131 『それはいわゆる、コラテラルダメージというヤツに過ぎないんだよね』
『ワタシは…あなたたちの敵ではないんです!』
昏い世界の中で、叫ぶ。
足元も昏い。頭上も昏い。
一寸先も闇という、全てが昏く塗り潰された色のない世界だ。
色がなければ、何もかもが、その存在の価値を失う。見失う。
色があってこそ、その存在が認識できるようになる。認識ができるからこそ、存在は存在として認められる。
それが認められないということは、この場所ではワタシの存在そのものが認められないのと同じだった。
「…………」
昏い世界の中、昏い潮流が、吹き荒ぶ。
色のない波にワタシの体は翻弄され、意識は撹拌される。
脳の中身がダイレクトにシェイクされているようで、自分が何をするためにここに来たのか、それすら忘却の彼方に吹き飛ばされそうになる。
それでも、『念話』で叫んだ。
そのために、ワタシはここに来た。
この小さな背中をみんなに押してもらいながら、えっちらおっちら、と。
『あなたたちと、お話がしたいんです!』
ワタシは呼びかける…けれど、『黒いヒトビト』からの返答は、なかった。
ただただ、色を失った世界の中でワタシの声がこだましていただけだ。
…ワタシは、本当に叫んでいたのだろうか?
ワタシという存在は、本当にこの場所に存在していたのか?
色を失った世界の中、自身の存在すら、信じられなくなりつつあった。
「あ…れ?」
…けれど、変化が起こっていた。
不意に、奔流が、止んでいた…。
いや、弱まっていたのか?
いや、うん、止んでいる。
いつ止まったのかは分からなかったが、昏い潮流は終わっていた。
あのまま撹拌され続けたなら、ワタシという存在はこの昏い世界に擂り潰されていた。
『 』
…え?
そこで、ナニカが、聞こえた?
この昏い世界に放り込まれてから、ワタシの三半規管はまともに機能していなかった。地に足がついていない感じだ。そして、視覚や聴覚もまともに機能しているのか不安になっていた。
それでも、ナニカが聞こえてきた。幻聴などではない、何らかの『声』が。
『うん、やっぱり『声』が、聞こえた…もしかして、『黒いヒトビト』です、か?』
この『黒いヒトビト』という呼称はワタシが勝手に付けたものだ。この呼びかけで応答があるかどうかは分からない。
…それでも、小さな反応は、あった。
小さいけれど、その存在感は破格だった。
『 』
…不意に、心臓を鷲掴みにされた、気がした。
実際にはそんなことはないのだが、不意に聞こえてきたその『声』にワタシの心臓が縮みあがったのは事実だ。
そして、それは虚空に溶ける『声』だった。
何も聞き取れず、ワタシの体を、不躾に素通りしていく。
人や動物と行う、体温を介したコミュニケーションとはまるで違う。
接触というより、それは、捕食に近いものだった。
勿論、ワタシが喰われる側だ…。
「…それでも、反応はしてくれた」
思っていたよりも、その『声』は小さい。というか、『黒いヒトビト』の一割くらいのヒトたちだけが呼応してくれた、という感じだろうか。
「…ワタシの独り相撲じゃあ、なかったんだ」
この昏い空間に、一人ぼっちでないことに安堵をした。
そして、自分の頬を軽く張って気合を入れ直す。
一歩を踏み出してなお、ここからが本当のスタート地点だ。
…頬を張った感触も、その音もなかったけれど。
『あの、はじめまして、よろしくお願いします…』
恐る恐るだが、とりあえず無難な挨拶はできた…。
いや、無難かどうかも分からない。正直、動揺が大きくて自分が何を言っていたのかも分かっていなかった。足は震えているし、気合を入れ直したくらいで、怖がりのワタシがこのヒトたちと相対できるはずもない。
…だって、この昏い世界そのものが、彼ら、彼女らそのものだ。
ワタシなど、その箱庭に入り込んだ羽虫に過ぎない。
『あの、お話を、聞いてください…』
たとえワタシが羽虫でも、このヒトたちには聞いてもらわないといけない。可能な限り、声と勇気を振り絞る。
『 』
またも、声なのかどうか分からないあの『声』がする。何を言っているのか、ワタシには聞き取れなかった。それでもあのヒトたちはワタシの声に応えてくれた。なら、ワタシは『対話』を続けられる。たとえ、お互いに言葉が通じなかったとしても。
『あの、ワタシは…あなた方と話をしたくて、ここに来たんです』
少しでもこのヒトたちの怨嗟を抑えることができれば、世界だって壊れされない…そのための対話だ。
ワタシの『声』は、この昏い虚空に響く。
それを、『受け入れられている』と、認識した。
拒絶ではないのだから、受容だ、と。
『 』
実際、彼ら、彼女らに『声』を返してくれていた。その『声』をワタシは理解できなかったけれど、それでも、『黒いヒトビト』もワタシたちを理解しようとしてくれている、と。
…そう思っていた。浅墓にも。
『あの、あなたたちの辛さは分かります…ずっとずっとこんな薄暗い場所に押し込まれて、延々と世界を呪い続けることがあなたたちのためになるとも思えません』
ワタシは、虚空に訴えかける。
懸命に、そして、独り善がりに。
『だから、一緒にこんな昏い世界から抜け出しましょう!大丈夫です、ワタシたちもあなたたちと同じです!辛い思いをしていますから!あなた方もそうですよね、こんな陰鬱な場所にはいたくないですよね!?』
尚も、熱を込めて叫び続ける。
それが独善と呼ばれるものだと、気付かないままに。
『 』
『 』
…………え?
やはり、ワタシには『黒いヒトビト』の言葉は分からない。
それでも、彼らの『声』に変化があったのは分かった。
じわり。じわり。ぞわり。
この虚空では、熱気も湿気も感じなかった。
ここでは、そういったものは削ぎ落されていた。
はずなの、に…?
「あ…せ?」
ワタシは、汗をかいていた。
何も見えない。何もない虚空では、自分のバイタルなんて把握できない。
それでも、ワタシの背筋を冷たい汗が滴っていたことは、理解できた。
…そして、鼓動も早くなる。
「どう、し…て?」
その思った矢先、異変は起こっていた。
『 』
『 』
『 』
…『声』が、反響していた。
これまでは『声』が聞こえていても、複数ではなかったし、そこに揺らぎはなかった。
けれど、今は、違う。
いくつもの『声』が、同時に響いていた。
その残響で、震えていた。
この昏い世界そのものが、振動していた。
「え…あの、その?」
明確に、違っていた。
これまでは、隔絶された世界の中、ワタシと『黒いヒトビト』の中の誰か一人が向き合っている印象だった。
けれど、今は違う。
…幾重にも、取り囲まれている。
幾つもの視線が、ワタシを捉えている。
その視線だけで、ワタシのようなちっぽけな存在は、いとも簡単に引き千切られてしまいそうだった。
『あの、落ち着いて、ください…ワタシは、かわいそうな人生を送ったあなたたちを、助けたいんです!』
虚空に向かって、『念話』で叫ぶ。
三半規管が狂い、上下の区別も分からない今のワタシだったけれど、それでも頭上に向かって叫んだ。怯えながら、それでも真摯に。
途端、空の振動はさらに大きくなる。
…空が裂けるかと、思われた。
『 』
『 』
『 』
『 』
彼女ら、彼らの『ことば』は分からない。
その言葉の意味は、ワタシには届かない。
…それでも、その『声』に怒気が混じっていたことだけは、理解できた。
「どうして…?」
なぜ、怒っている?
ワタシは、ただ、このヒトたちを助けに来ただけだ。
怖いのを我慢して、ここまで、やってきた。
…それなのに、このヒトたちはワタシを、受け入れては、くれない。
『あの、ワタシは、あなたたちの人生が、本当に、かわいそうで…それは、嘘じゃないんです!』
さらに、『念話』で叫ぶ。
…これは、ほぼ命乞いだった。
それほどの怨嗟を、感じた。
あのヒトたちの怒りの対象は、この異世界ソプラノだったはずだ。
それなのに、その怒りの矛先が、ワタシに、向けられ…ている?
「なん、で…?」
ワタシは、『黒いヒトビト』の敵じゃない。
かわいそうなこのヒトたちを、助けに来たんだ。
…それなのに、どうして、敵視をされないといけない?
『お願い、します。ワタシの話を聞いてください。ワタシは、不幸なあなたたちをこんな場所から抜け出させるために…!?』
…地面が、揺れた?
いや、空が鳴動している?
この空間の全てが、震えていた。
それも、怒りによって…?
『 』
『 』
『 』
『 』
…『声』の一つ一つが落雷のように、場を振動させる。
直撃すれば、ワタシなんて簡単に塵になる。
「…どうし、て?」
ワタシは、この場所にこのヒトたちを助けるために来た…はずだった。
…拒絶される理由は、なかったはずだ。
それなのに、このヒトたちは今、全力でワタシを否定している。
「あぁ…うぁぁぁ」
…こわ、い。
だって、こんなの、怖すぎるよ。
何もない虚空で、たった一人で、それでもワタシは踏ん張っていた。
だって、ここでこのヒトたちの怨嗟を失くさなければ、世界が滅ぶんだ。
そして、それができるのが、ワタシだけなんだ…。
「で、も…」
こわいこわいこわい。
何も見えない。言葉も通じない。
それなのに、向こうは簡単にワタシの命を摘み取ることができる。
…その辺の雑草でも、抜くように。
そして、跡には何も残らない。髪の毛の、一本すら。
『「うあぁぁあぁあ!いやだいやだいやだぁ!!助けて、助けて…ダレカ助けてよおおおおおぉ!?」』
張りつめていたモノが、ぷっつりと、切れた。
堰き止めていた感情が、一斉に溢れた。
一度でも溢れたソレらは、止まらない。
『「ひとりはいやだいやだいやいやだあああぁ!?こんなとこにいたくないよ!!早く!早く外に出してよぉ!?ワタシは何にも悪いことしてないよね!!?」』
恥も外聞も知ったことか!
ワタシは弱い!一人は怖い!
だったらダレカが助けてよ!?
『「こんなワタシに世界なんて救えるはずないでしょおぉよ!?」』
弱音は、止まらなかった。
そして、ワタシの肩にナニカが、触れた。
「いやあぁぁ!?」
もはや発狂寸前だった。
いや、ワタシは既に狂っていたのか???
「落ち着け花子!」
「こわいこわいこわいたすけてたすけてたすけて!?」
ナニカの声が聞こえてきた!?
え、なんで!?
ここで声なんて聞こえるはずないでしょ!??
「だから落ち着けって」
「いやあああああぁ!?」
再び聞こえた『声』に、ワタシは叫ぶことしかできない。
だってワタシは弱いからだ。だから叫ぶことしかできないんだ。
…あたたかく、なった。
この場所には熱なんかなかった。湿度も存在しなかった。ただただ、簡素な世界だった。
その場所に、温もりがあった。
「少しは落ち着いたか?」
「…もしかして、慎吾?」
温かかったのは、慎吾が抱きしめてくれていたからだ。いや、慎吾の姿は見えないけれど、『声』は聞こえていた。
…その『声』も、温かかったんだ。
「どうして、慎吾が…ここに?」
極限まで狼狽していたワタシは、それしか言えなかった。
「どうしてって言われてもオレにもよく分からないんだが…ただ、花子が泣いてる『声』が聞こえてきたんだよ」
「あ、さっきのあれ、かな…?」
無意識だったけれど、ワタシは『念話』を発動して泣いていたのか。
そして、それは慎吾に届いていた。
…だから、こうして慎吾は来てくれた。
「言っておくけど、慎吾お兄ちゃんだけじゃないからね」
「繭ちゃんも!?」
「拙者とシロちゃん殿もいることをお忘れなく」
「雪花さんにシロちゃんまで…?」
慎吾だけではなかった。
繭ちゃんも雪花さんもシロちゃんも、ワタシのすぐ傍にきてくれた。
「みんなも、来てくれたんだね…」
「来たというか、最初からいたんですよ」
「その声は…ドロシーさん?」
不意打ちのように、『魔女』の声も聞こえてくる。
そして、ワタシたちに言った。
「花子さんたちは、お互いがお互いを認識できていなかったようですね。いえ、あのカタガタの呪詛が大き過ぎて五感が阻害されていたといった方が正しいでしょうか。なので、この昏い世界の中では気付くことができなかったのです。最初から、あなたたちは隣りにいたのに」
「そうだったんですね…」
「しかし、花子さんが『念話』を使用したことで、お互いに認識できる範囲が拡張されたのでしょう。だから、これまで見えなかった隣人の姿を認識できるようになった、ということですよ。よかったですね、花子さん。恥も外聞もなく泣きじゃくった甲斐がありましたよ」
「…そう、だったんですね」
泣き虫だったお陰と言われても、ワタシは胸を張れないのだ。
「じゃあ、最初からみんなここにいたんだよね…なら、あのヒトたちにワタシの説得が通じなかったってことも分かってるよね」
ワタシは、『黒いヒトビト』に対して真摯に語りかけた。
しかし、結果はご覧のありさまだ。今も『黒いヒトビト』の怒気は収まっていない。
そして、あのヒトたちを怒らせてしまったのは、ワタシだ。しかも、その原因どころか遠因すら分からない。
「ワタシは一生懸命に説得したんだよ、この昏い世界から抜け出しましょうって…でも、それが逆にあのヒトたちを怒らせてしまった」
この世界は、まだ昏いままだ。
みんなが傍にいることは分かったけれど、それでもその姿は見えない。声が聞こえるだけでもありがたいけれど、次に瞬間には、みんなが『黒いヒトビト』に潰されてしまうかもしれない。
…それだけのヘタを、ワタシは打った。
「まあ、あのヒトたちを怒らせたのは花子だろうな」
「…しん、ご?」
姿は見えない。辛うじて声が聞こえるだけ。
そんな世界の中、慎吾の言葉はワタシを抉った。
ワタシは今、慎吾に責められていた…?
…それは、嫌だった。
慎吾は、今までは何があってもワタシの味方でいてくれたのに。
昏い世界の中、ワタシの目の前がさらに昏くなる。
…でも、ぬくもりが、伝わってきた。
「慎吾…?」
この体温は、慎吾のものだった…。
「あのヒトたちが怒ったのも無理はないよ。花子は、大事なことを忘れてるじゃないか」
「ワタシが、大事なことを…?」
何を、忘れていたというのだろうか?
そんなワタシに、慎吾は言った。
「花子は、自分が生まれてきたことが不幸だと思うか?」
「ワタシは…」
考え込む。
この昏い世界に来てから、ワタシはずっと焦燥していた。
何も見えない世界。
足元さえ覚束ない世界。
そんな世界で、平静でいられるはずがない。
でも、平静でいられなかったとしても、慎吾の問いには答えられた。
多少の時間はかかったけれど。
「ワタシは、確かに不幸な星の元に生まれたとは思う…多分、それは否定のできない事実だよ」
この体は、難病に蝕まれていた。
他の子が当たり前にできることができなくて、他の子が当たり前に享受できるものが何も受け取れなかった。
…そうか。
慎吾が言いたかった言葉は、コレかぁ。
「でも、ワタシの人生は…他のダレカに『かわいそう』なんて哀れまれるものじゃなかったよ!」
「花子…」
「というか、『かわいそう』なんて烙印を勝手に張られたくないよ!だって、ワタシにはやさしいお母さんがいた!面白いお父さんもいた!それに…世界で一番、ステキなおばあちゃんがいたんだよ!そんなワタシが『かわいそう』なわけがないじゃん!」
思いの丈をぶちまけた。
確かに、以前の世界ではワタシに『かわいそう』を言うヒトたちはたくさんいた。あの子は病気で不幸で、だから、遠回しに蔑んでも『いい』のだ、と。
ふざけるなっての…。
ワタシが不幸かどうかは、ワタシが決める!
そこで、慎吾の顔を見た。
昏い世界の中では、その表情は微塵も見えなかった。
…でも、残念だったね。
慎吾の顔なら、どれだけ昏い世界の中でもはっきりと見えるよ。たとえ、見えなかったとしてもね。
そして、慎吾は言った。唇の左端を、軽く持ち上げて。
「なんだ、よく分かってるじゃないか」
「まあね…でも、ワタシはこれと同じことをあの『黒いヒトビト』にやっちゃったんだね」
勝手に『かわいそう』パネルに嵌めて、歪にカテゴライズしてしまった。
…そりゃ、怒って当然だよね。
「怒らせてしまったなら謝ればいいだろ。ギルドじゃ、花子はいつも失敗して謝ってばかりじゃないか」
「あのね、慎吾…それはいわゆる、コラテラルダメージというヤツに過ぎないんだよね」
「いや、自分の失敗をそんなわけの分からない場所に棚上げるなよ…」
ここは、昏い世界の中だった。
それでも、今この瞬間だけはいつものワタシたちの時間が流れていた。
…それだけで、ワタシはワタシでいられた。
「でも、慎吾の言う通りだね…ちょっくら頭を下げますか」
「ああ、オレたちも一緒に謝るから心配するなよ」
「慎吾…」
慎吾は、そこでワタシの頭にポンと手を乗せた。
気合を入れるために張った頬には何の感触もなかったはずなのに、慎吾の手の感触は、しっかりとワタシの頭に残っていた。
うん、こういう現金な自分が、ワタシは嫌いではないのだ。




