127 『生きてるだけでも丸儲け』
『誰かが傷つくところなんて、本当は誰も見たくないよね』
ワタシの目の前で、『花子』は言った。
その雄々しい瞳は真っ直ぐにドロシーさんを捕捉していたが、その凛々しい声は『花子』の傍らにいたワタシに向けられている。
先ほどの言葉は、短いけれど『花子』からワタシに宛てられた『手紙』だった。
ただ、その『手紙』は『花子』の声でありながら、『花子』ではなかった。
口調もリズムも違う。声の温度も角度も、何もかもが違う。
だから、思う。
…ドチラサマ、ですか?
「いや、今はドロシーさんだ…」
…あの人は、背後から剣を突き立てられていた。
凶行に及んだのは、『教会』の信徒を名乗る神の犬だ。
ソイツが、力任せにドロシーさんの背中から幅広の直剣を突き刺していた。
ドロシーさんの華奢な体躯は、造作もなく折れ曲がる。
背中から貫かれた無骨な剣はドロシーさんを貫通し、その無慈悲な切っ先は腹部から露出していた。
ドロシーさんとは距離があり、見えるはずもないのだけれど、その血塗られた直剣がワタシの間抜け面を反射していた…ように、錯覚してしまった。
『けど、それは人間という存在の善性を証明するものではないよ。ただ怖がっているだけなんだ、他人を傷つけることを。だって、ダレカが傷つけられば、次は自分が傷つけられるかもしれない。暴力は連鎖するものだからね、いつ自分にもそのお鉢が回ってくるか、知れたものではない』
朗々と、『花子』は語る。
しかし、その言葉はワタシの表層をなぞり、ただ滑り落ちていく。ワタシの心には微塵も残らない。逼迫した状況下では、そんな余裕がないからだ。
どうして、この『花子』はそんなご高説を口にしているのだろうか?
…いや、それよりも、今は彼女だ。
「ドロシーさん!」
非現実な光景により堰き止められていたワタシの時間が、ようやく、時を刻み始める。『花子』の与太話が、凍結されていたワタシの時を解凍してくれたのかもしれない。
ワタシの声に反応したドロシーさんは、ワタシに視線を向けた。
あんな無体な凶器で背後から貫かれたんだ、その瞳は虚ろで…は、なかった?
あれだけ血を流しているというのに…というか、あれ?
ドロシーさんに剣を突き立てていたあの人は…何処に行った?
…忽然と、消えていた。
「ドロシー…さん?」
彼女が剣で刺された時よりも、ワタシは呆気にとられていた。
…ワタシの感情が、ワタシの知らない場所に置き去りにされている。
ドロシーさんは口の端から赤い血を滴らせて…も、いなかった?
いや、血は流していた。
ただ、そこにあったのは、赤ではなく、昏い鮮血だった。
先刻の衝撃により、ワタシの色彩感覚にまで異常が生じたのだろうか…。
「心配してくださってありがとうございます、花子さん」
ドロシーさんは上着の袖で口元を拭う。
口元の黒は薄れたけれど、その黒はシャツの袖に転移していた。
微笑みながら礼を言ったドロシーさんの口元は、薄い黒が、口紅のように彼女を昏く彩る。
そこで、遅蒔きながらに思い出していた。
…カノジョはワタシとは、住む世界が違うのだ、と。
だから、こんなちぐはぐなことになる。
『暴力というものは否応なしに連鎖する。互いに反発をするくせに、やたらと引き合うものだからね』
再び、『花子』ではない『花子』が口を開いた。
そして、饒舌に演説を続ける。
『だとすればその連鎖はもう足元にまで這い寄っているんじゃないかい、『魔女』である君のすぐ傍にまで』
…そうだ。
ワタシの目の前にいるドロシーさんは、『魔女』だ。
この異世界ソプラノを『崩壊』に導く、あの『黒いヒトビト』の代理人だった。
「暴力の連鎖ならすぐに終わりますよ。これで最後になるのですから」
ドロシーさんは、背中に右手を回し自身を貫いていた直剣を引き抜いた。割りと事も無げに…かなり深々と突き刺さっていたはずだったのに。
そして、ワタシに微笑みかける。
「花子さんもこれで分かったのではないですか、キレイごとを並べ立てる人間ほど面の皮が分厚く、その奥には醜悪な本性が隠されている、と。そして、好機と見るやその本性を解放します。自分たちの利己のために他者を足蹴にし、踏み躙るのです」
ドロシーさんが、ワタシに同意を求める。
否定も肯定も、できなかった。
確かに、その蛮行はワタシの目の前で行われた。
…いや、蛮行の数々、か。
神さまの名の下に、『教会』はドロシーさんに剣を突き立てた。
神さまの名の下に、『教会』はリリスちゃんの排除を決定した。
その他諸々の狂気も、直接間接を問わず、何度も目撃した。
『その辺にしてもらおうか、うちの花子ちゃんを戯言で誑かすのは』
「…花子ちゃん?」
ワタシのことを、『花子』がそう呼んだ。
それは、初めてのことだ。
いつもは、『花子サン』と呼んでいる。
…なのに、うちの花子ちゃん、か。
やはり、この『花子』は、中身が違う。
けど、どうして、だ?どうして、違う?
ワタシの『花子』は、何処に行った?
処理すべき事柄に対処が追い付かないワタシを放置したまま、ドロシーさんと『花子(?)』が舌戦の火蓋を切る。
「誑かすなんてそれこそ人聞きが悪いですよ、『花子』さん」
『『魔女』の言葉だからね、疑ってかかって当然だろう』
ワタシの知らない『花子』と『魔女』としての素顔が見え隠れし始めたドロシーさんが、対峙する。その間に、場違いなワタシという異物を挟んで。
『うちの花子ちゃんと約束したんじゃなかったのか、あの『黒いヒトビト』とやらの崩壊を止めておくと』
「私、刺されたんですよ?これだけ血も流したんですよ?それでどうやってあのカタガタの崩壊を治せると思っているのですか」
『その割りには平然としているじゃないか。というか、そもそも『魔女』ならあんな相手を避けるくらいわけはなかったはずだろ』
「それは買いかぶりですよ。『魔女』などといっても、彼らの手足となるだけのお飾りなんですから」
ドロシーさんは微笑み、『花子』は軽く鼻を鳴らしていた。
そんな二人に、ワタシとしても何を言えばいいのか分からない。予期しない出来事のつるべ打ちで、ワタシとしては事態についていくので精一杯だ。だからだろうか、ワタシは無関係なことを口走ってしまった。
「『花子』は…おばあちゃんなの?」
…口にしてから、後悔した。
確かに、今の『花子』はワタシの知っている『花子』ではない。
ワタシたちと一緒にいた『花子』は口数が少なく、無表情でいることも多かった。それでもみんなとはすぐに打ち解けたし、時々だけどかわいい面も見せてくれていた。
シロちゃんと『花子』はよくひなたぼっこをしていて、雪花さんからは描きかけの同人誌の意見を求められていた(『花子』に変なモノを見せないでよ!と怒ったけど)。繭ちゃんと『花子』は一緒に服を買いに行っていたし…あと、慎吾とは逢引きみたいにこそこそと二人だけでどこかへ遊びに行っていたけど。
そんな『花子』は今、この場のどこにもいなかった…。
「あ、その…」
…二の句が継げなかった。
少なくとも、この現状で口にすべき言葉ではなかった。
心の中に、小波が立つ。
自分でも気付かなかったけれど、ほんの少し、期待していたんだ。
この『花子』が、おばあちゃんだったら、と。
もう会えないはずのおばあちゃんだったら、と…。
元々、『花子』はおばあちゃんからワタシに受け継がれた『邪神』の魂が人の形と成った存在だ。『花子』には『邪神』の記憶もおばあちゃんの記憶もなかったけれど、もし、今の『花子』がおばあちゃんとしての記憶を取り戻していたら、ここにいるのは、ワタシのおばあちゃんということに、なる。
もう会えないはずのおばあちゃん、ということに…。
けれど、それは同時に、この世界からの『花子』の消失を意味する。
そして、『花子』は口を開いた。
『ああ、ええと…どうかしたのですか、花子サン』
「『花子』のモノマネだとしたらクオリティが低いですよ…まあ、そのチベットスナギツネみたいな目つきはちょっとだけ『花子』に似てますけど」
それでもその健気さに笑ってしまいそうになり、その後で泣きそうになった。どちらも、瀬戸際で踏み止まったけれど。
そして、ワタシの情緒が激しく揺れ動く中、最悪の想像が過る。
だって、もし…。
『ああ、そうだね…………でも、私はどちらでもないよ』
「…………」
最悪の想像ほど、的中率が高いのはなぜだろうね。
この人はおばあちゃんではなく、『花子』でもなくなっていた。
…ワタシが大好きな、そのどちらでもなかった。
だとしたら、最悪にして災厄の、第三の可能性が浮上する。
目の前のカノジョが、『邪神』という名の終焉ではないか、と。
けれど…。
『ああ、すまないね。私は花子ちゃんのおばあちゃんじゃないけど、アリア・アプリコットだよ』
「え…………」
ワタシのおばあちゃんはこの異世界ソプラノ出身で、名はアリア・アプリコットといった。
しかし、アリア・アプリコットだけど、おばあちゃんではない…?
何度かその言葉を脳内で反芻したけれど、脳がその理解を拒否しているようだった。
『ええと、もう少し嚙み砕いて言うと…花子ちゃんのおばあちゃんが花子ちゃんのお母さんを身籠る前のアリア・アプリコットって感じかな。そのあたりの記憶をベースに構築されたアリア・アプリコットの人格と思ってくれればいい。一応、花子ちゃんたちの記憶はあるけどね』
「そう…なんですか」
『とりあえず、花子ちゃんの敵じゃないってことだけ分かってくれればいいよ。それと、呼び方は今まで通りの『花子』でお願いするね』
アリア・アプリコットではない『花子』は、そう言って微笑んでいた。言っていることはほぼ理解できなかったけれど、それでもその微笑みに見覚えはあった。
ワタシに対して、少しだけ申し訳なさそうに微笑むその表情には、見覚えがあったからだ。
以前にして生前の世界で、その表情を何度も見た。
病気で辛い時でも、できるだけワタシはおばあちゃんの前では笑うようにしていた。ワタシが苦しんでいると、おばあちゃんが泣きそうになっていたからだ。
それでもやっぱり、ワタシが痛みをこらえて笑っていたことも見抜かれていたんだろうね。おばあちゃんは、そういう時に今みたいにやや困った泣きそうな表情で微笑みを浮かべていた。
…なんだ、今ここにいる『花子』は、おばあちゃんじゃないか。
ワタシの胸を歓喜が、駆け抜ける。
それと同時に、ワタシの胸が軋んだ。
そのおばあちゃんが、『花子』と呼んで欲しいと言った理由が、想像できてしまったから。
「…………」
暴走した『花子』の邪気を、リリスちゃんが散らしてくれた。
おそらくはそのお陰で、『花子』の中の『邪神』が薄れ、このおばあちゃんが顕現した。
…しかし、このおばあちゃんはきっと、それほど長くこの世界にはいられない。
だから、おばあちゃんはワタシの知らなかった頃のおばあちゃんだといい、これまで通り『花子』と呼ぶように言った。
おばあちゃんが消えてしまった時に、ワタシの痛みがほんの少しでも軽減されるように、と。
『さて、『魔女』であるあんたにはあの『黒いヒトビト』という連中を何とかして欲しいんだけどね、あんたの管轄なんだから』
おばあちゃんは、ドロシーさんに言った。
向かい風がおばあちゃんの前髪を荒く揺らしていたけれど、おばあちゃんはこれっぽっちも怯まない。伊達や酔狂で『名もなき英雄』などと呼ばれていたわけではない。
「そうは言っても、私も『魔女』と呼ばれる、今も空にいるあのカタガタの下僕ですからね。この異世界を滅ぼす役目を仰せつかっているんですよ」
追い風が、『魔女』であるドロシーさんのスカートをはためかせる。凱歌と共に振られる御旗のように、それは荘厳だった。
『そうか、話し合いは決裂か…なら、私はあんたを止めないといけないね。うちの花子ちゃんのためにも』
「花子さんのためと言うのなら、私を止めない方がいいのではないですか」
『…なにを、言っている?』
そこで、おばあちゃんの表情が変わる。いや、表情自体は無表情のままだったけれど、そこから放たれる怒気が桁違いに跳ね上がる。
「花子さんも、世界を滅ぼしたいと願っているのではないですか、ということですよ」
『お前が勝手に、花子ちゃんの代弁をするな…!』
ドロシーさんの言葉は、おばあちゃんを激昂させた。
そして、残像をその場に残したまま、おばあちゃんはドロシーさんの懐に飛び込む。
…しかし、懐に飛び込んだと思ったおばあちゃんは、一瞬で元の位置にまで弾き飛ばされていた。
「おばあ…『花子』!?」
出来の悪いフェイク動画でも見せられたのかと思うほど、物理法則を無視した流れだった。
『なあに、心配はいらないよ…』
駆け寄るワタシにおばあちゃんは小さな微笑みを浮かべていたが、その頬が小さく引き攣っていた。どこかを痛めてしまったのではないだろうか…。
「あなたがそうやって絡んでくると、私はあのカタガタの崩壊を止めることができないのですが」
そう言って、『魔女』であるドロシーさんは人差し指で空を示した。
その空は怨嗟の塊である『黒いヒトビト』で埋め尽くされ、しかも不安定に揺らめいている。
…今にも、再びの崩落を始めそうなほどに。
「ドロシーさん…」
ワタシは、『魔女』に語りかける…が、二の句を告げなかった。
ここでワタシが何を言っても、あの『黒いヒトビト』に対して侮辱にしかならない気がした。
だって、あのヒトビトはもう、終わってしまったヒトたちだ。
そして、ワタシだって、終わってしまったヒトのはずだった。
…なのに、ワタシだけが、カーテンコールを許された。
あのヒトビトからすれば、それはただの依怙贔屓でしかない。
だから、言いたいはずだ。『どうして、自分たちは救われなかった』と。
「花子さんも、世界の終焉を望んでいるのではないですか」
ドロシーさんは、言った。透き通るほどに透明な、昏い瞳で。
「でも、ワタシはそんなこと…」
「花子さんが元いた世界に、復讐を果たしたいとは、思いませんか?」
「元の…世界?」
…に、復讐?
そして、『魔女』は囁く。
「だって、その世界は花子さんを救わなかったのでしょう?見捨てて、爪弾きにして、命が終わる時ですら見向きもされなかったはずですよね」
「それ、は…」
「だから、花子さんはこの異世界に『転生』を果たした」
「…………」
確かに、元の世界で、ワタシは世界から見捨てられた。
難病を患い、それでも治療を頑張っていたけれど、あの世界では爪弾きにされていた。
あの世界では、不必要と判断されたんだ。
…最初からきっと、ワタシはあの世界に祝福されていなかった。
そして、『魔女』は囁く。
「だとすれば、花子さんには権利があるはずですよ。その世界を滅ぼしてもいい権利が」
「ワタシに…権利が?」
「どうですか?あの黒いカタガタを、花子さんのいた異世界に落としませんか?」
「なに…を?」
ドロシーさんが何を言っているのか、ワタシには全く理解できなかった。
…あの『黒いヒトビト』を、ワタシたちのいた世界に落とす?
それは、ワタシを排斥したあの世界を滅ぼすということだ、が…?
「できないと思っていますか?」
ドロシーさんは、『魔女』は微笑む。
確かに、『魔女』ならば可能なのかも、しれない。世界の壁を、超えることすら。
しかし、ワタシたちがいたあの世界に…?
ワタシがいた、ワタシを救ってくれなかった、あの世界に…?
「復讐するは、あなたにありですよ」
甘い囁きが、『魔女』の口から漏れる。
その言葉は、甘美な毒をワタシに注ぐ。
…けれど。
「花子が復讐なんて根の暗いことをするはずないだろ」
そこに、声が降ってきた。
それは、今までこの場にはなかった声。
…そして、これは内緒だけれど、今ワタシが最も聞きたいと思っていた、温かい声。
「慎吾…」
そこにいたのは、桟原慎吾だ。
肩で息を切らし、慎吾はそこで仁王立ちだった。
「オレたちも花子も、生きてるだけでも丸儲けとしか思っていない…復讐なんてちっぽけなモノに囚われるほど、零落れてはいないんだよ!」
慎吾の声は、空を埋め尽くす『黒いヒトビト』すら掻き消すほどの大音声だった。




