93 『戦わなければ勝てないのだ』
「それ…どういうこと、なんですか?」
言葉に詰まりながらも、ワタシはそう問いかけた。
本当は、ベイト神父とディーズ・カルガの話を黙って聞いているつもりだった。この二人に口を挟む気などなかった。けど、その意思を覆すほどの衝撃をベイト神父の台詞から受けた。
「それ、とは何だい?」
ベイト神父が、ワタシに視線を向けた。それまで、この人はワタシのことなど視界の端にも入れていなかった。
ワタシは、改めてベイト神父に尋ねる。
「…『神託』で語られた声が、女性のものだったというところですよ」
「それが、君と関係があるのかい」
「これっぽっちもありませんよ…ただ、気になってしまったんです」
そう、ワタシとしては気になっただけ、だ。
ベイト神父に下された『神託』の声が男性のものだろうが女性のものだろうが、ワタシたちに関係があるはずもない。この先の展開を左右するとも思えない。ほんの少し、妙なひっかかりを喉元の辺りで感じただけだ。
「とはいっても、私にもその確信はない。ただ、その『神託』を聞いた時にその声が男性的ではないと感じただけだ」
「男性的ではない…?」
ワタシは、疑問をそのまま声にした。
ベイト神父は、その質問に答えてくれた。意外と律儀な人ではあるようだ。
「『神託』は私の心に直接、届けられた。正直それは声というものではなかった。男性とか女性とかいう以前に、だ。なので、私が勝手にその声が女性的だったと感じただけだ。それも比較的、若い女性の声だった」
「『神託』の声が、若い女性…?」
勿論、ベイト神父が言ったように、それはこの人がそう感じただけで断言できるものではないのだろう。
それでも、ワタシは次の言葉を口にした。正直、自分でもどうしてそこまで固執しているのか、分からなかったけれど。
「でも、『教会』の神さまは『父』と呼ばれているんですよね?」
「確かにそう呼ばれているが、カルガと同じく私もお目にかかったことはない」
ベイト神父は、そこで軽く肩をすくめる。この話題はここで終わりだ、と言わんばかりに。
確かに、『教会』の神さまが男だろうが女だろうが、ワタシに関係はない。ないはずなのだけれど、何をこんなに気にしているのだろうか。今、ここでワタシが聞か出さなければならないのは、別のことだ。だから、ワタシはそちらの質問を投げかけた。
「ベイト神父さんは…その『神託』に従って悪魔であるリリスちゃんの封印を解いたんですよね」
「ああ、そうだ…」
俯き加減で、ベイト神父は肯定した。
「そして、解放したリリスちゃんを、今度はこっちの小さなりりすちゃんの精神の中に再び封印した…ということで間違いはありませんか」
「次期『教皇』と体を共有させたことは間違いはないが、それは封印ではない…まあ、認識としてはそれでも大差はないが」
ニュアンスに若干の違いはあるようだが、事象としては同じことのようだ。やはり、リリスちゃんとりりすちゃんを一心同体にしたのはこの人だ。そんな神父に、ワタシは再び問いかける。
「それも『神託』の指示ですか…でも、どうしてそんなことをしたんですか?悪魔のリリスちゃんからすれば、二度も人間に封印されたことになるんですよ」
「いや、そこまで『神託』では指示されていなかった」
「え…?」
それは、神さまの指示ではなかった?
…じゃあ、どこまでが『神託』だったんだ?
「『神託』にはあの悪魔の封印を解け、とはあったがその先は特に指示されていなかった」
「だったら…神父さんがリリスちゃんをりりすちゃんの中に閉じ込めたってことじゃないですか!」
ワタシの語気は、そこで荒くなった。思った以上に、リリスちゃんのことになるとワタシは冷静さを欠いてしまうようだ。
そんなワタシに、ベイト神父は平坦な声で答える。
「そうしなければ、あの悪魔は存在そのものが消滅していた」
「しょうめ、つ…?」
…リリスちゃんの、消滅?
「長年の封印で、あの悪魔の力は衰弱しきっていた。そのまま封印から解き放ったとしても、この世界では存在を保てずに遠からず消滅していたはずだ」
「そうなん…ですか?」
ワタシは、ベイト神父の言葉に驚きを隠せなかった。
「だって、神父さんの言葉が本当だとすれば…」
封印から解放されたリリスちゃんは、そのまま消滅する運命だった?
けど、そうなってはいない。つまり、裏を返せばこの人が…ベイト神父が、リリスちゃんの命を救った恩人だということになる。
ワタシは、辛うじてその言葉を吞み込んだ。口にしたくなかったからだ。この人に、リリスちゃんが救われていた、などとは。
「…………」
けど、大きなリリスちゃん本人も言っていた。長い長い封印の中で魔力を失っていた、と。そして、小さなりりすちゃんの中に入ったことで少しずつ魔力を回復できた、と。
…もし、封印から解放されてほったらかしだった場合、そのままこの世界から、リリスちゃんは消えていた。
「神父さ…」
「君が聞きたいのはリリスのことだったのかい」
言いかけたワタシを遮ったのは、ディーズ・カルガだった。そして、もう一度、似たような言葉を繰り返す。
「君は、リリスのことをベイトに聞きたかったのかい」
「…当たり前じゃないですか」
リリスちゃんは、ワタシの大事なお友達だ。
けれど、ディーズ・カルガはワタシにもう一つの現実を叩きつけた。
「なら、ベイトと『崩壊』の関係については二の次にしてもいい、ということか」
「それ、は…」
ワタシは、そこで口を噤んでしまった。
確かに、リリスちゃんのことは最優先事項だ。その尻尾を掴んだ。なら、ここで手放すことなどできはしない。
けれど、ベイト神父が『崩壊』につながる糸口であることも間違いはない。
…ならば、ワタシは、どちらを優先するべきだ?
いや、どちらか一方を手放す必要はない。そんなことはできない。両方をこの神父の口から問いただせばいいだけの話だ。
それでも、ワタシは、先に『どちら』を聞く?
ワタシ自身は、『どちら』を優先する?
リリスちゃんか?
この異世界か?
「…………」
だから、ワタシは口を噤んでしまった。
口に出せば、自分でも気付かなかった本心が、露呈してしまうから。
ワタシにとって、重いのがどちらなのか。
「なあ、ベイト。お前はいつから『崩壊』と仲良しこよしになったんだ?」
身動ぎすら忘れていたワタシを見限ったように、ディーズ・カルガがベイト神父に問いかける。
「…貴様が『教会』を抜けてしばらくした後だ」
「そんなに前からだったのか」
ワタシ抜きでベイト神父とディーズ・カルガの会話が進展する。向かう先は『崩壊』であり、リリスちゃんではない。
「じゃあ、どうしてベイトは…」
「…リリスちゃんは!」
ワタシはそこで叫び、ディーズ・カルガの台詞を遮った。意識したわけでもなかったのに、大きな声を出してしまった。それは場違いで、空気なんてまるで読めていない行動だった。当然、この場は妙な沈黙に包まれる。
そんな中、ディーズ・カルガがワタシに言った。
「割り込みかい、花子さん」
「リリスちゃんを、助けるには…どうすれば、いいんですか?」
ディーズ・カルガの言葉を素通りして、ワタシはベイト神父に問いかける。きわめてぎこちないまま。ワタシのせいでおかしな空気感が漂っていたが、もうこうなったら行くしかない。今更、空気なんて読んだって仕方がない。
「今、リリスちゃんは我を失っているような状態です。リリスちゃんの封印を解いた神父さんなら…リリスちゃんを元に戻す方法を、知ってるんじゃないですか?」
ワタシは、ベイト神父に問いかける。
悪い悪魔として復活してしまったリリスちゃんは、ワタシたちの知っているリリスちゃんではなくなってしまった。ワタシの声はリリスちゃんには届かず、リリスちゃんの視界にワタシはいない。
でも、そんなのはリリスちゃんじゃない。ワタシの友達のリリスちゃんではないし、ここにいる小さなりりすちゃんのお姉ちゃんではない。だから、リリスちゃんを取り戻す。
「君たちも『崩壊』については知っているようだな」
「え…そう、ですね」
ベイト神父から返ってきた言葉に、ワタシは少し戸惑いながら相槌を打った。
そんなワタシに、追い打ちのように詰襟の神父は言った。
「君たちがどこまで知っているかは知らないが、この世界はそれこそ崩壊の危機に瀕している。なら、そちらを優先するべきだとは思わないのか」
「思い、ますよ…少しくらいは」
「ならば、一匹の悪魔よりもそちらに集中するべきではないか。少なくとも、天秤にかけられる問題ではないはずだ」
神父として、その問いかけは真っ当だった。
だから、ワタシは神父に答える。それが、告解であるかのように。
「…でも、できないんですよ」
ワタシは、こぶしを握る。
そして、続ける。真っ直ぐに、詰襟の神父を見据えながら。
「今のリリスちゃんは一人ぼっちなんです…勿論、世界がどうでもいいということではありません。それでも、ワタシがリリスちゃんの傍にいたいんです。リリスちゃんがいないと、ワタシの世界がワタシの世界じゃなくなっちゃうんですよ。リリスちゃんのいない世界は、とっても寂しくてとっても楽しくないんですよ!」
ワタシが命を落としたことで、ワタシは元の世界からいなくなった。
だから、あまり考えたことはなかった。というか考えたくなかったんだろうね。
ワタシがあの世界に残してきてしまった、大切な人たちのことを。
お母さんのことを。お父さんのことを。おばあちゃんのことを…。
ワタシがいなくなった後の世界でも、お母さんたちは生きていかなくてはいけない、ということを。
ワタシがいなくなった痛みを、抱えたままで。
…でも、今度はワタシがこの異世界に残される側になりそうだった。
リリスちゃんが、いなくなってしまうことで。
「それが、嫌なんです!たったの一人いなくなるだけでも、ワタシの世界が欠けちゃうんですよ。他の誰かじゃ、補填なんてできません…リリスちゃんじゃないとダメなんです!」
リリスちゃんがいなくなってしまう想像をして、ワタシは、不意に涙が溢れてきた。
…駄目だ。
ここで泣いても、リリスちゃんは助けられない。この神父さんに泣き落としは通じない。それでも、溢れてくる涙は止められなかった。止められないままに、ワタシは希った。
「だから、リリスちゃんを、助ける方法、教えて下さ…」
「おそらく、今は過剰に魔力が注がれている」
「え…?」
今、この神父は何を言った?
「あの悪魔が完全な実体を得るためには、膨大な魔力が必要だった。しかし、いざそれだけの魔力が注がれてしまえば、今度は元々の自我がその魔力に侵食されてしまう…あの悪魔が我を失っているというのは、おそらくそういうことだ」
「え、あの…教えて、くれるんですか?」
リリスちゃんを助ける、方法を。
「私に分かるのはあの悪魔の現状だけだ。助ける方法などは知らない」
「でも、リリスちゃんが今どんな状態かということだけでも分かれば…それがきっと、足がかりになります」
ワタシの胸で、小さく一つ、鼓動が鳴った。希望が、ワタシの胸を叩いたんだ。これが、リリスちゃんを助ける蜘蛛の糸になるかもしれない、と。
そんなワタシに、ベイト神父はもう一つ、言葉をくれた。
「あの悪魔を助けたいのなら、急いだほうがいい」
「…その膨張した魔力に、リリスちゃんの自我が圧し潰されてしまうからですね」
「それもあるが、『教会』があの悪魔の消滅を決めた」
「そういえばそうでしたね…」
リリスちゃんを助けるためには、『教会』という組織を出し抜かなければならないんだ。それで諦めることなんてできないけどね。戦わなければ勝てないのだ…戦いなんて、蝉の幼虫より苦手だけどね。
「ありがとうございます、ベイト神父さん…」
「礼を言われることなど、私は何もしていない」
「それでも、ワタシの悩みを晴らしてくれました…さすがは神父さんですね」
「…さあ、どうなんだろうな」
小さく鼻を鳴らして、ベイト神父さんは軽く顔を逸らした。もしかして照れているのだろうか。だとしたら、ワタシはこの人のことを嫌いになれそうにない。
「コイツは、意外なことに女の子の涙に弱いんだよ」
そこで、ディーズ・カルガが割り込んできた。しかも、やや気持ちの悪いにやけ顔で。
「うるさいぞ、カルガ…」
「なんだかんだで面倒見もいいしな、ベイトは。仏頂面がデフォのくせに孤児たちの人気者なんだ」
「うるさいと言ったはずだぞ」
またおじさん二人で何やらやり合っている感じだったが、先ほどまでよりは好意的に眺めることができた。ほんの少しだけではあるが、この神父さんのことが分かったからだろうか。
「で、お前はどうして、『崩壊』と同じ気配を纏っているんだ」
ディーズ・カルガの台詞は、完全に不意打ちだった。ついさっき聞いたも聞いていた言葉だったというのに。
「別に大した理由はない」
また、素っ気のない口調に戻ったベイト神父だった。縮まった距離が、離れてしまった。いや、ワタシが勝手に縮まったと感じていただけなのかもしれないが。
そこで、ベイト神父は空を指差した。
ワタシたちは、全員がその誘導に従い空を見上げる。
そこには、何食わぬ顔をした青空があるだけだった。
世界の崩壊とも悪魔とも無縁の、ただただ青く広がる空がそこにあるだけだ。
「この世界で大きな未練を抱えて命を落とした者は、空に囚われる」
ベイト神父は厳かな声で語る。
大空に囚われた、囚人たちの悲しい物語を。
「君たちも知っているのだろう、あの、空に囚われた黒い人間たちを。いや、人の名残をしたあの黒い影を」
ベイト神父が語る言葉に、ワタシは沈黙したまま頷くことしかできなかった。
そして、ベイト神父は、さらに語る。
「私の妹も、あの黒い影の中にいる」
詰襟の神父の言葉は、ワタシの世界に小さな亀裂を入れた。