76 『これで、リリスちゃんとも縁ができたよ!』
「…………」
唐突に空から異物が降ってくるという展開は、物語の冒頭にはよくある。
前触れもなく起こるこうした不条理なイベントは、『ここからは日常と非日常が隔てられますよ』と暗示をするためのギミックとしては最適だからだ。なにより、異物の落下という急展開のシナリオはインパクトを持たせることができるし、見せ方によってはその後の展開の伏線とすることもできる。
だからといって、当事者からすれば傍迷惑の一言でしかないのだけれど。
そもそも、もはや物語の冒頭でも何でもないのだけれど。
…それでも、異物はこのタイミングでワタシたちの前に現れた。
当然、ワタシたちの視線はその異物に釘付けになる。
周囲は晴天だったはずなのに、その異物の周りにだけ影ができていた。都合よく雲が陽光を遮り、異物を影のヴェールで覆い隠していたからだ。
だから、最初は分からなかった。
空から飛び降りてきた異物が、ワタシの見知った一人の少女…リリスちゃんだったということに。
「リリス…ちゃん?」
たっぷりと時間をかけてから、あの子の名を呼んだ。即座にその名が出ないほどの衝撃を、ワタシは受けていた。
けど、たっぷりと時間をかけたからこそ、そこに見間違いはない。後ろ姿しか見えていなかったけれど、ワタシが、この子の後ろ姿を間違えるはずはない。どれだけの無為で無駄で無敵で素敵な時間を、ワタシがこの子と過ごしたと思っているんだ。
『…………』
リリスちゃんは、無言だった。飛び降りた姿勢から微動だにしていなかった。ワタシの方に振り向いたりもしない。ワタシの声が、まるで届いていない。先ほどリリスちゃんに飛ばしていた『念話』が、まるで届いていなかったのと同じように。
「リリスちゃん…!」
嫌だった。
最後に聞いたリリスちゃんの声が、『念話』越しのあの一言だけだなんて、ワタシは嫌だった。
リリスちゃんは、そこで体をこちらに向けた。
ようやく、その表情が見える。
…リリスちゃんの顔からは、表情も感情も、何も感じられなかった。
ただただ、目や鼻といったテクスチャを無造作に貼り付けただけの虚構の人形のようにしか、見えなかった。
ワタシの脳裏に、『端末』という言葉が浮かんだ。そこにいたのは、確かに正しく端末だ。自己というエゴが極限まで削ぎ落され、操作されるだけの架空の存在。小さなりりすちゃんが大きなリリスちゃんをそう呼んでいた意味を、ワタシは確かに正しく理解した。
「リリスちゃん!」
それでも、ワタシはリリスちゃんに呼びかける。
ワタシの諦めの悪さは、折り紙つきだ。諦めがよかったら、『転生者』なんてやくざな生き方はしてないんだよ!
『…………』
ワタシの声に反応したのか、リリスちゃんはこちらを見ていた。その瞳は、やけに空疎だったけれど。
…だとしても、リリスちゃんはリリスちゃんだ。
虚構だとしても、架空だとしても。
「ねえ、リリスちゃ…ん?」
ワタシの目の前で、リリスちゃんが…消えた?
…え?
ワタシを置いて、どこに行くの?
リリスちゃんが消えた代わりに、突風がワタシの脇をすり抜けていく。
いや、ワタシの目では追えない速さで、リリスちゃんが駆け抜けていっただけだ。
「………!」
気が付いた次の瞬間には、右足を振り上げたリリスちゃんがいた。
宙を舞っているジン・センザキさんが、いた。
「…リリス、ちゃん!?」
リリスちゃんが、センザキさんを蹴り飛ばしていた。その瞬間は目にしていないが、状況から判断するとそういうことになる。人間が宙を舞うほどの速度で、強度で、リリスちゃんはセンザキさんを足蹴にしたんだ。後ろ手に縛られたままのセンザキさんは、受け身も何もとれないまま、無造作に地面に叩きつけられる。
「センザキ…さん?」
ワタシは、あの人に駆け寄ろうとしたが上手く体が動かない。受けた衝撃の大きさが、体の動きを阻害する。水の中でも歩くように、ワタシはもたもたとセンザキさんのそばに寄った。
「大丈夫…ですか?」
ワタシは、センザキさんの上体を抱え起こした。
センザキさんは、呻き声をあげ苦悶の表情を浮かべていた。もしかすると、傷口が開いたのだろうか。この人は、少し前まで昏睡状態だったんだ。
「センザキさん…センザキさん」
ワタシは、センザキさんに呼びかける。
センザキさんは、辛うじてワタシの声に反応した。
「ああ、ギリギリで大丈夫といったところかな…私に、『女の子に足蹴にされて喜ぶ悪癖』がなければ即死だったかもしれないけれど」
「…もう二、三発くらいなら蹴られても大丈夫そうですね」
「やめてください死んでしまいますよ」
かなり切実なセンザキさんだった。
しかし、どうしてリリスちゃんはこの人に危害を加えたのだろうか。この二人に接点なんてなかったよね?
「リリスちゃん…とりあえず、ワタシとお話ししようよ」
センザキさんの無事を確認したワタシは、リリスちゃんと向き合う。
…あのリリスちゃんと向き合っている感じは、微塵もしなかった。
リリスちゃんはワタシのことなど見ていない。歯牙にもかけていない。
「ねえ、いつもみたいにバカな無駄話をしようよ。そうだ、ドーナツを食べに行こうよ。リリスちゃんだって大好きだもんね、ドーナツ。今日はワタシが奢っちゃうよ?」
『…………』
ワタシの呼びかけにも、リリスちゃんは無反応を貫く。
…ただ、センザキさんに追い打ちをかけることも、リリスちゃんはしなかった。
「リリスちゃん…」
ワタシは、恐る恐るリリスちゃんに近づく。リリスちゃんに近づくたびに、心臓が悲鳴に近い鼓動を打つ。近づけば近づくほど分かるんだ。このリリスちゃんは、『作り物』だ、と。
だから、ワタシは、このリリスちゃんが怖かった。
それでも、近づいた。
近づかなければ、声は聞こえない。
ワタシの声も、リリスちゃんの声も。
「ねえ、リリスちゃんの声も、聞かせてよ…ワタシだけお喋りするのは、さみしいよ」
震える足で、ワタシは踏み出す。
異物と化したリリスちゃんが、怖かった。臓腑の底から、震えがくる。
どうしても、ワタシの脳裏に浮かぶ。
…リリスちゃんが、悪魔として復活してしまったのではないか、と。
リリスちゃんがワタシのことを見てくれないのも、リリスちゃんにワタシの声が聞こえないのも、リリスちゃんが、ワタシが知らない『悪魔』として復活を果たしてしまったからではないか、と。
『…………』
リリスちゃんは、無言で佇んでいた。
無味無臭な無表情で、手持ち無沙汰に棒立ちだった。
その瞳には、何も映ってはいない。
「リリスちゃ…」
懲りずに、ワタシはまたリリスちゃんの名を呼ぼうとしたが、そこで別の声がかけられた。それは、ワタシにとってはひどく耳に触る声だった。
「無駄だよ」
「ディーズ…カルガ」
呼びたくもない名を、ワタシは呼んだ。
そこにいたのが、ディーズ・カルガだったからだ。
ワタシやリリスちゃんを好き放題に振り回した、ディーズ・カルガが、そこにいた。
「無駄とはどういうことですか、カルガさん…」
「リリスには、もう誰の声も届かない。リリスは、悪魔として復活した」
ディーズ・カルガは断言した。
リリスちゃんが、本物の悪魔として復活した、と。
「…あれは、リリスちゃんでしょ」
「ああ、リリスだよ…悪魔として復活した、ね」
ワタシとディーズ・カルガの視線が、のどかな丘の上で交錯する。
ディーズ・カルガは、ハイキング日和の好天の中、暗い色のシャツに暗い色のズボンという辛気臭い衣装に身を包んでいた。以前は、胡散臭くともそれなりに着飾った衣服を纏っていたはずだ。けれど、今日はただただ簡素な衣装だった。ただそれだけのことが、この人物に対する警戒度を上げる理由になる。今のディーズ・カルガには『あそび』がないんだ。
そして、そんなディーズ・カルガが断言した。
リリスちゃんは、悪魔として復活した、と。
「リリスちゃん…」
…アレが、『悪魔』としてのリリスちゃん?
外見は、確かにリリスちゃんだ。翼も生えていなければ牙も伸びていない。悪魔らしいセクシーな衣装を着ているわけでもない。
けれど、あれはリリスちゃんでは、なかった。
リリスちゃんは、ころころと表情を変える。笑ったり起こったり、万華鏡のように七変化を繰り返すんだ。あんな能面なリリスちゃんは、リリスちゃんではない。
だから、いやでも思い知らされる。
あそこにいるのは、ワタシの知らないリリスちゃんだ、と。
「あなたは…リリスちゃんに何をしたんですか」
ワタシは、ディーズ・カルガをねめつける。
「私が何かをしたというよりも、花子くんが何もしなかったのではないかね」
ディーズ・カルガは、素っ気のない声で言った。
普段の、人を喰った軽妙な語り口ではない。余剰を排除した、ただの記号としての言葉だった。
「…………」
けど、確かに、ワタシは何もしなかったに等しかった。リリスちゃんに対して。
リリスちゃんを、いい悪魔として復活させてあげるとか耳障りのいい言葉を豪語していたにも関わらず。結局は、他の出来事に翻弄され、リリスちゃんを後回しにしてしまった。
…そんなワタシに、リリスちゃんの友達を名乗る資格は、あるのだろうか。
「だから、こうしてリリスは悪い悪魔としての復活を果たそうとしている」
ディーズ・カルガは、淡々と何事もなく語る。ワタシの友達のリリスちゃんが迎えてしまった、たった一つの些末ではない結末を。
「リリス…ちゃん」
痛みを伴う後悔が、ワタシの胸中で浮揚する。
ワタシはもう、あのリリスちゃんには、会えない…の?
だとしたら、それは、ワタシの所為だ。ワタシが、リリスちゃんの一番近くに、いたはずなのに。
「けど、花子くんはそれでよかったんだ」
「…え?」
ディーズ・カルガは、今、何を言った?
ワタシが、それでよかった?
「花子くんは、間違いなく後悔することになる」
「…ワタシは、既に後悔の渦中にあるんですが」
これ以上の後悔が、どこにある?
「リリスをいい悪魔として復活させた場合…花子くんは、人殺しに加担したことになる」
「ワタシ、が…?」
…人殺、し?
唐突に聞こえた物騒な言の葉に、ワタシの心がざわつく。
「勿論、花子くんが直接、手を下すわけではないし、花子くんに責任はない。けど、これから君はずっと、その十字架を背負わなければならなくなる。そんなもの、花子くんに背負えるはずはないんだよ」
「言いたいことがあるなら…もっと簡潔に言ってよ!」
ワタシは、そこで爆発した。感情と口調をリンクさせ、畳みかける。
「どうしてみんな、ワタシにもっとちゃんと言わないんだよ!隠し事してたり断片的なことしか言わなかったり思わせぶりだったり…最初っから全部、明け透けに、余すところなく丸ごと言えばいいでしょっ!」
ワタシが口を閉じると、この場から音が消えていた。風が通り抜ける音すら、聞こえない。いや、元々、音はなかったんだ。ワタシだけが、この場に雑音をまき散らしていた。
…なら、異物は、ワタシなのだろうか。
「花子さん」
不意に聞こえてきたその声は、ワタシがよく知っている声だった。けど、知っているはずの声なのに、ワタシの名を呼んだその声からは違和感しか覚えなかった。
「…え?」
ワタシは、声の方に振り向いた。
そこにいたのは、りりすちゃんだった。小さな姿の、りりすちゃんだ。
「りりす…ちゃん?」
なぜ、この場にいる?
大きなリリスちゃんは、あそこにいるのに?
ワタシの鼓動が、大きく乱れた。胸中で小さなりりすちゃんと大きなリリスちゃんが撹拌され、眩暈さえ起こしていた。
…どういう、ことなの?
「花子さん」
再び、小さなりりすちゃんがワタシの名を呼ぶ。その声は、やはりリリスちゃんと同じだった。なのに、微妙にイントネーションなどが異なっていた。その小さなズレが、ワタシの混乱に拍車をかける。
「あなたは…りりすちゃんなの?」
直接、小さなりりすちゃんに問いかけた。
だって、二人目だ。しかも、立て続けだ。ワタシの知らないりりすちゃんが、現れたのは。
「ええ、りりすですよ。花子さん」
口調も違う。雰囲気も異なる。それでも、小さなりりすちゃんはワタシの名を呼んだ。何もかも違うはずなのに、いつの間にか、ワタシはそこにりりすちゃんを感じていた。
「りりすちゃん…なんだね?」
ワタシは小さなりりすちゃんに歩み寄る。大きなリリスちゃんに近づこうとした時は斥力を感じた。けど、小さなりりすちゃんからはそうした力は感じなかった。
だから、ワタシはさらに近づく。
「花子!」
突如として、張り詰めた叫び声が聞こえた。その声は、ワタシの歩みを止める。そんなワタシの前に、緊張した面持ちの慎吾が飛び出してきた。
「どうしたの…慎吾?」
慎吾の声から、のっぴきならない事態が起こったことは明白だった。
「気を付けろよ、花子」
慎吾は、ワタシを背中で庇っていた。その慎吾の視線の先にいたのは、大きなリリスちゃんだ。そして、リリスちゃんはこちらに向かって歩いていた。先刻までは微動だにしていなかったのに。
「リリスちゃん…」
ワタシの声にも反応しないまま、リリスちゃんはこちらに歩いてくる。上体をゆらゆらと揺らしながら、焦点の合わない瞳のままで。
ワタシは、自分でも気付かないうちに小さなりりすちゃんを背後に庇うように立っていた。慎吾がワタシにそうしてくれたように。
『…………』
一瞬、大きなリリスちゃんの動きが止まった。と、思ったけれど、次の瞬間にはこちらに飛び込んできた。何の予備動作もないまま、影と化して向かってくる。
「りりすちゃん!」
ワタシは小さなりりすちゃんに覆い被さった。殆んど無意識だったけれど、ワタシの体は勝手に反応していた。
「…あれ?」
しかし、いつまで経っても、リリスちゃんは襲ってこなかった。ワタシが殴り飛ばされることも蹴飛ばされることもなかった。
『…………』
大きなリリスちゃんは、動きを止めていた。小さなりりすちゃんを庇うワタシを庇う、慎吾の一歩手前で足を止めていた。
ゆらゆらと上体を揺する大きなリリスちゃんは、大型の獣を想起させた。
けど、その獣がワタシたちに牙を剥くことは、とりあえずはなかった。
「リリス…ちゃん」
ワタシは、ゆっくりと大きなリリスちゃんに近づいた。手を、つなごうとした。これまでに何度もつないだ手だ。今さら、恐れたりはいない。そう、自分に言い聞かせた。
…でも、リリスちゃんはそうではなかった。
『…………』
ワタシが近づいた分だけ、リリスちゃんは後ずさった。
…それは、拒絶のサインだった。
リリスちゃんからの、明確な拒絶だった。
「ねえ、リリスちゃん…」
『…………』
そんなワタシを、リリスちゃんは飛び越えた。ワタシだけじゃなくて、慎吾と小さなりりすちゃんの三人をまとめて飛び越えた。人というよりは、獣の動きで。
そのまま、立ち去ろうとリリスちゃんは駆け出した。
このまま、ワタシの前から姿を消すつもりだった。
だから、ワタシは叫ぶ。
それしかできないけど、ワタシには、ワタシだけの声があるんだ。
その唯一の武器で、ワタシは叫ぶ。
『「リリスちゃん…また今度、一緒に蜂の子おにぎりを食べようねっ!」』
叫んだ。
声と、『念話』で同時に、リリスちゃんに向けて。
ワタシは鼻血を垂らしていた。
視界も、赤く染まる。
限界まで使い切っていた『念話』を、限界を超えて絞り出した。
その負荷に、体が耐えられなかったんだ。
「けど、それがどうしたあ!」
…ワタシ、絶対に嫌だからね。
元の世界のワタシに、友達はいなかった。
だから、簡単に友達をあきらめたりは、できないんだよ!
『…………』
リリスちゃんは、そこで、足を止めた。
これまでは、ワタシの声には殆んど反応していなかったのに。
リリスちゃんは、自分の意思で足を止めたんだ。
そして、振り返った。ひどく緩慢で、ぎこちない動きのまま。
そんなリリスちゃんの瞳には、一瞬だけだったけれど、ワタシが映っていた。
それでも、それは本当に一瞬だけだった。リリスちゃんは再び前を向き、駆け出していく。
そんなリリスちゃんの背中に、ワタシは叫ぶ。
「今、ワタシを見たね?これで、リリスちゃんとも縁ができたよ!」
甘く見ないでよ、ワタシの縁結びの力を!