94 『逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメなんだ…』
現在とは、堆積した過去の上に形成される楼閣だ。
必然、現在というのは過去の影響を色濃く受ける。過去と現在は、名実ともに地続きだからだ。
それを分かりやすく体現しているのが、大自然だろうか。
グランドキャニオンやグレートバリアリーフ、ガラパゴス諸島に武陵源…ワタシのいたあの世界にも、歴史の重みが作り出した絶景は数多くあった。自然というのは無口だけれど、それでも雄弁に物語っている。幾重にも堆く積み重ねられた、歴史の重さというものを。現在の姿になるために、どれだけの時を過ごしたのかを。
「…………」
だからだろうか、現在と過去を対比する場合、ワタシはどうしても古い時代を思い浮かべてしまう。大体は五十年や百年ほどの過去だろうか。現在よりもずっと古い時代を想像し、現在と比べてしまう。そこにどのような変化があったのか、と。
けれど、現在と対比する過去というのは、何も大昔のことだけではない。五年や十年でも十分に過去なのだし、なんだったら昨日や一昨日だって立派な過去だ。そして、それらも現在とは地続きになっている。
にもかかわらず、ワタシは失念してしまいそうになる。そうした直近の過去も、現在を形作る掛け替えのない断片の一つだということを。
記憶が鮮明な分、寧ろ、直近の過去の方が現在に色濃く影を落とすというのに。
「…………」
空を覆っていたあの黒いヒトビトの話を、魔女であるドロシーさんはこう語っていた。ずっとずっと大昔から、あの黒いヒトビトはそこにいた、と。僅かな希釈もされず、解放もされずに。
確かに、それは事実なのだろう。長い長い時の中で、ずっとずっと、あの黒いヒトビトは癒えない怨嗟に囚われてきた。それだけの、非業の死を遂げたから。
…けれど。
非業の死を遂げたのは、大昔の人たちだけではない。二千年前に非業の死を遂げた人もいれば、二年前に非業の死を遂げた人たちもいるはずだ。
ワタシは、その可能性に思い至らなかった。
非業の死を遂げたあの黒いヒトビトは、大昔のヒトビトなのだと、勝手に決めつけてしまっていた。
いや、遠い昔の世界の悲しい出来事なのだと、ワタシの世界とつながっているわけではないと、切り離して考えたかったのかもしれない。
現在と過去は地続きだというのに。
その『過去』が、目と鼻の先というケースもあるはずなのに。
そのことを、この詰襟の神父がワタシに思い出させてくれた。
自らの妹が、あの黒い終焉の中に囚われていると、告白してくれたことで。
「…………」
ワタシは、何も言えなくなっていた。この、神父さんに対して。
それは、どれほどの痛みだろうか。
自分の家族が、あの黒いヒトビトと一緒に、今も苦しんでいるというのは。
顔には出さないが、ベイト神父自身も苦しんだはずだ。いや、今も苦しみ続けている。
そんな人に対して、ワタシの言葉はあまりに軽い。何を言っても、それらは慰めどころか侮辱にしかならない。だから、全員が口を閉ざしていた。それは、黙禱と同じ意味を持っていた。黙祷ほどの価値は、微塵もなかったけれど。
「あの妹さんが、か…」
ディーズ・カルガが、そこで口を開いた。どうやら、この人はベイト神父の妹さんを知っているようだ。
「ああ、妹は…カイアは、今もあの空で苦しみ続けている」
ベイト神父は平坦な声でそう言ったが、こぶしを固く握っていた。
その手はもう、妹には届かないから。妹と手をつなぐことも、できないから。
「…………」
元の世界では、ワタシもあの黒いヒトビトと同じ境遇になっていても、おかしくはなかった。
難病という呪いに蝕まれ、あらゆる祝福からそっぽを向かれていたワタシは、世界を呪うしかなかった。
あのままでは、ワタシもあのヒトビトと同じ末路を辿っていた。ここにいるアルテナさまに、『転生』をさせてもらえなければ。
そして、ワタシが黒いヒトビトに堕ちていた場合、苦しむのはワタシだけではない。ワタシの家族も、だ。
ワタシが永劫に苦しみ続けると知れば、ワタシの家族はどれだけの悔恨に苛まれることか。
「…………」
目の前にいるベイト神父が、まさにその状態なんだ。
大切な家族を失い、しかも、今も怨嗟の中で苦しみ続けている。見て見ぬふりなど、できるはずがない。
ワタシも、あの人たちを助けたい。
ワタシにできることは微々たることしかないし、そもそも、ワタシは自分が死にたくないからという動機しかないが、それでも、ワタシもあの黒いヒトビトを助けてあげたい。
…とは、口が裂けても言えなかった。
少なくとも、この人の前では。
この神父さんからすれば、ワタシなどはぽっと出の一般人でしかない。そんなワタシが何を言っても、この人からすれば性質の悪い偽善にしかならない。
「どうして、ベイトはあの子が『崩壊』に囚われたことを知ったんだ?」
ワタシとは違い、ディーズ・カルガはずけずけと踏み込む。神父さんの深い生傷に、土足で。
「それは…」
ベイト神父は、ディーズ・カルガの言葉に激昂したりはしなかった。喜色を浮かべていたわけでもないが、それでも滔々と語り始める。
「私の目の前で…カイアが『崩壊』へと変貌したから、だ」
「…目の前、で」
ワタシは、辛うじてその言葉を呑み込んだ。迂闊に口にしていいはずがない。
そして、ベイト神父は続ける。起伏のない声で。
「孤児院で暮らしていた私と妹だったが、成人した私はあの場所を出た。そこに、妹もついてきて二人暮らしを始めたのだが、ある日、私が家に帰ると、妹は死んでいた…ひどく損傷の激しい状態で、殺されていた」
…ベイト神父は、ひどく空疎な声だった。
感情を殺さなければ、口にできない言葉だからだ。
「私はその日、たった一人の妹を、失った…たった一人の、私の家族だったというのに」
聞いているだけで、胸に異物が混じったような疼痛が、ワタシを襲った。
けど、こんな痛みは、痛みなどとは呼べない。この人は、そこで自身の半身を失ったんだ。しかも、ただただ理不尽に、不条理に。
「そして、それから幾日は妹と一緒に過ごした…妹の遺体と、だが」
ベイト神父の独白は、空気中に溶ける。
それは、苦悶と悔恨が織り交ぜられた小さな叙事詩だ。
「私の世界は、妹が死んだ時点で終わった。私も、そこで亡骸同然となった。だから、私もそのままこの命を終えようとしていた。しかし、数日過ごしたあと、妹の遺体に変化があった…妹の体が、黒く変化し始めたのだ」
小さなりりすちゃんが、ワタシの手を握ってきた。ベイト神父の過去に、一人では耐えられなくなったからだ。それは、ワタシも同じだったけれど。
「少しずつ少しずつ、妹の指先から、黒い変色が始まった。緩慢な変化が続き、最後には、妹の遺体は黒一色に変化した…私は、自分がそこで狂ったと、確信した。そして、自分も、いずれこうなるのだと。しかし、最後には妹の体は宙に浮かび、空の果てに消えていった。私のことを、置き去りにして」
ベイト神父は、泣いていた。涙は、出ていなかった。この人の涙は既に枯れ果てていたから。
それでも、ワタシにはこの人が泣いているようにしか見えなかった。
「…それが『崩壊』と呼ばれる存在だと、私は後に知った」
ベイト神父は、軽く中空を眺めていた。
そこに、妹はいないと知っていても。
「それから、私は『崩壊』について調べた…少しでも、妹に近づくために」
「そして、ベイトはその方法を手に入れた、ということか」
ベイト神父の話を聞いたディーズ・カルガは、そう言った。
「いや、『崩壊』については殆んど情報は手に入らなかった…誰も、知っている人間がいないからだ」
「それでも、ベイトは…」
「ああ、私は『崩壊』が現れる場所を突き止めた…」
ベイト神父は、小さくな吐息と共にそう語った。
「あのヒトビトが現れる場所…ベイトさんは知っているんですか?」
思わず、ワタシは問いかけた。ベイト神父が語った言葉が、あまりに衝撃的だったから。
「同じ場所にずっと現れるということはないが…それでも、いくつかの決まった場所で現れるようだ」
「その場所を…ワタシにも教えてくれませんか?」
ワタシは、震える声を抑えながらベイト神父に問いかける。そりゃあ、怖くないはずがない。ほんの少し、あの黒いヒトビトに触れただけで、しかも間接的に触れただけなのに、それでも、ワタシは気が狂うかと思うほどの畏怖を味わった。
でも、聞かないといけない。知らないといけない。
ワタシには何もできないかもしれないけれど、何も知らないままでは、何もできないんだ。
「知ってどうするというのだ」
ベイト神父の声に、圧がかかった。それは、ワタシを拒絶するためのものだ。
…けど、ワタシだってそう簡単には引き下がれない。
あの黒いヒトビトが空を覆っているお陰で、アルテナさまは天界に帰れない。この世界だって、ここで終わってしまうかもしれないんだ。
「…世界の『崩壊』を、止めます」
深く息を吸った後、ワタシは宣言した。そして、その理由を語る。『魔女』の次に『崩壊』に近い、この詰襟の神父に。
「このまま黒いヒトビトを放置したままだと、あのヒトたちはこの世界を壊すと聞きました…だったら、ワタシにも無関係というわけではありません」
「君も、『崩壊』についてはいくらか知っているようだな」
ベイト神父は、ワタシに視線を向ける。それは、値踏みをするようでもあった。
そして、ワタシとベイト神父の間に沈黙が生まれた。どちらも、一切の言葉を発さなかった。
「ベイトはどっちなんだ?」
ワタシたちの沈黙の間隙を縫うように、ディーズ・カルガがそう言った。
「…どっちとは、なんだ?」
ベイト神父は質問に質問で返していたが、これは当然だ。
ワタシだって、ディーズ・カルガの問いかけの意図が分からない。というか、言葉が足りない。
「簡単だよ。きわめてシンプルなことしか、俺は聞いていない。ベイトがどちらを選んでいるのか?だ」
「もう少し明瞭に言ったらどうだ、カルガ」
「お前が『崩壊』の側に立っているのか、そうではないのか、だ」
ディーズ・カルガの言葉が、この場に亀裂を入れた。このディーズ・カルガは軽薄で、その言葉にも重さはない。けれど、今この瞬間のこの言葉だけは、引力を有していた。
…そうだ。
このベイト神父は、たった一人の家族である妹を、この世界から奪われた。
その時点で、この人の世界は終焉を迎えている。
なら、ベイト神父が『崩壊』の側に立っていても、何も不思議はない。
そして、『崩壊』の側に立つということは、この世界を壊すということだ。この人がその選択をしても、何の不思議もない。
「…………」
凍結された沈黙が、しめやかに帳を下す。
それは、実際には刹那にも満たない時間だったのかもしれない。
しかし、ワタシにはその時間が永劫ほどにも感じられた。
その凍えた時間の中、ベイト神父が、口を開こうと、していた。
「私は…」
「ワタシは、妹さんのためにも神父さんは生きるべきだと思います!」
ワタシは、叫んだ。
それは、ベイト神父のためでもあった。この世界のためでもあった。
でも、ワタシは、怖かった。
ベイト神父から語られる言葉を恐れ、その恐れに迫り出されるように叫んでいた。
要するに、先延ばしの逃避行動だ。
…でも、怖いよ。
無慈悲に妹を奪われたこの人は、この世界の崩壊を望んでいるのかもしれない。この世界そのものを、妹の仇と定めているかもしれない。ワタシに、その復讐を止める権利は、おそらくない。それでも、ワタシは言った。
「もし、ここでベイト神父さんまで不幸な目に遭えば、妹さんも苦しむと思います…それは、妹さんをさらに苦しめることになるのではないでしょうか」
ワタシは、紋切り型の説得を口にしていた。
勿論、この説得は間違ってはいないはずだ。けど、これがただのお為ごかしということも、ワタシには分かっていた。身勝手に分かった顔をされても、それは逆鱗に触れる行為でしかないんだ。
…実際、ベイト神父も険しい表情を浮かべていた。
「赤の他人の君に、惨たらしく殺された妹のナニが分かるというんだ」
ベイト神父は、これまでで最も圧のある声をしていた。
「…確かに、ワタシは赤の他人です」
足が震えていた。ワタシのしていることは、ただこの人の生傷に塩を塗り込んでいるだけなのかもしれない。
…でも、きっと、駄目だ。
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメなんだ…。
だって、ワタシは『転生者』だ。
だから、ベイト神父に向き合う。震える声のまま、口にした。
「でも、惨たらしく死ぬことの辛さは、知っています」
それは、一つの告白だった。
それは、ワタシにとっては告白だった。けれど、ベイト神父からすれば宣戦布告だった。
「死ぬことの辛さを知っている…馬鹿に、しているのか?」
『ワタシは、こことは異なる場所から来た『転生者』です』
ワタシは、再び告白した。
真一文字に、口を閉ざしたままで。
「なん、だ…この声は、どこから聞こえている?誰が、喋っている?」
ベイト神父は、落ち着きなく周囲を見渡していた。しかし、周りを見回しても、誰もいない。ワタシたちは全員がこの人の視界のうちにいるのに、誰も口を開いていない。それでも、この人に声は届く。この人が困惑するのも、無理はない。
「まるで、『神託』…ではないか?」
『これが、転生の際にワタシに与えられたスキル『念話』です』
ワタシは、ベイト神父に種明かしをした。
「『念話』…?転生の際に与えられた?」
「ワタシは一度、死んでいるんです…自分で言うのもなんですけど、そこそこ悲惨な人生でしたよ」
ワタシは、そこで自分の口でそう言った。微笑みながら言おうとしたその台詞は、ひどくぎくしゃくした声だった。ワタシとしても、この告白には勇気が必要だった。
「そんなワタシだから、言えるんです…妹さんのことを想うのなら、軽率に命を捨てるようなことは避けるべきです、と。そして、一緒に妹さんを助けましょう」
「そう、か…」
ベイト神父は『念話』の衝撃を引きずって狼狽していた。けれど、それは少しの間だけだ。何度か呼吸を繰り返した後、ベイト神父はそれまでの自分を取り戻していた。
「しかし、私も…手遅れ、かもしれないな」
そう言いながら、ベイト神父は詰襟の神父服のボタンとはずしていく。一つ一つ、丁寧に。そして、上着を脱いだ。
「え、それ…は?」
今度は、ワタシが驚かされる番だった。
ベイト神父の上半身…右肩の辺りが、黒く染まっていた。
それこそ、あの黒いヒトビトと同じように。