134 『ワタシは友達が少ない』
昏い空では、なくなっていた。
先刻まで、異世界ソプラノの大空は無量の『黒いヒトビト』に覆い尽くされていた。日の光が遮られ、隙間風さえ吹き込まないほどの閉塞感に包まれていた。
けれど、あの『黒いヒトビト』とも、ワタシたちは和解ができた。
まだ途中かもしれないが、それでも融和の足がかりくらいはできたと思われる。
だから、閉ざされていた昏い世界が紐解かれ、この場所にも陽の光が少しずつ差し込み始めていたのではないだろうか。
そして、木漏れ日は静寂と共に降り注ぐ。
神話の一ページとも言える、荘厳な光景だった。
…けれど。
「もうこれで、大団円でよかったんはずだよね…」
後は、あの黒い『少女』たちとのエピローグに入っても、問題はなかった。あの『子』たちが、数世紀、十数世紀にも渡る呪詛から解放され、空に還るという感動的な場面が描かれていてもよかったはずだ。
だからこそ、ワタシや慎吾たちはこうしてあの昏い場所からここに戻ってこられたのではないだろうか。
…それ、なのに。
ワタシは、ゆっくりと空を見上げる…。
空は、割れていた。
昏い亀裂が、そこに刻まれていた。
空から、地上に向かって。
小さな子供が、クレヨンで画用紙に落書きをするような大胆さで。
そして、亀裂は刻々と拍動している。
「また、空に罅が入ってる…」
以前にも、この怪現象を見かけたことはあった。
文字通り、あの亀裂は異世界を真っ二つに分断するためのものだ。そして、あれは、『黒いヒトビト』の嘆きそのものでもある。
大昔から、あの亀裂は何度も観測されてきた。ただ、それはこの世界が持つ自浄作用により修正されてきた。少なくとも、過去に起こったこの『現象』はそうやって解消されていた。
「…けど」
粘り気のある不安が、ワタシの胸を搔き毟る。
本当に、あの『傷痕』が修正されるのか、と。
…いや、『黒いヒトビト』の少女とも、対話ができた。
あの『子』たちはワタシと友達になりたいと、言ってくれた。そこに嘘は感じられなかった。
「そのはず…なんだけど」
空の亀裂が、ワタシに焦点を合わせて射抜くように見下ろしていた…錯覚に囚われる。
…その『視線』に、ワタシの鼓動は不規則に乱れる。
『は なこ』
ふと、『声』が聞こえた。
それは、あの昏い世界の中で聞いた『声』と同じだ。
昏い世界で、最初にワタシと『お喋り』をしてくれたあの少女の『声』だった。
…ただ、それはありえない。
「どう…して、あの『子』の声が?」
今、ワタシは『念話』を使っていない…。
それなのに、その『声』はワタシの内側に浸透してくる。
「花子の『念話』じゃないんだ…よな?」
隣りにいた慎吾が、狼狽しながら問いかけてくる。
ワタシは、「うん…」と返答するだけで精一杯だった。
そんなワタシを、縋るような上目遣いで繭ちゃんも眺めていた。どうやら、繭ちゃんにもあの『子』の声が届いていたようだ。
…けど、どうやって?
「いや、今はそんなことはどうでもいいや…」
軽く息を吸い込む。先ほどまでの昏い世界とは異なり、異世界ソプラノの空気は清涼で明瞭だった。手足の感覚も鈍くない。何より、慎吾や繭ちゃんたちがワタシの目の前にいる。なら、勇気凛凛だよ。
『さっきワタシとお話してくれた、あの『子』ですよね?』
ワタシは『念話』を発動させた。
勿論、あれで対話を終わらせたつもりはワタシにもない。もっともっと、ワタシたちはお互いのことを知らなければならない。
「友達って、ゴールじゃなくてスタートなんだ」
ワタシたちは、あの昏い世界の中で友達になれた。
なら、次はもっと踏み込めるはずだ。お互いの距離を、もっと縮められるはずなんだ。
「その『友達』を、軽視も無視もできないよ…自慢じゃないけど、ワタシは友達が少ないのだ」
だから、無下にも足蹴にもできない。その数少ない希少な友達が、こうして声をかけてくれている。
…そして、当然、あの亀裂と無関係とは思えない。
『はな こ』
再び、あの『子』がワタシを呼ぶ。
いや、あの『子』と呼んでいいのかどうかは分からない。勝手にワタシが年下だと感じただけだ。ただ、その確信はあった。
あの『子』はきっと、幼いまま理不尽にこの世界から淘汰された少女だ、と。
『はい、花子で…!?』
ワタシがあの『子』の声に応えようとしたのだが…。
そこで、またも世界が鳴動した。
空が罅割れるように揺れ、大地が破裂したように隆起、陥没していた。
…世界が悲鳴を上げた、音だった。
「ちょ…と、どうなってるの?」
この世界の崩壊は、あの『黒いヒトビト』によって引き起こされていた災害だ。
それは、あのヒトたちがこの異世界ソプラノから受けた絶望に対しての竹箆返しだった。
けど、その『黒いヒトビト』とは対話が成功したはずだ。あの『子』たちも、ワタシたちと『なかよくしたい』と言ってくれた。
それなのに、黒い亀裂がこの世界を分断しようとしているし、先ほどの振動だ。
…まだ、この世界の崩壊は終わっていない、のだろうか。
『こわ せ』
『い かれ』
『はかい しろ』
…また、『声』が響いた。
けれど、それらはワタシたちを否定する昏い『声』…。
そして、彼ら、彼女らは言っている。
この世界を壊せ、破壊しろ、と
…どうし、て?
そんなひどいことを、言うんですか?
ワタシと仲良しになってくれたんじゃ、なかったんですか…?
「一枚岩ではないからですよ」
「ドロシー…さん?」
いつの間にか、『魔女』のドロシーさんが背後にいた。そのドロシーさんが語る。抑揚のない声で、淡々と。
「あのカタガタの総数は、把握できないほど膨大です。当然、意見が割れることだってありますよ」
「でも、ワタシ、あのヒトたちと心で触れあって、お話もして…『たすけて』って、言われたんです」
ワタシたちは友達になった、はずだった。
そして、助けを、求められたはずだった。
だから、ワタシは口にした。告解にも似た言葉を。
「ワタシ、ダレカから、そんなことを言われたの、初めてだったんです…いつも、ワタシはダレカに『たすけて』を言う側でしたから」
お母さんにもお医者さんたちにも、おばあちゃんにも神さまにも…。
ワタシは、『たすけて』を言うことしか、できなかった。
他のダレカから頼られたりは、しなかった。みんな、知っていたからだ。
ワタシが、案山子以下の役立たずだ、と。
勿論、ワタシの家族はそんなことは口にしない。これっぽっちも思っていない。
でも、知ってはいたんだ。
…ワタシが、弱いことを。
「そのワタシが、生まれて初めて、ダレカから本気の『たすけて』を言われたんですよ。それを無視はできませんし…何よりも、その『たすけて』は、ワタシのことも救ってくれたんです」
たった一つの言葉で、二人の人間が同時に救われることもある。
そして、教えてくれた。余所者の『転生者』であるワタシも、この異世界にいてもいいのだ、と。
「だから、ワタシは、本気で応えたいんです」
ワタシの言葉を聞いたドロシーさんが、そこで口を開いた。
少し乾いた、声だった。
「しかし、花子さんの想いは関係ないんですよ」
「関係…ない?」
ドロシーさんの言葉に、ワタシの胸が軋んだ。
ワタシの想いが、どこかへ流されてしまったようで。
「酷な言い方になりますけれど、世界は個人の言葉に耳を傾けたりはしません。少なくとも、この世界の中心には、花子さんはいないんですよ」
ワタシの胸に、杭が撃ち込まれる。何度も何度も。
それらには『返し』がついていて、けして抜けない。
…そうだよね。
世界の中心に、ワタシはいなかった。
これまでもいなかったし、これからもいない。
だから、ワタシはこの異世界に流れ着いた。
「けれど、あのカタガタは違います。この異世界ソプラノの中心にいるのですよ。彼女たちも彼らも、そんなことは微塵も望んでいないとしても、です。だって、あのカタガタはこの異世界ソプラノの負の側面そのものなのですから」
ドロシーさんの声は乾き続けていた。
けど、それは彼女が自分の意思でそうしている。この状況を、俯瞰して見るために。
「当然、そんな彼らが簡単に懐柔されると思わない方がいいですよ」
俯瞰を継続したまま『魔女』は言った。
けど、気付いた。その俯瞰がフラットだったからこそ、贔屓だったのだ、と。
ドロシーさんは、『黒いヒトビト』もワタシのことも、どちらも贔屓していなかった。
でも、それこそが贔屓そのものだった。『魔女』であるドロシーさんは、『黒いヒトビト』と共にこの異世界ソプラノを崩壊させるために異世界から呼び寄せられた存在だ。にもかかわらず、この状況でも俯瞰して状況をフラットに判断している。だから、ワタシに色々と教えてくれている。これが贔屓でなくてなんなんだろうね。
「つまり、半分くらいの『黒いヒトビト』はまだこの世界を壊そうとしている…ということですか」
ワタシの問いかけに、ドロシーさんは首を横に振る。
そして、『魔女』の瞳で言った。
「いえ、七割ほどが花子さんたちの敵のままですよ」
「七割ですか…なら、十全に前進しているってことですね」
「…それを前進と言えるのですね」
ドロシーさんは空を見上げながら、簡素な声で呟く。
けれど、次にワタシを見たその視線は、そこまで乾いてはいなかった。だから、ワタシは言えた。
「前進だと思いますよ。少なくとも…いえ、あのヒトたちの三割もワタシたちに味方してくれてるってことですよね。本来なら、あのヒトたちの全てがこの世界の敵だったんですから。いえ、これは正しくないですね」
あのヒトたちが世界の敵だったのではなく、世界の方があのヒトたちの敵だったんだ。
あのヒトたちの命は、この世界の理不尽によって奪われたのだから。
にもかかわらず、その中の三割だとしても、ワタシたちの声を聞いてくれた。なら、ワタシたちの一歩は、無駄ではなかった。
「これから先はどうするつもりなので…」
ドロシーさんが言いかけたところで、またも世界が揺れた。
…先刻よりも、深刻に。
もはや、世界のどこから崩壊が始まっても不思議とは思わない。
「ワタシたちと友達になることに、あのヒトたちは反対しているということでしょうか…」
「花子さんがあのカタガタを刺激したのは間違いないですね」
「でも、ドロシーさん、ワタシは…」
「花子さんの気持ちは分かりました…あのカタガタの何割かにも、その気持ちは届いたでしょうね。けれど、それが限界ですよ」
「ワタシでは、あのヒトたちと心を通じ合わせることはできない、ということですか…」
それほどまでに、彼ら、彼女らの怨嗟は深く、この世界に根を張っている、と。『魔女』はそう言いたいのだろうか。そして、ドロシーさんは口にした。
「あのカタガタの恨みつらみの根源がどこにあるのか、花子さんには理解できないのではないですか」
「恨みの根源…でも、ワタシは、それを教えて欲しくて」
ワタシの言葉は、そこで途切れる。
遮ったのは、あのヒトたちだ。
『こわ せ』
『せか い いら ない』
『こ ろせ ぜん ぶ』
…昏い言葉が、空から降ってくる。
これまでに聞こえていたあのヒトたちの言葉とは、違っていた。
先ほどまでのあの『子』の声は、ワタシたちに対する歩み寄りが確かにあった。あの『子』だけでなく、他の『黒いヒトビト』もワタシたちの声を聞いて、同調してくれた。歩調を合わせてくれた。
けれど、この『声』は、違う。
この『声』には、そうした歩み寄りは微塵もない。ただただ、この世界に対する怨嗟に満ちている。
『あの、ワタシとお話を…してくれますか?』
恐る恐る、ワタシは昏い『声』に語りかけた。
…ワタシの『声』に、鉄槌が下された。
『 』
『 』
『 』
また、『声』が聞こえなくなった。
聞こえなくはなったけれど、そこに拒絶が含まれていることは伝わってくる。彼女たち、彼らの『声』は、この世界そのものを否定している。
…あの『子』たちとは、まるで違っていた。
『どうして、そこまで…この世界を呪うんですか』
あのヒトたちがこの異世界を憎悪していることは分かっていた。ワタシも、自分が生まれたはずのあの世界そのものを憎んでいた。それでも、そう問いかけずにはいられないほど、このヒトたちの憎しみは箍が外れていた。
『う ばわ れた』
…『声』が、聞こえた。
というか、奪われた?
『い のち 』
『たい せ つ』
『むす め』
あのヒトたちの呪詛が、堆積していく。その言葉と共に。
…けど、そうか。
『あなたたちは、自分の命だけじゃなくて…大切な家族の命も共に奪われたんですね』
だから、このヒトたちはここまで深くこの世界を呪っている。その呪詛が、自分自身を雁字搦めにしていることを、理解しながら。
『あなたたちは…失われた家族のために、この異世界を呪っているんですね』
ワタシの声が届くと同時に、世界が揺れた。
これまでよりも、盛大に。
『かえ せ 』
『お れの こを』
『うばう な』
『わ たし のむす こだ』
彼女ら、彼らは『叫ぶ』。
声ではなく、魂で。
自身の命よりも大切な家族を、理不尽に奪われたのだから。
当然、その憎悪は深い。
…異世界ソプラノを、引き裂くほどに。
「あの、あなた方、は…」
ワタシの声は、『声』にはならなかった。
心が乱れ、『念話』が発動できなかった。
このヒトたちは、自分以外のダレカのために憎悪を吐き出し続けている。
…それが間違いとは、ワタシには思えなかった。
空から昏い破片が、剥がれ落ちた。
…それが、落ちて、くる。
ワタシたちに、向かって。




