132 『不運とダンスをしていましたから』
この異世界ソプラノに『転生』する以前のワタシは、レッテルに塗れていた。
もはや、ワタシがレッテルなのかレッテルがワタシなのか、剥離できないほどに癒着していた。
実際、ワタシという人間を形容するのに、他の言葉は必要なかった。
ただ一言『かわいそう』と言えば、それがワタシと成った。
事実、治療の方法が確立されていない難病にワタシは蝕まれていたのだけれど。
そんなワタシに、出会った人たちは口々に『かわいそう』と言っていた。『辛いよね』と勝手に哀れまれたこともあった。『分かるよ』などと、ティ〇ァールくらいの勢いで臍が茶を沸かす妄言を投げかけられることもあった。
…うるっせえわ!
確かに、あなたが思うより不健康でしたよ。
毎日毎日、辛い思いもしたよ。
あれだけ頑張ったリハビリだって、焼け石に水で終わっちゃったよ…。
それでも、どこの馬の骨とも知れないヒトたちに『かわいそう』なんて、そんな上っ面だけの言葉で理解したつもりになって欲しくはなかった。
彼ら、彼女らは自分たちが気遣いのできる高尚な人間だと酔い痴れるために『かわいそう』という下卑た言葉を口にしていた。
ワタシのことなど、微塵も見ていなかったくせに。
けど、それならそれでいい。
だって、ワタシには、家族がいたんだ。
病床のワタシが辛い時もお母さんがいてくれたし、仕事で疲れていても、お父さんはお見舞いに来てくれた。
…おばあちゃんなんて、毎日毎日、ワタシの傍にいてくれた。
「これのどこが、『かわいそう』なんだよ…」
だから、彼らの『かわいそう』はただの的外れだ。
ワタシが家族と過ごしたあの濃密な時間だけは、他の誰にも負けない。
…何よりも、ワタシが『かわいそう』なら、ワタシの家族だって『かわいそう』になる。
それだけは、絶対に認められなかった。
「…けど」
自分が一番、嫌っていたはずのレッテルを、ワタシは『黒いヒトビト』に対して張っていた。
彼女ら、彼らに対してナチュラルに『かわいそう』を口にしてしまっていた。
…『黒い』彼ら、彼女らを、自然に見下していたんだ。
その兆候はあった。
ワタシは、彼ら、彼女らを『ワタシたちになれなかったワタシたち』と呼んだことがあった。
アレが見下しでなくて、なんだというのだ…。
『すみません、傲慢以外の何物でもありませんでした…先ほど、ワタシがあなたたちに口にした言葉は』
謝罪の言葉を、『念話』で口にした。
目の前に、頭上に、足元にいる『黒いヒトビト』に対して。
他のヒトたちがワタシに対して『かわいそう』のレッテルを張る資格がないのと同様に、ワタシにも、黒い彼ら、彼女らに『かわいそう』のレッテルを張る資格などない。
『少なくとも、ワタシはあなたたちのことをもっと知らなければならなかったはずです。よく知りもしないで、勝手に同族のフリをするべきではありませんでした』
たとえ、ワタシとあのヒトたちが同じ傷を負っていたとしても、だ。
あのヒトたちにもあのヒトたちだけの過去があり、あのヒトたちだけの生きた証がある。
それを、疎かにしていいはずがない。
『 』
『 』
『 』
…『声』が、返ってきた。
それらは、先ほども聞こえていた『黒いヒトビト』の『声』だ。やはり言葉の意味は聞き取れなかったけれど、それでも先ほどより怒気が希薄になっていた。
「…謝ったのが、伝わったのかな」
言葉が通じなくとも、気持ちは伝わったということだろうか。
だとしたら、嬉しいな…。
『あ は の』
また、『黒いヒトビト』からの『声』が聞こえてきた。
…けれど、え?
「あのヒトたちの、声が…聞こえた?」
その声の全容が聞こえたわけではない。それどころか、ほんの少しの声が聞こえた程度、だ。やはり、言葉としては通じていない。それでも、これまで聞こえていなかったあのヒトたちの声が、微かとはいえ理解できた。
…あのヒトたちの『声』が、聞こえるようになった?
「ねえ、慎吾も聞こえたよね」
「ああ…オレにも、聞こえた」
どうやら、ワタシにだけ聞こえた虫のいい空耳ではなかった。隣りにいた慎吾にも、あのヒトたちの『声』は聞こえていた。
「慎吾の言う通りだったよ…あのヒトたちとコミュニケーションをとるためには、ワタシの方がもっとあのヒトたちに近づかないといけなかったんだね」
ワタシが『あなたたちの同類なんです』と叫んだところで、あのヒトたちにはそれを確認する手段がない。
…なら、もっとあのヒトたちに近づくためには。
「あのヒトたちの心のもっと深い部分に、触れる必要がある…」
小さく、心を結んだ。
それは、矮小なワタシができる、精一杯の覚悟。
「けど、花子…」
「ドロシーさんなら、可能ですよね」
言いかけた慎吾を遮り、ワタシは『魔女』のドロシーさんに問いかける。
「…本気で、あのカタガタのもっと深い部分に触れたい、と?」
ドロシーさんも、ワタシに問いかける。
その言葉の意味と重みが、ワタシに分かっているのか、と。
「ワタシがあのヒトたちと『念話』で話をするには、あのヒトたちのことを、もっと知らなければなりません。そのためには…」
「死にますよ」
ドロシーさんは迂遠な言葉は使わなかった。ただ、ワタシに対し、死ぬという現実だけを端的に突き付ける。
そんなドロシーさんに、ワタシは言った。
「心配してくれるんですね、ドロシーさん」
「…私はただ、事実を伝えただけです」
「でも、事前にワタシに教えてくれているじゃないですか。心配していないなら、それを伝える必要はないですよね」
「あなたのような『転生者』風情が思い上がらないでください…私は、『魔女』ですよ」
昏い世界の中、ドロシーさんの表情は見えない。それでも、言葉ほどの冷たさを彼女からは感じなかった。
だから、ワタシは続ける。
ドロシーさんの甘さに縋る。
「けど、できないとは言わないんですね、ドロシーさんは」
「できないとは言いませんが…やるとも言っていませんよ」
「このまま世界が滅んだら、ドロシーさんだって後悔するんじゃないですか?あの『黒いヒトビト』を見殺しにしてしまった、と」
実際、『黒いヒトビト』の崩壊は既に始まっている。
太古からずっとずっと、あのヒトたちは抱えきれない怨嗟を抱えてきた。その限界が、ここで訪れた。
…本当は、あのヒトたちも終わりを望んでいるのかも、しれない。
でも、ごめんなさい。
ワタシたちはまだ終わりたくないので、足掻かせてもらいます。
「私は、無理矢理この異世界に連れて来られた被害者ですよ…どうせ元の世界に戻れる当てもありませんし、この世界が滅ぼうがあのカタガタが崩壊しようが知ったことではありません」
ドロシーさんはそう言っていたが、それが額面通りの意味だとは、ワタシには思えなかった。
この『魔女』こそが、あの『黒いヒトビト』の最大の理解者にして保護者なのだから。
「もし、ドロシーさんが元の世界に戻れるとしたら、どうですか?」
「…元の世界に、戻れる?」
ワタシの言葉に、ドロシーさんは小さく喰い付いていた。
「しかし、そんなことはできないはず…でしょう」
一度は喰い付いたドロシーさんだったけれど、自身でその可能性を否定する。
「でも、ドロシーさんをこの異世界に連れてきたのは『黒いヒトビト』ですよね。あのヒトたちなら、ドロシーさんを元の世界に戻すことだってできるんじゃないですか」
「しかし、あのカタガタの望みはこの異世界の崩壊です…それが叶えば、この世界は丸ごと消滅するのですよ。私だって、例外なくその崩壊に巻き込まれます」
「その『黒いヒトビト』の崩壊を止めることができれば、ドロシーさんが元の世界に戻れるかもしれないじゃないですか」
「たとえこの世界の崩壊を止められたとしても、私が元の世界に戻れる保証などありませんよ…」
ドロシーさんは、ため息のような吐息を小さく吐く。
そんなドロシーさんに、ワタシは言った。
「『魔女』ともあろう人が、簡単に可能性を否定するんですか?」
「…どういう意味ですか」
「こちらには、『女神さま』もいるんですよ」
ワタシは、自慢の女神さまを自慢した。
「アルテナさまなら、ドロシーさんを元の世界に戻すこともできるかもしれませんよ…あの『黒いヒトビト』と手を携えることができれば」
「女神…アルテナ」
ドロシーさんは、アルテナさまの名を呼ぶ。馴染みがないからだろうけれど、その声はややぎこちなかった。それでも、その胸には淡い期待が宿っているようだった。
「だから、先ずはあの『黒いヒトビト』を止めましょうよ」
「だから、これ以上あのカタガタに深入りすれば花子さんの精神が死ぬと言っているのです」
ドロシーさんの言葉には本気が混じっていた。どうやら、単純な脅しではないようだ。
…ヤバいね、ちょっと怖気づきそうだよ。
「そこをなんとか、『魔女』であるドロシーさんが守ってくれませんか」
「あのカタガタがどれだけ悲惨な末路を辿ったか、花子さんなら容易に想像ができるはずです。そんな彼らが何億、何十億といるのですよ…にもかかわらず、あのカタガタの最も深い部分に触れるなど、正気の沙汰ではありません。たとえ私が守ったとしても、気休めにもなりませんよ」
「でも、ほんの少しだけですけれど、ワタシたちにもあのヒトたちの『声』が聞こえました…『黒いヒトビト』たちとの完全な対話ができれば、あのヒトたちを蝕む呪詛から解放できるかもしれないじゃないですか」
これまでは、あのヒトたちを助けたいと口にしていても、その具体的な方法は浮かばなかった。けれど、コミュニケーションの糸口がここで掴めた。
そして、気付いた。
…『黒いヒトビト』も、ダレカとの対話を望んでいるのではないか、と。
本当は、ダレカと話がしたかったのではないか、と。
それは、希望的観測だったかもしれないけれど。
「だから、その対話をすれば花子さんが死ぬと言っているのです…絶望に塗れたあのカタガタの心に触れて、無事で済むとは思えません」
「そうでしょうか…ワタシだからこそ、耐えられると思うんですよ」
「花子さん…だから?」
ドロシーさんの表情は見えないが、それでも彼女が目を丸くしていることは容易に想像できた。そして、ワタシは続ける。
「不幸や絶望には強い耐性があるんですよ、ワタシって…以前の世界では、かなり不運とダンスをしていましたからね」
これは、今ここで思いついた強がりだったけれど、悪くない強がりだった。
…というか、本当にいけるかもしれない。
「だから、ドロシーさんやみんなが支えてくれるなら、ワタシはあのヒトたちと対話ができると思うんです」
「しかし、絶望に耐性があるといっても…」
「お願いします、ドロシーさん…病気で苦しんでいたあの頃のワタシの時間が、無駄ではなかったと証明させてください」
「…苦しんでいた時間が、無駄ではなかった、ことを?」
「以前の世界でのワタシは、生まれつき治療法のない病に侵されていました」
昏い世界の中に、ワタシの声は沈殿していく。
それらの言葉は、この昏い世界の中にあっても影を落とす。
「辛い。苦しい。悲しい。当時のワタシを支配していたのは、色とりどりのネガティブな感情でした。そして、何度も願ってしまいました…さっさと天国に召されてしまいたい、と」
おばあちゃんたちの前では、絶対に口にできなかった言葉を、ワタシはここで口にした。
そのタブーを口にしたのは、ドロシーさんにワタシの本気を伝えるためだ。
「そんなワタシだからこそ、絶望には耐性があるんですよ…なので、証明させてください。苦しかったあの日々が、悲しかったあの時間が無駄ではなかったと、ワタシに思わせてください」
「花子さん…」
「ワタシがこの異世界に『転生』をしたのは、あのヒトたちと対話をするためだったのかも、しれません…運命なんて言葉を引き合いに出すのは、あまり好きではないんですけどね。運命には、ずっと意地悪をされてきましたから」
しかし、その運命がワタシをこの場所に導いたのかもしれないと、今だけは『運命』と手をつなぐことにした。
「そこまで覚悟をしているということですか」
小さな吐息を、『魔女』は漏らしていた。
そして、告げる。
「分かりました。けれど、それで花子さんが命を落としても責任は負いませんよ」
「ありがとうございます、ドロシーさん」
覚悟は、既に決まっている。
そんなワタシの肩に、手が乗せられた。
その形状も温もりも、ワタシは知っていた。
「花子が死ぬときは、オレたちも一緒だよ」
「慎吾…でも」
「どっちにしろ、ここであのヒトたちを止められないとこの世界そのものが壊れるんだろ。なら、オレは花子と一蓮托生の方がいい」
慎吾の声にも、覚悟は滲んでいた。
いや、慎吾だけではなかった。繭ちゃんも雪花さんもシロちゃんも、ワタシの手に触れている。昏い世界の中で何も見えないけれど、それでも分かった。ワタシの傍にはみんながいる、と。
「ワタシも覚悟はしてるよ。でも、この先は今までで一番、大変だと思うから…もし、途中でおしっこをチビっちゃったりしても、引いたりしないでよ」
「その時は、オレが花子のパンツを洗ってやるよ」
「『骨は拾ってやる』的なニュアンスで言ったのかもしれないけど、それ普通にドン引きだからね…」
「…ああ、普通に失言だと思うから忘れてくれ」
慎吾としてもやらかしたと思っていたようだ。そこで少しだけ微妙な空気になったけれど、その後でみんなで笑っていた。
…うん、いつものワタシたちだ。
「絶望の背比べなら、ワタシだって負けないよ」
声にならない声で、小さく呟いた。
そして、その次にドロシーさんに頼む。
「よろしくお願いします、ドロシーさん…」
「本当に…どうなっても知りませんよ」
「そう言いながら、ワタシたちに付き合ってくれるんですよね」
この『魔女』は、お人よしにもほどがある。
「無駄口はここまでですよ。花子さんとあのカタガタの心をリンクさせます…死なないでくださいよ」
「やっぱり、ドロシーさんはお人よしで…」
…最後まで、言えなかった。
一瞬で、ワタシの体は吹き飛ばされた。
いや、引き寄せられたのか?
ワタシの体が、ビリヤードの玉のように弾けていた?
今、自分がどうなっているのか、その認識すらできなかった。
「え、ちょ、と…これ」
対話どころじゃ…な?
ナニカが、ワタシの胸を突き刺した…!?
呼吸が止まり、心拍すら止まったかと思われた。
脳に酸素が送られず、視野が狭窄する…。
「ワタシの中に、ナニカが…?」
クロいナニカが侵食してい…る?
…このまま、胸を喰い破られる?
けれど、最初は畏怖しか感じなかったが。
「ああ、ちょっと懐かしいね、この感覚…」
このナニカには、馴染みがあった。
以前の世界では、嫌というほど味わったあの感覚。
どうあっても抜け出せず、それらは延々と注がれる。
これは、絶望だ。
…あの、『黒いヒトビト』の。
「よし…少し落ち着いてきたね」
今も、ワタシの体は宙づりのまま乱暴に振り回されているような状況だった。これが、『黒いヒトビト』の精神に触れるということなのだろう。
しかし、彼女ら、彼らの絶望が染み込んできたことで、逆にワタシは落ち着きを取り戻した。
『ワタシと、お話をしてくれませんか?』
彼女ら、彼らの絶望に浸かりながら、言った。
虚空に向けて、ワタシは声を放つ。
『ど だ?』
『 き こ 』
『ま えた』
…聞こえ、た。
さっきよりも、ほんの少し、明瞭に。
『ワタシは田島花子…あなたたちとお話がしたいんです!』
できる限りの大声で名乗った。
さあ、もう後戻りはできないぞ。
『う い』
『 も だ』
『こ せ』
ざわざわと、周囲のあちこちから声がする。
昏い世界の中、『黒いヒトビト』の声が。
…ワタシの心臓も、早鐘を打つ。
『ワタシは、あなたたちの味方です!』
これは、先ほど失敗したのと似た言葉だ。
けど、敢えて踏んだ同じ轍だ。
『 』
『 』
『 』
当然、『黒いヒトビト』はワタシの言葉に反発した。
そうだよね、よく知らない人間に分かった気になられても嬉しくなどない。
けど、ここから先は、違うよ。
『ワタシはあなたたちの味方です。今なら、分かってもらえますよね…今のワタシたちは、心がリンクしているんですから!』
そう、ワタシたちは、『魔女』のお陰で精神的にリンクしている。
『だから、あなたたちにも…ワタシの絶望が伝わっているはずですよね!!』
あのヒトたちの絶望がワタシに流れ込んでいるのなら、それと同時にワタシの絶望も『黒いヒトビト』に伝わっている。それが、リンクというものだ。
そのリンクの中、ワタシは言った。
『本当は、渋い紅茶と甘ったるいお菓子でも用意してティーパーティとか開きたいところだったんですけれど、残念ながら『絶望』しか用意できませんでした…それでも、ワタシたちと『お喋り』をしてくれますか?』




