133 『人類のすべてが弱者なんだ』
『本当は、渋い紅茶と甘ったるいお菓子でも用意してティーパーティとか開きたいところだったんですけれど、残念ながら『絶望』しか用意できませんでした…それでも、ワタシたちと『お喋り』をしてくれますか?』
ワタシは、この昏い世界を形作るあのヒトたちに声をかけた。
『手土産の代わりがワタシの絶望では、パーティの肴にはならないかもしれませんが』
苦笑いと共に下手なセリフを口にしたが、そもそもこの昏い世界ではワタシの時化た表情など見えやしない。
それでも、あの『黒いヒトビト』とワタシの精神がリンクしたことで、あのヒトたちにも伝わっていた。
ワタシが『運命』から受けた、諸々の絶望が。
そして、ワタシにも彼ら、彼女らの絶望が注ぎ込まれていた。
当たり前だが、あのヒトたちが受けた絶望は生半可なものではない。
それらはワタシの胸に突き刺さり、内側から腐食する。もしくは、ワタシの心を喰い破ろうと跳躍する。
…でもね、ワタシも慣れっこなんだよ、絶望に蹂躙されることには。
さあ、あとはあのヒトたちから反応があることを祈るだけなんだけど。
『あ た …?』
…『声』が、聞こえた。
弱々しくたどたどしいけれど、それは『黒いヒトビト』からの『声』だ。
「さっきより、あのヒトたちの声が聞き取れる…」
言葉の全容は理解できなかったけれど、それでも『声』は聞こえていた。
もしかして、『声』は『あなた』と言ったのだろうか…?
…なら、あのヒトたちは、ワタシを認識してくれていることになる。
「危険を冒してリンクした甲斐はあったね…」
ワタシという存在を、知ってもらえた。
この一歩があるかないかでは大違いだ。
『お願いです…ワタシたちと話をしてください』
再び、ワタシは懇願した。
そこで、慎吾や雪花さんたちのことが頭を過った。
…みんなは、無事だろうか。
リンクが始まってから、ワタシの体は常に暴風に吹き飛ばされている。いや、実際に飛ばされているのかどうかは分からない。それでも、左右どころか上下の区別すらつかないほどに体が振り回されている感覚がある。
「慎吾、繭ちゃん…雪花さん」
慎吾たちも、どこか別の場所に飛ばされてしまったのだろうか。みんなの声が、どこからも聞こえない。
…この状況でひとりぼっちは、ちょっと怖いんだけど。
『は し ?』
『ひと る』
また、反応が、あった。
少しずつ、少しずつ、言葉も明瞭に聞こえるようになっている。
…これなら、いけるか?
『あの、あなた方の痛みは、ワタシにも分かります…ワタシも、理不尽な運命に命を奪われた側ですから』
先ほども、似た台詞を口にした。
そして、それはあのヒトたちの逆鱗に触れた。
…でも、今は違う。
ワタシの言葉が上辺だけのものではないと、あのヒトたちも理解している。ワタシがあのヒトたちの絶望を注がれているのと同じように、あのヒトたちもワタシが味わった絶望に触れている。
『お じ ?』
『 もし ない』
『な ま ?』
…聞こえる文字が、また少しだけ、増えた。
頭ごなしに拒否をされてはいない。『黒いヒトビト』との間に、関係性が構築できつつある。
『ワタシは…花子といいます』
黒い潮流が吹き荒ぶ中、ワタシは名乗る。
ワタシの存在を知ってもらうために、先ずは『はじめまして』から始めなければならない。
『は な こ?』
…………聞こえ、た?
はっきりと、聞こえた。
「ワタシの名前…」
…を、呼んでくれた。
途切れ途切れでも、ぎこちなくても。
その言葉が伝わってくる…。
『そうです、花子です…田島花子です!』
歓喜が、背筋を駆け抜けた。
ワタシのことを、『黒いヒトビト』が認識してくれた。
…これで、つながることができた。
久遠の怨嗟に囚われた、あの『黒いヒトビト』とも。
『あの、みなさんも、本当に苦しいと思います。辛い思いを、してきたと思います…いえ、今も苦しいはずですよね』
ワタシは、語りかける。
運命に見放され、この世界を呪うしかなかったヒトビトに。
『でも、この世界を憎み続けることがあなたたちのためになるとも、思えません』
ワタシの声に、あのヒトたちは沈黙を保っていた。
ただ、この沈黙はそれまでのものとは異なる。
あのヒトたちにとって、先ほどまでのワタシの声は価値のないものだった。それこそ、羽虫の羽音程度の雑音でしかなかった。
けれど、違う。
今、ワタシは『黒いヒトビト』と同じ土俵に立っている。
『言葉というものは、軽いものです』
滔々と、語り始めた。
今ならば、ワタシの言葉が、あのヒトたちに届いていると信じて。
『言葉ではお腹は膨れないし、言葉では怪我だって病気だって治せません。言葉なんて、意思疎通のための伝達手段に過ぎないんです』
ワタシは、続ける。
ワタシの言葉が、どれだけ独り善がりだとしても。
『それでも、言葉があれば、ダレカとつながることができるんです…だから、ワタシにも、あなたたちの『言葉』を、聞かせてください』
言い終えて、深く息を吸う。
呼吸をしていなかったことを、ここで思い出した。
『 』
『 』
『 』
…返ってきたのは、沈黙だった。
言葉が通じるからといって、意思の疎通が可能とは、限らない。
相手に拒絶されることも、あるのだから。
『はな こ』
…返って、きた。
ワタシの名前を、呼んでくれた。
最初にワタシの名を呼んでくれたあの子と同じ、少女の『声』だ。
『はい…花子です』
ゆっくりと、正確に発音する。
おっかなびっくりと、近づくように。
けれど、ワタシの胸は弾んでいた。難攻不落とも思えた『黒いヒトビト』と、対話ができたのだから。
そして、対話ができるということは、その相手はきっと、『敵』ではない。
しか し。
『はな こ…わた しつら い』
…浮かれていたのは、ワタシだけだった。
あの黒い少女が漏らしたのは、苦悶の『声』だった。
そうだ…。
ここに囚われているのは、『運命』の囚人たちだ。
『そうですよね。辛い、ですよね…だから、そろそろ、ゆっくりと眠るのもいいんじゃないですか?』
ワタシは、そう呼びかけた。
世界に呪われ、世界を呪い、抱えきれない未練を抱えたままの彼女たちを、ワタシは救いに来た。
…いや、それは烏滸がましいかもしれないが。
でも、だからこそ、伝えなければならない。
『ワタシは、あなたたちに救われて欲しいんです…』
『は なこ…たすけ て』
…助けを、求めてきた。
あの、『黒いヒトビト』が、ワタシに、対して。
『はい…はい!』
…やっぱり、だ。
分かり切っていたことじゃないか。
あの『黒いヒトビト』だって、ダレカに助けて欲しいんだよ!
『…ワタシも、毎晩毎晩、泣きながら神さまに『たすけて』と命乞いをしていました!』
この病気を治してください、と。
…ワタシが死ぬまで、その命乞いが神さまの耳に届くことはなかったけれど。
『これ、今まで誰にも言えなかった秘密なんですよ…』
お母さんやお父さん、おばあちゃんたちには言えなかった。
この言葉が呪詛となることが、分かっていたからだ。
そして、同じ境遇にいるはずの慎吾たちにも、言えなかった。
…単純に、弱音を吐くことが恥ずかしかったからだ。
『でも、あなたたちの前でなら、ワタシも全力で弱音が吐けます!』
『わたし も そうだ…た』
黒い少女の『声』が、ワタシの元に届けられる。
淡く脆い声が、今は心地よかった。
『やっぱり、そうですよね。いやあ、ワタシも…』
『わた も いの た…でも だれ も たすけて くれな た』
…少女の声は、簡素だった。
簡素だけれど、必死に伝えようとしてくる。
ワタシは、それを受け取らなければならない。一つも、取りこぼしがないように。
『あの…ワタシと、お友達になってくれませんか?』
そこで、言った。
本当の意味で、彼女たちとリンクするために。
『ワタシは、弱いんです…そして、あなたたちも弱いんです』
弱いからこそ、こうしてあのヒトたちは未練に囚われ続けている。
けど、その弱さは誰もが持っているものだし、何よりも捨ててはいけないものなんだよ、弱さって。
『ワタシと友達になって、たくさんお話をしましょう。辛いことや、恨み言を言い合いましょうよ…それが許されるのが、友達なんです』
昏く透明な世界の中、ワタシの泣き言が闊歩する。
…ワタシは、家族の前ではそれらの泣き言を口にすることができなかった。
『はな こともた ち なり い』
昏い世界の中、透明な声が、聞こえた。
はなこともだちになりたい
その『声』は、祈りにも似ていた。
脆くて純粋で、小さな祈り。
…世界からも神さまからも見放された、小さな祈り。
だったら、その祈りは、ワタシが受け取る。
『なりましょうよ…ワタシたちと、友達になりましょう』
きっと、慎吾や繭ちゃんたちだって友達になってくれる。一緒に遊んだりすることはできないかもしれないけれど、お喋りならできる。そのために、ワタシの『念話』はあったんだ。
『わた しも たい』
『ぼ くも』
ぽつぽつと、最初の『少女』以外の声も聞こえてきた。
昏い世界だけれど、その声はあちらこちらから聞こえてくる。
それらの声を呼び水に、声はさらに増える。
『とも たちに』
『こえ きき い 』
『な かよ くしたい』
いくつもの『声』が、聞こえてくる。
同時に、ワタシの体を乱雑に振り回していたあの感覚が、薄れていく。
今は、波間を揺蕩うようで、逆に心地がよかった。
「そうだね、仲良くしたいよね…だって、怖いもんね」
ワタシが『黒いヒトビト』を怖がるように、彼女や彼らも、世界を怖がっていた。
…結局、人類のすべてが弱者なんだ。
そして、弱者だからこそ、分かり合える。
『みんなで、友達になりましょう…きっと、楽しい、ですよ』
ワタシの声に、嗚咽が混じり始めた。
…ああ、そうか。
ワタシの方が、この『少女』たちと友達になりたかったんだ…。
あの頃のワタシと、あの『少女』を重ねていたから。
『なり たい 』
『 とも たち』
『たのし い?』
いくつもの『声』が明瞭に聞こえてくる。
そして、世界が、昏く…昏く、なくなってきた?
「晴れ…た?」
それまで、昏い世界のなかにいた。
けれど、そこに日差しがあった…?
「昏い…世界が?」
ほんの少しずつ、明るさを取り戻していく。
同時に、ワタシの足も地についた。これまでは、昏い世界の中で木っ端のように暴風に吹かれていたはずだったけれど。
「眩し…い」
昏い世界の中から、ワタシは元の異世界に戻ってきた。
…解放、されたのか?
唐突に変容した世界に、ワタシは混乱していた。それでも、時間が経過するにつれて脳が世界の変化に追いついてくる。
「戻ってきた…んだね」
あの、昏い世界から。
そう認識できたワタシは、自分の体を確認した。
…うん、どこも欠けたりしていない。
あの昏い世界の中では、自分の体さえ曖昧だった。指先や足先の感覚も朧気だった。
そこで、ようやくワタシは一息つくことができた。
「慎吾…繭ちゃん」
周囲を見渡せるようになって、ワタシは二人の姿を確認した。
「よお、花子…」
「…久しぶりだね、花ちゃん」
二人とも額から脂汗を滴らせ、肩で息をしている。二人も、ワタシと同じようにあの昏い世界の中で暴風に弄ばれていたようだ。
「せ…っしゃもいるで、ござるが」
雪花さんにいたっては、四つん這いの姿勢で生まれたての小鹿よりも四肢が震えていた。
…本人にその意図はないんだろうけれど、その姿勢だとこの人の大きな乳まで振動していた。
「大丈夫ですか、雪花さん」
「もーまんたい…でござるよ」
雪花さんはそう言うが、疲弊しているのは目に見えて明らかだ。ワタシよりも、慎吾たち三人の方が辛そうに見える。慎吾たちを巻き込むべきでは、なかったかもしれない。
「オレたちは、花子に巻き添えを喰ったわけじゃない…自分たちの意思であのヒトたちに会いに行ったんだ」
「慎吾…」
ワタシの思考を察したのか、慎吾はそう言った。
慎吾は、ワタシがみんなを巻き添えにしたと気に病まないように、そう言ってくれたんだ。
「ありがとう、慎吾…」
「オレたちに礼を言うのは後でいいよ…今は、あっちだろ」
「そう…だね」
ワタシは、そこで空を見上げた。
元の場所に戻ってきたということは、この空には、あのヒトたちがいる。
この世界を崩壊せしめる、『黒いヒトビト』が。
「…けど、友達になれたよね、ワタシたち」
先ほどまで、ワタシはあのヒトビトと『対話』をしていた。あのヒトたちにも、ワタシたちの『声』は届いていた。
なら、もう少しだ。
あのヒトたちの未練や無念を、なくしてあげるんだ。
この世界のためだけじゃなくて、あの『子』たちのためにも。
…あの『子』たちの辛さは、ワタシが一番、分かっているのだから。
『お帰り、花子ちゃん』
背後からかけられた声に、ワタシは振り返る。
「ただいま…おばあちゃん」
『私はおばあちゃんじゃないけどね』
そこにいたのは、『花子』にしてワタシのおばあちゃんのアリア・アプリコットだ。
いや、正確にはどちらも違うのだけれど、ワタシの正解はワタシが決める。今ここにいるのは、ワタシの『おばあちゃん』だ。『邪神の魂』などという魔力の塊ではない。
そして、おばあちゃんはワタシに問いかける。
『それで、見つかったのかい、崩壊を止める方法は』
「友達になったよ」
『とも…だち?』
ワタシの言葉が想定外だったのか、おばあちゃんは目を丸くしていた。
…この世界では英雄と呼ばれていたおばあちゃんを驚かせたことが、ちょっとだけ誇らしくなった。
「あのヒトたちはね、ワタシと一緒だったんだ。ワタシと同じように、運命に見殺しにされたんだよ…だから、友達になれたんだ」
ワタシは、遠い世界にいる『おばあちゃん』に話しかけるように、おばあちゃんに言った。
「ワタシには、おばあちゃんみたいに世界なんて救えないけど…でも、友達のためなら、ワタシも頑張れるよ」
以前の世界でのワタシは、努力ほど無駄なモノはないと思っていた。
…だって、どれだけ頑張っても、ワタシの身体は治らなかったから。
でも、違う。
ここでなら、あの『子』たちのためなら、頑張れる。
「あの『子』たちと対話をして、あの『子』たちの未練を断ち切るんだ」
そうすれば、きっと、ワタシも忘れることができ…いや、中和が、できる。
あの、辛くて苦しくて、呪われた日々を、少しだけ懐かしむことも、できるはずだ。
そこで、不意に空が鳴った。
いや、地面が鳴ったのか。
…どちらも、違っていた。
世界が、割れていた。




