22 『ほう、炭酸抜きコーラでござるか…たいしたものですね』
「ほう、炭酸抜きコーラでござるか…たいしたものですね」
目の前に置かれたカップに注がれていた黒い液体を目にしながら、雪花さんが呟いた。しょーもない小ボケを一つ、呟いた。
この場は、しんと静まり返っていた。
雪花さんが小さなボケを挟む前から、だけれど。
「人前に炭酸を抜いたコーラなんて出すわけないでしょ」
その沈黙に気まずさを感じていたワタシは、雪花さんにツッコミを入れておく。
『騙され…たのじゃ』
「…ティアちゃん?」
声のした方に向くと、ティアちゃんが口の端から黒い液体を溢れさせていた。
『炭酸抜きのコーラだと言われたから飲んだのに…これ、コーヒーではないか』
しかもブラックではないか!などと騒ぐティアちゃんの口の端がコーヒーで汚れていたので、ワタシはハンカチで拭いてあげる。
…本当に落ち着きないな、この人(?)たち。
「すまないね、ミルクと砂糖をお持ちしたよ」
砂糖とミルクのビンを持ち、ワタシたちの前に現れたのは、老齢の男性だ。
先刻は薄暗い洞窟で出会ったため、その面立ちはよく分からなかったが、明るい場所で見たこの人は、眉間や目元に深い皺が刻まれてはいたが、温和そうに見えた。今も、ワタシたちの珍妙なやり取りを見て薄く微笑んでいる。
そして、この人はワタシたち全員を自宅に招き入れ、さらには人数分のコーヒーまで紳士然として振舞ってくれていた。
「…………」
ちなみに、この異世界にもコーラやコーヒーは存在している。ただ、コーラ…というか炭酸飲料は元の世界とは製造方法が違っていて(炭酸は魔石を用いて発生させていた)、コーヒーは、元の世界とは原料となる豆が異なっていた(焙煎は行っているようだった)。おそらく、どちらの製造にも転生者が関わっていそうだが、今そんなことはどうでもいい。
「ありがとう…ございます」
とは言ったが、ワタシは砂糖にもミルクにも手は伸ばせなかった。
この突飛な状況に、理解と感情が追い付いていなかったからだ。
あの結界の中で出会ったワタシたちを、おじいさんは自分の家に案内してくれた。
しかし、向こうからすれば、ワタシたちは得体の知れない異端者以外の何者でもないはずだった。
「…………」
熟練の冒険者たちが超えられなかったはずの結界を、ワタシたちはすり抜けている。
そして、ワタシたちとしても、この人を警戒しなければならない理由しかなかった。
ギルドに調査の依頼が来るほどの強固な結界の先に、この人はいた。
加えて、この人は、この異世界でのワタシの名を呼んでいた。真摯な祈りを、捧げながら。
同名という可能性は、もちろん高い。
けれど、ワタシの顔を見た後でも、この人はこう呼んだ。
…アリア・アプリコット、と。
もう一つのワタシの名を、呼んだんだ。
一触即発…とは違ったが、それに比する緊張に、洞窟の中は包まれた。
慎吾も、『隠形』スキルが解除されることを知りながら、雪花さんたちとつないでいた手を離し、ワタシを庇うようにこの人とワタシの間に割って入った。それを皮切りに、ティアちゃんや繭ちゃんまでもがワタシを守るように前に出た。
「…………」
そんなワタシたちに、このおじいさんは「落ち着いた場所で話をしないか」と、洞窟近辺にあったこの家に案内してくれた。山小屋のような建物だったが中は整然としていて、こうして飲み物まで出してくれている。この人からすれば、ワタシたちなどは不躾な侵入者でしかないはずだというのに。
『毒など入っておらんぞ』
まだコーヒーとにらめっこをしていたワタシに、ティアちゃんが言った。
そんなティアちゃんは、ミルクと砂糖を限界まで入れたコーヒー…もはやコーヒーを冒涜したナニカを、ティアちゃんは美味しそうに飲んでいた。
「地母神さまにそんな物騒な物はお出しできませんよ」
老齢の男性は滅相もないという表情をしていたが…。
「…ティアちゃんが女神さまだって、知っているんですか?」
思わず、ワタシは驚きの声を上げてしまった。外見はただの銀髪の少女だというのに。しかも、今日も今日とて慎吾のシャツを着ている奇矯な恰好の幼女だというのに。
「ああ、知っているよ。姿は変わってしまっているようだけれど、このお方の清浄な魔力は忘れようがない」
『ふふん、分かるヤツにはわらわ様のすごさが分かってしまうのじゃなー。わらわ様の魅力は隠し切れないからなー』
ティアちゃんは冒涜コーヒーを飲み干し、ない胸を張る。
…どうして女神さまってすぐ天狗になるのかな。
そんな天狗に、おじいさんは語る。
「ええ、あちらこちらで噂になっておりましたよ。『地母神さまこそがこの大地の支配者だ』とか、『地母神さまのお陰で、今日も生きていける』とか、『地母神さまがいなければ、世界は邪神にそ滅ぼされていた』とか、『あれで胸が大きければ最高の女神なのに…』とか、『胸がないからこそいいんだろうが!』と」
『最後の二人は誰じゃー!』
ティアちゃんはそこに嚙みついていた。
…まあ、後ろの二つはただの巨乳派と貧乳派の不毛ないがみ合いでしかない。けど、ティアちゃんが多大な影響力を持った女神だということは理解できた。
『ふふん、お主ももっとわらわ様のことを崇めてもよいのじゃぞ?もしかしたら利益とかあるかもしれないぞ?』
ティアちゃんが挑発的に視線を向けてくる。
よし、合意とみてよろしいやつだな、これは。
「そうだねー、ティアちゃんはすごいよねー。この間、こんなに小さな子犬に追いかけられて大泣きしてたもんねー」
『大泣きなどしとらんわー!お主こそ、夜中に怖い夢を見たとか言ってわらわ様に泣きついてきたではないか!』
「泣いてませんー。あと、その子犬から助けてあげたのはワタシでしたー」
『お主の助けなど必要なかったしー。わらわ様は暑苦しいのを我慢してお主に抱き着かれてやっておたのじゃぞ!』
そこで、ワタシとティアちゃんはがっぷり四つで組み合った。
「もー、花ちゃんたち恥ずかしいからやめてよね」
ワタシたちにもっともな注意をしたのは繭ちゃんだったが、繭たちゃんはまだ雪花さんに首輪をはめたままだった。そんな、首輪をはめられたままの雪花さんが口を開いた。
「ふむ、まさか拙者のいない間に銀髪のロリババアが登場していたとは」
「でも、喧嘩ばっかりしてるんだよ、あの二人。慎吾お兄ちゃんの取り合いで」
繭ちゃんがとんでもない誤解を口走っていたので否定をしなければなりません。
「しーてーまーせーんー!慎吾の取り合いなんてしてませんー!」
「なるほど、ただの同担拒否者同士の争いというわけでござるな。腐女子界隈ではよく見かけるやつですぞ」
なるほど、雪花さんも参戦するというわけだな。なら、ワタシも言わなければならない。
「臭い人はちょっと黙っててください!」
「く、臭くなんてないよ!?私、臭くなんてないからね!?」
素に戻った雪花さんは懸命に否定していた。
『いや、さすがにあの部屋の臭いは擁護できんぞ…』
「銀髪幼女に辛辣なこと言われたー!?」
『お主も女なら、かの『ぬるぬるイワシ兵士長』先生のように淑やかにせねばならぬぞ?』
「…ん?」
「…ん?」
最初の「ん?」がワタシで、次の「ん?」が『ぬるぬるイワシ兵士長』先生だ。
『本の後書きで語っておったぞ、『ぬるぬるイワシ兵士長』先生は。淑女たるもの余裕を持って常に優雅たれ、と。他にも…』
そこから、つらつらとティアちゃんは『ぬるぬるイワシ兵士長』先生語録を語っていた。要約すると、淑女というのは常に余裕を持ち、他者を慈しみ、他者のために奉仕をしなければならず、自分を律して…ダメだ。嘘っぱちすぎてこれ以上は要約する気にもなれなかった。
「どうしてそんなウソばっかり書いたんですか…」
小声で、雪花さんを責める。
ティアちゃんは、まだ憧れの『ぬるぬるイワシ兵士長』先生について語っていた。とても気持ちよさそうに。
「いや、その、異世界なら拙者を知ってる人はいないので、つい…でも、その最初は軽いノリのつもりだったんです。でも、なんだか、だんだんやめられなくなっていって」
「…怪しいお薬に手を出しちゃった人みたいな言い訳はやめてください」
ツッコミ辛いだろうが。
というやり取りをしている間にも、ティアちゃんは得意げに憧れの先生について語り続ける。
…これ、雪花さんは一生、言い出せないやつだ。
まあ、自業自得か。
「随分と、仲がよろしいのだね」
これまで、ワタシたちを黙って見ていたおじいさんだったが、そこで口を開いた。
「すいません、騒がしくしてしまって…」
本当に謝罪しなければいけないことしかしてないな、ワタシたち。
「いや、いいんだよ…久しぶりにこの家が賑やかで、妻も喜んでくれているはずだ」
老齢の紳士は、そこで、遠い目を浮かべていた。
深く刻まれた皺が、寂しげに見えた。
「奥さん…ですか」
「ああ、アリア・アプリコットというんだ…この世界には、もういないけれどね」
その名を、再び、口にした。
「…アリア・アプリコット」
ワタシも、その名を口にした。
鼓動が、一つ、鳴った。
ナニカが嚙み合った、音がした。
「ああ、アリア・アプリコットだ…世界を救った英雄にして、名もなき魔女だよ」
老齢の紳士は…アンダルシア・ドラグーンさんは、アリア・アプリコットという名を再び、口にした。
英雄だ、と。
名もなき魔女だ、と。




