95 『いとも気安く行われるえげつない行為』
「…………」
色というものには、見た目以上にそれぞれの特色がある。
赤ならばその色は温もりや情熱を連想させ、白ならば清潔や潔白を想起させるといったように。
そして、黒色が持つその特徴は、包容力だ。
赤や青、黄色や緑に白色などは、自己以外の色を受け入れられない。他の色が混入された時点で、それまでとは違った別の色に染まってしまうからだ。白色などはその最たる例だろうか。なので、自己の色を守るためには他の色を拒絶するしかない。
しかし、黒色だけは違う。
他の色を、自分と同じ黒として、分け隔てなく受け入れることができる。多少の変化があったところで、黒色は、どこまで行っても黒を維持し続ける。
だから、最も包容力のある色は、黒だ。
他のはみ出し者たちの受け皿となれるのが、黒色だ。
「…………」
それは、あの『黒いヒトビト』も同じなのかもしれない。
あの黒いヒトビトは、すべてを受け入れている。
人が抱える怨讐も悲哀も、痛痒も怒号も忌避も。
ヒトが持つありとあらゆる負の感情を、あの黒いヒトビトは軒並み受け入れている。
だから、カレらカノジョらは黒なんだ。
黒という色でなければ、あのヒトビトは全てを受け止めきれない。
「…その、肩は」
ワタシは、震える唇でえそれだけを言った。
今、ワタシの目の前にも、『黒』がある。
詰襟の神父服を脱いだベイト神父の右肩は、幽世の『黒』で染まっていた。その黒は、あの黒いヒトビトと全く同じ『黒』だった。
ワタシにはその『黒』が、刻印に見えた。
この世界と決別するための、刻印に。
「大丈夫、なんですか…それ?」
震える声と震える指先で、ワタシは問いかける。とてもではないが、『大丈夫』には見えなかった。その肩は、黒く抉れているようでもあった。
「まあ、意外となんともないんだよ、今のところは」
ベイト神父は、すんなりと答える。言葉の通り、痛みなどはなさそうだった。
しかし、どうしてこの人があの『黒』を…?
そして、それ以前に、分からなかった。この『黒』をワタシたちに見せたベイト神父の、その真意が。
本来なら、あの『黒』は他人に見せるべきものではない。差別や排斥の火種になっても何の不思議もない、この世ならざる色をしていた。
なのに、ベイト神父はここで『黒』を晒した。
…そこに何の覚悟もないはずが、ない。
ベイト神父は、暗に宣言していた。自分は、あの黒いヒトビトと運命を共にする者だ、と。
それはつまり、断絶にして決別だ。
この、素晴らしき世界との。
「…………」
ベイト神父の意図をそう判断したワタシは、言葉を発することができなくなっていた。小さなりりすちゃんも同様だ。あのディーズ・カルガでさえ、軽口の一つも出てこない。針のように尖鋭な静寂が、この場を包む。
「君が死んだ時は、どうだった?」
そんな中、ベイト神父が口を開いた。ワタシに、向けて。
「どう…とは?」
ベイト神父の言葉に、それだけを返すのがワタシの精いっぱいだった。
「さっき言っていたじゃないか。君も非業の死を遂げた、と。ならば、世界を恨んでいたんじゃないのか」
「そう、ですね。ワタシの人生には、苦痛しかありませんでしたから…正直、死んだことよりも、生まれてきたことを恨んでいましたよ」
これは、絶対に口にしてはいけない言葉だった。
こんな台詞は、ワタシの家族にとっては呪詛でしかない。生きていた頃にワタシからこの言葉を聞かされれば、ワタシの家族は崩壊しかねなかった。だから、ワタシは口にはしなかったし、口が裂けても言えなかった。病魔に蝕まれ、世界を呪ってはいたけれど、ワタシにとって、あの家族は宝物だったんだ。
…それでも、これもワタシの本音の欠片では、あったけれど。
あの世界は、ワタシには眩しすぎた。
常に新しい何かに溢れていて、常に新しい感動に満ちていた。
それは、たくさんの人たちが本気で生きていた証左だ。
だから、世界には常に新鮮な輝きが溢れていた。
そのキラキラは、ワタシには毒でしかなかったけれど。
「…………」
ワタシは、そんな世界を羨んでいた。
そして、羨望を感じるたびに、それらはすぐに絶望へと裏返った。
ワタシには新しいナニカを始めることもできず、それらを享受できるだけの猶予も、なかったから。
世界から、ワタシだけが仲間外れにされていた。
けれど、その僻みも嫉みも口にすることはできなかった。ずっと、ずっと。この異世界にきてからも、ずっと尾を引いていた。
それを、ここで吐露した。
そうしなければ、この詰襟の神父に対してアンフェアだったから。
…いや、ワタシにとっては、この人が初めてのワタシの同類だったかもしれないから、か。
「それが、君が抱えていた本心か。随分と、薄汚れているじゃないか」
ゆっくりと、ベイト神父はワタシの言葉を汚れていると断罪した。
けど、ワタシはそれを否定しなかった。
「そうですね、ワタシも自覚はありますよ…」
本当は、あんな感情を家族に抱いてはいけないんだ。ワタシと同じように未練を抱えて命を落としたはずの慎吾たちは、微塵もそんなことを考えてはいない。
…みんなの中で、ワタシだけが、惨めな僻みを抱えたままだった。
「しかし、汚泥に塗れているのは私も同じだ。だからこそ分かる。君の言葉には嘘はない、と」
ベイト神父は、そこで軽く瞳を閉じた。
ワタシも、つられて同じように瞳を閉じた。それと同時に、世界も暗転した。
…次にこの瞳を開いた時、世界はどうのように変化しているだろうか。
「妹は…カイアは、この世界を呪っている」
閉ざされた世界の中、ベイト神父の声が響く。
それは過去形ではなく、進行形だった。
「元々、私も妹も、この世界から祝福を受けた存在ではなかった。幼いころから、この世界の理不尽に何度も踏み躙られてきた」
世界というのは気まぐれで牙をむく。
その標的を無作為に選んだうえで、責任など微塵も負わない。
「それでも、私たちは生きてこられた。二人で一緒だったからだ…しかし、君は、一人だったのではないか」
「そうですね…ベイトさんの言うように、痛みを分け合える存在というのは、ワタシにはいませんでした」
…大切な家族はいたけれど、ワタシはその家族のお荷物にしかなれなかった。
この家にワタシがいなければ、生まれてきたのがワタシでなければ…何度、そう思ったことだろうか。
「だとすれば、君も世界を滅ぼしたい側の人間だ」
「それは、否定できないかもしれませんね…」
けれど、それをしてしまえば、ワタシは…。
「なら、私は君の意見に従わなければならないか」
「…え?」
逆、ではないのか?
ワタシが、あなたたちの言葉に従わなければならないのでは?
「君は、私と妹の『同類』だ。世界から打ち捨てられた、私たちの先達だ」
ベイト神父の瞳が、真っ直ぐにワタシを見据えて言った。それは、ワタシというサンプルの値踏みを終えたということか。そして、神父は裁定を下した。
「だから、私は君の声に従わなければならない…惨めに死んだ、その経験が君にあるというのなら」
「言い方に棘がありますが…というか棘しかありませんが、ワタシの話を聞いてもらえるなら、それでいいですよ」
言葉に棘があるうえでワタシの話を聞かない人たちが、ワタシの周りには多い。あの人たちに比べれば、話が通じるだけでマシというものだ。
「…というか、先ほどの『念話』という代物が決め手になっているのだけれどね」
ベイト神父は、そこで笑った。ひどく薄暗く。
…ああ、そうきますか。
「なるほど、ワタシの『念話』を当てにしているんですね…」
「意外と話が早いね、君は…いや、花子さんだったか」
「意外とは余計ですよ…」
本当に、ワタシの周りにはワタシに対して棘のある人ばっかりだ。
…でも、そういう人たちの方が裏表がないから安心できるんだけどね。
「要するに、神父さんはワタシの『念話』があれば妹さんと話ができるんじゃないかって考えてるんですね」
「ああ、そういうことだよ…」
『いけません』
ワタシとベイト神父の間に割って入ったのは、女神であるアルテナさまだった。その声は重く、ワタシに警告する。
『確かに、『念話』ならば遠く離れた相手にも声は届けられます…ですが、あの黒いヒトビトに『念話』を使うのは危険すぎます。必ず、あの方々の呪詛が逆流してきますよ。花子さんだって、一度はあの方々に触れているのですから分かっているはずです』
ワタシの頭の上のアルテナさまは、『念話』の危険性を説く。
「分かっていますよ、アルテナさま…」
思い出しただけで軽くちびってしまいそうなほど、あの『黒』からは死を身近に感じた。おそらく、接触し続けるだけであの黒いヒトビトは人を殺せる。アルテナさまが警鐘を鳴らすのは当然だ。
「でも、あのヒトビトの中にいる妹さんとお話がしたいというこの人の気持ちは、痛いくらいに分かるんですよ…」
もう話せないと思っていた相手と話せることが、どれだけ希少な奇跡か。ほんの数分でいい。それどころか、たったの一言でもいい。その一瞬のために、すべてを擲ってもいいとさえ思えるんだ。そんな相手が、この神父さんにもいる。
…あれ?
ワタシにも、いたんだっけ?
きっと、いたんだろうね。
『しかし、花子さん…花子さんが危険な行為をすることで、心配したり泣いたりする方がいるということを忘れてはいませんか』
「それ、は…」
ワタシのことで、怒ったり泣いたりしてくれる人たちは、確かにいるのだと思う。自惚れではなくそう思えることが、少しだけ誇らしかった。
そんなワタシに、アルテナさまがさらなる警鐘を鳴らす。
『みなさんに何の相談もなく危ないことをして、また一週間おやつ抜きのお仕置きをされますよ』
「いとも気安く行われるえげつない行為…」
『花子さんの自業自得ですよ…というか、自分の命に無頓着すぎるのです』
「いや、ワタシ、もう当分は死にたくないですよ…」
少なくともこの先、五、六十年くらいは死にたくない。それに、『転生者』のみんなの中で一番、臆病なのは間違いなくワタシだ。
『でしたら…』
「でも、ここで見て見ぬふりをするのも、おばあちゃんに顔向けできないといいますか…」
ワタシのおばあちゃんは、この異世界を救った英雄だ…と、聞いた。おばあちゃんに関する記憶をなくしてしまったから憶えていないが、以前のワタシもそのことを知っていたはずだ。なら、おばあちゃんの記憶をなくす前のワタシも、同じように行動するのではないだろうか。目の前の泣いている誰かを見捨てておいて、美味しいご飯は食べられないのだ。
『ですが、花子さん一人が危険なことをする必要は…』
「あの黒いヒトビトの全てに接触する必要は…おそらくありません」
ワタシは、そう呟いた。そして、続ける。
開いた瞳で、真っ青な空を見上げながら。
「これまでずっと、あの黒いヒトビトの無念を晴らす方法を考えていました。ずっと不当に苦しめられているあのヒトたちを助けるには、どうすればいいのか、と…でも、黒いヒトビトと一括りにしてしまっていましたけど、あのヒトたちも、一人一人の人間だったんですよ」
世界を滅ぼすと言われていても、実際にそれだけの力を持っていても、元は一人のヒトだった。不遇な死を迎えた、一人のか弱いヒトだった。
「そのヒトたちにも、一人一人にちゃんとした名前があって、自分の人生を歩んでいた一人のヒトだったです。あれだけの力を目の当たりにして、ワタシはそんな当たり前のことにも気付きませんでした…『黒いヒトビト』というダレカが付けた俗称ではなく、たった一人の人として向き合わなければならなかったんです。ワタシと同じように非業の死を遂げたと言っておきながら、ワタシは、あのヒトたちを自分と同じ、ヒトとは認識できていませんでした」
それは、ひどく傲慢で、ひどい怠慢だった。
「ワタシは、間違っていました。黒いヒトビトだからって、一緒くたにしていいはずはなかったんです…そのことを、ベイト神父さんが教えてくれました」
『しかし、それがどうだというのですか、花子さん…』
「一度に全員と接触するのではなく、あのヒトビトの中の、一人一人と向き合うことができれば…あのヒトたちが抱えている怨嗟を、取り除けるのではないでしょうか」
『ですが、呪詛が強すぎます…あの怨嗟の渦中にいる、たった一人の少女と向き合うことなど、できるはずがありません』
アルテナさまは、その危険性を必死に訴える。訴えて、くれている。それはこの女神さまの心配の裏返しだ。
「呪詛…ですか」
確かに、アルテナさまの言うことはもっともだ。おそらく、目的の場所に辿り着く前にワタシの命の方が先に枯れる。
「『崩壊』が纏っているあの黒い霧を晴らすことができれば、私はカイアと話をすることができるのか?」
『それが容易ではないと言っているのです』
「あの黒い霧ならば、私が誘導する…」
「『誘導』?」
ワタシとアルテナさまは、同時に疑問の声を上げていた。
「ああ、誘導だ…といっても、さすがにすべてではないが」
「え、いえ、あの…すべてじゃなかったら、あの黒い霧を誘導できるんですか?」
そんなことが、本当に可能なんですか?
「これが、その証明だよ」
ベイト神父は、『黒』が刻まれた右肩を指差した。そして、説明を始める。
「カイアに近づくため…その方法を探している間に、私はあの黒い霧を呼び寄せることができるようになった」
『あなたならば…それが無謀な自殺行為だと気付かないはずはありませんよね』
「無謀程度では、私が止まる理由にはならない、ということだ」
ベイト神父は、女神であるアルテナさまに対して一歩も引かない。
それだけ、この神父さんは妹さんを助け出したいんだ。あの、黒い霧の中から。
「あの黒い霧…あのヒトたちが抱えている呪い、邪気、怨嗟、憤怒、絶望」
ワタシは、小さく呟く。呼び方を変えたところで、解決の糸口が見つかるわけではないというの…に?
…いや、待てよ。
「あの黒い霧…邪気を払うことができれば、ワタシの『念話』も届くんですよね?」
ワタシは、頭上のアルテナさまを見上げる。いや、頭の上にいるからワタシからは見えないのだけれど。
『ですから、それが簡単ではないと言っているのです…あれほどの邪気を払うなど、全能の女神であるワタクシにもできませんよ』
「できないことがある時点で全能じゃないですよね…」
なんでこの期に及んで見栄を張ろうとするんですか…。
そんな女神さまに、ワタシは言った。
「ちょっと当てがあるんですよ…その、邪気を払ってくれそうな」
そう、ワタシには当てがあった。というか、どうしてワタシはそのことを忘れていたのだろうか。ワタシには、心強い味方がいたじゃないか。
「それは、本当なのか…?」
ベイト神父が慌てた声でワタシの肩を揺さぶってくる。
ワタシは大丈夫だったけれど、頭上のアルテナさまは急な振動に落っこちそうになっていた。そんなワタシは、揺さぶられながらも口にした。
「え、ええ…水鏡神社っていう神社なんですけど」
そう、あの神社には、祠があった。
毒だろうが邪気だろうが浄化してくれるという、あの小さな祠が。
そして、その祠を開くことができる、二人の巫女が。
「…………」
しかし、ワタシはここでもう一つ、大事なことを思い出した。
あの二人に…いや、あの二人のご先祖様に、その祠の開き方を教えたのは『魔女』と呼ばれる存在だったということを。
…だって、『魔女』とは、あの黒いヒトビトの代弁者だ。
あの黒いヒトビトと共に、世界を崩壊させる者だ。
「…でも、今はそれを気にしている場合じゃないか」
ここで大事なのは、あの祠で黒いヒトビトの邪気を浄化できるかどうか、だ。
そこが上手くいけば、もしかするとこの世界の『崩壊』を防ぐことができるかもしれない。邪気を払うことができるのなら、呪いの囚われたあのヒトたちを解放することが、できるかもしれない。
ワタシは、人知れず鼻息を荒くしていた。
だって、探し続けた光明が、ようやく見つけられたんだ。
そして、ワタシたちは移動を開始した。善は急げなのだ。
「…………」
ワタシたちが水鏡神社の祠に辿り着いた時、祠は破壊されていた。
ワタシたちの希望が、粉微塵に破砕された光景だった。
そして、その傍らには、一人の少女がいた。
リリスという名の、一人の悪魔にして一人の少女が、そこでたたずんでいた。