104 『そろそろ寿司を食べないと死ぬよ!ワタシの心が!』
「詳しくお話ししてもらいますよ」
軽く眉を顰め、ワタシは眼前のカレを凝視していた。
あまり友好的な表情ではなかったが、それも致し方ない。
ワタシは、騙されていた。
目の前にいる、このベイト神父さんに。
「何について、詳しくだ?」
ベイト神父は、低い声で言った。ワタシがそうだったからかもしれないが、この人もあまり友好的な声調ではなかった。いや、元々こんな愛想のない感じだったか。
そんなワタシたちは、王都の街外れで対峙していた。人の気配のない、曇り空の下で。
そして、ワタシはその『詳しく』について口にした。
それが、開戦の狼煙となる。
「あなたが語った嘘について、ですよ」
「…………」
そこでベイト神父が選択したのは、沈黙だった。
ワタシの言葉に対してうんともすんとも言わなかった。
ワタシたちとベイト神父の合間を、泥濘のような重苦しい空気が這い回る。それらが纏わりつき、足と共に口も重くなった。
「花子…もう少し具体的に言わないと、この人だって何のことか分からないんじゃないか?」
ワタシの隣りにいた慎吾がワタシの肩に軽く触れた。その瞬間、強張っていたワタシの肩から力が抜けた。どうやら、自分でも気付かないうちに少し気負い過ぎていたようだ。ワタシは「そうだね」と小さく呟いてからベイト神父に言った。
「あなたは、嘘をつきましたね。リリスちゃんの封印を解いたのは自分だと言っていましたけど…あなたにリリスちゃんの封印を解くことは、できなかった」
「…………」
ワタシ、慎吾、ティアちゃんにワタシの頭の上のアルテナさま、さらにはステルス中の雪花さんの視線に囲まれながら、ベイト神父は沈黙を保っていた。その口は固く閉ざされていて、堅牢な門扉と化している。
「言えない理由がある、ということですか」
沈黙だからといって、それが無言とは限らない。
語らないという意思を、この人は雄弁に示している。
「昨日、ワタシは『教会』の最高責任者である教皇さまと対面しました。要件は勿論、悪魔であるリリスちゃんのことです」
沈黙を選択したベイト神父に代わり、ワタシが口を開いた。
「ただ、そこで意外な提案を受けました。教皇さまは、ワタシたちにリリスちゃんを助けて欲しいと言ったんです」
「…………」
「あ、これは他の『教会』の人たちには内緒ですよ」
ワタシはそこで軽いウインクをして茶目っ気を交えたが、ベイト神父は沈黙を保ったままだった。しかし、『教皇さま』という言葉には少しだけ反応したように見えた。無理もないか、リリスちゃんの討滅を『教会』は決めた。その『教会』のトップである教皇さまが悪魔であるリリスちゃんを助けたいと言い出したとなれば、神父であるこの人が驚きを隠せなくても無理はない。
けど、ワタシがこの神父さんから聞き出したいのは別のことだ。
なので、揺さ振りはこのくらいにして本題に切り込んだ。
「ベイト神父さん…あなたは、リリスちゃんの封印を解いたのは自分だと言いました」
理由は、この人に神さまからの『神託』が下ったからだと語っていた。ただ、その『神さま』がナニモノなのかは現在でも不明だった。『教会』の神さまとも、おそらくは別口だと思われる。
というか、『教会』には『神さま』が実在していない。ここは、ワタシが歩けば棒に当たるくらいには奇跡が偏在する異世界だというのに。
「けど、ベイト神父さんには、リリスちゃんの封印を解くことはできなかったのですね」
そのことを教えてくれたのは、教皇さまだった。
『封印が解かれた経緯を、カノジョから聞く必要があります』
昨日、教皇さまはそのように言っていた。
当然、目の前にいるこの人はベイト『神父』なのだから、カノジョではない。
要するに、ベイト神父ではない別の女性がリリスちゃんの封印を解いた、ということだ。
「…確かに、あの悪魔の封印を解いたのは、私ではない」
告解のように重苦しい、ベイト神父の声だった。
過去、この土地での影響力を得るためだけに、『教会』はリリスちゃんという悪魔を封印した。
当然、その封印は『特別』なものでなければならなかった。もし、リリスちゃんの封印が簡単に解かれてしまうようなことがあれば、それは『教会』の沽券に関わってくる。
なので、その特別な封印が簡単に解けるはずはなく、ベイト神父にも不可能だったということだ。
ただ、教皇さまが言うには、カノジョという存在ならばその特別な封印を解くことは可能だった。というか、そのカノジョ以外には何人たりとも封印は解けなかったそうだ。
ワタシは教皇さまに問いかけた。そのカノジョというのは、誰なのですか、と。
そこで語られたカノジョの存在は、ワタシとしても驚くべきものだった。
「封印されていたリリスちゃんを解放したのは、あなたの妹の…ヘテカさんだったんですね」
ワタシの声には、緊張と戸惑いが混在していた。この名を安易に口にしてよかったのか、と。禁忌に触れる可能性があるからだ、この人にとっての。
「ああ、そうだ。あの封印を解いたのは、生きていた頃のヘテカだ」
不意に、頭上の黒雲がその濃度を増した。色濃くなった黒雲は、ベイト神父の表情を隠す。それでも、そのヴェールではベイト神父の感情の全てまでは隠せなかった。暗雲に包まれる中、ベイト神父の足元から暗い感情が滲み出ている。
それほど、カノジョの名は重いということだ。この神父さんにとっては。
…当然か。
ヘテカさんは、既にこの世を去っている。非業の死と共に。
そして、その非業の死がカノジョを今も縛り付けている。
黒いヒトビトの『一因』として、今もあの虚空に。
「どうして、そう言ってくれなかったんですか…」
ワタシは、ベイト神父から放たれる仄暗い感情に気圧されながら問いかける。
ベイト神父は、黒雲のヴェールの向こうからこちらを見た。陰が差しているからか、その眼窩がやけに落ち窪んでいるように、見えた。
「…………」
ベイト神父は、再び沈黙した。
語るべき言葉を吟味している…という風ではなかった。その沈黙は、拒絶そのものでしかなかった。
…何が、あったのだろうか。
教皇さまは、あのリリスちゃんの封印を解けるのはヘテカさんしかいないと断言していた。そのヘテカさんは、『教会』の中でも特に力を持ったシスターだったそうだ。
ただ、リリスちゃんの封印を解いたヘテカさんは、その数年後に命を落としている。
しかし、教皇さまはそのことを知らなかった。
ベイト神父は、『教会』にはそのヘテカさんが結婚して別の町に移住したと告げていたそうだ。
…なぜ、この人はそんな虚偽の報告をしていた?
「悪魔リリスの封印など『教会』の内部においても既に殆んどの人間が知らないお伽噺と化していた。だから、誰が封印を解いたかなど些事でしかなかっただけだ」
長く粘性の沈黙が続いた後、ベイト神父はそう言った。どことなく、吐き捨てるように。
「些事では…ないと思いますよ」
ワタシは、ベイト神父に怯えながらもそれだけを言った。そんなワタシを慎吾が庇うように、慎吾が半歩、前に出た。
そんな慎吾に目もくれることもなく、神父は呟いた。
「些事だ。実際、悪魔リリスの封印が解かれていても、あの教皇ですらその事実を最近まで知らなかった…」
「それ、は…」
確かに、『教会』の人たちはリリスちゃんの封印に関心を持っていなかった。自分たちの都合でリリスちゃんを封印しておいて、だ。
「それに、この世界の大半のことは、私にとってもはや些事に過ぎない」
「そんな悲しいこと、言わな…」
「妹がいなくなった世界など、私にとっては残滓でしかないんだよ」
ベイト神父の声には、生気がなかった。
ワタシの言葉は、この人には届かなかった。
この人の世界は、大切な妹を失ってしまった時点で閉ざされてしまったんだ。
そこで、ワタシは物怖じしていた、この人に対して。
…この人は、ワタシを失ったワタシの家族の鏡像そのものだ。
お母さんやお父さん、そして、おばあちゃんの世界も、ワタシがいなくなってしまった時点で、閉ざされてしまったのかも、しれない。
それを思うと、ワタシの胸は軋む。
けど、ワタシは、止まるわけにはいかなかった。
「…ワタシたちは、知らないといけないんです」
失意の神父に言った。
…慎吾の袖をそっと摘んで、足りない勇気を補填しながら。
「ワタシは、知らないといけないんです。リリスちゃんの封印が解かれた時、何があったのか…」
「私が答えると思っているのか?」
「神父さんは答えてくれますよ…妹さんの魂を解放するためには、ワタシの協力が必要なんですから」
脅迫とも取られかねない悪徳の言葉を口にした。ワタシは、決意をしたんだ。この先に進むためなら悪魔とも相乗りをする、と。
「…………」
ベイト神父は、何度目のかの沈黙を選択した。それでも、それはこれまでの拒絶の沈黙とは違っていた。陰に覆われた無表情ではあったが、この人の懊悩が伝わってくる。封印の真相と妹の魂の解放、その二つを天秤にかけて。
いや、この人が妹さんと他のことを天秤にかけるとは思えない。少なくとも、その二つがこの人の中で釣り合うはずがない。
…となると。
「リリスちゃんの封印の解除に、ナニカ、隠さなければならない出来事が起こったんですね…そして、その隠さなければならないことは、妹さんに関係しているんじゃないですか」
ワタシは、脳裏に浮かんだ推察をそのまま口にした。
「…………そうだ」
懊悩の果てに、ベイト神父はそう言った。
「何が…あったんですか?」
ワタシが聞いていいことなのか、正直、迷った。
それでも、リリスちゃんを助けるためにはベイト神父が知っている事情が必要となるかもしれない。
「悪魔リリスの封印を解いたことは『神託』が関係していると、以前、話したが…」
滔々と、ベイト神父は語り始めた。消え入りそうな、静かな声で。
なので、ワタシは耳をすます。一字一句も聞き逃しがないように。それは、この人が抱えていた深淵そのもののはずだから。
「しかし、君が言ったように私にはその封印を解くことはできなかった。あの悪魔の封印は、『教会』内部でも一部のものにしか…というか、現代では私の妹にしか解くことができなかった」
ベイト神父は、そこで虚空を見上げた。
そこに、妹さんは、いなかったけれど。
「しかし、私は『神託』の災禍など信じていたわけではなかったし、封印を解こうとは思っていなかった」
ベイト神父たちに下された『神託』は、従わなければ災いが降りかかると噂されていた呪いの『神託』だ。けど、この人はその『神託』を真に受けてはいなかったのか。確かに、呪いの『神託』などに振り回される人ではないとは思っていたが。
「しかし、妹のヘテカはやけに私のことを心配していた…」
「妹さんは神父さんを助けるためにリリスちゃんの封印を解いたんですね」
ベイト神父が語ってくれたことで、リリスちゃんの封印が解かれた真相の骨子が少しずつ見えてきた。
「ああ、しかし…」
そこで、ベイト神父は言い淀む。
言い淀んだその先がおそらく、封印が解かれた真相の深淵だ。
「ヘテカも、悪魔リリスの封印を解く方法は、知らなかった」
「知らなかった…?」
「ヘテカには特別な力はあったが、封印解除の方法を知らなかったんだ。悪魔リリスの封印は、それだけ特別だったということだ」
「なるほど、そういうことですか…」
だけど、リリスちゃんの封印が解けたのはこの人の妹さんだけだったはずだ。いや、実際にリリスちゃんの封印はそのヘテカさんに解かれている。
…なら、そこで何があった?
「もしかして…妹さんは他のダレカに助けを求めたんですか?」
そこで浮かんだ可能性の一つを、ワタシはベイト神父に投げかけた。
「ああ…そうだ」
ベイト神父の声は、さらに重くなる。
見えざる枷が、そうさせているように。
「その相手というのは…分かりますか?」
もう少し迂遠に問いかけるべきだっただろうか。
それでも、ベイト神父は答えてくれた。
「いや、私にもそれは分からなかった…ヘテカも、頑なに言わなかった」
「でも、もしかすると神父さんにはその相手の目途は立っていた…のではないですか?」
ワタシの問いかけに、ベイト神父は小さく肩を震わせた。それだけで、肯定ということが理解できた。
なら、その相手とは、ダレなのだろうか。
…おそらく、不用意に口にできない相手だからこそ、この人はここまでの沈黙を保っていた。
それでも、その堅固な口が開かれた。
「ヘテカは、悪魔リリスの封印を解く方法を知るために…とあるグループに接触した可能性がある」
「…とあるグループ?」
「ああ、『教会』の裏の顔というか…『教会』の転覆さえ考えている連中だ」
「どうして、そんな人たちがいるんですか…というか、『教会』と考えが合わないのなら棄教とかすればいいじゃないですか」
勿論、そんな単純なことではないのだろうけれど。それでも、転覆などという危うい橋を渡る必要はないはずだ。
「連中は、許せないのだそうだ…『教会』に、神が不在ということに」
「神さまの不在が、許せない…?」
確かに、『教会』には神さまがいない…いや、教義などでは語られているようだが、アルテナさまのような神さまは、『教会』には実在していない。
「でも…神さまがいないとしても、それは仕方ないことじゃないんですか?」
「連中は、その『仕方がない』では済まないらしい。『教会』に神を『実在』させるために、何でもやっていた…そうだ」
「神父さんでも実態が把握できていない、ということですか」
「ああ、しかし、その連中くらいのものだ…ヘテカも知らない封印解除の方法を知っている者たちがいるとすれば」
そこで、ベイト神父は俯いた。そんな神父さんを労うように、曇天がそっとヴェールをかける。それは、それまでよりもやさしい陰だった。
…けど、リリスちゃんの封印解除にそんな人たちが関わっていたのか。
「先ほども言ったが、実態もよく分からない連中だからな、そもそも関わらない方がいい」
それは、ベイト神父が老婆心から口にした言葉だった。
「そうです…ね」
ワタシがそう言いかけたところで…。
「こんな寂れた場所で会うなんて、奇遇だね」
そこで、ワタシたちは声をかけられた。
いや、その声はワタシや慎吾には向けられていなかった。それは、ベイト神父にだけ向けられたものだ。
そこにいたのは、一人の修道女だった。
それなりに年を重ねているようにも見えるが、若々しくも見える不思議な人だった。
ただ、ここは王都の外れの空き地で、他のダレカがほいほい現れるような場所ではないというのに。
その人は、唐突に現れた。最初から、そこにいたかのような顔をして。
…けど、ワタシも、この異世界に来てからそこそこ場数も踏んでいるからね、知っているんだよ。
このタイミングで声をかけてくる人が、『まっとう』なはずがない、と。
「…………」
というか、ここ数日は深刻なシリアスが続いていて、ワタシの精神がかなり摩耗している。
…そろそろ寿司を食べないと死ぬよ!ワタシの心が!