108 『そして、次の『謎』が始まるのです』
朝ぼらけの王都は、厳格な静謐に包まれていた。
夜と朝の狭間の時間帯は、微かな薄明りしか差し込んでいない。街中を行き交う人々もおらず、野鳥の類さえ静まり返っていた。
「…………」
玉砂利が敷き詰められた参道を、一人の巫女が箒で掃いていた。
お天道さまが顔を出すには今しばらくかかるので、仄暗い中での清掃だ。
秋も深まってきた昨今では爽やかさよりも寒さの方が勝っているが、巫女少女の所作は洗練されてい…たはずだけれど、巫女少女は「ばあっくしょぃ!」と、おじさんのような大音量のクシャミを暴発させていた。
先ほどまでは、やうやう白くなりゆく山際、紫だちたる雲の細くたなびきたる…といった風情だったが、その風情がクシャミ一つで秋の曙も吹き飛ばされてしまった。
「生きるっていうのは、キレイゴトだけじゃ済まされないってことだね」
遠くから巫女少女を見守りながら、ワタシはアンパンを頬張る。それから牛乳で流し込んだ。
「そうだね…ボクとしては、花ちゃんが夜通しアンパンを食べ続けてることが不思議でならないんだけど」
「ふふん、繭ちゃんもまだまだ素人だね。張り込みといえば牛乳とアンパンって相場が決まってるんだよ」
「ぼく、そのうち花ちゃんのことメス豚って呼び始めると思うけどいいよね?」
「ごめんなさい節制しますからそれだけはご勘弁ください!」
秒でワタシは謝罪した。繭ちゃんからメス豚とか呼ばれるのはさすがにキツイのだ。
でもね、茶番はここまでで、ここからは本番だった。
「ようやく、お待ちかねのお客さんがご登場だよ」
ワタシは、薄明りの参道に目を凝らす。
そこには、無造作に玉砂利を踏み荒らす不届き者の姿があった。
それも、一つ二つ、三つに四つ…五つだろうか。
「神聖な神社にあるまじき無作法だね」
夜と朝が混在する狭間の時刻に、五人分の影が蠢く。
足場が玉砂利だからだろうか、箒で清掃中の巫女少女も足音ですぐに気付いた。不埒な狼藉者がすぐ傍にいる、と。
いや、最初から覚悟していたのか、あの人なら。
「おや、私の首がご所望ですか?」
巫女少女は、時代劇の剣豪のような軽口を五つの影に投げかけていたが、影の方は無言で無表情だった。というか、この薄暗い中でさえ全員が黒い覆面で顔を隠している。なるほど、徹底して素性を隠してるっていうのは本当なんだね。
「来るとは思っていました…早朝を選んだのはこちらとしてもありがたいですね。この神社、意外と参拝者は多いのですよ。他の方が巻き込まれるのは私としても困りますので」
巫女少女は覆面の不審者を相手に、世間話のノリで話しかけていた。余裕の裏返しなんだろうね…いや、違う?
「読み違えた!?」
ワタシは、動転して駆け出した。
宵闇が尾を引く神社の中を、巫女少女に向かって走る。
お願い、間に合って!
「…………」
五つの影は、各々が短刀のような得物を懐から取り出し、不躾にもその切っ先を巫女少女に向ける。
…にもかかわらず、巫女少女は瞳を閉じていた。
あの人、ここで死ぬつもりだ!
「てっきり、抵抗するものとばかり思ってたのに…」
まさか、無抵抗を選択するとは思わなかった。
夜の最期の刹那、血に飢えた凶刃が蠢動する。あの巫女少女の生き血を、余さず啜るために。
「けど、荒事も想定内だからね…こっちには地母神さまがいるんだよ!いけ、ティアちゃん!『あなをほる』だ!」
ワタシは的確な指示を飛ばしたが、返ってきた返事は慎吾からだった。
「花子…ティアちゃん随分前からおねむで起きないんだが」
「え、それちょっとマズいかも…」
静謐な空気の中、場違いな凶刃が月下に浮かぶ。
一滴の月明かりが、その凶刃を律儀に照らしていた。
そして、凶刃は振り下ろされる。巫女少女が纏う、純白の袴に向かって…。
『ウオォゥ!』
ワタシたちの後方から、咆哮が聞こえた。
その咆哮は、静寂の夜さえ易々と切り裂いた。
「シロ…ちゃん?」
背後を振り返ると犬耳と犬尻尾をピンと立てたシロちゃんが肩で息をしていた。あの時と同じ、浄化の咆哮だ。人間相手に効果はなかったけれど、それは不届き者たちの動きを止め、巫女少女の耳にも届いていた。
「あれは…シロさん?」
巫女少女が…シャンファさんも、こちらに気付いた。いや、こちらというかシロちゃんか。
『ダメだ、よ。簡単に失くしていい命なんてないって…そう教えてくれたのはお姉さんでしょ!』
肩で息をしながらも、シロちゃんはシャンファさんに叫ぶ。
シロちゃんとシャンファさん、二人の間に線がつながる。それは不可視だったけれど、それでも、その線は確実に実在する。だって、その線は『縁』と言い換えられるものだ。何しろここには神さまがおわすのだから、お墨付きだってもらえるはずだ。
「…あんな小さな子に教えられるなんて、私も未熟ですね」
シャンファさんは軽くため息をついていたけれど、相手は一息なんてつかせてくれなかった。
無言のまま、殺意そのものである短刀を振り下ろす。刃渡りは短くとも、その刀は一筋の光となって最短距離でシャンファさんに襲い掛か…その途中で、太刀筋は大きく湾曲していた。シャンファさんが、持っていた箒で短刀を叩き落としたからだ。といっても、ワタシはその結果から過程を推察しただけだったけれど。
「私が裏切ったのは事実ですし、その落とし前として命の一つくらいはと思っていましたけれど…そもそも、最初に約束を違えたのはそちらでしたね」
シャンファさんは、小さく吐息を漏らしていた。肌寒い空気のせいで、その吐息は白く吐き出される。薄明りと白い吐息というコントラストが、カノジョがそこにいると強く主張していた。
…というか、シャンファさんってあんなに強かったんだ。
「でも、さすがにちょっと多勢に無勢だよね…」
当てにしていた最大戦力のティアちゃんに肩透かしを喰らったこの状況では、他に切れる手札がない。護身術や『隠形』のユニークスキルがあるとはいえ、さすがの雪花さんも刃物を持ったプロを何人も相手取ることはできないはずだ…というかこの人、同人誌の締め切りでここ最近は徹夜続きだったんだよね。休んでてとは言ったけど、雪花さんは無理を押して来てくれた。それだけで心強かったので、これ以上の無理なんてさせられるはずもない。
…となると、ワタシが頑張るしかないか。
さすがにちょっと、足が竦むけれど。
『しょうがない、ちょっくらサービスしてくるか』
「シャルカ…さん?」
ワタシが二の足を踏んでいる間に、冒険者ギルドのマスターであるシャルカさんが前に出た…と思った瞬間にはもう、シャンファさんたちの傍まで近づいていた。
「え、なにあれ…縮地ってやつ?」
そういえば、あの人も『天使』という超常の存在だった。普段は吞んだくれてるだけの酔っ払いでいる時間が大半だったけれど。
そして、唐突に現れたシャルカさんにシャンファさんも驚いていた。
「え、あなたは…?」
『気にするな、義と臨時ボーナスのために助太刀するだけだ』
「臨時ボーナス…?」
気にするなと言われても、そんなことを言われたらシャンファさんだって気になるよね。シャルカさんは、助太刀に入る前にちらっとワタシの頭の上にいるアルテナさまを見ていたから、天使的な臨時ボーナスを期待してのことなんだろうけど…正直、ここで活躍してもプラマイゼロなんじゃないかな。このところ、シャルカさんは泥酔した姿しか見せてないからね、アルテナさまの前で。
しかし、助っ人に入ったシャルカさんは華麗に襲撃者たちの攻撃を捌き、一人二人と打倒していた。というか、あの人(?)ってあんなに強かったんだね。ギルドでも一緒だったけど、シャルカさんがあんなに機敏に動いてるところを初めて見たよ。
そして、最後の一人となった襲撃者はこの場からの撤退を選んだようだったが、それも問屋が卸さなかった。
「あなたで、最後ですね」
その逃走を先読みしていたかのように、シャンファさんは退路に先回りをする。真っ白なウサ耳のカチューシャが薄闇の中をスライドしながら襲撃者を追い詰め、箒の一撃を叩き込んだ。
『もしかして…死んじゃった?』
突っ伏した覆面たちを恐る恐る覗き込みながら、シロちゃんがシャンファ問いかける。
「いえ、さすがにシロさんに命を大切にと言われた直後に命を奪ったりはできませんから」
『え、そうなのか…念のため加減しておいてよかった』
シャルカさんは割りと焦った表情を見せていた。というか、シャルカさんの念のためのお陰で命拾いできたのか、あの人たちは…ううむ、あまり本気で怒らせない方がいいね、シャルカさんは。これからはもう少し、大事な書類にお茶をぶちまける回数を減らさなければ。
「それに、この方たちに救われている人々も多くいるのですよ…ただ、最近は性急過ぎるきらいがあり、暴走していましたけれど」
凶刃を向けられた相手に、シャンファさんは気遣うような視線を向けていた。
「ああ、私としたことが失念しておりました。先ずは、助けていただいたお礼を言わなければなりませんね」
シャンファさんは、そこで思い出したように頭を下げた。その際に、頭のウサ耳もペコリと下を向く。
そんなシャンファさんに、ワタシもお礼を返した。
「いえ、助けていただいたのは、こちらが先ですから…シロちゃんを」
「…なんのことでしょうか?」
シャンファさんは軽く小首を傾げていたが、それで誤魔化せるとは思っていなかったのだろう。すぐに話し始めた。
「と言っても無駄なのでしょうね」
「あ、でもシロちゃんがシャンファさんのことを話したわけじゃないですよ。ワタシが勝手に予想しただけです」
ワタシは、軽く手を振りながらシャンファさんに言った。
そう、攫われたシロちゃんを助けてくれたのは、このウサ耳巫女のシャンファさんだった。
「そういえば、確かにあの時は私も覆面で顔を隠していましたね…」
「ええ、シロちゃんも、自分を助けてくれた人は覆面をしていたと言いました。でも、シロちゃんは覆面があろうとそれがシャンファさんだったって分かっていたんですよ」
「え…それはどうしてですか?」
シャンファさんが小首を傾げると、頭のウサ耳もぴょこんと揺れる。
そんなシャンファさんに、ワタシは言った。
「匂いですよ。シロちゃんは、ワタシたちよりもずっと鼻が利くんです」
「なるほど、それでシロさんには覆面越しにもあれが私だったと分かっていたのですか」
「だから、シロちゃんは安心しきっていたんですよ」
「安心しきっていた?」
「シロちゃんは、シャンファさんに言われた通りにあの場所…工場跡地でおとなしくしていたんですけど、ワタシたちが見つけた時には安心しきってお昼寝をしていました」
シロちゃんが寝ていたのは、本当は『念話』で話しかけた時だったけれど、『念話』のことは話せないのでそういうことにしておいた。
「あの状況でお昼寝…ですか」
さすがのシャンファさんも、シロちゃんのそのエピソードには驚いていた。だけど、無理もないよね。あんなアナーキーな連中に攫われておいて、静かに寝息なんて立てられるものではない。
「でも、シロちゃんがそこまで安心できたのは、助けてくれた相手がシャンファさんだったからです。それだけ、シロちゃんはシャンファさんに懐いていたってことですよ」
「シロさんが…私に?」
シャンファさんは、意外そうに目を丸くしていた。
「そりゃ懐きますよ。だってシロちゃん、シャンファさんの代わりにお祭りで神楽をやったじゃないですか。あの時、シロちゃんはシャンファさんとたくさん一緒にいたんでしょ?」
「確かに、一緒にはいましたけど…」
「それに、シロちゃん的には、シャンファさんがウサ耳だったから懐いたんですよ。シロちゃんも犬耳ですからね」
『ぼく、それだけでシャンファお姉さんを好きになったわけじゃないんだよ…シャンファお姉さんは、ぼくにたくさんやさしくしてくれたんだよ』
シロちゃんは、異議ありとばかりに反論した。まあ、ワタシもあえて的外れなことを言ったのだ。でも、これでシロちゃんがシャンファさんに懐いていたことは、シャンファさんにも分かってもらえたはずだよ。
「そして、シャンファさんもシロちゃんのことが大切だったから『裏側』の人たちを裏切ってまでシロちゃんを助けてくれたんですよね」
次は、シャンファさんのことを分かってもらうために、ワタシは話し始めた。
「ワタシも『裏側』の人たちについて詳しく知っているわけではありませんけど…それでも、この人たちが自分たちの存在をひた隠しにするために裏切り者を粛清してきたということは、想像できました」
というか、それぐらい徹底していなければここまで自分たちの存在をここまで隠し通せるはずがない。
「その鉄の掟を知りながらも、シロちゃんを助けてくれる人は、誰だろうかと考えた時…ワタシの脳裏に、とある人物が浮かびました」
ワタシは、朝ぼらけの水鏡神社の空気を吸い込む。まだ朝が始まっていない世界の空気は、やけにひんやりとワタシの中に浸透した。そして、ワタシは続ける。
「シロちゃんにとってシャンファさんは特別な存在でした…そして、シャンファさんにとっても、シロちゃんは特別な存在だったんですね」
『ぼくが、特別…?』
犬耳をぴょこんとさせていたシロちゃんに、ワタシは言った。
「うん…シロちゃんは『オオカミ族』だからね」
『オオカミ…族』
シロちゃんは、その言葉を小さく反芻していた。
「大昔、この辺り一帯が毒を吐き出す魔獣に滅ぼされかけた時があったんだ。でも、その魔獣を退治して毒を浄化した神さまがいた。それが、オオカミ族…シロちゃんと同じ人たちだね」
そして、現在もそのオオカミ族はこの水鏡神社で祀られている。『炎熱神ソルディヴァンガさま』とか呼ばれているが…。
けど、シロちゃんはその『オオカミ族』と同じことをやってのけた。あの『咆哮』で、魔獣の毒を退けたんだ。
そんなシロちゃんを、シャンファさんが見捨てたりできるはずがなかったんだ。
「あ、でもシャンファさんにとってシロちゃんが大事なのは、それだけが理由じゃないよ。シャンファさんにとっても、きっとシロちゃんは大切ないも…弟たいなものだからね」
ワタシは、慌ててそう付け加えた。危ない危ない。きっと、シャンファさんがシロちゃんを守った理由は『オオカミ族』だからという理由だけではないはずだ。
それを裏付けるように、シャンファさんは口を開いた。
「そうですね…花子さんも、あの組織については幾分ご存じのようですね」
「でも、そこまで詳しいわけではないですよ。ワタシが知っているのは『裏側』と呼ばれている人たちが『教会』にいて、『教会』に『神』を実在させるために活動をしているということくらいです」
「まあ、大体それであっていますよ…」
シャンファさんは、軽く虚空を見つめながら呟いていた。おそらく、シャンファさんは並べ替えているんだ。次に語る言葉を。
「私も、その『裏側』に助けられたことがあるんですよ…命を」
「…そう、だったんですね」
でも、それくらいのことがなければ、シャンファさんが『裏側』に手を貸す理由はないと思われる。そして、シャンファさんは語り続けた。
「それで、『裏側』から勧誘を受けたんです。ただ、今まで通りこの水鏡神社の巫女でいいし、改宗する必要もないと言われていました。そのあたりは、妙に寛容だったのですよね。なので、私も『裏側』に協力することも吝かではありませんでした。先ほども言いましたが、意外と人助けもしていたのですよ、あの方々は」
シャンファさんは、軽く微笑んでいた。それはシャンファさんが『裏側』の人たちと共有していた思い出だったから。
「ただ、当たり前なのですが、そうした内密の草の根活動では『神』を実在させることなんてできませんでした…どれだけ懸命に人助けをしても、『神』を根付かせることはできませんから」
そこで、シャンファさんのトーンが変わった。
「そのうち、一部の過激な方々が動き始めました。人助けを軽視し、手段を選ばなくなったのです。いえ、以前からナニカを仕込んでいたのでしょうね…シロさんの誘拐も、おそらくはその一環だと思われます。私としても、目的の為とはいえ命を奪うようなことをさせるわけにはいきませんから」
「シロちゃんを助けてくれたのは、そういう側面もあったからなんですね」
聞いている限り、『裏側』も一枚岩ではないように感じられた。『教会』の中の過激派という立ち位置が『裏側』だと思っていたが、そこでも過激派と穏健派に分けられているようだ。いや、過激なのは中枢にいる連中か。シロちゃんを攫った事情を知らないあたり、シャンファさんはリリスちゃんのことなども知らないようだし、『裏側』の実権はその中枢にいる人たちが握っていると考えてよさそうだ。 …となると、シャンファさんから『裏側』の細かい実情を聞き出すのは難しそうだ。
「さて、シャンファさんから詳細が聞けないとなると…」
ワタシは、誰にも聞こえない小声で呟きながら、倒れ伏した覆面たちに目を向けた。彼ら(?)はいつの間にか後ろ手に縛られていた。どうやら、シャルカさんがやってくれたようだ。うん、次に手繰るのはこの人たちからだね。
じゃあ、次の指針も決まったことだし、そろそろ大詰めという気もするから今回はこれで締めようか。
「そして、次の『謎』が始まるのです」




