88 『歓迎しますよ、盛大にね』
センセーへ。
先生がこの手紙を読んでいるということは、リリスちゃんの意識はきれいさっぱり消えているはずですね。
リリスちゃんは、悪い悪魔として復活しているでしょうから。
それは、リリスちゃんであってリリスちゃんではありません。もしまた先生に会えたとしても、以前のようにお話しすることもできません。
なので、ここに手紙を残します。
先生ならなんだかんだでこの手紙も見つけてくれるでしょうし、歓迎しますよ、盛大にね。
まあ、手紙なんてガラにもないということは、自分でも分かっているのですけれど(笑)。
とはいえ、先生とお話していた内容なんて、殆んどが意味のないものばかりでしたね。
今日は風が気持ちいいだとか、どこそこに新しくドーナツ屋さんができたとか、たまには図書館にも行きましょうとか、先生のお尻がやばいことになってきたので痩せましょうとか。
本当に意味のない、当たり障りのない小さなお話ばかりでした。
なので、リリスちゃんのことなんて忘れてくれても大丈夫ですね。
それでもお人好しの先生は気にするかもしれませんが、先生が気に病む必要なんて何もありません。
リリスちゃんが先生に近づいたのは、単に先生を利用するためでしたから。
覚えていますか、先生が初めてリリスちゃんと出会った時のことを。
初めて会ったあの時、リリスちゃんは先生に『問題』を出しましたけど、先生はあの『問題』に得意気に答えましたよね。お尻が大きいにもかかわらず。
あの時から、ずっと思っていたのですよ。
骨の髄までこの人間を利用してやろう、と。
先生は程よく小賢しくて、その上で頭抜けてちょろかったですからね。ちょうどいいサイズ感でリリスちゃんの手の平の上で踊ってくれると思ったのです。実際、先生はリリスちゃんの言葉に小気味よく振り回されてくれました。
ただ、先生は生意気にも八方美人だったので、あっちこっちにいい顔してリリスちゃんを放置することも多かったのが難点でした。素直にリリスちゃんだけを見てくれていればよかったのですが(怒)。
だけど、先生はリリスちゃんが悪魔だと分かった後でも、リリスちゃんから離れませんでした。
悪魔のリリスちゃんが言うのもなんですが、もうちょっと人を疑うということを覚えてもいいのではないでしょうか。
だって、リリスちゃんは先生を利用していたのですよ。
そもそも、リリスちゃんは悪い悪魔として復活しようといい悪魔として復活しようと、どちらでもよかったのです。
悪い悪魔として復活して、この街で悪さをしてもよかったですし、いたいけな少女…りりすの体を乗っ取って、人間に成りすまして復活してもよかった。
そんなことを考えている本物の『悪魔』だったリリスちゃんに、先生はずっと騙されていたんです。これっぽっちもリリスちゃんを疑うこともなく。
リリスちゃんが出会った人間の中には一人もいませんでしたよ、先生みたいな底抜けの甘ちゃんは。
先生と初めて会ったのはあの時でしたけれど、実は、リリスちゃんは以前から先生のことを知っていました。何度か街中で見かけていましたので。
先生は目立つ容姿ではありませんでしたが、リリスちゃんは見かけるたびに先生のことをよく見ていましたよ。先生は大体は、間の抜けた顔で食べ歩きをしているだけでしたけれど。
でも、そんな先生だからこそ、誰かを騙したり陥れたりは一切しませんでした。ここまで頓馬で純朴な人間もいるのかと、悪魔であるリリスちゃんは呆れていましたよ。
なので、甘ちゃんの先生にはこれ以上、甘えるわけにはいきませんでした。
リリスちゃんにも悪魔としてのプライドがありますからね。
だから、リリスちゃんはここでお終いにすることにしました。
おそらく、悪い悪魔として復活したリリスちゃんを『教会』は祓おうとするはずです。過去にも、リリスゃんを悪い悪魔だと決めつけて封印した人たちですし、リリスちゃんをこのまま放っておくはずはありません。
けど、元々この世界に未練なんてありませんし、祓われて困るリリスちゃんでもないんです。消滅してせいせいするくらいですよ。
ただ、まあ、最後に先生にだけは伝えておこうと思い、こうして置手紙をしておきます。
さようなら、先生
追伸
甘いものばかり食べてはいけませんよ。ちゃんと運動と歯磨きもしましょうね。
「…………」
リリスちゃんの手紙の最後には、そう認められていました。
いえ、手紙の最後には、もう一言だけ書かれていましたが、そちらは斜線で消した跡がありました。
でも、完全には消えていなかったので、目を凝らすと読むことができました。
きえたくない
斜線の下には、そんな6文字が小さく書かれていました。
小さいけれどその文字は、少しだけ強い筆圧で書かれていました。
小さいけれど、けして小さくはないリリスちゃんの本音が、そこに隠されていたのです。
「…………」
ワタシは、リリスちゃんの手紙を抱きしめて、泣いていた。
声を抑えようとしていたのに、それらは嗚咽となっていくらでも溢れてくる。
ワタシの胸中では、処理しきれない感情が渦を巻いていた。
…この手紙が残されているということは、もうリリスちゃんには会えないということだ。
その覚悟を、リリスちゃんはこの手紙に込めていた。
でも、リリスちゃんは、ずっと自分の消滅に怯えていた。
それなのに、リリスちゃんはあの小さなりりすちゃんの体を乗っ取ろうとは、微塵も思っていなかった。
だから、自分が消える前に、リリスちゃんはワタシに手紙を残したんだ。
最後に、ワタシに、さよならを伝えるために。
消滅の怖さに、怯えながら。
そんなリリスちゃんに、ワタシは、気づかなかった。これは、愚かと言われても仕方がない。
「リリスちゃんは…何も悪いことなんて、していないんです」
リリスちゃんは、生粋の被害者だ。
無粋な運命に翻弄された、被害者だ。
「それなのに、心ない人たちに騙されて封印されて、またこの世界に戻ってこられたと思っても、今度は悪い悪魔だって祓われそうになって…リリスちゃんが悪魔だったら、そんなにいけないんですか?」
ワタシの声は、嗚咽で声になっていなかった。
それでも、アルテナさまは静かに聞いてくれていた。
「どうして、そこまで…寄ってたかって、リリスちゃんに意地悪をするんですか」
誰だって、意地悪なんてされたくないはずなのに。
どうしてそれを、他のダレカにできるのだろうか…。
『花子さん…』
そこで、頭上のアルテナ様が、ゆっくりと口を開く。
「それは、人間が自分より優れた存在を毛嫌いするからだよ」
けれど、言葉を発したのはアルテナさまではなかった。
酷く気に障る声で言ったのは、ディーズ・カルガだった。
「あなただけは、お呼びじゃないんですけど…」
涙を拭いながら、ワタシは言った。
よりにもよって、このタイミングでこの人が出てくるのか。
「そう言わないで欲しいね。花子くんに伝えなければならないことがあるんだ」
「…どうせろくなことではないでしょ」
「リリスのことだよ」
ディーズ・カルガの言葉に、場の密度が増した。
増加したその密度が、この場を歪める結果となったけれど。
「リリスは、自ら望んで悪い悪魔として復活したんだ」
「そんなわけ…ないでしょ」
悪い悪魔として復活すればどうなるかなんて、リリスちゃん自身が一番よく理解していた。
けれど、ディーズ・カルガは白々しい台詞を口にする。
「本当だよ、リリス本人から頼まれたんだ」
「…だから、リリスちゃん本人が自分の消滅なんて望むわけないでしょ」
そんなリリスちゃんが、あんな手紙を残すはずがない。
あれは、ワタシに対するSOSだ。ワタシは、あの手紙をもっと早く見つけないといけなかったんだ。
「花子くんも、もう知っているはずだ。リリスが悪い悪魔として復活しなければ、小さなりりすが消滅してしまう、と」
ディーズ・カルガは、言葉の楔を打ち込んだ。
ワタシは、二の句が継げなくなる。
そして、ディーズ・カルガはさらに畳みかけてくる。
「いつまでも、あの子の小さな体の中にリリスは存在できなかった。小さなあの子の精神が侵食され、最後には悪魔のリリスの精神に圧し潰される」
「…分かって、いますよ」
ワタシの声は蚊が鳴くよりも小さく、音として成立していなかった。
「あれでも、リリスは小さなりりすのことをずっと気にしていたんだよ。だからこそ、リリスは自分の意識が消滅すると分かっていても、悪い悪魔としての復活を望んだ」
「分かってるって…言ってるじゃないですか!」
もっと論理的に反論したかった。ぐうの音も出ないくらい、この人を言い負かしてやりたかった。けど、ワタシは感情的な声を上げることしかできなかった。
そんなワタシに、ディーズ・カルガは言った。小さな子供でも、諭すように。
「それに、リリスも最後に楽しんだはずだ。花子くんという友達に出会えて」
ディーズ・カルガの声は、静かで冷たかった。
その冷たい声が、ワタシを浸す。
「リリスにとって花子くんは、最後に与えられた祝福だったんだよ」
「勝手に、リリスちゃんの物語を締めくくらないでくださいよ…」
これで終わっていいはずがない。あんな終わりがあっていいはずが、ないんだ。
だって、早すぎるよ。
リリスちゃんの生きた証が、まだ何にも残っていないじゃないか。
「しかし、『教会』は動き始めている」
ディーズ・カルガの声は、さらに冷える。
冷たい熱で、火傷しそうなほどに。
「あの組織が動いている以上、リリスは遠からず、祓われる」
慈悲の欠片もない台詞を、ディーズ・カルガは口にした。
「でも、リリスちゃんは…悪いことなんて、何もしていないじゃないですか」
白か黒かでいえば、潔白と判断していいはずだ。
「…一応、リリスには私が半殺しにされているのだけどね」
「あなたは自業自得なのでノーカンです」
この人に、どれだけワタシが振り回されたことか。今だってこの人は包帯姿だったけれど、同情なんてする気にはならない。
「しかし、リリスが悪事を働いたかどうかは、『教会』サイドには関係がないんだよ」
「…それ、どういうことですか」
ディーズ・カルガの言葉に、ワタシは少なからず動揺する。何も悪いことをしていないのに、リリスちゃんは祓われようとしているのか?それを、神さまの使徒たちが行おうとしているのか?
「『教会』には、リリスを祓わないといけない理由があるんだ」
「だから、何なんですか、それ…そんな理由、あっていいはずがないんですよ」
「その理由は、りりす本人だよ」
ディーズ・カルガは、簡素な言葉でそれだけを言った。
その言葉が、さらにこの場から熱を奪う。
「…どっちのリリスちゃんですか」
イントネーションだけでは、分からなかった。
「本来のりりすの方だ。あの子は、次期『教皇』だ」
「…『きょうこう』?」
耳慣れない言葉に、ワタシはオウム返しをすることしかできなかった。
「『教会』の次期最高責任者ということだよ。あの、小さなりりすは」
「え…そんなこと、どっちのリリスちゃんも言ってませんでしたよね」
それに、小さなりりすちゃんは、年相応の小さな女の子にしか見えなかった。
「決まったのは最近だしね、りりす本人にも知らされていなかった」
「小さなりりすちゃん…そんなすごい家柄の子だったんですか」
「いや、『教皇』は家柄なんかで決まるものじゃない。りりすは、『教会』の託宣で選ばれたんだ」
「あの、小さなりりすちゃんが…でも、それが大きなリリスちゃんを祓うこととどう関係があるんですか」
「時期『教皇』に悪魔が取りついていたなんて、『教会』からすれば醜聞以外の何物でもないだろう?」
「あ…」
ディーズ・カルガの言葉に、ワタシは何も言えなくなってしまった。いや、『教会』のやり口に閉口していた。
「そんなことが明るみに出れば、託宣を下した現『教皇』の沽券にかかわる」
「…だから、リリスちゃんを排除するというわけですか」
悪魔とはいえ、たった一人の女の子をみんなでこの世界から追い出そうとしている。それが、全面的に罷り通ろうとしている。
「リリスちゃんは、みんなの仲間に入りたかっただけなのに…」
たったそれだけの、小さな願いがあっただけなのに。
その仕打ちは、あまりに残酷だ。
「それが、『教会』という組織だよ」
訳知り顔で、ディーズ・カルガは語っていた。
その表情に、ワタシは苛立ちを覚える。これまでとは違う、心の芯からせり上がってくる苛立ちだった。その苛立ちをワタシは言葉にした。こんなことをしても、何の意味もないと知りながら。
「…やけに詳しいんですね」
「私も、元々は『教会』で神父をしていたからね。とっくに破門されてしまったけれど」
「あなたが…神父?」
何の冗談だ?
けど、その意外な経歴を聞いたワタシは、少しだけ平静を取り戻した。今は、この人に振り回されている場合ではない。
「とりあえず…リリスちゃんが助かる方法を、知りませんか」
頼る相手がこの人というのはワタシとしても心外だが、元とはいえ『教会』の人間というのなら何かしらの対策くらいは知っているかもしれない。
「すまないね、私では思いつかない」
「…そうですよね」
期待をしていたわけではないが、ディーズ・カルガの言葉に落胆してしまった。
けれど、ディーズ・カルガの言葉はそこで終わりではなかった。
「しかし、この子ならどうだろうか」
「この子…?」
どの子だろうか?
ディーズ・カルガの視線が向かった先に、ワタシも視線を向ける。
「りりす…ちゃん?」
そこにいたのは、小さなりりすちゃんだった。
ワタシは、りりすちゃんに声をかける。
「どうしたの、こんなところまで…」
「あの、私も…リリスさんを、助けたくて」
小さな、鈴の鳴るような声で小さなりりすちゃんはそう言った。
小さな手をぎゅっと握り、その意思を示した。
ワタシは、そんな小さなりりすちゃんに問いかける。
「でも、いいの…?」
あの大きなリリスちゃんは、この小さなりりすちゃんの精神を仮宿にしていた。それだけじゃない。あのまま大きなリリスちゃんがこの子の中にいた場合、この子の精神はあっちのリリスちゃんに圧し潰されていた。
それなのに、この子は悪魔であるリリスちゃんを助けたいと、口にした。
「はい…」
小さな瞳でしっかりとワタシを見据え、りりすちゃんはその意思を示した。
「だけど、あのリリスちゃんは…あなたにとっては」
その先は、言えなかった。
おそらくこの子だけは、世界の中でただ一人、あのリリスちゃんを糾弾できる権利を持っている。
「リリスさんは確かに悪魔なのでしょうけれど、それでも、リリスさんは私のことを色々と助けてくれていたんですよ」
「そうだったの…?」
あのリリスちゃんが、この子を助けていた?
「はい…なので、私もこのままリリスさんとお別れは嫌なんです」
小さな少女は、小さく微笑んだ。その微笑みは小さかったけれど、けっして小さくはなかった。
だって、教えてくれたから。
この世界に、リリスちゃんの味方がいるのだろういうことを。
「でも、ごめんね…ワタシじゃあ、リリスちゃんを助けてあげられない、かも」
ワタシは、項垂れながらそう言うしかなかった。
口ではあれこれ言っておきながら、具体的な方法が浮かばない。
しかし、そんなワタシの代わりに、小さなりりすちゃんが言った。
「それなら、何とかなるかもしれません」
「…え?」
「リリスさんを助ける方法、あるかもしれません」