73 『どうやら、切り札は常にワタシのところに来るようですよ』
『ほら、繭ちゃん。早く顔を洗っておいでよ、朝ご飯とっくにできてるからね』
『はあい…あ、花ちゃん、今日の朝ご飯は何?』
『ピザトーストとトマト多めのサラダ、それからコーンスープだよ』
『やったー、コーンスープだー』
『はいはい、嬉しいのは分かったから顔を洗っておいでよ』
『はーい』
『すまないな、花子。オレの弁当まで用意してもらって』
『別にいいよ、慎吾。朝ご飯のついでみたいなものだからね。それに、慎吾は今日もこれから朝練があるんでしょ』
『ああ、花子が作ってくれた弁当があれば今日も頑張れそうだ。じゃあ、行ってくる』
『あ、慎吾。今日の英語の宿題はちゃんと終わった?』
『大丈夫だよ。昨日、花子が教えてくれたじゃないか』
『教えたっていっても、単語とか熟語を教えただけだよ』
『花子の教え方がよかったんだろうな、それで十分に和訳できたよ、ありがとう。じゃあ、先に行ってるから』
『うん、行ってらっしゃい。また学校でね、慎吾』
『おふぁよう…で、ござるよ』
『ちょっとおそようですよ、雪花さん。また夜中まで漫画を描いてたんですか?』
『ほむ…『大型犬系男子が小型猫系男子に嚙まれてる!』という合同誌を出そうということになりまして』
『また業の深い…というか合同誌?そんなニッチな本を描く人が何人もいることに驚きですよ?』
『あー、今日は自主休講にしようでござるかな』
『ダメですよ。大学だってタダじゃないんですからね』
『あい、分かったでござるよ』
『花ちゃーん。顔を洗ってきたよ、お腹が空いたよ』
『はい、繭ちゃん。もう用意できてるよ』
『わー、いただきます』
『繭ちゃん、今日も演劇部の部活?』
『うん、今日は帰りがちょっと遅くなるかも』
『そう、遅くなるなら帰りは気を付けるんだよ。繭ちゃんはかわいいからね』
『そうだね、ボクかわいいからね』
『はは、繭ちゃんは今日も元気だね。お父さんも嬉しくなっちゃうよ』
『お父さん。ワタシ、朝ご飯の時に新聞を読むのはやめて、って…言ったよね?』
『ごめんね、花子。ついついくせでさ』
『お父さん…お母さんに、も怒られる、よ』
『あら、花子ちゃん。お母さんは新聞を読んでるお父さん好きよ。インテリって感じで渋いから』
『もう…そんな、風に、お母さんがお父さ、んを甘や、かすからだ、よ』
『ところで、花子殿のおばあちゃんは今朝はどちらに?』
『雪花さん。おばあ…ちゃんな、ら散歩だよ。そろそ、ろ帰って、来るんじゃないかな』
ワタシは、そこで息苦しさを感じていた、
居心地がいいはずのこの空間で、呼気が乱れる。心が、軋む。
…いや、だ。
『ただいま』
玄関の方から、声が聞こえた。
しかし、その『ただいま』は記号でしかなく、ワタシにはその声が男女どちらか、大人か子供かすら、判別できなかった。
けど、ワタシ以外のみんなは分かっていた。
誰が、帰宅したのか。
『あ、花ちゃんのおばあちゃんが帰って来たよ』
食事中にもかかわらず、繭ちゃんが席を立って玄関に向かう。『おかえり』で出迎えるために。
『繭ち…ゃん』
ワタシは、それを無作法だと咎めることも繭ちゃんと一緒に玄関に向かうこともできなかった。
…いやだ、よ。
『ただいま、〇〇ちゃん』
廊下からリビングに入ってきたあの人は、そう言った。
多分、ワタシの名を呼んだ。呼んでくれた、はずなんだ。
けど、ワタシには、聞こえなかった。
…一番、聞きたい声なのに。
それだけじゃない。
ワタシには、あの人の顔も見えなかった。
その部分だけが、白く抜けていた。
『おかえ、り…な、さい』
ワタシは、あの人に『おかえり』を言った。
あの人には、二度と言えないと、思っていた言葉を。
…やっぱり、いや、だ。
『ただいま、○○ちゃん』
二度目の『ただいま』だった。それでもやはり、ワタシの名前は、聞こえない。
おばあちゃんの声では、ワタシの名前が、聞こえない。
…それでも、いいよ。
ワタシの名前が聞こえなくても、いい。
おばあちゃんの顔も思い出せないけど、それでもいい。
…ワタシを、このセカイにいさせてください!
支離滅裂なセカイだった。
整合性なんてどこにもない。
だって、慎吾が一緒で、繭ちゃんや雪花さんもこの家で暮らしている。
それに、お母さんも、お父さんも…。
なにより、おばあちゃんがここにはいる。
…だから、やはり、いやだ。
ワタシは…異世界よりこっちの方がいいよお!
魔法もスキルもないけれど、このセカイにしかないものも、たくさんあるんだよ…。
…やっぱり、異世界になんて、帰りたくない。
異世界には、お母さんがいない。
お父さんも、いない。
おばあちゃんも、あの世界には、いない…。
…ワタシだけが、みんなに会えないんだよぉ!
そこで、ワタシは目を覚ました。
最初に目に入ったのは、空だった。
清々しいほどに、空々しい青空。
ところどころに浮かぶ白い雲は、おばあちゃんと一緒に見た、あの世界の雲と同じ色をしていた。
「花ちゃん…花ちゃあーん!」
横たわるワタシの上に、繭ちゃんが飛び乗ってきた。肺が圧迫され、先ほどまでの気怠い夢心地はどこかへ吹き飛んだ。
「花ちゃん花ちゃん花ちゃん花ちゃん!」
繭ちゃんが泣きながらワタシに抱き着き、泣きながらワタシの名前を呼ぶ。繭ちゃんのその声が、ワタシにゲンジツを思い出させてくれた。
…ああ、ワタシは、この異世界に帰って来たんだ。
ワタシはもはやこの異世界ソプラノの住人で、お母さんにもお父さんにも、そして、おばあちゃんにも、もう会えない。
「…………」
でも、ワタシの傍には、みんながいるんだね。
繭ちゃんだけではなく、白ちゃんも雪花さんも、慎吾もティアちゃんもいた。ついでにシャルカさんやナナさんも、だ。ワタシは、そのことを噛みしめるために繭ちゃんを抱きしめた。
「大丈夫か、花子」
慎吾がワタシの顔を覗き込む。ワタシの顔色を確かめているんだ。とりあえず、どこにも怪我とかはないよ。
…最悪なのは、気分だけだ。
「ありがとう、慎吾…」
慎吾たちがいてくれたから、ワタシはこの異世界に戻ってこられた。
完全なる洗脳なんて絵空事は、ここで終焉を迎えた。
「なぜ…計画通りにいかなかったんだろうね」
その声は、少し離れたところから聞こえてきた。そこにいたのは、後ろ手に縛られたジン・センザキさんだ。文字通りのお縄についたわけだ。ナナさん辺りがやってくれたんだろうね。
「なぜも何も、見た通りの結果ですよ」
溜め息交じりに、ワタシは言った。まあ、ワタシが見ていたのは洗脳されたセカイだったので、その後の顛末は見ていないのだけれど。
しかし、納得のいかないジン・センザキさんは呟いていた。
「不完全な洗脳装置とはいえ、花子さんを洗脳することはできた。そして、洗脳した花子さんの『念話』によって、この異世界ソプラノにいる全ての人間に『完全なる洗脳』を施す…施した、はずだった。洗脳計画は、成就されたはずだった」
「そうですね」
「しかし、そうはならなかった…花子さんは洗脳したはずなのに、『完全なる洗脳』は発動しなかった」
「そうですね…」
最初にこの異世界ソプラノを洗脳しようとしたのは、センザキグループの過激派たちだった。
しかし、彼らが制作した洗脳装置は不完全で、人間を洗脳することなどできなかった。
そして、本来ならこの騒動はそこで終わりだった。けど、このジン・センザキさんが終わせなかった。その派閥の人たちが作った洗脳装置を、あろうことかこの人が改良したんだ。
「私が『解析』のスキルによってアップデートした洗脳装置ならば、この異世界にいる全ての人間を洗脳できるはずだった…いや、花子さんの協力があれば、だが」
「そんなものにワタシが協力なんてするはずないじゃないですか…」
ジン・センザキさんが改良したその洗脳装置でも、人間を完全に洗脳することなんてできなかった。
人々の精神の奥にまで、洗脳による『命令』を届けることができなかったからだ。
けれど、その問題点を払拭できるスキルが存在していた。
それが、『念話』だ。
ワタシの『念話』ならば、この異世界ソプラノにいる全ての人々の心の奥にまで、その『命令』を届けることが可能だった。
そして、ため息交じりにジン・センザキさんは言った。
「勿論、花子さんが協力してくれないことは分かっていたよ」
「…だから、最初にワタシを洗脳しようとしたんですよね」
「ああ、不完全な洗脳とはいえ、数分なら人間を操ることは可能だ。だから、最初に花子さんが洗脳できれば、洗脳計画は成就されるはずだった。数分だけでも花子さんが操れるのなら、『念話』による『完全なる洗脳』は可能だったからだ」
「それが、あなたが立てた計画だったんですね…まあ、想定内でしたけど」
この人ならば、最初にワタシを洗脳してくることは分かっていた。
ワタシに『念話』を使わせたいのなら、『花子』を人質にすることもできた。脅迫や暴力といった手荒な手段だってあった。というか、その二つの手段の方が、ワタシに対しては効果的だ。けど、この人がそうした手段を選ばないことも、分かっていた。
ジン・センザキの目指す完全なセカイに、そんな下劣な行為があってはならないからだ。
…この人は言っていた、ワタシとジン・センザキさんは似ていると。
認めたくないけど、それ、けっこう当たってるんだよね。
まあ、似ているからこそ、この人の打つ手が分かったんだけど。
「なるほど、私の目論見は想定内だったか…」
「一応、慎吾たちにも控えてもらっていましたけどね」
ワタシは、そこで慎吾とティアちゃんを見た。そして、続ける。少しだけ胸を張って。
「もし、センザキさんの往生際が悪かった場合、この二人に何とかしてもらうつもりでした」
けれど、少しだけ思う。
…もしかすると、慎吾だって、元の世界に戻りたかったのではないだろうか、と。
また、仲間たちと一緒に野球に打ち込みたかったはずだ。おじいちゃんと一緒に、農業がやりたかったとも口にしていた。
しかし、その幻想を打ち壊したのは、ワタシだ。
ワタシは、慎吾に恨まれたりしてはいないだろうか…。
そんな思考を払拭するため、ワタシは別の方向に会話の舵を切った。
「でも、この計画を破綻させることなんて、実は簡単だったんですよ」
ワタシは、センザキさんに言った。
センザキさんは、ワタシの言葉に小さく反応していた。
「洗脳計画が、簡単に破綻させられた…?」
「ワタシに洗脳をかけても、『念話』は発動なかったんですよ。だから、あなたの計画は発動しなかったんです」
「なぜ、だ…?」
センザキさんは、呻くように小さく呟く。
そんなこの人に、ワタシはとどめの言葉を口にした。
「実は、今のワタシは『念話』が使えない状態だったんです。だから、どれだけワタシを操ったところで、それは無駄だったんですよ」
「何を、言っているんだ…?」
センザキグループ代表であるジン・センザキ氏は、目を丸くしていた。おそらく、この人をここまで驚かせたのはワタシが初めてではないだろうか。
ふっふーん、いい気味だね。
いい気味ついでにワタシは一つ、啖呵を切った。大した種明かしではないので、今のうちに見得を切っておくのだ。
「どうやら、切り札は常にワタシのところに来るようですよ」
クライマックスで格好をつけるのは、ヒロインの特権なのだ。
異論は受け付けないからね!