110 『花子さんが来ったぞー!!!』
「花子さんが来ったぞー!!!」
もはやヤケクソだった。
こんなふざけた『ゲンジツ』を前にしたワタシには、玉砕覚悟で叫ぶことしかできなかった。
そりゃ『ユニークスキル』なんて身の丈に合わないお宝だってもらったけどさ、ぶっちゃけると『念話』ってただのテレパシーなんだよね。この異世界における奇跡の中では地味な方なのだ。というか後方支援専用のスキルだ。
そんなちょっとしたテレパシーが使えるだけの看板娘が最前列に躍り出て、何ができるというのだ。なけなしの空元気を総動員しても、空回りをするのが関の山だ。
それでも、トラブルの方からスクラムを組んでやってくる。こっちの都合なんておかまいなしに、だ。
けど、そっちがその気なら、こっちだって迎え撃つのだ。
看板娘を敵に回して、ただで済むと思うなよ。
…でもできれば平和的に解決できる方向でお願いします!
「さあ、どういう了見なのか教えてもらうよ!」
それでも、ワタシはまたも大音声で叫ぶ。
けっして、さっきの第一声がスベッたから勢いで流そうとしているわけではないということを付け加えておく。
そんなワタシの目の前には、リリスちゃんがいた。
悪い『悪魔』として復活してしまった、虚ろな瞳のリリスちゃんだ。
…リリスちゃん、ちゃんとご飯、食べてるのかな。
あまり心配させないで欲しいよ、悲しくなっちゃうから。
『…………』
しかし、ワタシの声を聞いてもリリスちゃんは無反応だった。悪い悪魔として復活してから、リリスちゃんはずっとこうだった。
けど、ワタシが声をかけたのはリリスちゃんだけではない。
その隣りにいた『魔女』にも、ワタシは声をかけていたんだ。
…『魔女』と『悪魔』という異物が、並んでこの場に立っていた。
『しばらくぶりですね、花子さん』
「そうですね、ドロシーさん…」
リリスちゃんとは違い、魔女は…ドロシーさんはワタシの声に反応してくれた。
けど、その声からワタシが感じたのは、水底の静けさだ。無音で底冷えがする、排他的な静けさだった。それでも、ドロシーさんは薄い微笑みを浮かべている。
「知りませんでしたよ…ドロシーさんがリリスちゃんとお友達だったなんて」
ワタシは、薄く笑う魔女と対峙する。
カノジョは、『世界の崩壊』を引き起こすと言われている異世界の『魔女』だ。本来なら、ここで対峙するのはワタシなどではなく『勇者』とか『英雄』といった後世に語られるような主人公でなければならないはずだった。ワタシじゃ役不足もいいところだろ。
…けど、仕方ないか。
その『魔女』も『悪魔』もワタシの関係者だ。なら、二人まとめて面倒をみてやるのだ。
しかし、そもそもの素朴な疑問が浮かぶ。
どうして、この二人が一緒にいる?
この二人のルーツを辿れば、『魔女』と『悪魔』は水と油のはずだ。
「お願いですから、『二人で仲良く世界を滅ぼしに来た』とか冗談でも言い出さないでくださいよ?」
冗談めかしてはいたが、ワタシは割りと真剣だった。
この二人なら、その気になれば滅ぼせそうなんだよね、世界ですら。
というか、この二人が手を下すまでもないのかもしれないけれど。
…実際、この異世界の崩壊は既に始まっていたのかも、しれない。
ワタシは、そこで軽く頭上を見上げた。
そこには、『黒いヒトビト』が広がっていた。
未練を抱え、望まぬ死を迎えた魂は呪詛の塊となってこの世界に残滓となって留まり続ける。それが、あの『黒いヒトビト』だ。
その『黒いヒトビト』が黒い斑点となり、空を覆い尽くそうと少しずつ拡散を続けている。
この異世界ソプラノで、どれだけのヒトビトが望まぬ死を迎えたのだろうか。
長い長い歴史の果てに、どれだけの死がこの世界に堆積したのだろうか。
『…………』
ドロシーさんは、微笑んだまま口を閉ざした。
この場に沈黙が降り積もる。
それは、粉雪のように軽いものではない。
じっとりと、ワタシの襟足の辺りに圧し掛かる。ワタシから、徐々に体温を奪っていく。
「どうして、リリスちゃんと一緒にいるんですか…」
もう一度、ワタシはドロシーさんに問いかけた。
この泥濘の沈黙に、耐えられなかったから。
ドロシーさんは、二度目の問いかけには答えてくれた。
『聞こえたんですよ、声が』
「…『声』?」
『この方の、声が』
ドロシーさんは視線で『この方』を…リリスちゃんを示していた。
「…リリスちゃんの声が、あなたには聞こえたんですか?」
その言葉の意味が、ワタシを抉る。だって、『念話』でも聞こえなかったんだ…リリスちゃんの『声』は。
『そうですね』
事も無げに、『魔女』は頷く。
…けど、そうか。
「『魔女』であるドロシーさんには、『黒いヒトビト』の声も聞こえていたんでしたね…」
言葉も意識も失い、他者との意思疎通の一切合切を『黒いヒトビト』は失った。そんな『黒いヒトビト』の声を聞くことができる唯一の存在が、『魔女』だ。
…だとすれば、この人には『悪魔』であるリリスちゃんの声が聞こえていても、不思議ではない。
「リリスちゃんは…何と言っているんですか?」
本当なら、ワタシが聞くはずだったリリスちゃんのその『声』は、何と言っているのだろうか。ワタシの中で、黒い感情が鎌首を擡げていた。
…これも、嫉妬なのだろうか。
『分かりません』
「分から…ない?」
肩透かしの一言に、ワタシは間の抜けた表情を浮かべていた。
『私には分からないということですよ。花子さんなら分かるかもしれませんね』
「ワタシなら…それじゃあ、教えてください。リリスちゃんは何と言っているんですか?」
『それはですね…』
けれど、ドロシーさんからの次の言葉が聞こえてくる前に、邪魔が入った。
いや、これはある意味では予定調和だったのかもしれない。
ワタシたちがいるこの場所は、水鏡神社の外れにあるあの『祠』の前だ。邪気も毒気もまとめて浄化してくれる、奇跡の『祠』のすぐ傍だった。
そこに毒の魔獣の要素を付与された『悪魔』がいるのだ。だとすれば、そこにカレらは現れる。
「やっぱり来るんですね…呼んでもいないのに」
ワタシは、辟易としていた。
こちらとしては、今更『神の実在』などどうでもいいというのに。神さまなら、今もワタシの頭の上にいるというのに。
神を求める子羊の相手など、している暇はない。
「我々は、『神の使徒』だ。そして、その悪魔は討滅されなければならない。この王都を守るために』
それは、ワタシたちを取り囲んでいるダレカの声だった。誰の声か分からなかったのは、全員が覆面をかぶっていたからだ。
しかも、その声からは微塵の誠意が感じられなかった。『王都を守る』だの『悪魔を討滅』だの、それらが全てお為ごかしにしか過ぎないことを、ワタシが知っていたからかもしれないが。
「リリスちゃんを『悪魔』として復活させたのは、あなたたちではないですか」
ワタシは、確信をもって覆面の一人をねめつけた。その人物は、煤けた灰色の覆面を被っていた。そして、全員が思い思いの覆面で素顔を隠している。
つまり、ここにいる連中は『裏側』と呼ばれる『教会』内の過激派たちだ。
「離れていろ、そこの少女よ。悪魔討滅に巻き込まれるぞ」
煤けた灰色の覆面は、高圧的な物言いだった。とてもではないが、『神さま』の使徒にはあるまじき振る舞いだ。
当然、ワタシは反発する。
「そんなに実績が欲しいんですか、『神さま』を作り出すための」
「何を言っている?」
覆面の奥で、眉が歪んでいることは容易に想像できた。そして、さらにドスを利かせた声で言った。
「兎に角、邪魔だ…少女よ」
「そんなに『神さま』を生み出す実績が欲しいなら、あのヒトたちをどうにかすればいいんですよ」
ワタシは、そこで空を指差した。
青空には、黒い斑点が広がっている。その『黒』は、ぽつりぽつりとこの大地に陰を広げていた。それを侵食と呼んでも、何の差支えもなかったはずだ。
「あっちの方が、よっぽど火急の事態ですよ」
これまでより、明らかに事態が深刻になっている。大地に刻まれたいくつもの陰が、ワタシには刻印にしか見えなかった。
「あんな得体の知れないモノ、俺たちは知らな…いや、あんなものは、管轄外だ。我々『神の使徒』は、『悪魔』を討滅するのが使命なんだよ」
高圧的だった自称『神の使徒』だが、当然、彼らにとっても『黒いヒトビト』は異質でしかなかったようで、明らかに狼狽している。それでも、使命を優先しているところに、彼らの本気が見え隠れしていた。
…だからといって、リリスちゃんをどうこうなんてさせないけどね。
「とは言ったものの…」
この人数を相手に、ワタシなんかがどういうできるものではない。そこで、ちらりと横目でドロシーさんを見た。ドロシーさんは、特に何かの発言をするわけでもなく、物静かにこちらを眺めているだけだった。
勿論、リリスちゃんを放ってはおけないが、『黒いヒトビト』も放置していいわけがないんだよね…。
「さあ、最後通牒だ…その魔獣の少女から離れろ」
ワタシが迷っている間にも、『裏側』の覆面たちはワタシに迫る。リリスちゃんを見捨てろ、と。
「そんなこと、できるわけ…」
ないと言い切ることが、できなかった。簡潔に言えば、気圧されたからだ。
だって、あのヒトたち、目が据わっていた。本気で、ワタシの命すら奪う気だった。
…あれは、『神さま』の名の下に、人が殺せるヒトたちだ。
「ようやく、『初めまして』が言えたな」
この言葉を口にしたのは、ワタシでも『裏側』でも『魔女』でもなかった。
その声は、ワタシの後方から聞こえてきた。
「え…ベイト神父さん?」
どうして、あの神父の姿が、ここにある?
いや、あの神父も『黒いヒトビト』とは因縁がある。
何しろ、あの人の妹は、今も虚空に囚われている。『黒いヒトビト』の、一人として。
だとすれば、この土壇場に顔を出さない理由はない。
けれど、その視線はワタシにも『魔女』にも『悪魔』にも『黒いヒトビト』にも向けられてはいなかった。
あの神父の視線が捉えていたのは、覆面の狂信者たちだ。
…ああ、やっぱり、そうか。
「なんだ、また邪魔者か…」
ため息交じりの覆面たちだったが、ベイト神父の眼光はそんなため息をまとめて払拭するほど鋭利だった。
「貴様たちが、『裏側』の連中だな」
「『裏側』?知らないな」
「正体は絶対に明かさない、というわけか」
ベイト神父は、不用意ともいえる足取りで狂信者の群れに近づく。
いや、その視線は、狂信者たちと同等かそれ以上に、狂っていた。
…それは、無理もないことだけれど。
「我々は崇高な使命を仰せつかっている。神父とはいえ、どこの馬の骨とも知れない人間にかかずらっている場合ではない」
覆面の狂信者たちは、ベイト神父のことなど歯牙にもかけない。
「そういうな、こっちはようやく『初めまして』が言えたんだ…妹の仇に、な」
黒い修道服の神父は、絞り出すような声で口にした。
妹の『仇』と。
黒い斑点が陰を落とす中、狂信者と復讐者の視線が交錯する。
罪と罰の荊が、周囲の全てに絡みつく。
「…何の話だ?」
煤けた覆面の男が、それまでよりも声のトーンを落とした。
…あの『裏側』の男の声には、その裏側に後ろめたさが混じっていた。
「…………」
ベイト神父からは、『声』が消えた。
先ほどの反応で、この人は確証を得たんだ。
妹の死に『裏側』が関わっていた、と。
深く深く、神父の周囲に闇が沈む。
日の光という祝福が、ベイト神父からは、失われた。
本人からすれば、望むところだったのかもしれない。
絶望の根源が目の前にいるのだから、もはや祝福など足枷にしか、ならない。
その血走った瞳が、陰の中で紅く鈍く、発色していた。
もはや、獣の瞳だった。獲物の喉笛を嚙み切ることしか考えていない、飢えた獣の瞳だ。
「妹は、無残に殺害された」
神父は、『闇』を吐露した。
この人の中に巣食う、根幹の闇を。
「殺したのは、お前たち『裏側』だ」
続けて、語る。
胸を蝕む幻の疼痛に耐えながら。
それは、幻だからこそ癒えることがない。
「なぜ、そのような濡れ衣を我々に着せる?」
煤けた覆面が、そう口にした。先ほどの反応から見るに、この人物がベイト神父の妹さんの死に関わっていたとしても不思議ではないが。
「妹は、長い間ずっと封印されていた『悪魔』リリスの封印を解いた」
淡々と、神父は経緯を語る。
それは、この人の妹が非業の死を迎えるまでの物語だ。
…苦痛を伴わないはずが、ない。
「それは、私がその封印を解けという『神託』を受けたからだが…妹にその封印を解く力はあったが、封印の解き方自体を、妹は知らなかった。にもかかわらず、妹は『悪魔』リリスの封印を解いた。ナニモノかが、妹に封印の解き方を伝えたからだ」
滲む。血が。滲む。
語れば語るほど、神父の瞳に、血が滲む。
「しかし、そのナニモノかからすれば、そこで妹は用済みになった…いや、不都合になった。妹が、生きていることそのものが」
…そう。
「そのナニモノかからすれば、妹と接触したという事実さえ、消さねばならなかった。妹に口止めはしていただろうが、それがいつまで有効かは分からない。ふとしたことで、その『接触』に関してダレカに口外してしまうかもしれない。そうなれば、その『ナニモノ』かの存在が、周囲に知られてしまう」
……そう。
「だから、お前たちは消したんだ…私の妹を、この世界から」
………そう、だ。
ベイト神父の妹は、殺害された。
あの狂信者たちの存在を、隠すために。
そのことに、ベイト神父が気付いていないはずはなかった。
当たり前だ。この人が片時でも妹のことを忘れるはずが、ないのだから。
「…………」
狂信者たちも、雰囲気が変わった。ベイト神父を『敵』と認識していた。
現状では、『裏側』VSベイト神父といったところだが、しかし、あからさまに多勢に無勢だ。ワタシなんて戦力にはならないし、頭の上のアルテナさまだって力の大半を失っている。そして、『魔女』と『悪魔』は傍観しているだけだ。勢力図は最初からあちらサイドに塗り潰されている。
それでも、『裏側』に油断はない。
ベイト神父に『裏側』という存在を完全に知られた今、彼らにとってこの人は刈り取るべき災厄となったからだ。
「待ち望んでいた…この時を」
しかし、妹の仇を前にして、ベイト神父も気後れなどしていない。
けれど、この後でどうするつもりなのか…その矢先、唐突にベイト神父は修道服の上着を脱いだ。神父とは思えない引き締まった筋肉が衆目に晒されたが、その片腕が、『黒』に染まっていた。
…そうだ、この人は『黒いヒトビト』と同化しかけていたんだ。
「なんだ、それ…は?」
さすがの狂信者たちにも、動揺が走る。
これまでは信仰のために無表情で任務を遂行していたはずなのに、その『黒』の光景にたじろぐ。鉄の信仰にヒビが入った瞬間でもあった。
「見世物としては、それなりに面白いだろう?」
神父は、『黒』く笑っていた。
苦痛に眉を顰めながら、それでも歓喜に溺れていた。
…周囲から降り注いでいた陰が、ベイト神父を取り巻く。
同胞を迎えるように、丁重に。
「ベイトさん…」
明らかに、そこは人が触れてはいけない領域だった。
けれど、当たり前だがワタシの声はあの人には届かない。
「ベイトさん!」
ワタシが叫んでいる間にも、『黒』が神父を包み込む。
歓喜と共に、悲壮と共に。
「ベイ…リリスちゃん!?」
三度目の名前は、呼べなかった。
リリスちゃんにも、動きがあった。
ベイト神父の『黒』に呼応するように、リリスちゃんが『魔毒』を発生させていた。
以前にも見た、あの赤錆めいた靄がリリスちゃんを中心にゆっくりと裾野を広げる。
リリスちゃんは、さっきまで何の動きも見せていなかったというのに。
…何が一体、どうなっているんだ?
先ほどから、想定外のことしか起こらなかった。
くそ、神さまの言うとおりなんて、本当に当てにならないね!




