16 『私にとってはつい昨日の出来事だが、花子たちにとっては、たぶん、明日の出来事だ』
『話をしよう。あれは、今から三十六万年前…いや、五十年前だっただろうか』
シャルカさんは静かに語り始めた。
雰囲気『だけ』は、厳かに。
『まあいい。私にとってはつい昨日の出来事だが、花子たちにとっては、たぶん、明日の出来事だ』
「…それっぽい雰囲気でネタに走るの止めてもらえます?」
意味のないところで意味もなく水を差されると、こちらとしてもどんな顔をしていいのか分からなくなるのだ。
「教えてくれるんですよね…その、邪神とかいう神さまについて」
先ほど、シャルカさんは言った。
ワタシに話がある、と。
当然、それは邪神に関連する話のはずだ。
その邪神とやらの信徒に、慎吾は大きな傷を負わされたのだから。
今、このラウンジにはワタシとシャルカさんの二人しかいなかった。
日も落ち、灯火の魔石の光がゆるやかに照らす、このラウンジには。
怪我をしている慎吾には早めに休んでもらい、繭ちゃんには少しの間、慎吾の様子を見てもらっていた。
「…………」
そして、あの地母神を名乗る少女は先ほどまで…『ダーリンと一緒に寝るのじゃ!』「ダメに決まってるでしょ!」『彼シャツ!シングルベッド!同衾!は三種の神器じゃと、『ぬるぬるイワシ兵士長』先生の描いた聖書の中で語られておったのじゃ!』「それ禁書だからさっさと焚書しなさい!」という不毛以外の何物でもないやり取りを、ワタシと何度か繰り返していた。
しかし、その後、『ぬぅ…ちょっと力が枯れかけておる』といって、ティアちゃんはその姿を消してしまった。明日の朝になれば力も回復し、また顕現できるということも言っていたので、とりあえず、あの子の心配は必要ないようだった。
「…………」
おそらく、ティアちゃんは慎吾を守るために相当の無理をしてくれていたんだ。本来の姿ではなく、本来の力も発揮できないままで顕現したというのに。
そこは、きちんと感謝をしなければならない。あの子がいなければ、慎吾は今日、死んでいたのかも、しれない。
…ワタシたちは、本当に誰も失いたくない。失うことが、本当に怖い。
転生者のビビり具合なめるなよ。
『ああ、そうだな…』
と言いつつ、シャルカさんは二の句を継ごうとはしなかった。
自分から話があると言っていたのに、その口が、重い。
「シャルカさん…」
『…分かった、よ』
ワタシの催促を受け、ようやく、シャルカさんは言葉を発した。
『先ず、ティアさまは邪神と呼んでいたが…あれは、正確には神でも何でもない。澱んだ邪気や魔力なんかが凝り固まって生まれただけの存在で、ただ、その力を無作為に振るうだけの存在だ。知性も理性も意思も悪意も、何も持ち合わせてはいない』
ただ、その力だけが、異様に強い。
シャルカさんは、そう付け加えた。
『邪神は、太古の大昔から、時折りこの世界に現れていたそうだ…そして、そのたびに討ち取られていた』
「邪神は…倒されていたんですか?」
少しだけ拍子抜けしてしまったが、シャルカさんは続けた。
『ああ…けど、その邪神は倒しても倒しても、時が経てば復活した。何度でも何度でも』
「不死身、というわけですか…」
いや、不滅という方が正しいのかもしれない。
どちらにしろ、歓迎すべき存在ではない。
『そして、何度も討ち取られていたとはいえ、その邪神は、この世界に現れるたびに大きな爪痕を残してきた…ソイツには、見るだけで相手の生命力を奪い取るという、無二の特性があったんだ」
シャルカさんは、邪神について語る。
『ただ、五十年くらい前にも邪神は現れたんだが…いや、現れそうになっていたんだが、なぜか、その時には現れず、そのままぱったりと、姿を消してしまった。気配そのものも含めて、この世界からぱったりと』
「五十年前に、邪神が消えた…?」
そして、その時から、現れてはいない?
ということは、邪神などという存在は、もうこの異世界にはいない、ということか?
…なら、どうして、シャルカさんの口調がここまで重い?
『ここは異世界だからな、魔力に敏感な種族も多い。特に、邪神なんて呼ばれるあの存在の観測は、念入りに行われていた。にもかかわらず、この五十年、ヤツの気配はこの世界のどこからも感知されなかった』
「もしかして、ダレカが巧妙にその邪神の気配を隠していた、とか…ですか?」
魔法といえど、万能でも全能でもない。それでも、なんでもあり、を前提に考えることは必要ではないだろうか。
『いや、その可能性も、おそらくない。何者かが邪神の気配を隠していたとしても、今度は、その隠していたという痕跡が残る。そして、その痕跡を天界やエルフたちが見落とすはずはない。神も天使もエルフも人間もドワーフも…あの邪神には、大切な存在を奪われ続けてきたんだ』
そこにいたのは、ワタシの知らない顔をしたシャルカさんだった。
…たぶん、シャルカさんも同じだ。大切な存在を奪われたという、彼ら彼女らと。
「それじゃあ、その邪神は、五十年前に完全に消滅した…ということですよね」
完全に、気配は消えた。
それを隠している者も、いない。
ならば、その邪神はこの世界から消滅しているはずだ。
けれど。
ワタシの問いかけに、シャルカさんは首を縦には振らなかった。
そして、続ける。
重いままの口を、軋むように開く。
『確かに、ヤツの気配は、完全に消えていた。五十年前からずっと、邪神の魔力は、この世界では一度も観測されてはいないかった…つい、半年ほど前までは、だが』
「それ、は…」
また、観測された、ということか?
邪神とやらの、存在が?
「…邪神が、蘇ろうとしている、ということですか?」
…いや、だ。
邪神なんか、いらない。
ワタシの…ワタシたちの異世界ライフには、そんな存在は、いらないんだ。
ワタシも慎吾も雪花さんも繭ちゃんも、誰も、邪神なんか望んでいない。
そんな怖いやつがいたら、みんなが、安心して暮せないじゃないか…。
みんなで、笑ってご飯が食べられないじゃあないか…。
けれど。
『それが…分からないんだ』
シャルカさんは、首を軽く、二度三度と左右に振る。
「分からないって…どういう、ことなんですか?」
問いかけたが、シャルカさんの返答は歯切れの悪いものだった。
『確かに、邪神の魔力は観測されている…されているんだが、同じ波長のはずなのに、今までの邪神とは、なぜか違っていたんだ』
そこで、シャルカさんは右手で頭を掻いた。
そして、深く呼吸をしてから口を開く。
『すまない、何と言っていいのか、私にも分からない…天界もエルフも、観測されたその魔力の波長が邪神だと断定はしている。しかし、何かが微妙に違っているそうだ。位相が違うんじゃないかとか言われたりしているが、はっきりしたことは、誰にも分からない。確かに邪神のはずなのに、それは、邪神ではなかったんだ』
邪神の魔力が観測されているのに、それが邪神では…ない?
『ただ、今のままなら邪神復活の可能性は、低いのではないか…と、考えられている』
「復活しない…んですか?」
なら、ワタシたちは怯えなくても、いいということか?
『ああ、邪神の魔力やら波長やらが感知されてから半年近くが経つんだが…復活の予兆は一向に観測されていない。ずっと一定の魔力値のままで、一切の変化がないんだ。本当にこのソプラノにいるのかいないのか、それすら判断できない状態だそうだ』
シャルカさんの言葉に、ワタシは小さく胸を撫で下ろす。
『ただ、邪神そのものが復活しないとはいえ、邪神の魔力はこのソプラノに小さな影響を与えている。たとえば、大昔の大戦の時に廃棄されたゴーレムが再起動して暴走したり、眠りについていた伝説の大蛇が目覚めたり、とかな』
「あの騒動は邪神の影響だったんですね…」
慎吾がこのソプラノに来てしばらくした頃、そんな事件が起こった。
だが、そのゴーレムの件も大蛇の件も、人知れずティアちゃんが解決してくれていた。
『それに…仮に邪神が復活したとしても、これまでのような脅威には、ならないかもしれない』
「そうなんですか…?」
それは、ワタシにとっては朗報だった。
けど、そうか。
この世界にも、たくさんの人たちがいる。きっと、優秀な人たちもたくさんいる。そんな人たちが、邪神という共通の脅威に対し、ただ手を拱いているはずはないんだ。
「それが、ワタシに話したいこと…だったんですね」
『いや、違うんだ』
…シャルカさんの表情は、まだ硬いままだった。
「邪神の話じゃ…ないんですか?」
『邪神は…関係している。ただ、ここから話すのは繭について、だ』
「繭…ちゃん?」
なぜ、その名がここで出る?
不意に、胸の奥にぞわり、としたものを感じた。
『先ず…最初に言っておく。この話が終わった後、花子は、私を殴っていい』
それは、冗句を言っている瞳では、なかった。意図せず、ワタシは固唾を呑む。
ラウンジを照らしていた魔石の光が、小さく揺らめいた。
『繭のユニークスキルが何なのか、花子は知っているか?』
「そういえば、知りません…なぜか、使おうとしてもエラーが出る、とか繭ちゃんは言ってましたけれど」
スキルを発動しようとしてエラーが出るなど、そんなことがあるのだろうか。
しかも、女神さまにもらったスキルが、だ。
『繭のユニークスキルは、視界に入れたモノから生命力を奪い取る…というものだ』
「なんでそんな危ないスキルをあの子に与えたんですか!」
ワタシは、一瞬で頭に血が昇った。
あの子は、周りのみんなから愛されるべき存在だ。
だから、あの子には、そんな不吉なスキルなど必要ない。
そんな物騒なモノは、あの子の人生に微塵も必要ない。
「そのスキルで、繭ちゃんが誰かを傷つけちゃったりしたら、あの子の心にも傷が残るで…」
激昂したまま喋り続けていたワタシだったが、尻すぼみに声が小さくなる。
ふと、思い返していた。
…視界に入れたモノから、生命力を奪う?
ワタシは、その不条理な特性を、既に聞いていた。
そして、思い出す。
以前、アルテナさまが語っていた。ユニークスキルというモノの、特徴を。
ユニークスキルとは理不尽なほどに強力で、この世界の理にすら干渉するものだ、と。
だから、世界は拒絶する、と。
同じユニークスキルを持つモノが、複数、存在することを。
複数の持ち主が同じユニークスキルを持っていても、その発動は、世界のキャパシティを超えるために、行えなくなる…と。
つまりは、エラー。
ワタシは、一つの結論に、至る。
「あなたたちは…繭ちゃんを、『保険』に使ったんですね」