129 『この風、この肌触りこそ戦場でござるよ!』
どろどろ。どろとろ。
とろどろ。どろどろ。
どろどろ。
昏く不可視の波動が、緩慢に這い寄る。
粘性の波動が、ドロシーさんの内側から漏洩していた。
滾々と湧き出る昏い波動が、ワタシの足首に纏わりつき、這い上がり、首筋に触れる。
…地膚が、痺れた。
昏い波動が、毛穴からワタシの中を浸食する。
波動は、『黒いヒトビト』と同種のものだった。
「それは、あのカタガタに対する冒涜…ということですね」
そう語るカノジョの瞳は、『魔女』だった。
これまで、ドロシーさんとは何度も言葉を交わしてきた。『花子』も一緒になって、川釣りに興じたこともあった(ドロシーさんだけボウズだったけれど)。
だから、少しは、分かり合えたと思っていた。
向こうも、そう思ってくれていると、思っていた。
たとえ、ドロシーさんがこの異世界を崩壊に導く『魔女』だとしても。
いや、実際、この人はワタシのことを特別扱いしてくれていた。
だから、ドロシーさんはワタシを誘ったんだ。
『一緒にこの異世界を滅ぼしましょう』と。
それに対し、ワタシも真摯に返事をした。
あの『黒いヒトビト』に対して、ずっと考えていた答えを。
それが、洗脳だった。
…『魔女』は、激怒した。
誰よりも『黒いヒトビト』に寄り添っていたドロシーさんだからこそ、洗脳などという返答は受け入れられなかった。カノジョからすれば、その選択は、あのヒトたちに対する裏切りに他ならない。
けれど、ワタシは言った。
「聞いてくださいよ、ドロシーさん」
「あのカタガタは、死してヒトとしての形を失いました…それなのに、あのカタガタに残された最後の轍である心まで奪うつもりですか」
ドロシーさんからは、尚も昏い波動が溢れてくる。それこそ無尽蔵に。いや、無尽蔵なのは当然か。あの波動は、『黒いヒトビト』から漏れ出ているのと同じだ。ドロシーさんの怒りは、『黒いヒトビト』の憤怒を代弁したものだ。
けど、ほんの少しだけだが、ワタシだって『黒いヒトビト』に触れた。
だから、分かることもある。
「やっぱり、ドロシーさんはやさしい『魔女』ですよね」
「…私が、やさしい?」
ドロシーさんの怒気が、そこでほんの少しだけ霞んだ。
そんなドロシーさんに、ワタシは続ける。
「この異世界でたったの一人だけですよ。『黒いヒトビト』を蔑ろにされて、本気で怒れるのは」
「それ、は…」
ドロシーさんは、何を言えばいいのか分からなくなったように口籠った。
うん、やっぱりそうだ。
この『魔女』は、底抜けのお人よしなんだ。
お人よしだからこそ、あの『黒いヒトビト』を見捨てられない。
見捨てられないからこそ、怒っている。
ワタシが、この異世界で数々の苦痛を受けた『黒いヒトビト』の心を洗脳で塗り変え、『なかった』ことにしてしまう、と。
しかし、ドロシーさんだってこの異世界ソプラノとは別の世界の人間だ。
それどころか、彼女は、この異世界に拉致された被害者だ。
しかも、『黒いヒトビト』のためにこの世界を滅ぼせと無理難題を押し付けられて、元の世界にも戻れない。
それなのに、この人は『黒いヒトビト』を『なかった』ことにはできないんだ。どうしても。
ワタシは、『黒いヒトビト』に埋め尽くされた昏い空を見上げ、ゆっくりと口を開いた。
「『黒いヒトビト』には、二つの権利があるんですよ」
「二つの…権利?」
ドロシーさんはオウム返しに呟く。その表情はまだ怪訝だったけれど、それでもお人よしの『魔女』はワタシの言葉に耳を傾けてくれていた。
「この世界を憎む権利と…この世界を赦す権利ですよ」
「憎む権利は分かりますが、この世界を赦す権利…?」
ドロシーさんは、さらに怪訝な面持ちになっていた。
ワタシは続ける。ドロシーさんとワタシの間にある、深い溝を均すように。
「人は、生まれると同時に色々な権利を与えられます。美味しいご飯を食べる権利や、綺麗な景色を見る権利、友達と楽しい遊びに興じる権利…」
「…その権利を無残に奪われたあのカタガタには、この異世界を憎む権利があるはずです」
「そうですね。けれど、憎む権利があるということは、それと同時にこの世界を赦す権利も与えられているはずですよ…その二つは表裏一体なんですから」
「その赦す権利とやらがあのカタガタにあったとして…それを行使するとでも?」
ドロシーさんの瞳が、再び『魔女』の色に染まる。
ワタシは、ただの人間の瞳で『魔女』を見返す。
「使わないかもしれませんね」
「当たり前でしょう…」
「でも、赦す権利を使わなければ、あのヒトたちが後悔をするかもしれないじゃないですか」
「…あのカタガタが後悔しているとすれば、尚更この異世界を赦さないはずです」
そう語る『魔女』は、『黒いヒトビト』とはその痛みを共有している。
ワタシは、痛む『魔女』に言葉を返した。
「それは、あのヒトたちを見捨てているのと同じですよ」
「見捨て…る?」
「だって、何かを憎み続けるのって、しんどいですよ」
そう、しんどいんだよ。
楽しいことや美味しいことがあれば、心は緩む。でも、それらと比べて、憎むことは心が軋むんだ。
「それなのに、ドロシーさんはあのヒトたちに憎み続けろって言うんですか?」
「…花子さんに、何が分かるというのですか」
「ワタシが『黒いヒトビト』と同じだと言ったのはドロシーさんですよ」
そこで、ドロシーさんの眉が小さく痙攣した。
その反応を見てから、口にした。ワタシにしか言えない、ひどく冴えない言葉を。
「ワタシだから分かるんですよ。生まれた時からずっとずっと、世界から見捨てられ続けていたワタシだから、分かるんですよ…ナニカを憎み続けることで、どれだけ心が摩耗するか」
不幸を笠に着るようでやや高慢な物言いになってしまったけれど、少しは強い言葉を使わなければ、通る言葉も通らない。
ドロシーさんもそれを傲慢と取ったのか、強い言葉で返してきた。
「だから、彼らを洗脳してその不幸を『なかった』ことにして『あげよう』と宣うのですか」
「恩に着せようなんて思っていませんよ。そもそも、あのヒトたちを『洗脳』なんてしませんから」
「洗脳は…しない?」
不審なモノを見る瞳で、『魔女』はワタシを睨む。
無理もないけどね、洗脳装置なんて益体もないモノを持ち出したのはワタシだ。
「それでは、花子さんは何のためにあんなモノを持ってきたのですか…」
「あの『黒いヒトビト』と対話をするためですよ」
「対話…を?」
できるわけがない、というニュアンスをドロシーさんは言外に含んでいた。
ワタシは、そこで姿勢を整えた。その動きに合わせて、スカートも軽く翻る。
「ワタシには『念話』というユニークスキルがありますが、おそらく、あの『黒いヒトビト』と直接の対話はできません。ほんの少し触れただけでも分かりました、あのヒトたちがどれほどの深さでこの世界を呪っているか…無理に『念話』で語りかければ、その呪詛でワタシの心は焼かれます」
「なら、どうやって対話をするというのですか?」
「あのヒトたちと対話ができるように、この洗脳装置で『心』をやわらかくさせてもらいます」
「…………」
「あくまでも、ワタシの話を聞いてもらえるように落ち着いてもらうだけです。あのヒトたちの心を塗り潰してしまおうとは思っていません」
「そう…ですか」
ドロシーさんの言葉は、やや歯切れが悪かった。ワタシの言葉が信用に値するか吟味しているんだ。
しかし、少し黙った後でドロシーさんはその問題点を指摘した。
「たとえ、その洗脳装置とやらで対話ができるようになったとしても、それは、あのカタガタの心に触れることになります…花子さんが死なない保証はどこにもありませんよ」
ドロシーさんは、簡素な言葉で口にした。
簡素だからこそ、実感を伴った。『黒いヒトビト』に触れれば、ワタシはここで死ぬぞ、と。
「当然、ワタシは死にたくありません」
「花子さんが死にたくないと言ったところで…」
「なので、ドロシーさんも一緒に『念話』で語りかけてください」
「…はい?」
ドロシーさんは、瞳を見開いて驚いていた。
ワタシは、またも『魔女』の度肝を抜くことに成功したようだ。
「なので、『魔女』であるドロシーさんも一緒に『念話』で語りかけてください」
「いや、ちゃんと聞こえてましたよ…どうして『魔女』の私が花子さんと一緒にあのカタガタに語りかけないといけないのか、ということですよ」
「だって、ドロシーさんはあのヒトたちを助けたいでしょ」
ドロシーさんはこの世界の理不尽さを知っている。『黒いヒトビト』の数だけ、世界の理不尽さを思い知らされた。
当然、この異世界など滅べばいいと呪ったはずだ。『黒いヒトビト』と共に。
それが、『魔女』としてのこの人の原典だ。
けど、溢れた想いは、きっとそれだけじゃない。
ドロシーさんは、『黒いヒトビト』に対して深く同情している。リンクしている。
解放できるのなら解放させてあげたいはずなんだ、あの『黒』い深淵から。
「花子さんは、命を懸けてまであのカタガタを助けたいのですか…」
「死にたくはありませんけどね」
「…その言葉を、『魔女』である私はどう信じればいいのですか?」
「あの『黒いヒトビト』は、ワタシたちになれなかったワタシたちです。もし、あの昏い空に慎吾が囚われていたとしたら…もし、あそこに繭ちゃんや雪花さんが囚われていたとしたら」
なりふりなんて構わずに、ワタシは手を伸ばすよ。
…ただ、もしかすると、ワタシも一緒に、世界を滅ぼしてしまうかもしれないが。
「そこまであのカタガタに肩入れをするなんて、花子さんはバカなんですか?」
「ワタシがバカならドロシーさんはそれ以上ですよ。今も、『黒いヒトビト』の崩壊が進行しないように抑えてくれていますよね」
空を覆っていた『黒いヒトビト』だったけれど、積年の呪詛に耐えられなくなったのか崩壊を始めていたが、その崩壊を、ドロシーさんが抑えてくれていた。
「…気付いていたんですか、花子さん」
「それくらい気付きますよ。崩壊が始まってからそれなりに時間が経っているのに、『黒いヒトビト』は落ちてきません。ドロシーさんがあのヒトたちを抑えてくれているお陰ですよね」
空から『黒いヒトビト』が降ってくるだけで、この異世界は終わるはずだった。そして、『魔女』であるドロシーさんもそれを望んでいたはずだった。
「ドロシーさんだって、本当は『崩壊』以外の方法で『黒いヒトビト』を助けたいんじゃないですか」
「しかし、そんなことができるとは…」
「だから、一緒に語りかけましょうよ…ワタシたちがあのヒトたちの憎しみを軽くできれば、この世界の崩壊だって起こらないし、これ以上あのヒトたちが苦しむこともなくなるんです」
「そんな軽く言わないでください…どれだけの無念を、あのカタガタが抱えていると思っているんですか」
ドロシーさんはため息交じりに言ったけれど、そこで、一歩を踏み出す。
ワタシと『魔女』は、肩を並べて立っていた。
同じ方向を、向いていた。
…今までよりもずっと、ドロシーさんを近くに感じることができた。
だから、自然とこの言葉が出た。
「とりあえず、洗脳装置を起動させますか」
ワタシは、装置に手を触れた。
ドロシーさんが、最後の問いかけをする。
「本当に、やるのですね?」
「ここであのヒトたちをただ見捨てることは、できないですよ…知っていますか?世界から見捨てられたら、何も残らないんですよ」
ドロシーさんの問いかけに、ワタシはそう答えた。
ちっぽけなワタシだからこそ、言える言葉がある。
そして、『魔女』だからこそ言える言葉もある。
「仕方ありませんね…あのカタガタを裏切りますか」
「ドロシー…さん」
「私が裏切り者の汚名を着るんですから、花子さんだって覚悟してくださいよ」
「もちろんですよ…」
これで、『魔女』との同盟は成立した。
けれど、そこに『待った』がかかる。
「繭ちゃん…と、シロちゃん?」
繭ちゃんとシロちゃんが、いつの間にかワタシの背後にいた。
そして、繭ちゃんは言った。その小さな唇を、かわいらしく動かして。
「これがフィナーレなら、ヒロインであるボクたちが必要でしょ?」
「駄目だよ、繭ちゃん…これは、あの『黒いヒトビト』に触れる行為なんだよ」
ワタシは繭ちゃんの申し出を断ったが、繭ちゃんはそれを聞き入れない。
「それこそ駄目だよ、花ちゃん…花ちゃん一人にいいカッコはさせないからね」
「そんなこと言ってる場合じゃないんだよ、繭ちゃん!」
「花ちゃんが死ぬときはボクも一緒だよ!」
繭ちゃんの瞳は、真っ直ぐにワタシを見据えていた。
その瞳に、ワタシは何も言えなくなる。
「ふはは…この風、この肌触りこそ戦場でござるよ!」
「…雪花さん?」
雪花さんまで、ワタシの隣りに立っていた。
けど、その足は小刻みに震えている。
「…怖いなら戻っていていいんですよ、雪花さん」
「拙者が怖いのは締め切りだけでござるが?」
「だったらもっと計画的にプロットを描いてくださいよ…」
いっつもギリギリになるまでやらないんだよ、この人。しかも、時間がない中でプロットを変更しまくるから手に負えないのだ。
でも、いつも通りのやり取りに、ワタシの心は落ち着いていた。
「ここまで付き合ったんだ…オレたちは最後まで花子に付き合うよ」
「慎吾…」
ワタシが初めて出会った『転生者』…。
ワタシが最初にツッコミを入れた『転生者』が、桟原慎吾だった。
「まったく、みんなしてワタシの言うことなんて何も聞かないんだから…」
「オレの言うことだって花子はまともに聞かないんだが?」
「だよね、ボクが運動しようって言っても聞いてくれないし」
「で、ござるなぁ」
「なんでみんなして花子ちゃんをイジメるかなぁ…」
ワタシ、これから世界の危機に立ち向かうんだよ。
…でも、一人じゃなかったね。
ワタシと一緒にこの異世界に転生した仲間たちが、一緒にいたんだよ。
「あはは」
世界が終わる瀬戸際にありながら、ワタシは自然と笑っていた。
怖い気持ちは、どこかに霧散していた。
「よし、ここで一つネタバレをしちゃいます…これから、ワタシたちが世界を救うよ!」
ワタシは、自然とコブシを突き上げていた。
そこには、ワタシに追従してくれるコブシが、四つもあったんだよ。




