82 『ソンナコトナイデスヨー』
世の中なんて、知らないことだらけだ。
いや、知っているつもりになっているだけの、知ったかぶりの知らないことだらけだ。
それは、なまじ危うい状態ともいえる。生兵法は大怪我の…というヤツだ。
自分は知っているつもりなのだからと足元に対する配慮や思慮が疎かになり、危険地帯に片足を突っ込んでいても、そこが危険だという認識ができない。
けれど、ワタシは弱い。
人間という弱い生き物の中でも、特にワタシなどはか弱くて脆い。そんなワタシだからこそ、危険に対しては鋭敏だった。
…鋭敏だった、はずなのだけれど。
この場で展開されている危険が、どういう類の危険なのか、ワタシにも判断ができなくなってきた。
それほど得体の知れない混沌が、この場では鎌首を擡げている。
『クリシュナ…さま?』
女神であるアルテナさまが、小さくそう呟いていた。
それは、ワタシも知らない名だ。
どれだけ深手を負っていても、アルテナさまは不敵に笑っていた。
胸に風穴が開いていても、アルテナさまはそのスタンスは崩さなかった。
にもかかわらず、あの人が…タタン・ロンドさんが現れてから、アルテナさまの表情は一変した。
表情を変え、その名を口にしていた。
クリシュナさま、と。ロンドさんに、向けて。
…その名は、誰のものだ?
「アルテナ…さま」
だから、ワタシはアルテナさまの名を呼んだ。ロンドさんについて聞きたくて。
けれど、ワタシの声はアルテナさまには届かなかった。耳には届いていたかもしれないが、アルテナさまの意識には届いていない。たったそれだけのことなのに、ワタシは疎外感を抱いてしまった。
『どうして、この世界に…?』
アルテナさまは、再び呟く。
アルテナさまの視線の先には、ロンドさんしか映っていない。その片隅にも、ワタシはいない。
いや、ここで重要なのはそこじゃない。いつまでも幼稚に拗ねている場合ではない。
…今、アルテナさまは何と言った?
どうして、この世界に?
どうして、アルテナさまはロンドさんにそう尋ねた?
そう尋ねた、その理由はなんだ?
「…………」
…おそらく、アルテナさまとロンドさんの間に面識はある。
アルテナさまの表情や口調から、その判断はできた。
しかし、アルテナさまが発した言葉が、奇妙だった。
どうして、この世界に?
先ほど、アルテナさまは確かにそう口にした。
本来なら、この場面でその言葉が出てくるはずは、ない。
最初から、ロンドさんがこの世界にいたのなら。
「そういえば、ドロシーさんが…」
以前、『魔女』であるドロシーさんが言っていたことを、ワタシは思い出していた。
ロンドさんと出会ったとき、ドロシーさんはロンドさんのことを、こう呼んでいた。
…『女神』と。
あのロンドさんが、『女神』?
それは、『どこ』の、女神さまだ?
ワタシには、女神さまの知り合いはアルテナさましかいない。ワタシたちをこの異世界に転生させてくれた、女神アルテナさましか。
そして、そのアルテナさまが、先ほどロンドさんをこう呼んでいた。
『クリシュナさま』と。
なぜ、アルテナさまは、人間であるはずのロンドさんを、『さま』付けで呼んでいた?
…その必要が、あるからか?
「…………」
…ワタシの中で、ピースが揃い始める。
そこで、ロンドさんに視線を向けた。
ロンドさんは、露骨に憔悴していた。
目の周りには隈ができていたし、血の気も失せている。髪にも潤いがなく、肌も荒れていた。
そして、ロンドさんは魔女だけを睨みつけていた。
やや落ち窪んだ眼窩は、幽鬼そのものだ。
とてもではないが、女神さまの姿には、見えなかった。
「またあなたですか」
魔女であるドロシーさんは、嘆息しながら呟いた。ロンドさんに対し、本当に興味がなさそうに。
『そっちに用がなくても、こっちにはある。それとも、生け贄に失敗した私にはもう用がないってことか?』
髪や肌と同様に、ドロシーさんの声にも、潤いはなかった。焦燥が、そのまま声として表れていた。
「だから、私はあなたを生け贄にしたことはないはずなのですが」
ドロシーさんは断言した。
ロンドさんを生け贄に選んだことはない、と。
『この期に及んですっとぼけるなよ…切なくなるじゃないか』
切なさとは無縁の激高の瞳で、ロンドさんは『魔女』をねめつける。
対峙する『魔女』と『女神』の間には、相互に齟齬が生まれていた。
ロンドさんは、『女神』ではなく源神教と呼ばれる教団の教祖さまだ。
しかし、ただの教祖さまではない。『魔女』であるドロシーさんに、生け贄にされかかった過去を持っている。その時は失敗に終わったけれど、成功していれば、異世界ソプラノはその時に消滅していた。あの、黒いヒトビトに根こそぎ滅ぼされて。
けれど、ロンドさんもただ無事だったわけではない。生け贄という虚ろな末路は回避できたけれど、その後で目覚めたロンドさんは、ロンドさんではなかった。
…自分の体を、失ってしまったんだ。
そして、全くの別人の体が与えられたまま、何百年もの長い時間を、ロンドさんは生きている。
自分がどこの誰かも、分からないままに。
「…………」
そんなロンドさんを、『魔女』は『女神』と呼んだ。
そして、『女神さま』であるアルテナさまは、ロンドさんを『クリシュナさま』と呼んだ。
ワタシの中で、点と点が線につながる。
アルテナさまには、先代の『女神さま』がいた。
その『女神さま』は、世界を滅ぼそうとした『魔女』との戦いの最中、行方が分からなくなっていた。
「ロンドさんは、アルテナさまの前任の、『女神さま』…?」
つながった線は、粗雑な図形を描いていた。
その図形を、ワタシは口にした。
『私が…女神?』
落ち窪んだ眼窩で、ワタシを見た。
ロンドさんが。女神さまが。クリシュナさまが。
『いや、私は、源神教の教祖で…いや、私はそんなこと、認めていないが。というか、そもそも私は人間で、生け贄にされかかって。それでも、この体は、私のものでは、なくて』
ロンドさんの狼狽は、限界を迎えていた。
アイデンティティとアイデンティティが、ロンドさんの中で意味もなく鎬を削る。
『クリシュナさま…』
アルテナさまは、クリシュナさまの…ロンドさんの傍に、行こうとしていた。当然、今のアルテナさまは歩くこともままならない。ワタシは、そんなアルテナさまを支えた。逆に、アルテナさまにしがみつくような態勢になっていたけれど。
『花子、さん…お洋服が汚れますよ』
「そんな他人行儀なこと言われたら悲しくて泣きますよ…ワタシたちのために流してくれたその血でしょ」
そうだ。アルテナさまは、ワタシたちのために血を流した。
だったら、それは汚れでもなんでもない。
「…というか、本当に大丈夫なんですか?」
本来なら、アルテナさまの現状は、致命傷とすら呼べる段階にない。いつ絶命したっておかしくはないんだ。
『先ほども言いましたけれど、仮の体なのでまだ大丈夫なのですが…いえ、少しだけ弱音を吐かせていただきますと、ちょっと本気できついです。女神失格ですよ、ね』
「…アルテナさまが女神失格なら、他の誰にも女神さまなんて務まりませんよ」
それほどまでに、今日のアルテナさまは『女神』だった。誰にも、失格の烙印なんて押させない。
『ありがとう、ございます、花子さん…でしたら、もう少しだけ、ワタクシに付き合っていただけますか』
「今日のワタシは、アルテナさまの忠実な腰巾着です…どこまでだって付き添いますよ」
そして、歩き出したアルテナさまを、ワタシは抱き着くように支えていた。その温もりが、ワタシにアルテナさまを感じさせてくれた。この温もりは、絶対に手放してはならない温もりだ。
『クリシュナさま…』
アルテナさまは、再びロンドさんをそう呼んでいた。視界に、ロンドさんを捉えていた。
『クリ…シュナ?』
先ほどまで『魔女』にしか視線を向けていなかったロンドさんが、そこで、初めてアルテナさまを認識した。けれど、その表情は困惑に埋め尽くされている。無理もない。この人は、『魔女』に対する復讐を果たすにここにきた。生け贄にされかけ、目覚めたときには自身が別人になっていた…その元凶である『魔女』を、討つために。
しかし、この場でロンドさんを待っていたのは、『クリシュナ』という身に覚えのない名だ。
それでも、その名はロンドさんを縛っていた。
『私は、タタン…ロンドだ』
ロンドさんは、アルテナさまにそう告げていた。
ただし、その瞳は伏せていて、自信は欠片も感じられない。
『ですが、どう見ても、クリシュナさま…ですよね?ワタクシです、アルテナですよ』
アルテナさまは、引き下がらなかった。
アルテナさまがここまで言うということは、ロンドさんは、本当に…。
『今は…あなたに構っている場合では、ありません』
ロンドさんは、そこでドロシーさんに視線を戻した。
後ろ髪は、かなり引かれているようだったけれど。
『さあ、覚悟をしてもら…?』
ドロシーさんに…『魔女』を見たロンドさんが、言葉を失っていた。
いや、ドロシーさんだけじゃない、ワタシだって、何も言えなくなっていた。
再び、『魔女』はこの場の全員から言葉を奪った。
ただし、それが『魔女』が意図したこととは、思えなかったけれど。
「…………」
…消え、かかっていた。
魔女が、ドロシーさんが…。
肘を折り曲げ、顔の前に手の平をかざしていた魔女の右手が、半透明になっていた。
ドロシーさんは、茫洋とした瞳で、それを眺めている。
「どういう…こと、なの?」
矢継ぎ早に起こる異常に、ワタシはもはや完全に置いてけ堀になる。何が正しくて何が間違っているのか、正誤の判断がまるでできない。
『なんで…『魔女』が、消えかかっているんだ』
ロンドさんは、仇敵である『魔女』に対し気遣うような言葉を投げかけていた。この人ですら動転するほどの事態ということだ。
いや、ワタシなんかはもっと驚いている。翳した半透明の右手の先に、薄っすらとドロシーさんの表情が浮かんでいるんだ。それは、恐怖を通り越して幻想的ですらあった。
「タイムリミット的なものなのでしょうね」
事も無げに、ドロシーさんはそう口にした。
「タイムリミット…」
そう呟いたのは、ワタシだろうか。ロンドさんだろうか。それとも、別のダレカか。
「私は、この異世界の人間ではありませんし、この時代の人間でもありません。ずっとずっと昔の、どこか別の世界からの異邦人です。そんな私が座っていられる椅子が、いつまでもあるわけではないということでしょうか」
ドロシーさんにも、理屈などは分かっていないようだ。それでも、ドロシーさんに動揺は見られなかった。ただ、ほんの少しだけ、寂しそうにも見えてしまったけれど。
『随分と、落ち着いていますね』
ロンドさんが、仇敵に語りかける。
これまでの憔悴した口調ではなく、少しだけ落ち着いていた。
「少し前から何度かあったのですよ。一度、街中でこうなった時にはちょっとした騒ぎになりましたね。しばらくすれば元に戻りますよ。いつかは消えてしまうのでしょうけれど」
ドロシーさんは軽く語っていた。自身が消えかかったという現実を。
…けど、そうか。
王都には、昼間に出歩く幽霊のうわさがあった。あれは、この人のことだったのか。
そして、それはタイムリミットでもあった。ドロシーさんが、この世界から退場sてしまうまでの。
『そんな…こと』
ロンドさんは、俯く。仇敵であるはずのドロシーさんに対する複雑な感情が、そこで綯い交ぜになっていた。
「…………」
そして、ワタシたち全員が言葉を失っている間に、ドロシーさんはこの場から消えてしまった。いや、普通に立ち去ったのだけれど、ワタシたちはそれを止めることはできなかった。
あとには、呆けたようなワタシたちだけが残された。取り残された。
「アルテナ…さま?」
そして、呆然としていたワタシは気付いていなかった。アルテナさまの意識が途絶えていたことに。
「アルテナさま…アルテナさま!?」
まだ大丈夫だと、言っていた。
ちょっときついけれど、まだ大丈夫だと。
そんなアルテナさまが、意識を失っていた。
…いやだ。
こんなお別れは、いやだ。
「アルテ…」
『大丈夫ですよ、花子さん…少し、夢を見ていただけです』
「夢…ですか」
『ええ、瀕死のワタクシを放っておいて、花子さんたち楽しそうに漫才談義に花を咲かせていた夢です…そんなこと、あるはずがありませんのにね』
「ハハハ…ソンナコトナイデスヨー」
妙な夢を見ているね、アルテナさま。きっと、大怪我の影響だ。
でも、アルテナさまは無事だった。
世界の崩壊も、起こらなかった。
完全なる洗脳だって、喰い止めた。
結果だけをみれば、上出来だったのかもしれない。
でも、それはただの先延ばしに過ぎないことも、事実だった。
この先、ワタシたちはまた、あの黒いヒトビトと向き合わなければ、ならないのだから。