91 『あなたは、小宇宙を感じたことがありますか?』
「間抜けですか…それは、あまり行儀のいい言葉ではありませんね」
ベイト神父は、『間抜け』と言ったワタシをそう窘めた。それこそ、神父のような柔和な言葉遣いで。けれど、それを額面通りに受け取るほど、ワタシだってピュアではない。
「アルテナさまのことを『だらしない体』呼ばわりした人には言われたくないですよ」
ワタシは、ベイト神父に対して眉を顰める。
この神父のお行儀がいいのは上辺だけだ。腹の底では、ワタシたちのことを見下している。いや、それ以前の問題か。おそらく、ワタシたちのことを対等の存在とは認めていない。烏合の衆の塵芥程度にしか認識していないんだ。
「それで、その間抜けというのはどなたのことですか?」
そこで、ベイト神父の圧が増した。ワタシの肌を、その圧が刺す。痺れるように。焦げ付くように。
…これ、ただの神父さんが醸し出していいプレッシャーじゃないよ?
本当に何者なんだ、この人は…。
けど、ワタシだっていつまでも気圧されているだけの子猫ちゃんではない。
「それは勿論、あなたのことですよ…ベイト神父さん」
ワタシの頭の上にいたアルテナさまが、ピクリと動いた。すぐ傍にいた小さなりりすちゃんも、小さく体を震わせる。
「そんな戯言を、どうしてあなたは口にしたでしょうか」
これまでは、ワタシのことなどただの喋る書き割りくらいにしか見ていなかったベイト神父が、そこでワタシを捕捉した。
…この人の中で、ワタシが『敵』となった瞬間だった。
「戯言ですか…戯言というなら、神父さんの言葉の全てがそれじゃないですか」
こめかみを、再び冷たい汗が滴る。そして、今度は冷や汗だけではなかった。ベイト神父の視線は、ワタシの足も震えさせる。
…ちょっと落ち着こうよ、ワタシの足。
この程度の重圧、あの『黒いヒトビト』に比べればそよ風みたいなものじゃないか。ワタシは、そこで深く息を吸う。そして、時間をかけてゆっくりと吐き出した。
さあ、リフレッシュは終わった。ここからは、楽しい楽しいわからせの時間だ。
「…悪魔であるリリスちゃんの封印を解いたのは、あなたですね」
ワタシは、ベイト神父を指差した。まだちょっとだけ指先は震えていたけれど、これは武者震いなのでノーカンだ。
「え、花子…さん?」
りりすちゃんは、驚きの表情を浮かべていた。そして、緩慢な動きでワタシと神父の間で視線を往復させる。
「悪魔のリリスちゃんの封印を解いて、小さなりりすちゃんと一心同体にしたのは、この人だよ」
ワタシは、嚙んで含めるようにゆっくりと語った。りりすちゃんが、ワタシの言葉に置き去りにされないように。
「リリスさんを、私と一緒にしたのが、ベイト神父…?」
りりすちゃんは、ワタシの言葉に衝撃を受けていた。小さく口を開いていたけれど、それ以上の言葉は出てこない。受けた衝撃に感情が追い付いていないからだ。
「言いがかりにしても品性がありませんね。やはり、粗野な人間の言葉など聞くに値しなかったようだ」
言葉を失ったりりすちゃんの代わりに、ベイト神父が皮肉を添えてそう言った。それまでよりも、根の暗い圧を放ちながら。
「…言いがかりかどうかは、ワタシの話を聞いてから判断してくださいよ」
「戯言に耳を貸す必要など、ないと言ったはずです。さあ、行きますよ、次期『教皇』さま」
ベイト神父は、りりすちゃんを連れてこの場を立ち去ろうとするが、りりすちゃんはそれを拒否した。
「私…花子さんのお話が、聞きたいです」
「我儘は許されないと言ったはずですが」
「私は、聞かなければなりません。私が次期『教皇』だというのなら、尚更です」
小さなりりすちゃんは、ベイト神父の威圧に耐えながら言った。肩は小刻みに震えている。爪先だってワタシより震えている。それでも、りりすちゃんは逃げなかった。小さな勇気を、振り絞りながら。そして、その勇気を与えたのは、悪魔のリリスちゃんの存在だ。ちょっとだけ妬けちゃうね。
だから、ワタシは言った。
「こんなに小さな女の子が逃げていないのに、まさか、神父さんともあろうお方がお尻を巻くって退散したりはしませんよね?」
「逃げなければならないことなど、私には何もありませんが」
「では、何も問題はありませんね」
言質を取ったことにして、ワタシは続ける。
あえて大仰に振舞い、この場を劇場に変えて逃げ場を塞ぐ。
「これで舞台は整いました。さあ、存分に空騒ぎを始めましょう。踊る阿呆に見る阿呆ですよ」
しかし、ベイト神父はダンスの気分ではなかったようだ。不機嫌そうな表情を隠そうともしない。けど、その時点で化けの皮は剝がれてるんですよ。
「勝手に舞台を整えられても困るのですけれどね。しかも、私が悪魔の封印を解いた、などと出まかせを吹聴されるのはもっと困ります」
「勿論、出まかせではない根拠はありますよ。あなたは先ほど自分で言ったじゃないですか」
「私が、何を言ったと?」
「好き好んで昆虫を食べるなんて、やはり悪魔だと」
仔細は違ったかもしれないが、今は細かい違いは気にしなくていい。
「…さて、私はそんなことを言ったでしょうか」
「それは、犯人がとぼける時の常套句なんですよ」
ワタシは、壁を作る。この神父を包囲するための、言葉の壁を。
そんな私に、小さくて頼りになる援軍が背中を押してくれた。
「確かに、私も聞きました」
「ほら、りりすちゃんも聞いたと言っていますよ」
ワタシは弱い。りりすちゃんも強くはない。だけど、ワタシたち二人が結束すれば、きっと負けない。だって、ワタシたちをつなげているのは、あのリリスちゃんだ。
「…それで、私がそう言ったとして、それが何になるというのですか」
やや憮然とした表情で、ベイト神父は少しだけ視線を逸らした。
ワタシは、そのタイミングを逃さなかった。
「ベイト神父さん…あなたはどうして、蝉の幼虫を食べていたのが、蜂の子を食べていたのが、リリスちゃんだと知っていたんですか?」
「…どうして、とは?」
「そのままの意味ですよ。本来なら、リリスちゃんが昆虫食を食べていたことは知りえないはずなんです。いえ、知りえないというか、昆虫食を食べていたリリスちゃんが『悪魔』だとは、知りえないはずなんですよ」
さあ、本格的に反転攻勢だ。ここからはちょっとだけ、花子ちゃんウォーモンガーモードだよ。これでもワタシ、怒ってるんだからね。
「知りえないことなどないよ…私は、街中で何度か彼女を見かけていたのでね」
「そうですか、あのリリスちゃんを街中で見かけていたのですか…だから、どうしてそれが『悪魔』だと知っていたのですか?」
語るに落ちたね。
もう放さないよ。
「神父さんは最初にこうも言っていたはずです。悪魔のリリスちゃんを見たことはない、と。それなのにどうして、街中で見かけたというリリスちゃんが、あの『悪魔』のリリスちゃんだと、あなたは知っていたんですか?」
ワタシは、問いかける。それは不可視の蜘蛛の糸となり、この人に絡みつく。
ベイト神父は、抑揚のない声で答えた。絡みつく意図には気づかないままに。
「そんなのは簡単だ。あの悪魔は、次期『教皇』さまと同じ姿をしている。ならば、見かけていれば一目で分かる。あれが、次期『教皇』の体に封じられていた悪魔だったのだ、と。次期『教皇』についていた悪魔のことは、後に説明を受けていたのでね」
「確かに、小さなりりすちゃんも悪魔のリリスちゃんも容姿は同じですね」
悪魔であるリリスちゃんは、ある意味ではこのりりすちゃんの体に『転生』したことになる。だから、姿は同じだ。
ワタシは、そこでまた深呼吸をして、肺を新鮮な空気で満たした。妙に、頭はクリアだった。よし、ちょっと意地悪でもしてやるか。それくらいの意趣返しなら、神さまだって許してくれる。というか、アルテナさまなら熨斗を付けて返してあげなさい、くらいのゴーサインを出すはずだよ。
「ところで、あなたは、小宇宙を感じたことがありますか?」
「コス…なんだと?」
「まあ、ワタシもないんですけど」
「だからそれは何だと言うんだ?」
それまでは平静だったベイト神父の表情に、小さな綻びが見えた。効果はあったようだ。心の中で舌を出しながら、ワタシは何食わぬ顔で続ける。
「二人のリリスちゃんは、年齢がかなり違うんですよ」
「…………」
「こっちのりりすちゃんとあの悪魔のリリスちゃんでは、具体的に十歳くらいの年の差があります。当然、姿形にもそれだけの開きがあります。それだけ違っていれば、『二人は一心同体だった』なんて聞かされても、『この』二人が同一人物だなんて思いませんよ。背丈も外見も違い過ぎますからね。にもかかわらず、あなたは街中で蜂の子を食べていたリリスちゃんを『悪魔』だと断言しました…なぜ、ですか?」
ワタシだったら、悪魔のリリスちゃんとこっちのりりすちゃんを同一人物とは認識しない。
「つまり、あなたは最初からあの『悪魔』のリリスちゃんを知っていたんです。だから、二人の外見に大きな年齢の差があっても、すぐに分かったんですよ」
さあ、仕上げだ。ワタシは、最後の深呼吸をした。その瞬間だけ、世界は静止していた。そして、止まっていた世界は、ワタシの言葉と共に再び動き出す。
「そして、そんなことを知っているのは、このりりすちゃんの中に『悪魔』のリリスちゃんの魂を放り込んだ犯人だけですよ」
ワタシは、『犯人』という言葉をあえて使った。
この神父を、追い詰めるために。
「さあ、どう言い逃れをしますか」
させないけどね、言い逃れなんて。
「言い逃れの必要など、ない」
ベイト神父は、そこで少しだけ顔を伏せた。その表情が、見えなくなる。
そして、神父は口を開いた。見えないその表情のままで。
「確かに、あの悪魔の封印を解いたのは私だ」
「認め…ましたね」
ベイト神父は、そこで告白した。リリスちゃんの封印を解いたのは自分だ、と。
追い詰めていたのはワタシで、追い詰められているのはこのベイト神父のはずだった。にもかかわらず、ワタシの方が固唾を吞んでいた。
ここにきて、またベイト神父の威圧感が、増していた。
…それはそれは、不自然なほどに。
「どうして、リリスちゃんの封印を解いたんですか…」
ベイト神父の威圧を掻き分けるようにして、ワタシは問いかける。
「どうして、りりすの中に悪魔を封じたのか、とは聞かないのかね?」
「それは…」
不意打ちの悪寒が、背中を走った。先刻よりも、確実にベイト神父の威圧感が増していた。いや、重圧の質が変容していた。他者を圧迫する排他の重圧ではなく、他者を蝕むような侵食の重圧が周囲を包む。
…この感覚には、覚えがあった。
けど、どこで感じたものだろうか。知っているはずなのに思い出せないもどかしさに、ワタシは苛まれる。
「…………」
…いや、思い、出した。
この蝕むような重圧を、ワタシが嫌というほど味わっていた。それも、つい先日だ。
「これ…あの、『黒いヒトビト』と、同じ?」
この神父が発していた威圧は、今も空のかなたで苦しみ続けている、あの黒いヒトビトが放っていたあの蝕む感覚だ。
「でも…どうして、この人が?」
あの黒い威圧を放っている?
いや、全く同じというわけではない。というか、あの黒いヒトビトに比べれば、その感覚は随分と希薄だ。あの黒いヒトビトとは、対峙するだけで精神が腐食される。
…しかし、この人はただの人間のはずだ
それがなぜ、希薄とはいえあの黒いヒトビトと同系統の威圧を放っている?
ワタシだけでなく、小さなりりすちゃんは勿論、アルテナさままで体を強張らせていた。
「久しぶりに顔を見たと思ったら、随分と愉快なことになっているな」
そこで声を発したのはワタシではない。今のワタシにこんな軽薄な台詞を口にできる余裕はないし、りりすちゃんも同じだ。アルテナさまとも声が違い、そして、この元凶である黒い神父とも声が違う。
…ならば、ダレだ?
「…………」
ワタシは、声のした方に振り返る。
その声は、ワタシの背後から聞こえてきた。
「いや、愉快なことというか、不愉快なことか」
再び、軽薄な言葉を口にしたのは、ディーズ・カルガだった。
そういえば、ほぼ忘れていたけどこの人もいたんだった。
…だけど、なぜ、今ここでお呼びじゃないこの人がしゃしゃり出てきた?