124 『一万二千回転まで、きっちり回せ』
「…『トロッコ問題』」
とある坑道で、とあるトロッコが暴走をしました。
その線路の先では、3人の作業員が仕事をしています。そして、そのままでは確実に全員がトロッコに轢かれて轢死してしまいます(作業員は誰1人として逃げられないものとする)。
この時、たまたま線路を分岐させられる分岐器の傍にあなたはいました。
そこで分岐器のレバーを動かして別路線にトロッコを引き込めば、3人の作業員の命は救われます(どうあってもトロッコの暴走は止められないものとする)。
しかし、別路線の先にも1人の作業員がいました(こちらの作業員もトロッコを避けられないものとする)。
さて、あなたは分岐器のレバーを操作するだろうか。
レバーを操作して、1人の人間を見殺しにして3人を救うだろうか。
それとも、レバーを操作せずに3人を見殺しにするだろうか。
うろ覚えなので大雑把ではあるが、大体これが『トロッコ問題』の概要だ。
先刻から、ワタシの脳裏にはこの言葉が浮かんでいた。
リリスちゃんがワタシに出したお題は『天秤に乗せられた小さな女の子と悪魔、そのどちらを助けるか』というシンプルなものだった。いや、シンプルどころか、そもそもこれは『問題』にすらなっていない。
小さな女の子と悪魔の女の子、ワタシがそのどちらを助け、ワタシがそのどちらを見捨てるのか、と問われているだけだ。
だからこその、トロッコ問題。
全員に逃げ場のない、トロッコ問題。
そして、リリスちゃんは問いかける。
…ワタシに、どちらのリリすちゃんを救うのか、と。
「…………」
ただ、リリスちゃんの『問題』は全ての条件が明示されたわけではない。
リリスちゃんは意外と凝り性なので、細かい設定などはおそらくこの後で出してくる。
「初めて出会った時も、そうだったもんね」
ワタシは、小さく回想していた。
初対面の時も、ワタシはリリスちゃんからこうして『出題』された、と。
…だから、この問題も机上の『トロッコ問題』などでは、おそらくない。
リリスちゃんがワタシに問いかけているのは問題の正誤ではなく、覚悟だ。
現実に、小さなりりすちゃんと大きな悪魔のリリスちゃんのどちらを救うのか、と。
…だって、どちらかしか、助けられない。
小さなりりすちゃんと、悪魔のリリスちゃんのどちらか、しか。
大きなリリスちゃんを助けるということは、これまで通り小さなりりすちゃんの体にリリスちゃんが同居するという展開に戻るのだが、それは不可能だ。リリスちゃんという覆水は、盆には帰れない。
時間の経過と共にリリスちゃんの魔力が元の強さに戻ってきているので、このままではいずれ、小さなりりすちゃんの精神は悪魔のリリスちゃんに圧し潰されてしまう。人の体に、悪魔の魔力は大き過ぎるんだ。
対して、大きなリリスちゃんをこのまま放置しておくことは、リリスちゃんという悪魔の消滅を意味する。
「…………」
だからこその、トロッコ問題…。
どちらを犠牲にして、どちらを助けるのかという倫理に反した正誤問題。
ただし、どちらを助けるべきかは、最初から明白だった。
「未来のある方だ…」
それが分かっているからこそ、リリスちゃんだってこの『問題』を出題した。
ワタシに、自身の消滅を後押しして欲しいと願って。
…でも、リリスちゃんも本当は、ダレカに助けて欲しいんだ。
リリスちゃんも、本当は消えたくなんてない。
あの子にとって、この世界が、どれだけくそったれだったとしても。
…でも、悪魔を助けてとは、言えないんだ。
リリスちゃんは、やさしい子だから。
「いいじゃない、悪魔がダレカに救いを求めたって…」
悪魔を救おうとするような物好きなんて、滅多にいないだろうけれど。
…でも、ここには、ワタシたちがいるんだよ。
『『何をぼーっとぶつぶつ呟いているんですかねぇ、この先生は』』
黙り込んでいたワタシに、リリスちゃんが『念話』越しに話しかけてきた。
…悲しいくらいに、いつも通りの悪態をついて。
『「ごめんね、リリスちゃん。さあ、問題の続きといこうよ!」』
ワタシも『念話』越しにリリスちゃんに返答をする。空元気だとは、悟られないように。
リリスちゃんは、そこで一呼吸を置いてから言った。
『『小さな女の子と悪魔が、左右それぞれの『天秤』に乗っている…と、話しましたよねぇ』』
『「そうだね…でも、リリスちゃんのことだからそれだけじゃないんでしょ」』
この『問題』好きの悪魔っ子が、ただのトロッコ問題を出すとは思えない。
そこには、何かしらの追加条件がある。
そして、その『追加』にこそ、リリスちゃんの意思が込められている。
お為ごかしやら建前やらの下に沈殿しているソレが、リリスちゃんの本心だ。
ワタシが、その本心を、掬い取らないといけないんだ。
リリスちゃんの一番の仲良しであるワタシが、だ。
『『現在、その天秤は左右で釣り合っている状態ですねぇ』』
大きなリリスちゃんは、架空の『天秤』について語る。
初めて出会った時と同じ、どこか気怠いトーンで。
…でも、ほんの少しだけ、嬉しそうでもあった。
もしかすると、リリスちゃんもあの時のことを思い出しているかもしれない。
だったら、嬉しいな。
『『しかし、『先生』には、そのどちらかしか助けることができませんねぇ』』
残酷な宣告を、リリスちゃんが口にした。
台詞の中の『先生』を、敢えて強調して。
『「リリスちゃん…どうして二人とも助けられないの?」』
『『そういうものだと理解できるはずですよねぇ、先生なら』』
リリスちゃんの口調は酷薄だったけれど、リリスちゃんだって理解しているはずだ。
このワタシが底抜けの甘ったれだ、と。
甘ったれのワタシには、どちらかを見捨てる選択肢など選べないと、リリスちゃんは分かっている。
…けど、だからこそ、リリスちゃんはワタシに問いかけている。
ワタシに、手を伸ばして欲しいから。
それに応える義務が、ワタシにはある。
さあ、ワタシたちの聖戦を始めようよ。
誰も傷つけない。誰も傷つかないゲロ甘い聖戦を。
『『そして、先生は天秤の受け皿に重りを乗せることができます』』
大きなリリスちゃんは、淡々と語る。
その言葉の一つ一つが、自分の行く末を示していると知りながら。
だから、ワタシも言葉を吟味して問いかける。
『「重りを乗せた方の受け皿が、最終的に助かるってこと?」』
天秤とは、左右の受け皿に別々のモノを乗せ、重さを計るための質量計器だ。
そして、2つの重さを吊り合わせることから、天秤は『公正』の象徴でもある。
ギリシャでは、テミスという女神が天秤で人々の善悪を裁定していて、同じように、古代エジプトでは死者の心臓とマアトと呼ばれる女神の羽を天秤にかけ、吊り合った者だけが死後の楽園に入ることを許された。
つまり、天秤とはただの計量器ではない。
人の正邪を見極めるという、『正義』の概念そのものを具現化したものだ。
…その『正義』の天秤を使って、どちらを見殺しにしろというのだろうか。
『『いえ、重りを乗せていった方の皿が、落ちて死にます』』
リリスちゃんは断言した。
…勿論、これは架空で机上の絵空事だ。
実際に小さなりりすちゃんも大きなリリスちゃんも、ここで死んだりはしない。かすり傷すらついたりしない。
それでも、リリスちゃんの口振りは深刻で過酷だった。
淡々と語っていたけれど、ワタシには見抜かれてるよ。
『「じゃあ、助けたい方の受け皿には重りを乗せないってことなんだね」』
『『見殺しにしたい方の皿に重りを乗せるということですねぇ。いえ、それだと見殺しにはなりませんか』』
飄々と語るが、リリスちゃんのその言葉はワタシに重く圧し掛かる。
命を奪う方を、ワタシに選べとそう言っている。
ワタシに引導を渡せと、リリスちゃんはそう言っている。
『「…右と左、どっちの受け皿に小さなりりすちゃんが乗ってるか、とかは教えてもらえるのかな」』
リリスちゃんの覚悟を噛みしめながら、ワタシは問いかける。
ただ、その問いかけは肩透かしを喰った。
『『それは教えられませんねぇ』』
『「教えられない…?」』
それは、想定外の言葉だった。
だって、左右のどちらが小さなりりすちゃんか大きなリリスちゃんか分からなければ、救う方も見殺死にする方も分からない。
…リリスちゃんは、ソレをワタシに選ばせるつもりじゃなかったのか?
まさか、ここにきて運否天賦に任せるというのか?
『「でも、リリスちゃん。リリすちゃんズが天秤のどっちにいるのか分からなかったら、ワタシには選べない…よ?」』
そもそも、ワタシにはどちらも選べないのだけれど。
『『それでも先生には選んでいただきますねぇ。どちらのリリすちゃんか分からなくても』』
『『リリスちゃん…』』
…ここにきて、リリスちゃんの考えが読めなくなった。
ワタシが思考を止めている間に、リリスちゃんは『問題』の説明を始める。
『『重りを一つ乗せた程度では、受け皿は落ちません。重り一つにつき目方が一つ傾くのです。しかし、左右の天秤の傾きの差が二つになった時点でその皿は下に落ちます。落ちて、死にます、ねぇ』』
『「…つまり、二つ目の重りを乗せた時点で受け皿は落下するってことだね」』
停滞しそうな思考を、無理やりにでも叩き起こす。
一つも聞き逃すな、一つも取りこぼすな、リリスちゃんの言葉を。
ここでリリスちゃんが発する言葉は、リリスちゃんの断片だ。
『「じゃあ、リリスちゃんに質問なんだけど…というか、これは聞いても仕方ないことかもしれないけど」』
ワタシは、そこでリリスちゃんに問いかける。
一つでも多く、リリスちゃんの欠片を引き出すために。
『「そもそも、小さなりりすちゃんと大きなリリスちゃんじゃあ、重さが違うはずだよね?それなのに天秤が釣り合ってるのはおかしくない?」』
これは架空の『問題』だ。重さなど無視してかまわない。けど、リリスちゃんがそこをなあなあにするとも思えなかったんだよね。
『『そうですねぇ。少し雑ではありますが、大きなリリスちゃんと小さなりりすちゃんの重さはどちらも重り一つ分と考えてください』』
『「大きなリリスちゃんも小さなりりすちゃんも、どちらも重り一つ分、と」』
『『これはあくまでも『問題』ですからねぇ。リリスちゃんたちの正確な重さでないことは伝えておきますよ』』
『「だよね。実際に小さなりりすちゃんと大きなリリスちゃんの体重が同じはずはないもんね」』
『『そうですねぇ、先生と小さなりりすちゃんを吊り合わせようと思った場合は、小さなりりすちゃんの受け皿には最初から三つ分くらいの重りを乗せておかないといけませんしね』』
『「さすがにそこまで重くないもん!」』
…あ、ヤバい。
いつも通りのやりとりのはずなのに、懐かしさを感じてしまった。
今にも、涙が溢れそうになる…。
まだだ、まだここで泣くわけにはいかない。
涙を止めるために、ワタシはリリスちゃんに問いかけた。
『「で、重り二つ分、重くなった方の受け皿が落ちるんだよね」』
『『そうですねぇ。反対側の皿よりも重り二つ分、重くなった方が落下し、死にます』』
『「そして、落下しなかった受け皿に乗っていた方だけが助かる、と…了解だよ」』
…これは、トロッコ問題だと、思われた。
どちらのりりすちゃんを助け、どちらのリリスちゃんを見殺しにするのか、と。
けど、それなら重り二つ分の差がついたら死ぬ…なんてまどろっこしい設定はいらなかったのではないだろうか。
『『それと、先生が受け皿に乗せることのできる重りは三つまでとします』』
『「…はい?」』
そこで、リリスちゃんが妙なことを言い出した…。
重り二つ分の差がつけば、受け皿は落下する。
それが、この『問題』の前提だったはずだ。
…それなのに、なぜ?
『「重り二つ分の差がついた時点で、受け皿は落下するんだよね…でも、受け皿に乗せられる重りは三つ?」』
ワタシはリリスちゃんの言葉を一つも聞き逃さなかった。
だからこそ、その齟齬は聞き逃せなかった。
…けど、そこに問題はない、のか。
重り二つを乗せてどちらかの受け皿が落下したとしても、落ちていない受け皿に三つ目の重りを乗せることはできるはずだ。ただ、その行為に意味があるとは思えないけれど…。
ワタシが考え込んでいる間に、リリスちゃんはさらに珍妙なことを言い出した。
『『隣りの受け皿への移動も可能とします』』
『「隣りの受け皿にも移動が可能…?」』
…いや、それこそ何のために?
『『ただし、重りを三つ乗せた後でなら、ですけれどもねぇ』』
『「え、だって…重りを移動させる意味なんてない、はずだよ…」』
重りを二つ乗せるだけで、受け皿は落下するのだから。
しかし、リリスちゃんはワタシの疑問を置き去りにして続けた。
『『ああ、ついでに重りを移動させた後なら追加で新しく重りを乗せることも許可しましょうか』』
『「言ってることがめちゃくちゃになってるよ、リリスちゃん…」』
遠回しに、ワタシにリリスちゃんを諦めさせようとしているのか?
結局、どちらのリリスちゃんを助けるかも選択させてはくれないのか?
…これは、ワタシに対する、リリスちゃんからの拒絶なのか?
「違う…違う」
小声で呟き、小さく首を振る。
リリスちゃんは、ワタシを拒絶なんてしない…。
…なら、思考を止めるな。
もっと、もっと頭を回転させろ。
「一万二千回転まで、きっちり回せ」
大きなリリスちゃんの重さは1。
小さなりりすちゃんの重さも、1。
どちらの受け皿にどちらのリリすちゃんが乗っているのかは不明。
そして、追加で重りを乗せていくけれど、この重りの重さも1。
これが初期状態にして、初期設定。
ここから相手側よりも重り二つ分、重くなった方の受け皿が落ちる。
ただし、重りは三つまで乗せることができるものとする。
…これは、ルールに対する明確な齟齬だった。
受け皿を落下させるのに、重りは三つも必要ないはずなんだ。
そして、齟齬はこれだけではなかった。
重りを三つ乗せた後は、反対側の受け皿に重りを移動させることも可能だとリリスちゃんは言っている…。
しかも、重りを移動させた後なら追加の重りを乗せてもいいときた。
「…どういうことなの」
ワタシは、リリスちゃんの語る前提を脳内で箇条書きにしていた。
けれど、後半に入ってからその設定が妙なことになっている。
…リリスちゃんはその設定にこだわるはずなのに。
「いや、これも、リリスちゃんのメッセージだとしたら…」
…そこにあるのは、リリスちゃんの本心だ。
箇条書きにした『前提』を、ワタシは脳内で無理やりシェイクする。
それらを撹拌し、再構築する。
思考しろ、思考しろ…ワタシには、それしかできない。
『『条件は全て提示しました。それでは『先生』お答えくださいですねぇ』』
リリスちゃんが、『念話』でワタシに言った。
それを受け、ワタシも覚悟を決める。
そして、最初に浮かんだ言葉はやはり、これだった。
結論が、そこに帰結した。
「『トロッコ問題』…だ」
どちらを犠牲にして、どちらを助けるのか、と。
大きなリリスちゃんを助け、小さなりりすちゃんを見殺すのか。
小さなりりすちゃんを助け、大きなリリスちゃんを見殺すのか。
…ワタシには、それしかできない。
「いや…」
自分で呟いた言葉を、ワタシは自分で否定した。
これ本当に、トロッコ問題…か?
「いや、そうだ…よ?」
そうだよ…?
リリスちゃんが語った言葉を、一つ残らず反芻する。
それらは、ワタシの中で反響した。
思い出せ、それらは、リリスちゃんの断片だ。
断片だから、つなぎ合わせろ。
たとえ、それがどれだけ歪でも。異物でも。継ぎ接ぎでも。
…そして、ワタシはようやく、思い至った。
「そうだよ、トロッコ問題じゃない…これは、『オオカミと羊のパズル』だ」




