89 『青き清浄なる世界の為にも!』
「リリスさんを助ける方法は、あるかもしれません」
あの子が口にしたその言葉に、ワタシは、目を疑った。いや、耳を疑った。それくらい、ワタシはその言葉に動転し、混乱していた。喉から手が出るくらい欲しかった言葉が、棚から牡丹餅となって落ちてきたんだ。
そして、ワタシをそこまで動揺させたその言葉を発したのは、りりすちゃんだった。
大きな悪魔のリリスちゃんではなく、小さい女の子の方のりりすちゃんだ。
「それ…本当なの?」
ワタシは、縋るような声で小さなりりすちゃんに尋ねる。真っ白なワンピースを着た小さなりりすちゃんに、縋りつくように近づきながら。
傍から見たら発情した不審者のようなヤバい絵面だったが、今のワタシに世間体を気にする余裕などあるはずもない。
「あの、その、もしかするとリリスさんを助けられるかもしれません…というぐらいの、曖昧なお話なんですけれど」
立ち合い時のお相撲さんのような動きですり寄るワタシに怯えながら、それでもりりすちゃんはそう言った。
そんなりりすちゃんに、鼻息を荒くしてワタシは答える。
「どれだけか細い可能性でも、どれだけか弱くても、光明っていうのは存在しているだけでありがたいんだよ」
本当にありがたかった。悪足掻きをしたくても、二進も三進もいかなかった。四面楚歌の八方塞がりだった。
リリスちゃんを助けたいと息巻いても手がかりはどこにもなくて、そのとっかかりになる足がかりすら見つけられなかった。助けたいという思いだけが空回りをして、乾燥した焦燥だけがワタシの中でとぐろを巻いていた。
「ですが、あの、本当に…リリスさんを助けられるかは、分かりませんよ」
喜色を浮かべるワタシに、りりすちゃんは申し訳なさそうな顔を浮かべていた。骨折り損で終わる可能性の方が高いということは、りりすちゃんの表情を見れば理解ができた。
「それでも、ワタシは藁にだって縋るよ。ああ、ごめんね、藁とか言っちゃったけど、りりすちゃんの言葉を信じてないわけじゃないからね」
浮かれたワタシは、節操もなく不用意な言葉を口にしてしまった。これは要反省だね。失言で炎上した女神さまとかいるからね。ワタシの頭の上にも。
「いいえ、それは別にいいのですけれど…」
そこで、りりすちゃんは口ごもってしまった。当然、気になったワタシとしては問いかける。
「どうしたの、りりすちゃん?」
「あ、ええと、その…私の話を花子さんは信じてくれるんですね、と思いまして」
「もちろんだよ。だって、りりすちゃんを疑う理由がないからね」
というか、ここでワタシを騙すメリットがこの子にあるとも思えない。
「いえ、そうではなくて…『私』が『リリスさん』を『助けたい』という話を、花子さんは信じてくれるのですね、と」
「…ああ、そういうことかぁ」
ワタシはそこで腑に落ちた。先ほどからりりすちゃんが何を気にしていたのか、その理由に得心がいった。
「小さなりりすちゃんからすれば、大きなリリスちゃんって自分の体に勝手に間借りしてる同居人みたいなものだもんね」
もしくは、自分に憑りついた幽霊のようなものがあっちの大きなリリスちゃんである。どちらにしろ、小さなりりすちゃんが好き好んで宿主になる理由はない。このまま悪魔のリリスちゃんが消えてしまった方が、小さなりりすちゃんとしても好都合なはずなんだ。それなのに、小さなりりすちゃんは大きなリリスちゃんを助けたいと願っている。
「本来なら、厄介者以外の何者でもないんだよね、あっちの大きなリリスちゃんって」
「確かにそういう時もあるのですが…いえ、でも、それだけでもないんです」
腕組みをして考え込むワタシに、小さなりりすちゃんは慌てて否定した。
「私は、生まれた時から、リリスさんと一緒でした」
小さなりりすちゃんは滔々と語り始める。小さな手の平を胸に当て、ゆっくりと言葉を探しながら。
「最初からそういう状態だったので、私にとってはリリスさんがいることは自然なことでした。けれど、それが異常であり得ないことだと理解した時には、色々と悩みました」
「りりすちゃん…」
それは、そうだよね。
自分の中に悪魔がいるなんて、普通じゃないはずだよね。
ワタシにとって、リリスちゃんは仲良しこよしの大切なお友達だ。
けれど、それが他の誰かにとっても同じだとは、限らない。リリスちゃんのことを本気で疎む人だって、世の中にはいるかもしれない。その権利を最も持っているのが、目の前のこの子なんだ。だって、自分の体を好き勝手に使われていい気がしないのは当たり前だ。
それでも、りりすちゃんはあのリリスちゃんを…悪魔であるはずのリリスちゃんを助けたいと、言ってくれた。
「リリスさんはずっと、私のことを助けてくれていたんです」
ワタシは、りりすちゃんのその声に耳を傾ける。それは、ワタシの知らないりりすちゃんとリリスちゃんの物語だ。最前列のアリーナで聞きたいと思ってもおかしくないよね。
「私は引っ込み思案で、思ったことも口にできない小心者なんです。なので、学校でも割りと孤立していました。でも、そういう時は、私に代わってリリスさんが上手く立ち回ってくれたりもしていたんです。それだけじゃなくて、アドバイスもたくさんしてくれました。リリスさんのお陰で、私は学校でも一人ぼっちにならなくて済んだんです」
「そうだよ。リリスちゃんは、あれでそこそこ面倒見がいいんだね」
りりすちゃんの話を聞きながら、後方親友面をしてワタシは頷いていたけれど…あれ?
そういえばワタシって、リリスちゃんに面倒を見てもらったことあったかな?
「それだけじゃなくて…昔、私が誘拐されそうになった時も、リリスさんが機転を利かせて助けてくれたんです」
「え、そんなことまであったの…?」
誘拐とは穏やかではない。けど、リリスちゃんのお陰で事なきを得たのか。というか、そんな事件があったなら話して欲しかったなぁ、リリスちゃん。
「だから、私にとってはリリスさんはお姉さんでもあるんです。強くてかっこよくて頼りになる。たった一人のお姉さんなんですよ」
「りりすちゃん…」
「ただ、リリスさんとは感覚などを共有していますので、昆虫食をおやつにするのは止めて欲しいところではありますけど…」
「ああ…確かに虫さんはちょっとおやつとしてはハードル高いよね」
かといって、お夕飯に出てきても敷居が高いんだけど。
「でも、それ以外は本当に素敵な人なんですよ、リリスさんは」
「りりすちゃん…」
なんだ、けっこう上手くやってたんだね、リリスちゃん。ちゃんと、自分で信頼を勝ち取っていたんじゃないか。さっきまでりりすちゃんに対して後方彼氏ヅラを決め込んでいたワタシだったけど、リリスちゃんに関してはこっちのりりすちゃんの方がずっと古参だった。でも、嫌な気分じゃないね。むしろ、嬉し味が倍になった気分だよ。
「だから、私もリリスさんを助けたいんです…こんな、いきなりさよならなんてしたくないんです」
「そうだね…ワタシもだよ」
ワタシは、そこで小さなりりすちゃんに手を伸ばした。りりすちゃんもその手を取る。そんなりりすちゃんに、ワタシはとっておきの笑みを浮かべた。
「これで、ワタシたちは立派な共犯者だね。よりによって悪魔を助けようなんていう人類の裏切り者だよ」
「はい…私も、味方ができて嬉しいです」
「あ、そうか…」
小さなりりすちゃんにも、味方がいなかったんだ。
誰も、悪魔である大きなリリスちゃんの存在を、歓迎していなかったから。
この子だけだったんだ。リリスちゃんを求めていたのは。
そんな中で孤軍奮闘していたんだ、この子は。
ワタシは、そんなりりすちゃんを抱きしめた。
大きなリリスちゃんとは、似て非なるいい匂いがしていた。
「これからよろしくね、りりすちゃん」
「こちらこそ、よろしくお願いします。花子さん」
「じゃあいくよ、青き清浄なる世界の為にも!」
「とりあえず、私はリリスさんが助けられればいいのですけれど…?」
小さなりりすちゃんは、ワタシのテンションとかけ声に目を丸くしていた。
…うん、ちょっとはしゃぎすぎたかな。
たまに距離感を見誤るんだよね、失敗失敗。よし、軌道修正といきますか。
「それで、りりすちゃん。あのリリスちゃんを助けられるかもしれないって言ってたけど…それ、どんな方法なの?」
確かに、この子は言った。「リリスさんを助けられるかもしれない」と。こうして面と向かって話していて分かった。この子は、リリスちゃんに対して不誠実な言葉を口にしたりはしない。きっと、何らかの根拠はある。
「はい、あの…本当に助けられるかどうかは、分かりませんが」
りりすちゃんは、再びそう前置きをした。多分、自分でも不安なんだ。リリスちゃんを助けられなかった時の自分を、想像しているんだろうね。その不安はワタシにも分かるよ、痛いほど。
…ワタシだって、悪い想像しか当たらない人生だったから。
いい想像だってたくさんしたけれど、そうした想像は軒並み空振りだった。ただの一度だって、いい想像が現実になってくれたことはなかった。夢を見なければ始まらない、なんてヒットナンバーは何度も耳にした。だけど、夢を見たところで、始まる前から終わっている人間だって、世界にはいるんだよ。
「…………」
…やばい、ネガティブモードを発動している場合じゃないね。
今は、ワタシがリリスちゃんの代わりにりりすちゃんのお姉ちゃんなんだ。
「りりすちゃん…とりあえず、今はあのリリスちゃんの為に動こうよ。後悔とダイエットなら後からでもできるんだよ」
『ダイエットを後回しにする人は大体ダイエットをやらないタイプの人なのですけれど…』
「うん、炎上するタイプの女神さまは黙っていてくださいね。あと、ワタシの髪の毛で編み物をするのやめてもらっていいですか?」
さっきから、アルテナさまがワタシの髪で何やら編み編みしているのだ。多分これ、手持ち無沙汰だったからだね。
『ああ、すいません、ちょっと無意識に船を編んでおりました。ワタクシ、知的な女神なものですから』
「物理的に船を編もうとしている時点で知的じゃないんですよ…」
あれは瀟洒で前衛的な比喩表現なので、粗忽な女神さまが迂闊に手を出していい台詞ではないのだ。
そんな女神さまが、ワタシの頭の上にはいるのだった。というか、ワタシの視界の端にはディーズ・カルガも映っていた。あっちは面倒くさいから声はかけないけど。
「あの、リリスさんは…ずっと大昔の悪魔さんで、封印をされていたそうなのですけれど」
「うん、そうらしいね」
話し始めたりりすちゃんに、ワタシは相槌を打つ。りりすちゃんの表情は、そこで少し険しくなった。場の雰囲気も、りりすちゃんに釣られたように少しだけ重くなる。
そして、その重い空気の中、りりすちゃんが口を開いた。とても、普通の少女には思えなかった。
そういえば、この子も普通の女の子では、なかったんだ。
次期『教皇』というのが、今のこの子の肩書きだ。
そして、『教皇』さまが言った。
「今のリリスさんって、中途半端だと思いませんか?」
「リリスちゃんが…中途半端?」
…今のリリスちゃんが中途半端って、どういうことだ?
「あ、いえ、今の悪い悪魔として復活してしまったリリスさんではなくて、少し前の、私の体の中にいた頃のリリスさんなんですが…復活が中途半端だったのではないでしょうか」
「言われてみるとそうかもしれないね…」
リリスちゃんは、本来の悪魔の姿として復活したわけではなく、人間の子供の中に潜り込んでこの世界に舞い戻った。その復活が中途半端と言われても仕方ない。
「どうしてそんな状態での復活だったのか、私もずっと考えていたんですけど…」
「あっちのリリスちゃんも、どうして自分が復活したのか分からないって言ってたね」
なぜ、自分が再びこの世界に現れたのか。
そして、リリスちゃん自身で復活を行ったわけではない、とも。
ワタシは、軽く腕を組んで考え込む。
そのワタシに、りりすちゃんは言った。
「おそらく、りりすさんの封印を解いた人がいます」
「リリスちゃんの封印を解いた人間が…いる?」
けど、考えてみればすぐに分かりそうなことだった。封印が可能だということは、逆に、その封印を解くことも可能なんだ。
そして、リリスちゃんが自分で封印を解いたのでなければ、それを、他の第三者が行った、ということだ。
小さなりりすちゃんは、口にした。言葉にした。
その、第三者の面影を。
「リリスさんの封印を解いたのは、『教会』の人物だと、思われます」