136 『悪魔にだって友情はあるんですよねぇ!』
人がダレカと出会い関係性を構築する時、そこには、ある種のバイアスがかかっている。
例えば、ワタシがアルテナさまと出会った時、アルテナさまは『女神さま』でワタシは『転生者』だった。ワタシが慎吾や雪花さんと出会った時、ワタシたちはお互いに『転生者』というこの異世界での異邦人だった。
この『肩書き』こそが、他者との関係に影響を与えるバイアスだ。
といっても、この場合のバイアスはそれほど悪いものではない。肩書きがあるからこそ相手との相互理解も早まるし、肩書きのお陰で相手に対する距離感もスムーズに把握することができる。
ワタシはアルテナさまを女神さまとして崇拝(?)しているし、慎吾たちに対しては同じ転生者として破格の信頼を持っている。これは、肩書きというバイアスがあったからこそ生まれたものだ。
しかし、バイアスのかからない、フラットな関係での出会いというのも当然、存在している。
「ワタシと『あの子』の出会いには、何のバイアスも偏在していなかった」
あの時のワタシたちは、お互いに相手の肩書きなんて意識していなかった。
そこで、ワタシはとある少女に視線を向ける。その少女は、いつものように小悪魔的な微笑みを浮かべていた。
…というか、本物の悪魔なんだよね、この子は。
「ねえ、リリスちゃん…本当に、そんなことできるの?」
ワタシは、悪戯好きの彼女に問いかける。
先ほど、彼女がこう言ったからだ。
『だったら、先生の代わりにリリスちゃんがその『神さま』とやらを呼んであげますかねぇ』と。
先生とはワタシのことであり、『神さま』とは、かつてこの王都が『毒の魔獣』と呼ばれる怪物に襲われた際、別の世界から現れその魔獣を退治してくれた神さまのことだ。
…ちなみに、その神さまは『オオカミ族』と呼ばれていたそうだ。
そして、うちのシロちゃんもその『オオカミ族』である。
『その『神さま』は、この世界の近くまで来ているのですよねぇ?』
リリスちゃんはワタシに問いかけていたが、その質問はワタシよりもシロちゃんに向けられるべきものだった。でも、リリスちゃんって、意外とコミュ障みたいなところがあるんだよね。知らない人とのお喋りには尻込みしちゃうというか。その反動なのか、ワタシに対しては小憎たらしいちくちく言葉を投げかけてくるんだけど。
…まあ、それだけワタシに懐いているからだと大目に見ているよ。
「シロちゃんが言うにはそうみたいだけど…」
ワタシがシロちゃんに視線を向けると、シロちゃんは小さく頷きながら言った。
『神さまかどうかははっきり分からないんだけど…でも、お空の向こうでダレカが吠えているのは聞こえるんだよ。それでね、多分だけどね、ぼくたちを探してるみたいな感じがするんだよ』
シロちゃんは、その空の向こうからの『声』が聞こえているそうだが、ワタシには何も聞こえないし、他の面々もおそらく同じだ。その『声』、はシロちゃんにしか聞こえていない。
でも、それでシロちゃんの言葉を否定したりする人は、この場に一人もいなかったよ。当然、ワタシも含めてね。
「だったら、その『神さま』にお出でいただければ、この状況だって変わるかもしれないね…でも、リリスちゃんはどうやってその神さまをここに呼び寄せるつもりなの?」
その『声』の主がオオカミ族の神さまならば、それはおそらくシロちゃんの同族だ。けど、同族であるシロちゃんの呼び声さえ、向こうに届いているかどうかはシロちゃんにも分かっていない。それなのに、オオカミ族でもないリリスちゃんは『自分が何とかする』と言っているんだ。
『ふっふっふ。それじゃあ、教えてさしあげましょうかねぇ』
「時間がないから手短にしてね、リリスちゃん」
『分かりましたねぇ…』
やや不服そうなアヒル口のリリスちゃんだったけれど、時間がないのも事実だ。あの『黒いヒトビト』は今も王都の空に陣取っていて、いつまた空から落ちてくるか分からない。
…もしかすると、次で終わるかも、しれないんだ。
『それでは先生…少し離れていてくださいねぇ』
…リリスちゃんのその声は、普段の軽薄なものではなかった。
その後日の震えから、この子の緊張が伝播してくる。
「何を、する気なの…」
…そもそも、リリスちゃんは本当に神さまを呼べるのだろうか。
けど、少なくともリリスちゃんの声には、覚悟があった。
『さあ、て…上手くいってくださいよねぇ』
リリスちゃんは軽く握った手を、胸の前で交差させていた。
そし、て…周囲の空気が、変わる。リリスちゃんを中心に、密度が増していく。
「…………え?」
ワタシは、目を疑った。
だって…。
リリスちゃんの足元からは、あの毒の『靄』が発生していた。
黒い色をした霧は、濛々と周囲に裾野を広げる。
…しかし、それは、生きとし生けるものを蝕む黒い雲海だ。
「リリスちゃん…」
ダメだ、よ?
とっても、危ないよ?
ワタシは、身をもってそれを知っているからね…。
「リリスちゃん…それは、やめようよ」
リリスちゃんは、大昔、『教会』の人間たちに騙されて封印された悪魔だった。
そして、数年前に同じく『教会』の人間によって封印から解き放たれ、リリスちゃんはこの異世界に舞い戻った。
けれど、それはあの子に対する罪滅ぼしなどではない。その証拠に、リリスちゃんの封印を解く際には『毒の魔獣』の因子をあの子に組み込んでいる。
彼ら『教会』が必要としたのはリリスちゃんという一人の女の子ではなく、英雄に討伐されるための『人柱』だった。『悪魔』であるリリスちゃんは、その人柱としてはうってつけだったんだ。
悪魔リリスの討伐が成功すれば、『英雄』は後々の世界まで語り継がれ、長い時を経て『神』へと昇華する。
崇める神が存在しない彼ら『教会』が欲してやまなかった『神』が、そこで生まれるはずだった。
あの人たちの計画通りに進んでいれば、だったけどね。その顛末が、先ほどワタシたちの目の前で繰り広げられた。『教会』の面々は、魔獣の因子を組み込まれたリリスちゃんの討伐なんてできなかった。ワタシたちが束になってみんなで、それを防いだ。リリスちゃんも『毒の魔獣』に意識を支配されていたが、そこから解放された。
リリスちゃんの物語は、そこでハッピーエンドの一区切りを打つことができたんだ。
…それなのに、リリスちゃんは再びあの毒の『靄』を発生させていた。
「リリスちゃん、それは『毒の魔獣』の…」
『大丈夫ですよ、先生…まあ、見ていてくださいねぇ』
リリスちゃんは、さらに靄を発生させる。かつて、この王都を毒の都に沈めかけた、毒の靄を…。
「…空に、向かっていく?」
それは、地を這う靄だったはずだ。
土地を侵し、人を蝕むためのものだった。
しかし、この靄は空に昇っていく。ワタシは、呆けたようにその軌道を目で追った。
そんなワタシの耳元に、リリスちゃんの声が届けられる。
『その異世界の『神さま』とやらがこの世界の近くまで来ているなら、リリスちゃんの靄が篝火になるのではないですかねぇ』
「それは、そうかもしれないけど…」
シロちゃんの『声』に『神さま』が反応しているのなら、リリスちゃんの『靄』にも反応する可能性はある。少なくとも、その『神さま』は過去にこの王都に顕現し、『毒の魔獣』を退治したという逸話が残っている。
『さあ、もっと…もっと伸びてくださいねぇ』
リリスちゃんが空に向かって両手を掲げると、靄はさらに上昇していく。力強く、でも儚く立ち昇る。
「…でも、大丈夫、リリスちゃん?」
ワタシは問いかけた。
リリスちゃんの額からは、大粒の汗が滴っている。相当の無理をしているのは明らかだった。
『自分はさんざん無理をしておいて、ここでリリスちゃんの心配ですかねぇ?』
「けど、リリスちゃんは…」
『リリスちゃんのことを友達と呼んだのなら、先生は最後までリリスちゃんを信じるべきではないですかねぇ』
「それは、ワタシだって信じたいけど…」
言いかけた途中で、言葉を失った。
リリスちゃんの口元から、血が、垂れていた。
「リリスちゃん…!?」
『近づかないでくださいねぇ!』
リリスちゃんは、そこで吼えた。口を開いた瞬間、小さな彼女の口からは小さく血の飛沫が飛ぶ。
『直接、触れたりしたら危険ですよ…ここにあるのは毒の靄ですからねぇ』
「…でも、無茶だよ、リリスちゃん」
『少しは思い知りましたかねぇ』
「思い…知る?」
何を言っているのだろうか、リリスちゃんは…?
『リリスちゃんが暴走していた時、先生がどれだけ無茶をしましたかねぇ』
「それ、は…」
リリスちゃんの意識が『毒の魔獣』に呑み込まれて暴走し、無尽蔵とも思えるほど毒の靄を発生させたことがあったのだけれど…ワタシは、その靄の中に飛び込んだことがあった。
「確かに、身の丈に合わない無茶はしたかもしれないけど…」
『たまには、先生も他のダレカの無茶に振り回されるべきだと思いますねぇ!』
リリスちゃんは、さらに靄を発生される。しかし、それらは周囲の何物をも蝕んだりしない。全て空へと向かっていた。
「でも、リリスちゃんはワタシにとっての友達だから…」
『リリスちゃんを友達と呼ぶのなら、少しは頼ってくださいよ…悪魔にだって友情はあるんですよねぇ!』
リリスちゃんの靄と想いが、空に届いた。
空に浮かぶ昏い亀裂と、それは接触した。
「リリスちゃ…」
『花子お姉さん…『声』が、また聞こえたよ』
言いかけたワタシを遮ったのは、シロちゃんの懸命な声だ。
そのシロちゃんが告げていた。
リリスちゃんの想いに、『声』が反応している、と。
「シロちゃん…その『声』は、なんて言ってるの?」
『なんて言っているのかは、ぼくにも分からないけど…でも、こっちに近づいてくるよ…ぼくたちの場所が分かったみたい』
「近づいて…」
…『神さま』が、近づいて、いる?
それは、リリスちゃんの『靄』に反応しているということか。だから、ワタシはリリスちゃんに呼びかける。
「リリスちゃん…」
『分かっています…ねえぇ!』
リリスちゃんは、お腹の底から絞り出すような雄叫びを上げる。その声に引かれるように、リリスちゃんの靄はさらに天高く上り…。
雷鳴が、響いた。
…いや、これは雷鳴だったのか?
破裂音のようなモノが、ワタシの身体を震わせていた。いや、ただの破裂音の振動ではない。体の深奥まで軒並み振るわせるほどの振動だった。
「…なに、これ?」
今日だけで、何度もこの手の台詞を口にした。けど、その『何度も』の中でもこれは最大級の衝撃だった。
自然と、ワタシは空を見上げていた。
衝撃は空から降ってきたからだ。
そして、ショックから立ち直っていないワタシたちの前に、またも衝撃が起こる。
…昏い亀裂から、再び欠片が落ちてくる。
「また…大きいのが、きた?」
それは、昏い昏い欠片。
この世界で一番、昏い色。この異世界を終わらせる昏い色。
遠目に見ても、歪なほどのその巨大さが浮き彫りになる。
「ドロシー…さん」
縋るような視線を『魔女』に向けたが、ドロシーさんは首を横に振った。さしもの『魔女』といえども、先ほどのようにアレを支えられるだけの余力がないんだ。
…これは、本当に終わった。
昏い欠片は、悠々と落ちてくる。
邪魔するものがいないことを察したように、悠然と。
「………………………え?」
昏い欠片は、少しずつ速度を上げて落ちて…は、こなかった?
ワタシは、軽く瞼をこする。
…だってこれ、現実なの?
落下途中の昏い欠片が、焼失した。揮発でもするように忽然と。
「アルテナ…さまですか?」
頭上のアルテナさまに問いかけたが、アルテナさまは軽く体を揺すって否定の意を示していた。
ドロシーさんは否定して、アルテナさまも否定した…じゃあ、ダレがアレを消した?
脳裏にその疑問が浮かぶが、疑問の答えの方から現れた。
日の光が遮られ、昏い世界と化していた王都の空が、風と共に光る。
上空から突風が下降してくる。ダウンバーストというやつだろうかと思った刹那、ワタシの目に映る。
それは、純白の毛並みを波打たせていた。
すらりと伸びた四肢が、神々しさを感じさせた。
そして、バカバカしいほどに、巨大だった。
「…なるほど、これは『神さま』だね」
王都の空に佇む潔白の獣は、遠目に見ても神話などで語られる神の獣そのものだった。
シャンファさんの水鏡神社で祀られていた神さまが、こうして姿を現してくれた。
「シロちゃんと同じ…白色だね」
あまりの衝撃に、ワタシはそんな言葉しか口にできなかった。
けど、大した言葉を口にできなかったのはシロちゃんも同じだ。
『そうだね…あと、ぼくよりもずっと大きいね』
シロちゃんも、真っ白な犬の姿に変化することができる。けど、あの空で悠々と佇んでいる白い『神さま』の大きさは規格外にもほどがあった。
「シロちゃんのお仲間の『神さま』なら…あの昏い亀裂もなんとかしてくれるかもしれないね」
ワタシの中で、再び希望が鎌首を擡げた。
だって、シロちゃんと同じ世界から来てくれたんだ。ワタシたちを助けてくれるはずだよね。
そこで、シロちゃんは言った。
『でも、ぼく…あんな『神さま』なんて、知らないよ?』
…………え?




