78 『ゲロ以下の匂いがプンプンすることはありませんので』
「これは…なんだ?」
ワタシの目は、あの『黒』に釘付けになった。いや、否応なしに、釘付けにされていた。
その悍ましさから目を背けたいのに、それができない。ワタシの視覚の全てが奪われたように、あの『黒』しか映らない。
空に浮かんだ、あの、黒い亀裂しか…。
「…あんな出鱈目が、存在していいわけが、ないよ」
それは、世の理を踏み超えた、全ての黒の始まりの根源の『黒』。
正しく深淵とでも呼ぶべき、一切の不純物を許さない『黒』。
その黒の深淵に引き摺り込まれる錯覚が、ワタシを襲う。
…いや、錯覚か、これは?
ワタシは、本当にあの黒い亀裂に引き摺られ、呑み込まれているのではないか?
少しずつ少しずつ、ワタシが気付かないうちに体を細切れにされながら、融解されながら。
あの深淵の、『黒』に…。
「あの黒い亀裂について教えろと言ったのは、あなたですよ」
深淵の『黒』の影響下にあっても、この人だけは平常だった。それが、どれだけ異常なことか。他のワタシたちは、軒並みあの『黒』の存在感に圧し潰されそうになっていたというのに。
「確かに、ワタシは教えて欲しいとは言いましたけど…」
先ほど、ワタシはディーズ・カルガとリリスちゃんのことで話をしていた。
ワタシが知らないリリスちゃんの秘密を洗い浚い聞き出す必要があったからだ。
『珍しく団体さんがいますね』
しかし、その途中で『魔女』のこの人が…ドロシーさんが現れた。こんな、のんびりと間延びした言葉を口にしながら。
しかも、あの、空の亀裂とほぼ同時に。
あれは、この異世界を分断するとも言われている亀裂だ。しかし、この異世界にもその崩壊を防ごうとする防衛機能が働いていて、そう簡単に世界が瓦解することはないという話だった。実際、ワタシも何度かあの黒い亀裂を目撃していたけど、今日まで世界の崩壊には至っていない。
「…………」
ただ、この場所で目の当たりにした黒い亀裂は、これまでとは『質』が違っていた。
これまでは聞こえてこなかった『音』が、ここでは聞こえてきたんだ。
それは、『轟音』と呼ぶことすら烏滸がましいほどの、音の奔流だった。あまりの『音』に、耳ではなく脳がそれを音を認識できないほどの、音の洪水。頭の中身が全て押し流されてしまうほどの、音だけに歪曲された世界。
…それは、世界の終わりの、ある種の一形態だった。
だから、当然、ワタシは尋ねた。音の奔流が収まった、黒い亀裂が収まった、その後に。あの、『魔女』に。
『この黒い亀裂は、なんなんですか』と。
…しかし、聞かなければ、よかった。
この言葉を口にしたすぐ後に、心底から悔やんだ。好奇心に殺されるのは猫だけではないことを、ワタシは思い知らされた。
『それでは、見せてあげましょう。あの亀裂の本質を』
ドロシーさんは、最低限の簡素な言葉しか口にしなかった。
魔女らしい大仰な呪文も、魔女らしい勿体ぶった所作も、そこにはなかった。この人はただ、そう言っただけだ。それだけで、ワタシの目の前に再び現れた。何の前触れもないままに、あの、黒い亀裂が。
ワタシは、自然と口にしていた。
『これは…なんだ?』と。
二度目の黒い亀裂は、ワタシの眼前で大写しになっていた。
これまでは、地面から見上げるだけだった。あの、空に浮かんでいたはずの黒い亀裂が、今はワタシの目の前で大口を開けている。あまりの至近距離に、最初はあの亀裂だと認識すらできなかった。
当然、ワタシの目には黒い亀裂以外のナニも、映らない。
世界にあるのは、亀裂とワタシだけ。
今のワタシなら、臆面もなく言えた。世界の終わりと対面で直面している、と。
「言ったではないですか、あの亀裂の本質を見せてあげましょうって」
ワタシの耳元で、魔女が囁く。
その声は甘く、ワタシの中に浸透してくる。フリーパスのままで。
けれど、ドロシーさんの姿は、どこにも見えない。この世界にあるのは、黒い亀裂とワタシだけだ。
「アレが…亀裂の本質?」
確かに、先ほどよりも亀裂が肥大化しているように見える。しかし、それはワタシとあの亀裂の距離が近づいただけだ。以前よりも近くに見えるようになっただけで、先ほどのような『音』は聞こえていない。おそらく、ドロシーさんはあの亀裂のビジョンを再現しているだけだ。異様で異質ではあったけれど、異常さで言えば先ほどの轟音を伴った亀裂の方がずっと上だ。
なら、これを黒い亀裂の本質と呼ぶのは違うのではないだろうか。
「これは本物足り得ない、という顔をしていますね」
ワタシの心を見透かしたように、魔女は囁く。
甘く、細く。だからこそ、その声はワタシの芯に絡みつく。
「よく見てくださいな、花子さん。何事も経験ですよ」
ドロシーさんの声が聞こえたと同時に、変異は始まった。
「え…………………なに、これ?」
…黒い亀裂が、ワタシの目の前に迫ってくる?
先ほどよりも、さらに近づく。
それとも、ワタシが亀裂に近づいているのか?
そのどちらかの判別はできなかったけれど、どちらだろうと結果は同じだった。
ワタシとあの黒い亀裂との距離が狭まっているという事実は。
亀裂は、眩暈がするほど深かった。
その裂け目の向こうには、悲しいほどに何もない。
だからこその…深淵?
「…………いや?」
…亀裂は、蠢いていた?
ワタシの目が、おかしくなったのか?
まあ、こんな現実離れした光景を目の当たりにしていればおかしくもなる。けれど、それを差し引いても、あの亀裂の異様さは際立っていた。
「…だって、本当に、動いてるよ?」
黒色以外は存在できない黒い亀裂が、動いていた?血管の拍動のように、収縮を繰り返していた?いや、もっと不規則だった?もぞ、もぞと?
…背筋を、悪寒が一足飛びで駆け上がる。
ワタシの瞳に、その『すがた』が映った。
だって!だって!
「…うっあああああああああああああああぁぁ!?」
ワタシは、恥も外聞もなく叫ぶ。
その叫びは、虚空に消えた。
いや、黒い亀裂に吸い込まれた。
「こんなこと…………あっていいはずが、ない」
黒い亀裂は、ワタシの眼前で脈動していた。
黒い亀裂は、世界を崩壊に導く、破滅の予兆だった。
この異世界においてすら極端に異端で、だからこそ、あの黒い亀裂は異分子でなければならなかった
…なの、に。
それ、なのに。
ワタシの瞳に映し出された、その『すがた』は、あまりにナジミのあるものだった。
「ニンゲン、じゃないか…!?」
これまでワタシたちが見ていたのは、あの黒い亀裂の輪郭だけだ。それが、ここまで近づいて、ようやく分かった。
「どう…して、ニンゲンが?」
痛みが、胸を襲った。突き刺さり、突き破るかと思うほどの幻の痛み。
ワタシの頬を、涙が伝っていた。喉の奥から、嗚咽が溢れそうになる。
…いや、溢れそうになっていたのは、吐瀉物だった。
胃から喉元へ、それは遡上を始めていた。
しかし、途中で堰き止められた。
ワタシの体そのものが、動きを止めていたからだ。
細胞の活動ごと、動くことを封じられていた、あの黒い亀裂に。その、正体に。その、本体に。
黒い亀裂は、人間だった。
クロいニンゲンたちの、集合体だった。
一人一人、黒いニンゲン、消し炭にされたようなニンゲンたちが、一人一人、折り重なるように、折りたたまれるように、そこにいた。
男なのか。女なのか。お年寄りかもしれない。子供かもしれない。大きい人もいた。小さい人もいた。
夥しい数のニンゲンが、そこに集積されていた。
何千人どころか、何万人…どころか、何億という数のニンゲンたちが、いた。
そうやって、あの黒い亀裂は形作られていた。
「…あって、いいはずがない」
ただの、頭数合わせのように、そこにヒトビトが並べられていた。隙間なく、ビッシリと。
そこに、ヒトとしての尊厳は、微塵も存在しなかった。
ただただ打ち捨てられた、廃棄されたヒトビトが、亀裂の底に、亀裂の淵に、無造作に並べられていた。昆虫採集の方が、ずっとずっと健全に思えるほどに。
「あっていいはずないよ…こんなの」
だって。だって。
ヒトリ。ヒトリ。動いて。いたんだ。
亀裂から這い出そうとするように、ヒトリヒトリが手足を動かしていた。
いや、立ち上がろうとしていたのかもしれない。それでも立ち上がれはしない。ただただ、蠢くだけ。亀裂の底で。亀裂の淵で。亀裂の中で。もぞ、もぞと。
目も口もない、耳も指もはっきりとはしない、ただの真っ黒いヒトビトが、藻掻いていた。
動いていないヒトは、ヒトリもいなかった。
…つまりは皆、生きている?
「…………!?」
不意に、ワタシの視界が元に戻った。
地面があった。青空があった。草木が生えていた。風が吹いていた。
慎吾がいた。雪花さんがいた。繭ちゃんたちもいた。ナナさんもジンさんもいて『魔女』もいた。
そして何より、ワタシがいた。
そして何より、黒い亀裂が存在していなかった。
「花子…?」
声をかけてきたのは、慎吾だった。おそらく慎吾だった。その声が慎吾のモノだと判断できるまで、随分と時間がかかった。けど、ワタシは、帰ってきた。
「アレが、黒い亀裂です」
頭上から、『魔女』の声がした。
自分が四つん這いの姿勢になっていることに、ワタシはようやく気付いた。
「どうですか、真実の片鱗に触れた気分は」
「どうです、か…って」
ワタシは、『魔女』の言葉に言い返そうとした。何を言おうとしていたのか分からないが、それでも何かを言おうとはしたんだ。
けど、それはできなかった。
「…………!?」
ワタシは、嘔吐していた。
脳裏に浮かんでしまったんだ。
…あの黒い亀裂の中、クロいヒトビトと一緒にもぞ、もぞと蠢いている、ワタシの姿を。
だから、ワタシは嘔吐していた。
ワタシの口からは、魔女に対する言葉ではなく、胃の中の内容物と胃液が、堰を切ったように溢れてくる。
…止めることは、できなかった。
乙女としての尊厳そのものが溢れてくるようだった。
胃の中だけではなく、涙や鼻水まで出し切った後で、ようやくワタシの嘔吐は収まった。
「な…ぜ?」
ずっと吐き続けて酸欠気味になりながら、ワタシは問いかけた。『魔女』に。
「なぜ、とは?」
「…なぜ、あなたはあんな非道なことができるんですか?」
とぼける魔女に、ワタシは言った。本来なら、もっと気風よく叩きつけるべき台詞だったけれど、そんな余裕はなかった。
「もしかして、私があの亀裂を作ったと思っているのですか?」
魔女は、そこで初めて驚いた表情を見せた。とはいっても、ほんの少し、程度だったけれど。
「違うんですか?あの黒い亀裂は、『魔女』であるあなたが…」
「違いますよ」
魔女は、言いかけていたワタシの言葉を途中で否定する。その声には不機嫌が混じっていた。心外だということは、その表情にも露骨に表れている。そして、魔女は言った。
「あの亀裂を生み出したのは、あなた方ですよ」
「ワタシ…たちがぁ?」
思わず、声が裏返りそうになる。けど、当然だ。身に覚えのない罪を着せられてはたまったものではない。しかも、それがあの黒い亀裂だ。
「そんなの…濡れ衣にもほどがありますよ」
「そうですね。花子さん個人があの亀裂を生み出したわけではないでしょう。しかし、その一端くらいには加担している可能性はありますよ」
魔女の瞳は、透明だった。その明度でいえば、黒い亀裂にも引けを取らないほどに。
だから、ワタシはそこで何も言えなくなった。不名誉な言葉を投げかけられたのに、それが理不尽だとも、なぜか思えなかった。
「あの黒い亀裂…あの正体は、何なんですか?」
ワタシは、魔女に問いかけた。それは、この魔女に対して踏み込む行為で、魔女に近づく行為だ。
…正直、さっきからずっと足は竦んでいた。
二本の足で立っていることが奇跡とも思えた。さらに言えば、気を抜くと失禁してしまいそうなほどの恐怖があの黒い亀裂から地続きでワタシにまとわりついていた。それでも、魔女から目を離すことができない。
「すみません、花子さん。先ほどは言い過ぎましたね。それと、大丈夫ですか?まだ気分がよろしくないのではないですか?」
魔女は…ドロシーさんは軽く頭を下げ、ワタシを気遣った。ワタシとしても、軽く毒気を抜かれる。
「ええと…大丈夫ですよ、ドロシーさん」
ワタシは、あえて魔女を名前で呼んだ。
「ですが、吐き戻したばかりでは気分もすぐれないでしょう」
「気にしないでください。ワタシなら、ゲロ以下の匂いがプンプンすることはありませんので」
「???」
ドロシーさんはワタシの言葉に困惑していた。もしかすると、ワタシは世紀の魔女を戸惑わせるという偉業を成し遂げたのではないだろうか。
「では、続けますね。花子さんにも責任の一端があるというのは、さすがに言い過ぎだったと謝らせていただきますね」
ドロシーさんは、何事もなかったように語った。リカバリの早さはさすがに魔女といったところだろうか。
「責任の一端…あの黒い亀裂の、ですか」
ワタシも、スイッチを入れなおした。魔女と相対するために必要なスイッチを。
「そうです。ですが、あの亀裂は、全ての人間が背負うべき災禍なのですよ。花子さんのように若い方にはピンとこないかもしれませんけれど」
「…全ての人間が背負うべき、災禍?」
ワタシは、一字一句そのままリピートした。それでも、その真意の理解には及ばなかった。
そんなワタシに、ドロシーさんは語る。魔女の声で。魔女の言葉で。
「花子さんは、先ほど見たはずです。あの亀裂が、大勢の人間たちのなれの果ての姿だと」
「なれの、果て…」
黒い亀裂は、一人一人の人間が集まり、形成されていた。大空にあれだけ巨大な亀裂が浮かぶということは、その人数も生半ではないことになる。
何万人。下手をすれば、何億という人間が、あそこにいた。
…そして、緩慢に動いていた。悲しそうに。苦しそうに。恨めしそうに。
ドロシーさんの言葉は悪いが、それでもなれの果てという言葉が、適切にも思えてしまう光景だった。
けど、あの人たちが、何をしたというんだ!
「あの亀裂にいる人たちは、全て死者です」
ドロシーさんが、亀裂の正体を明かした。
「し…しゃ?」
ワタシの脳の処理が、追い付かなかった。
だって、あそこにいた人たちは、まだ、動いていたじゃないか。
死んでいたのに動いていたとか…それこそ、悲しすぎるじゃないか。
それなのに、魔女は語る。
「そうですよ。抱えきれないほどの未練を抱えたまま命を落としたヒトたちのなれの果てが、あの黒い亀裂の正体です」
「未練を抱えたまま…死んだヒトたち?」
…どこかで、聞いた話だった。
「もう少し補足をするのなら、死にたくないという強い未練を抱えたまま死んでしまった…もしくは、殺されてしまったヒトたちのなれの果て、でしょうか」
「こ ろさ れ 」
ワタシの声は、言葉にはならなかった。声にすら、ならなかった。ただ、口腔を通って音が漏れただけだ。
「その未練に縛られた人間たちが、死後、あの場所に集められるんですよ。いえ、落とされると言うべきでしょうか。未練を抱えたままでは天に帰ることもできず、この世界の狭間にまざまざと囚われるのです。このソプラノと呼ばれる世界では、昔々から」
魔女は、語る。
この異世界の、深奥を。
それが、大昔からこの異世界に存在していた黒い亀裂の正体なのか。
しかし、黒い亀裂は大昔から存在しているという話だった。
なら、そんな昔々から、あれだけのヒトたちが、未練を抱えたまま、死んでいたのか。
…それは、世界の在り様として、健全なのか?
「だから、彼ら、彼女らにはあるとは思いませんか?」
魔女は、ワタシに問いかける。
ワタシは、声にならない子で問いかける。
「な に が?」
ワタシの、声にならない声にも、魔女は律儀に答えた。
「この世界を、滅ぼす権利です」