116 『どこに落ちたいの?』
お世辞にも勤勉とは言えないワタシでさえ、『天変地異』という言葉くらいは知っている。
それは文字にすると仰々しく、聖書で語られるような大水害などを想起するかもしれない。
けれど、天変地異というのは、要するに空や大地に起こる異変のことだ。旱魃や台風、地震や噴火などのことを指していて、決して神話や伝説の中でだけ語られるような未曾有の大災害を示した言葉ではない。
…と、地震も旱魃も未経験のワタシなどは思っていた。
しかし、世界には『天変地異』というのがイメージそのままの尺度で語られるセカイがあった。
例えば、この異世界ソプラノなどは。
「ねえ、『花子』…ねえ、リリスちゃん」
ワタシは、『天変地異』の渦中にいる二人に呼びかける。
『…………』
『…………』
当然、二人からの反応は、ない。
二人とも、それどころではなかったから。
巨大な柱ほどもある『黒渦』が『花子』から立ち昇り、轟々と砂塵を巻き上げながらゆっくりと周囲を旋回していた。
赤錆色の『魔毒』が、リリスちゃんから濛々と発せられていた。それらは、音もなくその裾野を広げている。
静と動、二つの天変地異だった。
そして、リリスちゃんと『花子』の、『魔毒』と『黒渦』それぞれのテリトリーが重なった場所で、更なる異変が起こる。
それは、二つの異変の衝突ではなく融解だった。
異質な二つの『力』が、そこで混ざり合っていた。
混ざり合い、鈍色の光…?霧?帳?のようなモノが発生し、この異世界を塗り替える。
…いいや、塗り潰す。
「空が、壊れていく…?」
見上げた空が、普段の見慣れた青色ではなかった。
いや、空には『黒いヒトビト』が陣取っていて、先刻から太陽を遮っていた。
しかし、そこにリリスちゃんたちの『力』が混ざり合ったあの『鈍色』が、立ち昇っていく。
それらが、さらに空を塗り替えていく。
黒だか灰色だか、判別できない色に。
もはや青空の名残りすら、そこにはない。
空が壊れていく過程が、そこにはあった。
「これが、この世界の黄昏、なのかな…」
足から力が抜け、ワタシは倒れ込みそうになる。あの『鈍色』を眺めていると、胸が圧迫される。
…ワタシは、誰も助けられなかった。
リリスちゃんも。『花子』も。
あの『色』は、ヒトの絶望を縁取る色をしていた。
「アリア…!」
この場で『花子』をそう呼ぶのは、あの人だけだ。
ワタシの祖父である、アンダルシア・ドラグーンだ。
「おじいちゃん…?」
ワタシの祖父は、深く息を吸い、真っ直ぐに『花子』を…おじいちゃんからすれば、最愛の人である『アリア・アプリコット』の残滓を見据えている。
その眼光は、まだ、諦めていなかった。
…『花子』を取り戻すことを。
けど、今の『花子』は、ほぼ『邪神』だ。
あの破壊の権化と同じ『症状』を、『花子』は発症している。
それでも、おじいちゃんは立ち向かった。
それは、あの『天変地異』に挑むのと同じことだ。しかも、おじいちゃんは徒手空拳だ。何の武器も持っていない。
「おじいちゃん!」
ワタシの叫び声を『よーい、ドン!』の号砲にしたように、おじいちゃんは駆け出した。弾かれた弾丸のように、一途なほどに真っ直ぐに。
…当然、『花子』の周囲にはあの『黒渦』が轟音を立てて逆巻いている。
「おじいちゃん!」
とうとう、ワタシの声はおじいちゃんにも届かなくなった。おじいちゃんには、ワタシの声は聞こえているはずだったのに。
おじいちゃんは、きっと知っている。
ここで死に物狂わなければ、おばあちゃんを失ってしまう、と。
失ってしまえば、二度と手に入らない、と。
だから、おじいちゃんは死に物狂っている。
…二度も、おばあちゃんを失いたくないから。
「アリアアアアァ!」
おじいちゃんは…『英雄の片割れ』アンダルシア・ドラグーンは、雄叫びと共に踏み込む。荒波のように『黒渦』が砂塵を巻き上げる、新鮮な地獄へと。
紙一重でおじいちゃんは『黒渦』を避けていたけれど、ほんの少しでも触れれば木端よりも無残に命を散らすことになる。
それでも、おじいちゃんは駆け抜けた。一陣の風となって。
「…怖く、ないのかな」
聞こえていないと知りながら、ワタシは呟く。
…だって、たった一つのミスで簡単に犬死にをしてしまうんだよ。
「ワシはアリアのために命を懸けられなかった…犬死により辛いことがあると、あの時に知ったよ」
偶然だろうけれど、おじいちゃんの独り言はワタシの呟きに対するアンサーだった。
おじいちゃんはずっと悔恨を抱えていた。
…おばあちゃんを失った、その時のことを。
それは、悔やんでも悔やんでも消えない刻印だ。
「けど、おばあちゃんは…」
おばあちゃんはきっと、その時、最善の選択をした。
大団円にはならなかったけれど、命を懸けて『邪神』を封印したことを、おばあちゃんは微塵も後悔していない。
ほんの少しでも後悔していれば、それはワタシにも伝わっていたはずだ。
でも、そんな素振りは、おばあちゃんにはなかった。
おばあちゃんはいつも、やさしくワタシに微笑みかけてくれていた。
「でも、おじいちゃんは、後悔し続けている…」
おばあちゃんを、救えなかった、と…。
そんな二人の想いが、時を超えて、世界を超えて邂逅している。
…だったら、ここで奇跡が起こらないと、おかしいよね。
「おじいちゃん…いっけええええ!!」
おじいちゃんの背中に、有りっ丈の声援を届けた。
その声援が届いたのか、おじいちゃんは一瞬だけワタシに微笑みかける。
そして、『黒渦』をギリギリで避け続け、『花子』に近づく。
その距離が、徐々に縮まっていた。
もう少しだよ、おじいちゃん!
おじいちゃんが『花子』を助けてあげて!!
…けれど、落とし穴というのは底意地の悪いタイミングでこそ、現れる。
「おじいちゃん!?」
手を伸ばせば『花子』に届くというところまで接近したおじいちゃんだったけれど、不意にバランスを崩した。
右足がつんのめり、上体が崩れそうになる。『黒渦』が地面を抉っていたせいで足場が悪くなっていたんだ。
轟音と共に、『黒渦』が迫っていた。
…そして、おじいちゃんは一瞬で空に巻き上げられる。
大空に吸い込まれるように、あの『黒渦』に呑み込まれる。
あれは、空の濁流だった。
「おじいちゃ…ん?」
非現実な光景に、ワタシは言葉を失った。
糸の切れた凧のように、おじいちゃんは舞い上がる。
近づいたはずのおじいちゃんと『花子』の距離は、そこでまた開いた。
平面から、垂直に。
それは、絶望的な、別離だった。
「おじい…おじいちゃ、ん?」
ワタシの脳裏に、喪失の二文字が浮かぶ。
…そうだ、ヒトは、死ぬ。
呆気ないほど、簡単に。
それが英雄であろうと勇者であろうと、特例はない。
奇跡というのは、訪れないからこその、幻想。
「おじいちゃん…リリスちゃん」
おじいちゃんは、まだ空に巻き上げられたままだ。
あの黒い渦が、轟々とおじいちゃんを連れ去った。
だから、おじいちゃんは帰ってこない。
…このままならば、二度と。
だから、ワタシは、『花子』に叫ぶ。
「お願い、『花子』…その黒い渦を止めてよ!!」
おじいちゃんが、ずっとずっと、空で弄ばれている。
渦潮に呑まれた木の葉のように。
…じゃあ、おじいちゃんの体も、葉っぱにみたいにバラバラになっちゃう、の?
「いや…いや、いや」
ワタシの眼前に、ぼとりと落ちてきた。
それは、おじいちゃんの右腕だった。
ワタシの頭をふんわりと撫でてくれた、やさしいあの手のひらがそこにあった。
「…いやぁ、ぁ?」
…違った。
それは、ただの木の枝だった。ただの、干乾びた木の枝だった。
最悪のイメージが浮かんでいたワタシには、それがおじいちゃんの腕に見えてしまったんだ。
けれど、遅かれ早かれ、それが現実になる。
おじいちゃんの体が、散り散りに、なってしまう。
「『花子』…『花子ぉ』」
ワタシは、泣きながら『花子』に呼びかける。
その声は、轟々と逆巻く『黒渦』に遮られて『花子』にまでは届かない。
…なら、届く距離まで近づくしか、ない。
恐怖に鈍る足で、一歩、踏み出した。
それだけで、『黒渦』からの重圧が増した。
「…おじいちゃんは、こんなプレッシャーの中を駆け抜けたんだ」
だから、ワタシも真似ようとした。
「ワタシだって、『英雄』の孫なんだぞ!」
しかし、足は重い。泥沼の中でも歩いているように。
自分の鼓舞するために吐き出した言葉が、あまりに軽い。
当然だ。ワタシの言葉は、ただの虎の威を借る狐でしかない。
おじいちゃんとおばあちゃんが英雄だったとしても、ワタシは決して、英雄などではない。
…それでも、ワタシは進んだ。
近づく。『花子』との距離が。
そして何よりも、『黒渦』との距離が。
「元に戻ってよお、『花子』…あなたは、『邪神の魂』なんかじゃないでしょ!?ワタシの妹でしょ!?」
そうだよ、『花子』はワタシの妹だ。『邪神』なんかに渡すものか。
けれど、いつの間にか、『黒渦』がワタシの死角から接近していた。
…あ、死んだか、も。
ワタシは、おじいちゃんの二の舞を覚悟した。
やっぱり、ワタシみたいな裏方がしゃしゃり出てきたところで、ろくな目に遭わないことは明白だった。ワタシなんかが、『英雄』と同じ檜舞台に立てるはずがないと、分かっていたはずなのに。
「…あれ?」
しかし、その瞬間は訪れなかった。
瞳を閉じて、ずっと身をかがめていたけれど。
ワタシの体は、バラバラには、なっていなかった。
いつの間にか。ワタシに迫っていた『黒渦』は消えていた。
…というか、消されていた?
「リリス…ちゃん?」
ワタシを巻き込もうとしていた『黒渦』は、リリスちゃんが発生させていた赤錆色の靄と接触し、あの鈍色の帳と化して空に昇っていた。
…リリスちゃんが、助けて、くれたのだろうか?
赤錆色の靄は真っ直ぐにワタシのところに伸びていて、ワタシを庇うように『黒渦』に触れていた。
「やっぱり、リリスちゃんは…ワタシが大好きなんじゃない」
泣き笑いの表情で、ワタシはリリスちゃんに言った。それでもリリスちゃんは無表情だったけれど、少しだけその表情に変化があった…気がした。
だから、リリスちゃんにお願いをした。
これが、一生に一度のお願いでもかまわなかったから。
「リリスちゃん、お願い…おじいちゃんも助けてあげて!」
ワタシは、リリスちゃんに助けてもらえた。しかし、おじいちゃんはまだ宙に舞い上げられたままだ。『英雄』とはいえ、おじいちゃんがいつまで持つかは分からない。
…けれど、リリスちゃんは無反応だった。
やはり、ワタシの声はリリスちゃんの心にまでは届いていない。
「リリスちゃん、お願い、します…ワタシ、おじいちゃんを失いたくなんて、ないんだよぉ」
おじいちゃんには、ここで命を捨ててもかまわないという覚悟があったのかもしれない。
それが、『英雄』としての矜持なのかもしれない。
…でも、ワタシには、そんな高潔な覚悟はできなかった。
ナニカを失う覚悟もないまま、ワタシはこの場に立っている。
それでも、この場から逃げることだけはできなかった。
「リリスちゃん…お願、い」
何度も何度も、リリスちゃんに希う。
ワタシなら、どれだけの誹りを受けてもかまわない。
何もできないくせに、分不相応なことに首を突っ込むからだ、と。
それでも、おじいちゃんだけは助けて欲しいと、切に願った。
…リリスちゃんは、微動だにしていなかった。
「お ねがい しま す」
嗚咽と共に祈ることしか、できなかった。
祈る神が、ここにはいないとしても。
「…………あれ、は?」
神はいなくとも、奇跡は、起きて…いた?
おじいちゃんを巻き上げていた『黒渦』が、不意に消えた?消えていた?
…何が、起きた、の?
何が、起きているの?
混乱するワタシの視界に、空から黒い塊が落ちてくる…。
「おじいちゃん!?」
ワタシは、『黒渦』が消えることを望んでいた。
けど、『黒渦』 の消失は、おじいちゃんの落下と同義のはずだ。
だから、空から落ちてきた黒い塊は、おじいちゃんだった。
当たり前の、ことだ。
…そして、このままおじいちゃんが地面に叩きつけられるのも、当たり前のことだ。
「おじいちゃん!」
…おじいちゃんの落下地点に、ワタシは入ろうとしていた。
ワタシの細腕で、おじいちゃんが受け止められるはずなどないのに。
それでも、体は勝手に動いていた。
薄いとはいえ、『英雄』の血がワタシにそうさせたのかもしれない。
「花ちゃん!」
遠くで、ワタシを呼ぶ繭ちゃんの声が聞こえた気がするけれど、ワタシの視界には落ちてくるおじいちゃんしか、見えていない。
今のワタシには、『世界の崩壊』も『悪魔』も『魔女』も、関係なかった。
ただ、おじいちゃんを助けることしか頭になかった。
…ワタシなんかに助けられるはずがないことくらい、共倒れになるのが関の山だということくらい、分かっていたはずなのに。
「…おじい、ちゃん?」
おじいちゃんは、ゆっくりと落ちてくる。ワタシを、目掛けて。
これはアレかな、死の直前は景色がスローモーションに見えるっていうアレなのかな。
などと、安穏なモノローグがワタシの脳裏に浮かんでいた。
…けれど、そのスローモーションは、マヤカシではなかった。
おじいちゃんは、本当にゆっくりと落ちてきていた。いや、落ちるという速度ではない。ゆっくりと降りてきたんだ。
そして、緩慢な速度で地面に降り立った。
ワタシの手助けなんて、必要なかった。
「おじいちゃん…大丈夫、なの?」
キツネにつままれたようなワタシは、呆けたように問いかける。
「ああ、何とか無事みたい、だ…よ」
おじいちゃんは息も絶え絶えだったけれど、ちゃんと返答してくれた。
…それに、右腕も千切れてはいなかった。
「でも、よかった…おじいちゃんが落ちてきた時は、もう駄目かと思ったよ」
「そうだな…ワシも、『どこに落ちたいの?』というアリアの幻聴が聞こえた時は覚悟をしたよ」
「色んな意味で返答に困る発言はしちゃいけないと思います…」
…でも、よかった。
奇跡でもご都合主義でも、おじいちゃんが無事ならなんでもいい。
シナリオやプロットが破綻していようが、それはワタシの知ったことではないのだ。
そして、無事を喜び合うワタシとおじいちゃんの傍に、あのヒトがいつの間にか立っていた。
「あなたが、おじいちゃんを助けてくれたんですか…」
それは、『不死者』タタン・ロンドさんだった。
確かに、この人ならばそれぐらいの奇跡も朝飯前のはずだ。
しかし、ロンドさんは首を横に振る。
「そのつもりだったんだが…その老人を助けたのは私じゃないよ」
「え…違うんですか?」
だとすれば、ダレだ?
あんな奇跡のような助け方ができるのは、魔法が扱えるこの人くらいだと思ったのだけれど。
その答えを、ロンドさんは示してくれた。
「その老人を助けたのは、そこにいる『女神さま』だよ」
ロンドさんは、ワタシの頭の上を指差していた。
…アルテナさま、が?
アルテナさまは、『力』を失っている。
次に『力』を使えば、アルテナさまは消滅してしまうはず、だった。




