの質量が落ちてくれば、ワタシたち全員が消し飛ばされる。
慎吾が、捨て身でワタシたちを庇ってくれていたとしても。
『どうやら、あの白いワンコさんはリリスちゃんがお目当てのようですかねぇ』
慎吾の手が届かなかったリリスちゃんは元の位置で立っていて、そう呟いた。
「リリスちゃんがお目当て…?」
なぜ…などと考えるまでもない。
「そうか…リリスちゃん、あの毒を仕舞って!」
『え…?』
「早く!」
ワタシの必死な剣幕に気圧されたまま、リリスちゃんは『分かりました』と返事をして即座に毒の靄の放出を止めた。
あの『犬神さま』が伝承通りの存在なら、リリスちゃんが放出していた毒の靄に引き寄せられてこの場所に現れた。
…つまり、リリスちゃんを『敵』として認識していることになる。
「…!?」
純白の犬神さまはさらに自由落下を続けていたが…ワタシたちのすぐ目の前でぴたりと止まった。ワタシたちの誰とも接触はしなかったけれど、それでもその風圧はすさまじかった。結果的に、慎吾に押し倒されていて助かった。慎吾の手が届かなかったリリスちゃんだけは、風圧の被害をもろに喰らってころころと吹き飛んでいたけれど。
「大丈夫…リリスちゃん?」
『もう少しくらい、幼気な悪魔にやさしくしてもバチは当たらないと思いますけどねぇ』
「幼気な悪魔って…」
この子、本当に幼気な悪魔だったからツッコミにくいのだ。
などと、リリスちゃんとの日常会話(レベル1)を行っていたワタシたちを、白き狼が覗き込んでいた。
「まさか、こんなところでマミって終わりなんてオチはないよね…?」
当然、こんなニッチな冗談が通じる相手ではない。
純白の毛皮の中、唯一の例外となる黒いマズルが、ワタシたちに悠々と迫る。
その鼻先が、ワタシとリリスちゃんの匂いを嗅いでいた。
ワタシたちの匂いの良し悪しで、功罪を判断するように。
『あのね、花子お姉さんはいいお姉さんなんだよ』
その審判に、白い闖入者が割り込んだ。
白き犬神さまにも引けを取らない白き尻尾を携えた、シロちゃんだ。シロちゃんは小さな両手を懸命に広げ、ワタシとリリスちゃんの防波堤になってくれた。
「シロちゃん…」
『花子お姉さんは、つまみ食いとか間食ばっかりしてて繭ちゃんにも『最近は太ももまで太くなってるよ!』怒られてばっかりだけど、とってもやさしいお姉さんなんだよ』
「太ももはね、太いから太ももって言うんだよ、シロちゃん…」
そこはやさしいお姉さんという批評だけでよかったんじゃないかな…?
しかし、そこで白き犬神さまはワタシたちから顔を離した。どうやら、ワタシたちが無害だと分かってくれたようだ。
…なら、次は説得だ。
この純白の毛並みを持つ狼さまに、ワタシたちの世界を助けてください、とお願いをしなければならない。
「あの…」
コミュニケーションを取ろうと声を発したワタシに、再び犬神さまの視線が向けられたのだが、その射抜くような眼光にたじろいでしまった。
『ぼくがお話してみるね、花子お姉さん』
及び腰になったワタシに、シロちゃんが言った。
そして、前に出る。純白の尻尾を、ピンと立たせて。
『こんにちは、ぼくはシロなんです』
この子なりに礼節を守った、挨拶だった。
ただ、シロちゃんの動きはややぎこちなくそれがかわいらしく見えてしまったが、今はそんなことを言っている場合ではない。
『…………』
白き犬神さまは、無言だった。一言も発しないまま、シロちゃんを見下ろしている。そこに敵意などは感じられないが、好意も感じられなかった。
『あの、お願いがあるんです…ぼくたちを助けてください』
シロちゃんは、真っ直ぐな瞳で無言のオオカミさまを見上げていた。だが、オオカミさまは何の言葉も発しない。犬神さまに気圧されたのか、シロちゃんの尻尾がペタンと下がる。先ほどまでは勇ましくピンと立っていたのだけれど。
『…………』
白き犬神さまは、まだ一言も発していなかった。
…というか、こちらの言葉が通じているのだろうか?
この犬神さまがシロちゃんと同じ『オオカミ族』ならば、シロちゃんの言葉が届かないとは思えないのだけれど。
「シロちゃん、ちょっと」
『なあに、花子お姉さん…?』
「あのね、ワタシと一緒に『念話』で話しかけてみようよ」
シロちゃんにそう提案した。シロちゃんも頷いたので、ワタシはシロちゃんの手を取って『念話』を発動させる。
『あなたは、過去にこの世界を救ってくださった神さまなのですか?』
伝承に語られた神さまの姿と、目の前の犬神さまは同じだった。なら、同一の神さまの可能性も高いはずだ。
『…………』
白き神さまは、心中も無言だった。
ワタシとシロちゃんは何度も『念話』で犬神さまに語りかけたが、返答は一向になかった。
…というか、これは。
人では、ない?
いや、神さまなのだから人ではないのだけれど、その神さまなどでもない?
そこで、一つの可能性を口にした。
「もしかして…実体がない、の?」
『実体…?』
シロちゃんが、ワタシの脇でキョトンとしていた。
そんなシロちゃんに、説明を始めた。
「ええとね、『念話』っていうのは、平たく言うとテレパシーなんだよ」
そう話し始めたワタシに、シロちゃんは小さく何度か頷いた。
「だからね、シロちゃん。『念話』っていうのは心と心でお話することなんだけどね、心と心で話をするから嘘をつくのが難しいし、何よりも、無視をするのがもっと難しいんだよ。というか、そんなことできるはずがない。たとえ、お互いの言葉が通じなかったとしても、ね」
にもかかわらず、この犬神さまは何の反応も示していない。
なので、こう思ったんだ。
「もしかすると、この神さまには実体がないんじゃないかな」
ワタシの言葉を聞いたシロちゃんは、犬耳を小さくペタンと伏せた。けど、すぐに顔を上げて尋ねる。
『でも、本当の体がないって、花子お姉さん…神さまはちゃんとここにいるよ?』
「ええと、本当の体がないって言ったのはちょっと間違ってたかもね。本当の体がないんじゃなくて、心がないって言えばいいのかな」
『心がない…?』
シロちゃんが小首を傾げると、真っ白な犬耳も小さく傾く。
「アルテナさまみたいにちゃんと心がある神さまじゃなくて、ダレカに作られた機械みたいな神さまなのかもしれない…だから、心が通じなくて『念話』が届かないんじゃないかな」
『この神さまが、作られた存在…』
シロちゃんは、少しだけ悲しそうに白き犬神さまに視線を向けていた。
いや、そりゃそうだよね。自分と同じ姿をした神さまが現れてくれたのに、それが心を持たない神さまとなると混乱もするはずだ。
『…じゃあ、神さまにはぼくたちの言葉は届かないの?』
「多分、そうだね…」
過去、この王都を毒の魔獣が襲った。その際に、空の彼方から現れた『オオカミ族』なる犬神さまが顕現し、魔獣を退治してくれた。だから、あの神さまは無条件でワタシたちの味方で、ワタシたちの言葉も通じると思っていた。けど、そうではなかった。
「じゃあ、ボクたちが踊るよ」
硬直していたワタシとシロちゃんの前に現れたのは、繭ちゃんだ。
…というか、その言葉が意味不明だったんだけど?
「繭ちゃん、踊るって…」
「こういうことだよ」
手短にそう言った後、繭ちゃんは両手を頭上に掲げる。その姿勢のまま、右足を前に踏み出しながら右手と左手を順番に下ろしていく。
それは、ライブなどで披露するいつもの軽快なダンスではない。ゆったりとした曲線を描く動きでありながら力強く、存在感があり典雅だった。
「神楽…?」
思わず、そう呟いていた。
繭ちゃんの所作は、神さまに奉納するための舞踊だった。
「…でも、どうして」
いや、考えるまでもない。あれは、繭ちゃんたちが水鏡神社のお祭りで踊っていた神楽だ。
そして、その水鏡神社のご祭神は、ソルディヴァンガさま…じゃなくて、白き犬神さまだ。
「なら、届くかも…」
きっと、繭ちゃんもそう考えている。
ゆったりと踊りながら、繭ちゃんはシロちゃんに手を伸ばした。
「ほら、シロちゃんも踊ろう。教えてもらったでしょ?これは神さまのための踊りなんだよ」
『うん、分かったよ、繭ちゃん』
シロちゃんも繭ちゃんと同じ動きを始めた。あの時とは違い巫女服ではないが、二人の神楽は周囲の気配すら変えていく。神域のような清廉な空気を、繭ちゃんたちが運んでくる。
「あ…でも」
…あの二人、巫女さんじゃなくて男の子だけどいいのかな。
ふと、そんな思考が脳裏を横切ったけれど、犬神さまは特に目立った反応は示さなかった。どうやら、アウト判定は受けていないようだ。
しかし、二人が神楽を披露していても、あの犬神さまは無言のままだった。こっそりと『念話』を継続していたのだけれど、そちらにも何の反応もなかったんだ。
「せっかく、あの二人が頑張ってくれてるのに…」
ワタシの胸が、焦燥にかられる。先ほどから、空の重圧が増していた。
…当然それは、あの『黒いヒトビト』だ。
次に落ちてくるのは、欠片ではないかもしれない。
本気で、この世界を崩壊させる鉄槌を振り下ろすかもしれない。
「…そんなことになったら、ワタシたちに打つ手なんてないよ」
聞こえない小声で弱音を吐いていたワタシの袖を、誰かが引っ張っていた。振り向いた先にいたのは、リリスちゃんだ。
「どうしたの、リリスちゃん?」
『あのですねぇ、先生…』
珍しく、リリスちゃんの歯切れが悪い。
「何か、あったの?」
『あれ、ですねぇ…』
リリスちゃんが指を差した先には、件の『祠』があった。
昼間のうちに邪気を吸引し、夜の間に取り込んだ邪気を浄化してくれるという、例の『祠』だ。
「あの祠がどうしかし…」
最後まで、言えなかった。
ただ、あの祠にそこまで衝撃的な異変があったわけではない。
それは、変化と言えるほどの変化ではなかった。
ここで巻き起こっている変化に比べれば、その変化は微々たるものだ。
終焉がそこまで迫っている状況では、取るに足らないものでしかない。
それでも、ワタシは祠が気になった。
「なに…あれ?」
…『祠』が、独りでに開いていた。
その次に、閉じていた。
音もなく、ぱたりぱたりと開いたり閉じたりを、繰り返していた。
瀕死の鳥が、力なく藻掻いているようにも見えた。




