117 『生殺与奪の権利をダレカに握らせるな!』
「アルテナ…さま?」
ワタシの頭の上に、いつの間にかアルテナさまがいた。
いや、アルテナさまは最初からワタシの頭の上にいた。ワタシがその存在を忘れていただけだ。
けど、アルテナさまの所在よりも先に、ワタシはアルテナさまの無事を確認しなければならかった。
そのために、ワタシは問いかける。
だって、アルテナさまは、もう…。
「アルテナさまが…おじいちゃんを助けてくれたんですか?」
『…はい』
アルテナさまは、小さな声で答えた。
おじいちゃんは『花子』の周囲で旋回していた『黒渦』に…黒い竜巻に呑み込まれ、虚空へと舞い上げられた。
リリスちゃんがその黒い竜巻を消滅させてくれたお陰でおじいちゃんは『黒渦』から解放されたが、そのままでは自由落下で地面に叩きつけられ、おじいちゃんは死んでいた。
それを、アルテナさまが女神の『力』を行使して助けてくれた。地面に衝突する寸前に、おじいちゃんの落下を止めてくれた。
…けど、それじゃあ、アルテナさまは、消えちゃうの?
「アルテナさま、今は…『力』を失っている、はずですよね?」
ワタシは、無言のアルテナさまに震える声で問いかけた。ワタシの頭の上にいるので、アルテナさまの表情は確認できない。
「アルテナさま…これ以上、力を使っちゃいけないはずでしたよね?」
現在、アルテナさまの女神としての力はほぼ枯渇していた。天界からの力の供給が途絶えているからだ。だから、アルテナさまはこんなに縮んでしまっている。
「アルテナさまが次に『奇跡』を起こせば…今度こそ、消滅してしまうはずですよね?」
その存在の維持のために残していた余力を奇跡で消費してしまえば、アルテナさまは消滅する。
今、こうしてワタシが会話をしているのは、アルテナさまの残り火なのかも、しれない。
次の瞬間にも、アルテナさまは消えてしまうのかも、しれない。
…いやだよ、そんなの、みんなで一緒に、あの家に帰ろうよ。
『そうですね…ワタクシも、その消滅を覚悟していたのですが』
「していたの…ですが?」
そこでその言葉を口にしたということは…。
次に出てくるのは、逆ベクトルの言葉のはず、ですよね?
『ええと、何と言えばいいのでしょうか…』
しかし、アルテナさまの声からは困惑の色が見え隠れしていた。
どうやら、アルテナさま自身にも想定外の事態が起こっているようだ。
「大丈夫なんですか、アルテナさま…」
この後、いきなり消えたり、しないですよね?
ワタシたちを置いて、消えたりはしないですよね?
…ワタシはまだまだ、アルテナさまとおバカな話がしたいんですよ?
『消滅はおそらく…問題はないようですね』
アルテナさまの声は、先ほどより安定していた。
「問題ない…んですか?」
嘘だったら、ワタシ、泣きますからね?
泣いたワタシは面倒くさいですからね?
『ワタクシが天界に帰れなくなった理由は、花子さんにもお話ししましたよね』
「この世界の空に『蓋』がされたから、ですよね…」
この異世界ソプラノとアルテナさまたちが暮らしている天界は、トンネルのようなものでつながっているそうだ。そして、そのトンネルを通ってアルテナさまはこちらの世界へと訪れた。といっても、アルテナさまの本体はそのトンネルを通れないので、作り物の体に移したアルテナさまの精神だけがこちらに来ている状態なのだけれど。
しかし、先日からそのトンネルに『蓋』がされてしまい、アルテナさまは天界に戻れなくなってしまった。それだけでなく、アルテナさまには天界からの『力』の供給も届かなくなった。
『ええ、その『蓋』のお陰でワタクシの『力』も枯渇していく一方だったのですけれど…今現在、ワタクシに対する『力』の供給が復活しております』
「え、それじゃあ…」
『はい、この異世界ソプラノと天界をつなぐトンネルが復活しています…といっても、ほんの少しだけですけれど』
「でも、トンネルが通じてるってことは…アルテナさま、消えなくてもいいんですか?これからもずっと、ワタシたちと一緒にいてくれるんですか?」
『…これからもずっとは無理ですけれど、もう少しなら、花子さんたちと一緒にいられそうですよ』
アルテナさまの台詞の途中から、頭の上にいたアルテナさまに手を伸ばし、ワタシはアルテナさまを抱きしめていた。
『あの、くれぐれも力加減だけは間違えないでくださいね、花子さん…ワタクシ、このまま握り潰されたくはありませんので』
「大丈夫ですよ、アルテナさま」
ワタシはそこで、アルテナさまに頬ずりをしていた。
『ですがワタクシ、子供の頃から『生殺与奪の権利をダレカに握らせるな!』と口が酸っぱくなるほど言われて育ってきましたので…』
「何とか柱にでも育てられていたんですか、アルテナさまは…」
またこの女神さまの生態に謎の一文が追加されたよ…。
と、そこでワタシに声がかけられた。アルテナさまではない声が。
「あの、花子ちゃん…おじいちゃんも無事だったから抱きしめてくれると嬉しいなぁ」
「あ、そう。おじいちゃんも無事だったんだ、よかったね」
「女神さまの時とリアクションがまるで違うんだけど!?」
「冗談だよ、おじいちゃん」
そこで、ワタシはおじいちゃんにもハグをした。
…よかった。
ちゃんとここに、おじいちゃんもいてくれた。
誰一人として、ここからいなくなってなどいない。
「花子ちゃん、ついでにほっぺにチューとかしてくれてもいいんだよ」
「ワタシ、おばあちゃんから言われてたから。おじいちゃんが調子に乗ったときは焼けた鉄の棒でお尻を引っ叩いてもいいんだよって」
「アリアそんなこと惨いこと言ってたの!?」
とまあ、そんなこんなで普段の調子は取り戻しつつあったけれど、現状が好転したわけじゃないんだよね…。
おじいちゃんが無事でよかったけど、『花子』にもリリスちゃんにも、まだワタシの『声』は届いていない。
「とりあえず、少しずつとはいえアルテナさまの力が戻りつつあるのがポジ要素だね」
そう独り言を呟いたワタシに、アルテナさまは言った。
『おそらく、あの竜巻と靄のお陰ですね』
「そうなんですか…?」
不思議がるワタシに、アルテナさまは説明してくれた。
『花子さんにもお話していませんでしたが…この世界に『蓋』をしていたのは花子さんが『黒いヒトビト』と呼んでいたあの方々でした。しかし、あの黒い竜巻と赤色の靄が合わさったあの灰色の光…と言っていいのか分かりませんが、とにかく、あの『灰色』が空に立ち昇ると同時に『蓋』に隙間ができ始めました』
「あの灰色の帳が、『黒いヒトビト』の囲みに穴を開けたということですか…」
だから、天界とのトンネルが復旧し、アルテナさまに女神の力の供給が再開された。だけど、アルテナさまもまだ本調子ではない。
…なら、これから、どうすればいい?
あの二人を元に戻すためには、何が必要になる?そのためには、ワタシに何ができる?
「…………!?」
そこで、唐突に地面が揺れた…。
…ここで、地震?
ワタシは強い揺れを感じたが、それは地震ではなかった。ワタシの膝が、揺れただけだった。けど、ワタシだって何もなければいきなりバランスを崩したりはしない。
「なに…これ?」
不意に、ワタシは感じた。
空が、狭くなるのを…いや、空が、迫って来るのを。
だから、ワタシはバランスを崩したんだ。
…見上げた空は、低くなっていた?
今日の朝に見上げた空は、突き抜けるほど高かったというのに。
『あの黒い方々が、活性化したようですね』
ワタシの頭の上で、アルテナさまが言った。
「活性化…?」
『これまで、あの方々はただ虚空に存在していただけで能動的ではありませんでした…けれど、今はあの方々が動こうと、しています』
「ただ動こうとしただけで、これですか…?」
緊張で、ワタシの声は強張った。でも、無理はない。空から、巨大な重圧が圧し掛かって来るんだ。ワタシの脳裏に、アトラスという天空を支える巨人の姿が浮かんだ。そのアトラスの巨大な腕に頭を押さえつけられる錯覚が、ワタシを蝕む。
「でも、どうしてこのタイミングで…?」
『このタイミングだから、でしょうか』
ワタシの呟きに、アルテナさまが応じてくれた。そして、続ける。
『先ほども言いましたが、あの黒い竜巻と赤色の靄が交わってこの世界の『蓋』に隙間を開けました』
「その『蓋』は、『黒いヒトビト』がいたから生じたものだったんですよね…」
『ええ、その『蓋』に隙間を開けたことで、あの方々に敵性存在だと認識されてしまったのかもしれません』
「敵性って…まさ、か」
その敵性の対象というのは…。
『あの悪魔の少女と…もう一人の『花子』さん、ですね』
アルテナさまの言葉が、重く、告げた。
ワタシの大切な二人が、あの『黒いヒトビト』に敵として認識された、と。
「『花子』…リリスちゃん!」
ワタシは、二人に呼びかける。
今の『花子』は『邪神』の力を発現している。リリスちゃんも、『毒の魔獣』の魔毒を纏っていた。
…それでも、『黒いヒトビト』の『力』には、おそらく及ばない。
何千年、何万年と堆積した何億もの、何十億もの絶望が、『黒いヒトビト』の根源だ。
今日まで浄化されることなく、その絶望は淀み続けた。
言い換えれば、それは人の歴史の汚泥そのものだ。
「黒い空が…落ちて、くる?」
それは、熱に魘された時に見る悪夢よりもシュールで醜悪だった。
高いはずの空が、そのまま、落ちてくるのだから。
…リリスちゃんを、目がけて?空が?
あまりのスケールに、ワタシの遠近感は狂う。いや、狂ったのは遠近感だけではない。
全ての感覚が軒並み狂うほどの、理不尽な質量…この絶望の前では、人の世の正しさなどただ霞むだけだ。
「リリスちゃん…リリスちゃん!!」
叫ぶことしか、できない。
しかし、その叫び声すら掻き消されるほどの質量…それが、リリスちゃんの頭上に降り注ぐ。
…リリスちゃんが、潰される。
それはそれは、無残な姿を晒して。
「逃げてえええええええええええええぇ!」
どれだけ喉を震わせて叫んでも、空そのものが振動しているあの『落下』に掻き消される。
…ワタシが、どれだけちっぽけな存在か、思い知らされるだけだった。
けれど、リリスちゃんはちっぽけなワタシとは、違っていた。
「…リリスちゃん?」
すんでのところで、リリスちゃんは身を翻して『空』を躱していた。猿の如くといった身軽さで。
…けれど、軽さでは重さに勝てない。
その余波は、暴風となって周囲に吹き荒ぶ。
何もかもを、根こそぎ薙ぎ倒す。
リリスちゃんも、吹き飛ばされていた。
「アルテナさま!」
勿論、リリスちゃんは気がかりだった。けど、ワタシは、咄嗟に女神さまを抱きかかえて身を伏せる。それでも、ワタシの体は地面から引っぺがされそうになる。
…その理不尽は、暴力の極致だった。
「無事ですか、アルテナさま…」
『花子さんのお陰で、なんとか…』
アルテナさまは息も絶え絶えにだが返事をしてくれた。天界とのパスが戻ったとはいえ、女神としての『力』はまだまだ戻っていない。
…あんなモノが、二度も三度も降ってくれば、どうなる?
先ほど脳裏に浮かんだ巨人アトラスの幻影が、そのまま実体を持ったような理不尽さで空から落ちてくる。
天を支える巨人を、この世界のダレが、支えられる?
「リリスちゃん…大丈夫?」
視界の端で、立ち上がるリリスちゃんの姿が見えた。
よかった、とりあえずはリリスちゃんも無事そうだ。
…けれど、この次も無事だという保証は、ない。
「ぐ…ぅ?」
…背後から、呻き声が聞こえた。
まさか、誰かが怪我をしたのか?
ワタシは、声の方に振り返った。
繭ちゃんやシロちゃん、それに雪花さんたちにも外傷は見当たらなかった。そして、『花子』も無事だ。
となると、後は…。
「…ロンド、さん?」
そこで苦しんでいたのは、『源神教』の教祖さまにして『不死者』であるタタン・ロンドさんだ。
「大丈夫ですか…どこか怪我をしたんですか?」
先ほどの衝撃は桁違いだったが、この人が深手を負うとは思えなかった…。
そして、ワタシの問いかけにロンドさんは答えた。
「ありがとう、花子さん…でも、怪我、とかではないよ」
「怪我じゃない…?」
では、なんだ?
安堵と共に、疑問と不安が、なぜか同時に浮かぶ。
「さっきのアレを見てから…急に、頭が痛くなってきたんだ」
「頭が痛いって…でも、ロンドさん怪我はしてないんですよね?」
「ああ、ちょっと…思い出したようだ」
額を押さえながら、ロンドさんは呟く。
何をですか?とワタシが問いかけるよりも先に、ロンドさんは口を開いた。
「さっきのアレが…『世界の崩壊』だ」
ロンドさんが語ったことに、おそらく嘘はない。
何しろ、この人は、前回の『世界の崩壊』を最前列で目撃している。
…いや、『生け贄』という、もっとも重要なファクターとしてその現場に捧げられていた。




