85 『ワタシの好きな言葉です』
『生け贄なら、既に捧げられていたはずなんです』
物静かな声で物騒な言葉を口にしたのは、『邪神の魂』が人の姿をなした、『花子』だった。
この『花子』の言葉が真実ならば、世界はとっくに終わっている…ことになる。
あの『黒いヒトビト』に生け贄をくべることで、この世界は崩壊させられるからだ。
しかし、この世界は崩壊していない。今もこうして存続していた。
そんな中、『花子』が唐突に口にした。世界を崩壊させるための生け贄は、既に捧げられていた。と。
窒息しそうなほど逼迫したこの状況下で、意味もない嘘を『花子』がつくとも思えない。というか、そもそもこの子には嘘をつくという発想そのものがないのではないだろうか。『花子』という少女は、良くも悪くも淡泊で純朴だ。
「…………」
いや、つまみ食いがバレた時、この子は『花子サンに唆されました』とか嘘をつきやがったわ。つまみ食いの首謀者は『花子』だったのに、何の躊躇いもなくワタシをスケープゴートりやがったわ。ちゃっかり自分だけ減刑されてやがったわ。
…それでも『花子』は、ついていい嘘とついてはいけない嘘の区別くらいはついているはずだ。
「その生け贄って…前回の『世界の崩壊』の時の話なんだよね?」
確認の言葉を投げかけたのは、ワタシだ。ワタシ以外のみんなは、『花子』の言葉をまだ嚥下できずにいた。
その『崩壊』は、いつでも引き起こせるものではないらしい。黒いヒトビトの呪詛が極限まで高まっている状態でなければ、あのヒトたちはこの世界に顕現できない。
そして、その呪詛の高まりには一定の周期があるのだそうだ。過去、幾度かあの黒いヒトビトは顕現しているけど、『魔女』であるドロシーさんが本気で生け贄を捧げようとしたのは前回だけだ。なら、『花子』の言う『生け贄が捧げられた』のは、その時ということになる。それももう、何百年も前のことになるのだけれど。
『はい、そうです』
ゆっくりと、『花子』は頷く。その静謐な声は、誠実さを感じさせた。
『ですが、その『前回』の時も、このソプラノは崩壊には至っていませんよ』
アルテナさまの言葉は、言外に『本当に生け贄は捧げられたのか?』というニュアンスを含んでいた。女神であるアルテナさまとしては、その確認は絶対に必要なものだった。
アルテナさまは、この発言の後でロンドさんに視線を向けていた。アルテナさまの言によれば、ロンドさんはアルテナさまの先代の女神さまということになる。
そして、その先代の女神さまは、前回の世界の崩壊を喰い止めた代わりに、行方知れずになっていた。
いや、先代の女神さまが犠牲になったからこそ、前回の『世界の崩壊』は防がれたと思われていた。
しかし、『花子』の言葉が真実ならその『前提』が崩れることになる。
『はい。わたしはそれを、見た…のだと思います』
最後は少し曖昧な言い方をしていたが、『花子』の瞳は真っ直ぐだった。
その無垢な瞳が、雄弁に物語る。生け贄は捧げられていた、と。
「どんな、儀式だったの…?」
ワタシは、『花子』に問いかける。
残酷な言葉で。
『ええと、その、一人の少女が大きな岩の上で眠りについていて、その少女を、宙に浮いた光が、吸い込みました…』
儀式の詳細について、『花子』が語る。ただ、言語化が難しいのか、『花子』は少ししどろもどろだった。けど、状況はワタシにも理解できた。だからこそ、ふと思った。
「いや、ちょっと待ってよ…?」
…それは、ありえないはずじゃあ、ないの?
ワタシは、遅蒔きながらにその『ありえなさ』に気付いた。
その疑問を、そのまま口にする。
「ねえ、どうして…『花子』が生け贄の儀式のことを知ってるの?」
…なぜ、『花子』がその時の光景を知りえることができた?
『なんとなくですが、頭にその光景が浮かんだのです…かなり不鮮明でしたけれど、あれは、わたしが実際に目の当たりにした記憶だと思います。正確には、わたしというよりも『邪神』が見た光景なのでしょうけれど』
自信はなさそうだったけれど、それでも『花子』は語った。自分は…『邪神』は生け贄の現場に居合わせていた、と。
「そう、『花子』が…」
この子が見たという記憶は、実際に『邪神』が目にした光景だ。当時、『邪神』はまだ『邪神』ではなかったけれど。
その時の記憶が、『花子』にも受け継がれていたのか…というか、『邪神』の記憶が逆流しているようなものか。
しかし、そこで生け贄の少女を助けるために最後の力を使い果たし、『邪神』は『邪神』に身を窶してしまった…と、ワタシは聞いた。
『あの時、私を助けてくれたのは『邪神』さまでした…いえ、『邪神』さまが駆けつけてくださったところで、私は気を失ってしまいましたし、その岩の上で眠らされていたことなどは記憶にありませんが』
生け贄の少女本人であるロンドさんが、『花子』の言葉は真実だと証言した。
しかし、ワタシの中には小さな違和感が生じていた。
いや、違和感と呼べるほど形にはなっていなかったけれど。
ワタシは、その模糊とした違和感を脳内でつなぎ合わせる。それらは歪な継ぎ接ぎだったけれど、ある程度の形を成した。そこで、ワタシは『花子』に声をかける。
「…『花子』は、女の子が生け贄に捧げられるところを目撃したんだよね」
でも、それは、裏を返せば。
「だとすれば、『花子』は…『邪神』は、その儀式の阻止には間に合わなかったって、ことなんじゃないの?」
生け贄が捧げられたというのなら、そういうことになる、はずだ。
先ほど『花子』本人が証言していた。『光の中に少女が吸い込まれた』と。
…ああ、そうか。
いや、だから、『花子』は最初からそう言っていたじゃないか。
『生け贄は捧げられていた』と。
でも、生け贄は捧げられても、この世界は今も、壊れてはいない。
…それは、なぜだ?
一つ、息を大きく吸い込んだ。肺の中の空気を、全て入れ替える。
けれど、どれだけ新鮮な空気を取り込もうと、ワタシの頭は茹ったままだ。
まずいなぁ、頭が働いてないよ。
「…こんなんじゃあ、ダメだよね」
小さくな吐息と共に、小さな弱音も吐いた。
こんな体たらくじゃあ、ダメなんだ。
…でも、ワタシには、世界なんて救えない。
それは分かっている。身の程なんて、嫌というほど知っている。
…けれど、それを言い訳にできないことも、ワタシは知っている。
世界というのは、基本的にワタシのことなんて見向きもしない。
ワタシがどれだけ苦しんでいても泣いていても、世界は手を差し伸べてはくれなかった。
だから、ワタシは世界を呪っ…。
「…いや、違う違う、そうじゃない」
それは、あの黒いヒトたちも同じだ。
…というか、ワタシ以上にこの世界を呪っているのが、あのヒトたちなんだ。
あのヒトたちを前にしたら、泣き言なんて、言えるはずもない。
「ねえ、『花子』…その生け贄の女の子って、ロンドさんだったの?」
軌道修正をするために、ワタシは『花子』に問いかける。
ワタシからそう言われた『花子』は、ちらりとロンドさんに視線向け、そこからさらに考えこんでから答えた。手探りで答えを探すように、ところどころで立ち止まりながら。
『いえ、違います…生け贄の少女は、こちらの方ではありません。わたしの記憶は曖昧で、そもそも、あてにしていいものかどうか、分かりませんが』
「そう…やっぱり違う、んだね」
ワタシは感情を殺したまま、小さく呟いた。
ロンドさんは、生け贄の少女だった。けれど、その儀式の後で、ロンドさんは別人の体で目を覚ました。それ以来、ロンドさんはずっと他人の体のままで生きている。
それが意味するところは、一つしかない。
『あの方なら…クリシュナさまならば、使えたはずです』
唐突に口を開いたのは、ワタシの頭の上にいるアルテナさまだ。
ワタシは、そんなアルテナさまに問いかける。そこにある答えに、薄々は気付きながら。
「何が…ですか?」
『自身と他者の精神を入れ替える秘術が、です』
アルテナさまの声に、場の全員が沈黙した。みんなも、分かっていたからだ。
その生け贄の儀式の渦中で、何が起こっていたのか。
分厚い沈黙の帳が下りた中、言葉を発したのはロンドさんだった。
『自分と相手の精神を入れ替える秘術か…そうなると、私の元の体は既に生け贄として捧げられていた、ということか…その直前に、この体の持ち主である女神さまが、私を助けるためにその秘術で精神を入れ替えた、と』
結論としては、そういうことになるのだろう。
だからこそ、世界の崩壊も起こらなかった。本来の生け贄であるはずのロンドさんではなく、精神が入れ替わった女神さまが生け贄として捧げられてしまったから。
…いや、本当にそれで崩壊は起こらなかったのだろうか?
「でも、精神が入れ替わっていたとしても…生け贄が捧げられたのなら、この世界は崩壊しているはずじゃないんですか?」
ワタシは、浮かんだ疑問をそのまま口にした。もう少しオブラートに包むべきだったかもしれないが、その余裕はなかった。
そんな不躾な質問に答えてくれたのは、アルテナさまだ。
『ワタクシとしても、その儀式について詳しく知っているわけではありませんが…崩壊が起こらなかったということは、生け贄となる少女には何らかの『条件』が必要だったのではないですか?そして、二人が入れ替わっていたためにその条件を満たせなくなってしまった、と』
「条件…ですか」
儀式について詳しくないのはワタシも同じなので、そんな相槌を打つことしかできなかった。
本当に、ワタシにはできないことばかりだ。
…ここに同席している資格が、あるのだろうか。
『分かっては、いたんだけど…そうか、私の体は、とっくの昔になくなっていたのか』
ロンドさんの瞳からは、灯が消えていた。俯き加減で、声もかすれている。
『いや、あの儀式から何百年も経っているからね…そりゃ、覚悟はしていたよ』
でも、やっぱりきついなぁ。
ロンドさんは、溜め息とともにそう呟いた。
その呟きは、ロンドさんの深い深い部分から、吐息と共に吐露されたものだ。何百年も溜め込んだ溜め息だ。それが深くないはずはない。
当然、ワタシたちは何も言えない。ロンドさんが失ってしまったモノを、ワタシたちが補填できるはずもないからだ。
『まあ、とっくに終わっているはずのことだからね…これも踏ん切りだと、割り切るしかないね』
ロンドさんは、薄く笑った。それは薄氷よりも薄くて透明だったけれど、だからこそ、儚さと同時に強さを感じてしまった。
『今は…世界の崩壊とやらを防ぐことを考えないといけないね』
ロンドさんの笑みはやはり薄かったけれど、少年のような明るさもそこにはあった。もしかすると、元々のロンドさんはそうやっておしゃまに笑う女の子だったのかもしれない。
『というわけで何かアイデアはありませんか、花子さん』
「ワタシ…ですか?」
ロンドさんからアイデアを求められたけれど、ワタシは即答できなかった。でも、何かを言わなければと言葉を振り絞る。それでも、出てきたのはただの言い訳と泣き言だけだった。
「ワタシ、なんて…大した能力もありませんし、何もできませんよ」
先刻からずっと、ワタシはただの傍観者でしかなかった。
アルテナさまがあれだけ血を流していても、ワタシには何もできなかった。
けれど、そんなワタシにロンドさんは言った。
『だからこそ、ですよ』
「…だから、こそ?」
『弱さを自覚している人ほど、足掻くものです。そういう人ほど足掻くことが上手く、活路というものはそういう人にだけ見つけられるのです」
ロンドさんは、諭すように語っていた。そういえば、この人は教祖さまだった。本人は認めていないけれど、それでもずっと教祖さまをやってきた。こういうことが言えるからこそ、人が集まってきたんだろうね。
「活路…ですか」
この窮状の現在、そんなものがあるだろうか。相手は、この世界を根こそぎ呪うヒトビトの集合体だ。誰にも看取られなかった怨嗟が、蝗害のように空を覆っていた。あの時の畏怖が、再びワタシの中で鎌首を擡げる。
…あれは、怖かった。
そんな恐怖に怯えていたワタシを、ロンドさんは暖かい瞳で眺めていた。
信じて、くれているのだろうか。こんな、無力なワタシのことを。
…だとすれば、ワタシはその信頼に応えたい。
何もできないワタシだからこそ、何かができると信じたい。
これからも、みんなと一緒にご飯を食べるために。
「もし…本当に活路なんてものがあるとしたら、それは、ドロシーさんではないでしょうか」
ワタシの口から出たのは、苦し紛れに出てきた出まかせのような言葉だった。
あの黒いヒトビトと心中することすら厭わないドロシーさんは、既に本物の『魔女』となっている。
…それでも。
「一縷の望みかもしれませんが…世界の崩壊を引き起こすのも起こさないのも、ドロシーさん次第だと思うんです」
『だから、あの方に思いとどまってもらおうということでしょうか…』
ワタシの言葉を引き継いだのは、アルテナさまだった。基本的に察しがいいんだよね、この女神さまは。まあ、普段はその察しの良さが発揮される前に何かしらをやらかしてしまうのがこの人(?)なのだけれど。
「ドロシーさんは、あの黒いヒトビトの想いを…無念を、一身に背負っています。でも、裏を返せば、あれだけの無念を背負いながらまだ真っ当でいられるのは、それだけドロシーさんが情に厚いからです」
少なくとも、ワタシの目にはそう映った。
そもそも、あの黒いヒトビトの『痛み』を共有できることが、尋常ではない。ワタシだったらとっくに発狂して、この異世界を滅ぼしている。
それでも、ドロシーさんは狂ってはいなかった。あの黒いヒトビトと世界の間で板挟みになりながら。
だから、ワタシは言った。
「だとすれば、ドロシーさんの説得も可能かもしれません…あの黒いヒトビトの無念を、何とかすることができれば、ですけれど」
『あの方々の無念を、ですか…』
「だって、アルテナさま…あのヒトたちは、世界の被害者ですよ。それを力でどうこうするのは、違うと思うんですよ」
これ以上、あのヒトたちを歴史の被害者にしてはいけないんだ。被害者のままで、終わらせてはいけないんだ。
それはただの安い同情だったのかもしれないけれど、同情に貴賤があるはずもない。同じ痛みを知っているワタシたち『転生者』だからこそ、かけられる同情があるはずなんだ。
「あのヒトたちの無念を何とかすることができれば、『魔女』であるドロシーさんも説得に応じてくれるかもしれません」
『なるほど…』
「勿論、一筋縄ではいかないはずです…けど、足掻かないと何も始まりませんから」
そこでワタシはとある言葉を思い出し、口に出していた。
「今日を足掻くのは、広がる未来のために…ワタシの好きな言葉です」
性質の悪い病魔に蝕まれていたワタシには、その足掻くことすらできなかった。
だからこそ、今度は足掻いてみたい。
あのヒトたちのために、少しでも。
それが、ほんの一瞬だけとはいえ、あのヒトたちの痛みとシンクロしたワタシの想いだ。
「なるほどなるほど、そのご高説は痛み入るね」
そこで聞こえてきた声は、これまでにこの場で聞こえていた声とは異質だった。その声は、ワタシたちとは完全に別の方向を向いているようだった。
「…そういえば、あなたまだいたんですか?」
ワタシは険のある瞳であのヒトを見た。けど、無理はない。
だって、そこにいたのは、ディーズ・カルガだったからだ。
これまでにも、リリスちゃんのフィアンセを自称していたりとワタシの周囲を好き勝手に引っ掻き回してくれた元凶だ。その元凶が、まだこの場にいたのだ。そりゃ、ワタシだってしかめっ面になるというものだよ。
「何かワタシに用でもあるんですか?」
ワタシとしては、今すぐにでもぶぶ漬けでもご馳走してあげたい気分だった。
「いや、最後に一言だけ言わせてもらおうかと思ってね」
部屋の壁際で腕を組んでいたディーズ・カルガは、そこで鷹揚に両手を広げて見せた。
そんなディーズ・カルガに、ワタシは問いかける。本当は、無視をしていたかったけれど。
「…何ですか」
「花子さんは、そうやってなんだかんだと言いながら世界を救ってしまいそうだね。いやいや、立派なものだよ。さすがと言っていい」
ディーズ・カルガは、不敵に笑っていた。ワタシを小ばかにしていることは、その声から容易に判断できた。
「最後に言いたいことってその嫌味ですか?」
「ああ、さっきのは別口だよ。本当はこう言いたかったんだ。『花子さんはそうやって世界を救いながら、リリスを見殺しにするんだろうね、と」
ディーズ・カルガの瞳は、不敵に笑っ…笑っては、いなかった。