99 『栃木県民にはその辺の草でも食べさせておけばいいんだよ!』
「やあ、待っていたよ。それこそ首をながーくしてね」
ワタシは、きわめて気さくに声をかけた。
とってもとっても待ち侘びていた『お客さん』に。
『…………』
しかし、ワタシの声にも、『お客さん』は無反応だった。瞳の焦点はワタシに合わされていないし、なんだったらワタシの声すらその耳には届いていない。
けど、それぐらいの無反応は想定内だし、それぐらいではへこたれないのだ。ワタシは、『あの子』に再び話しかける。
「惜しかったね、もう少し早く来てたらワタシが焼きそばを分けてあげたのに」
「嘘つけ、オレが一口くれよって頼んでも花子が全部、一人で平らげてたじゃないか…」
「それは、慎吾が「焼きそばにジャガイモとかまた尻が育つぞ」なんてデリカシーのないこと言うからでしょ」
「それぐらい言わないと花子には効果ないだろ…いや、言っても効果なかったけど」
「名誉栃木県民のワタシには、焼きそばにジャガイモはマストなんだよ」
「お前、この間は「栃木県民にはその辺の草でも食べさせておけばいいんだよ!」とか言ってたくせに栃木県民ヅラするなよ…」
「知りませんー、真吾の聞き間違いじゃない?兎に角、ちょっと黙っててくれるかなー。今、ワタシはリリスちゃんと大事なお話をしておりますので」
そこで、ワタシは『お客さん』の…リリスちゃんの名を呼んだ。
それでも、リリスちゃんは上の空だったけれど。
「…………」
楽しい楽しいお祭りは、終わった。
帰り支度も終えて、人の姿は疎らになってきている。
人の少なくなった神社の中は、少しだけ、侘しさに包まれていた。
それでも、侘しさに感けている場合ではない。会いたかったあの子の方から、来てくれたんだ。
「さあ、ワタシたちのお祭りを始めようよ、リリスちゃん」
リリスちゃんと向かい合うこの瞬間を後の祭りにさせないために、今、ワタシはここにいる。まあ、リリスちゃんの目的がワタシじゃないのは、ちょっと淋しいけどね。
「花ちゃん…どうして、花ちゃんはリリスちゃんが来ることが分かってたの?」
リリスちゃんの方を警戒しながら、繭ちゃんがワタシに問いかける。繭ちゃんは、もうすでに巫女装束からは着替えていた。それでも、繭ちゃんはかわいらしいハーフパンツ姿だったけれど。何を着てもかわいいっていうのは、ちょっとずっこいよね。
ワタシは、そんな繭ちゃんに答える。
「だって、このお祭りであの『祠』が新しく作られるんだよ。だったら、リリスちゃんは現れるはずだよね」
繭ちゃんたちが神楽を奉納し、祠に新しい息吹が吹き込まれた。邪気も毒素も浄化できる万能の清浄機だ。しかし、以前の祠は、リリスちゃんに破壊された。
「新しく作られたあの祠をまた破壊するために、リリスちゃんは現れるよ」
リリスちゃんが以前の祠を破壊した理由は分からない。それでも、祠が新しく作られるとなれば、リリスちゃんも放っておけなかったはずだ。
「そうだよね、リリスちゃん」
普段と変わらないトーンで、何度も話しかけた声音で、ワタシはリリスちゃんに声をかける。
…それでも、リリスちゃんは無反応だ。
むう、ちょっとくらい反応してくれてもいいよね?リアクションはファンサの基本だよ?
「リリスちゃん、あんまり無視が続くとワタシ、泣いちゃうよ?そうなったらとっても面倒くさいからね?」
割りと最終手段としての泣き落としだったけれど、リリスちゃんからの返答は梨の礫だった。
…ううむ、これは手強い。
というか、そもそもリリスちゃんの目的が分からないんだよね。
どうして、リリスちゃんがあの祠を壊さなければならなかったのか。
確かに、あの祠はとんでもない代物だよ。時間が限られているとはいえ、邪気だろうが毒だろうが呪いだろうが、何でも浄化してくれるんだから。
でも、あの祠をリリスちゃんが破壊する理由が分からない。
「リリスちゃんというか…悪い悪魔として覚醒しちゃったことと関係があるんだろうけど」
さらに言うなら、リリスちゃんが『特別な悪魔』ということと関係があるのだろうけれど。
「結局、どう特別なのかは分からないままだったんだよね」
シスターであるクレアさんも、それは分からないと語っていた。
なら、直接ワタシが聞き出すしかない。
「とはいえ、リリスちゃんにどういうおもてなしすればいいのか、分からないんだよねぇ…暖簾に腕押しもいいところだよ」
せっかく、リリスちゃんの方から現れてくれたというのに。
ワタシが独り言を呟いている間も、リリスちゃんに反応はな…いや、動いた。
リリスちゃんは、緩慢な動きで周囲を見回すような動きをしていた。けれど、見回すような動きをしていただけで、その瞳は虚ろだった。ワタシどころか、周囲の何もその目に映ってはいない。
そして、リリスちゃんの動きはぴたりと静止した。
あの『祠』を、視界の端の捉えたところで。
「やっぱり、あの祠がお目当てだよね…」
繭ちゃんたちの神楽を見に来てくれた、とかだったら嬉しかったんだけどね。
…さて、どうするべきなんだろうね。
リリスちゃん次第なところはあるんだけど。
とりあえず、流血沙汰だけは意地でも避けたいんだけど。
『…………』
リリスちゃんは、歩を進めた。
ゆったりと、気だるそうに。
それは、リリスちゃん本来の歩き方ではなかった。
「リリスちゃんはね、面倒くさそうな仕草をしてても、物臭じゃなかったんだよ。ああ見えて、けっこう几帳面だったんだ」
ワタシは、そのことをリリスちゃんに教えてあげた。当たり前のように、リリスちゃんにワタシの声は届かなかったけれど。
「そろそろ本気で傷つくよ?無視って軽いイジメなんだからね」
歩き始めたリリスちゃんに、ワタシも一歩、近づいた。リリスちゃんとワタシの間に、斥力でも発生したのかと思うほど、その一歩は重かった。
それでも、ワタシは二歩目を踏み出した。
ワタシは弱い。それは、嫌というほど知っている。
けれど、あの世界にいた頃の、弱いままのワタシでもない。
この異世界で、色々と経験してるんだ。
それに、今のワタシは一人じゃない。みんなが、いるんだ。
「…勿論、そのみんなの中には、リリスちゃんもいるんだよ」
軽く、唇の端を噛んだ。
リリスちゃんと対峙することに、気後れしそうになっていたから。
「花子…」
そこで、ワタシとリリスちゃんの間に、慎吾が割って入った。
「…慎吾」
「少し、距離を取った方がいい…今のあの子は、普通じゃない」
この異世界に来て、経験を積んだのはワタシだけじゃない。この慎吾だって、命の危機に面したことはある。だからって、危ないことをして欲しいわけじゃないんだよね。というか、慎吾もワタシに対してこんな気持ちで心配してたのかな。
…だとしたら、ちょっと申し訳ないね。
なら、打てる手は先に打っておくべきかな。
『ナナさん、いけますか!?』
ワタシは、『念話』で王都の騎士団長であるナナさんに呼びかけた。
「待ってたよぉ!この瞬間をねぇ!」
その叫び声は、ワタシたちの頭上から聞こえてきた。
そして、ナナさんは、轟音と共に着地する。ナナさんを中心に、乾いた砂埃が舞い上がる。
というかどこから跳んできたの、この人…そりゃ、近くに待機して欲しいと頼んだのはワタシだけどさ。
しかも、ナナさんは真紅の鎧を身に纏っている。普通なら、この重量の鎧を着たまま跳躍なんてできやしない。できたとしても、膝が死ぬのではないだろうか。
それでも、ナナさんは砂埃と共にゆっくりと体を起こす。割りと何食わぬ顔をして。ホント、頑丈だよね、この人。でも、だからこそ頼りがいがあるお姉さんなんだ、この人は。
「来てくれてありがとうございます、ナナさん」
ワタシは、ナナさんの近くに寄ってお礼を言った。
「気にしないでよ、私とお花ちゃんの仲だしね」
「ナナさん…でも、すみません、もしかすると、またちょっと危険かもしれませんけれど」
以前にも、ワタシはこの人に護衛を頼んだことがあり…そして、この人はそこそこの怪我を負ってしまった。それを思うと、かなり申し訳なくなってしまう。
「まあ、前に怪我した時のことは気にしないでよ」
「ナナさん、でも…」
「入院中は、合法的に騎士団も休めたしね」
「それは、やっぱり申し訳ないですよ…」
そういえば、ナナさんは騎士団を辞めたがっていた。でも、ワタシからすればけっこう天職だと思うんだけどね。
「それに、聞いてよお花ちゃん。入院中にね、他の入院患者さんやお医者さんたちを相手に婚活もできたんだよ」
「また無茶な婚活とかしたんじゃないでしょうね…?」
…というかまた他の人たちに迷惑をかけて回ったんじゃないだろうな、この人。
ナナさんは婚活を選挙活動みたいなノリでやるところがあるからなぁ。いや、ひどい時はちょっとした都市伝説みたいなことをやるんだよね。名前も知らない相手にいきなり手作りのお弁当を持って行ったりとか。しかも、この真っ赤な鎧のままで。相手からしたら恐怖以外の何物でもないからね?
しかし、ナナさんは得意気に語る。
「迷惑なんてかけてないよ。寝てる患者さんの枕元にそっと婚姻届けを置いて回っただけだから」
「イヤなサンタクロースですよ、それ…」
けど、この人の怪我をしたのはワタシを庇ったからだし、今も助けに来てもらっているし、ナナさんに対してワタシは強くツッコむこともできなかった。
なので、リリスちゃんと向き合うことにする。
あまり、シリアスさんをお待たせするわけにもいかないからね。
「あの、ナナさん…助けを求めておいてなんですが、リリスちゃんがどう動くかは分かりません。なので、あまり手荒な手段には出ないでもらえますか?」
「オーケー。手加減は得意分野だよ」
「前に編み物は得意分野だって言って、ナナさん穴だらけのセーターを編んでましたよね…?」
この人の言う得意分野は当てにならないのだ…。
でも、騎士団長としてのこの人は本当に信頼できる。実績だってかなりある。
…とはいえ、腕尽くでどういうというのはできるだけ避けたい。
ナナさんもリリスちゃんも、どっちもワタシの大切なお友達だ。どっちにも、傷ついて欲しくはない。そのために、ナナさんに頼んだんだ。
「リリスちゃん…」
さらに一歩、ワタシは前に出た。
リリスちゃんの歩みは、少しだけゆっくりになっていた。ナナさんを警戒しているのかもしれない。
「ナナさん…もしもの時だけお願いします」
ナナさんにそれだけ言い残し、ワタシはリリスちゃんへとまた一歩、歩みを進めた。
…ここからは、ワタシとリリスちゃんの一対一だよ。
「本当にいいの、お花ちゃん?」
「ええ、リリスちゃんが暴れた時だけナナさんにお願いします…多分、そうならないとは思うんですけど」
きっと、そうはならない…はずだ。
あくまでも、ナナさんは保険なんだ。
…と、自分に言い聞かせる。
「リリスちゃん…」
ワタシは、また呼びかける。
リリスちゃんは、もうワタシの目の前にいる。ワタシの鼓動が、一つ高く鳴る。友達の名前を呼ぶだけでこの緊張感とか、生きるって大変だね。
『「リリスちゃん…もう逃がさないよ」』
ワタシは、リリスちゃんを抱きしめた。
そして、有りっ丈の思いと『念話』を込めてリリスちゃんの名を呼ぶ。
声だけでは届かなかった。『念話』と声を合わせても届かなかった。
だから、ワタシは抱きしめた。
届かないなら、届く距離にまで近づくだけだ。
『…………』
リリスちゃんは、動きを止めていた。
ワタシを突き飛ばすことも払い除けることも、しなかった。
…ワタシを、拒絶しなかった?
なら、もっと寄り添ってもいいよね?
これはもう『合意とみてもよろしいですね?』だよね?
『「リリスちゃん、今日はいい天気だよね…こういう日はさ、お弁当とオヤツを持ってハイキングに行ったりよね。リリスちゃんに『それはオヤツの量じゃないんですよねぇ…』とか言われたけどさ」』
ワタシは、もう少しだけリリスちゃんを抱きしめる手に力を入れた。ワタシとリリスちゃんの距離が近くなる。二人の距離が、重なる。リリスちゃんの体温も匂いも、以前のままだった。
…なあんだ、なんにも変わってないじゃないか。
いつも通りの、ワタシのお友達のリリスちゃんだ。
『「ねえ、リリスちゃん…」』
ワタシは、何度でも声と『念話』で話しかける。愚直でもなんでも、ワタシにはこれしかできない。ああ、そういえばとっておきの武器があったね。
それは、ワタシとリリスちゃんの思い出だ。二人で共有した思い出は、ワタシの胸に大切にしまってあるし、リリスちゃんの胸からも消えてはいない。抱きしめた時から、それは分かっていたのだ。
『「そろそろ何か言ってよ、リリスちゃ…ん?」』
ワタシは、異変に気付いた。
『…………!』
リリスちゃんが、そこで苦しみ始めた。上体がよろけて、倒れそうになる。
「リリスちゃん!?どうしたの…頭が痛いの?」
思わず、ワタシは叫んでいた。
リリスちゃんは右手で頭を押さえていて、額には脂汗をかいている。
…何が、起こっている?
どうしてリリスちゃんが苦しまないといけないんだ。
今までだってリリスちゃんは辛い目に遭ってきた…これ以上、リリスちゃんを苦しめるなよ!
「リリスちゃん…大丈夫?」
リリスちゃんを支えようとしたワタシを、リリスちゃんは制した。
…リリスちゃんが、ワタシを、拒絶した?
その事実が、棘となってワタシの胸に刺さ…なんだ、これは?
リリスちゃんの足元から、赤黒い…酸化した血液のような色の、煙?靄?のようなモノ?が立ち込める。
「何なの…これ?」
思わず、ワタシはたじろぐ。
これは、リリスちゃんが発生させてるの?
これが、リリスちゃんを苦しめているの?
その赤黒い靄は、ワタシにあの『黒いヒトビト』を連想させた。
「でも、多分…別物だよね」
あちらは怨嗟からくる漆黒だったが、こちらは錆びた血の色をワタシに連想させた。
けど、ワタシがどう定義しようとこの錆びた赤黒には何の関係もない。それらは、ワタシのことなどお構いなしに裾野を広げていく。
「なんか、これ…」
赤黒の靄に触れた肌が、やけにピリピリと痺れた。
何だ、この痛み…?
…いや、痛みなのか、これは?
『うぅ…うぁ』
ワタシが狼狽している目の前で、リリスちゃんは苦悶の声を上げていた。
「リリスちゃ…!」
「くそ、なんだよこれ!」
リリスちゃんの名を呼ぼうとしたワタシの声に、慎吾の声が被さってきた。
赤黒い靄は、慎吾たちの方にも拡散されている。
「慎吾…!?」
「戻ってこい、花子!普通じゃないぞ、この煙は!」
「でも…でも」
ワタシにも、この煙が普通ではないことくらい分かっている。
それでも、リリスちゃんを置いてはいけない…けど、慎吾たちを放っていていいはずもない。
「慎吾…みんなを連れて逃げて!」
「なら花子も来い!絶対にこの煙は普通じゃない!」
「けど、リリスちゃんが…」
こんなに、苦しんで、いるんだよ。
「花子に何かあったらリリスちゃんも悲しむだろ!」
「でも、リリスちゃんが…」
ワタシが躊躇している間にも、慎吾たちを赤錆の靄が包む。
繭ちゃんは不安そうに怯えているし、シャルカさんの表情にも焦りが見える。ティアちゃんは地面を隆起させて壁を作ろうとするけれど、靄はそれを嘲笑うようにすり抜けていた。
…ワタシは、どうすれば、いい?
きっと、ワタシが逃げない限り、みんなも逃げない。
ワタシがリリスちゃんを置いていけないように、みんなもワタシを置いていけないんだ。
「いつまでも、この得体の知れない靄にみんなを触れさせるわけには、いかない…」
悪影響があることは、ワタシの足が既に痺れ始めていることからも明白だった。
「くそ、くるなっ!」
「花ちゃん…花ちゃん!」
慎吾は懸命に靄を払おうとするが焼け石に水だ。繭ちゃんも不安そうにワタシの名を呼んでいる。
…みんなが、危険に晒されている。
「リリスちゃん…」
ワタシは…ワタシは。
ワタシが間誤付いている間にも、靄の侵食は継続していた。
みんなが、ワタシの大切なみんなが、靄に包まれていく。靄は無尽蔵に嵩を増していく。
『花子さん…ここまでです』
「アルテナ…さま?」
これまでは沈黙を保っていたアルテナさまが、ワタシの頭の上で呟いた。
「ここまで、って…なんですか」
『これ以上、あの靄には触れてはいけません…あれは、この世のものではありません』
アルテナさまは、ワタシに言った。
それは、リリスちゃんを『諦めろ』という言葉と同じだった。
「でも、アルテナさま…」
『花子さん、人は時に、優先順位をつけなければならない時が、来るのです…それがどれだけ、望まない選択だったとしても』
アルテナさまは、ワタシにゲンジツを突き付けた。
…それでも、ワタシはまだ、動けなかった。
そして、そんな、時…。
『…あっち行って』
慎吾や繭ちゃんたちの前に、『あの子』が出た。
震える足を隠さず、震える真っ白な犬耳を隠さずに。
『あっち行ってよ…みんなに近づかないでよ!』
そして、叫んだ。
…いや、吼えた?
虚空に向かって、のどの限りに。真っ白な尻尾をピンと張って。
『ウオォン!』
その声は、あの子を中心に放射状に広がった。
でも、そんな風に叫んでもあの靄…は?
「退い…た?」
あの子の…シロちゃんの叫び声に圧されるように、赤黒い靄が、後退を始めた…?
え…何が、起こってるの?
十戒の、モーセ?