70 『きたよ、ぬるりと』
「…………」
一度でも失えば、二度と手に入らないモノが世の中にはある。
そういうモノほどかけがえがなく、それなのに、壊れやすい。
ワタシや雪花さん、それに慎吾や繭ちゃんたち『転生者』は、そのことをよく知っていた。骨身に染みて。
ワタシたちが失ったものは遠い遠い世界に置き去りにされたままで、二度と触れることはできない。
…そして、今現在、『花子』もそのかけがえのないものの一つとなっている。
ワタシだけじゃなくて、ワタシたちみんなにとっての、かけがえのないものだ。
断言はできないけれど、確信に近い予感はあった。
ここで『花子』の手が掴めなければ、ワタシたちはあの子には二度と会えなくなる、と。
「…………」
だから、ワタシは手放さない。『花子』の手を、絶対に。
雪花さんが、白ちゃんが伝えてくれた。『花子』からの二つの伝言を。ワタシは、一つ大きく息を吸ってそのメッセージを反芻する。
一つ目の伝言は、『黄色い服の人たち』だ。
この黄色い装束の人たちとは、源神教徒のことを指している。あの人たちは、黄色の装束を纏うことが決まりとなっていた。つまり、『花子』を連れて行ったのは源神教徒ということになる。『源神教』が崇める神さまは『邪神』で、『花子』は『邪神の魂』だ(正確にはレプリカみたいなものだが)。彼らが『花子』を連れて行く理由は十分にありそうだが…しかし、これは少し妙だった。
「…………」
源神教徒は、『花子』には手を出さないからだ。源神教の教祖代理であるアリーナさんが、直々にそう約束をしてくれた。あの人たちにとっても、『花子』は…いや、『邪神の魂』は簡単に触れていい存在ではないからだ。
それなのに、白ちゃんが伝えてくれた『花子』からのメッセージでは、『花子』を連れ去ったのが源神教の信徒たちということになる。
…この齟齬は、どこからきている?
二つ目のメッセージは、『遠く離れた人たちで会話をしていた』というものだった。
白ちゃんは、真っ白な犬耳でしっかりと聞いて、ワタシたちに教えてくれた。
けど、これもまた、妙だった。
本来、この異世界ソプラノでは遠方にいる相手と口頭でコミュニケーションをとる手段はない。
例外があるとすれば、それは『念話』だけだ。
…とも、言い切れなくなっていたけれど。
何しろ、この世界でも、アレが発明されたからだ。
「『花子』を連れ去った人たちは、『テレプス』を使っていたんですよ」
ワタシは、雪花さんと白ちゃんにそう告げた。
それは、この異世界に現れた新機軸だ。
「『テレプス』っていうと…確か、携帯電話みたいな機能の魔石機だよね?」
雪花さんが、眉間を軽く指で叩きながら思い出すような仕草を見せていた。けど、そこで雪花さんはそれが矛盾だということに気付く。
「でも、待って花子ちゃん…そのテレプスって、まだ発売されてないんだよね」
「それどころか、テレプスは全て押収されているはずなんです」
「…押収?」
小首を傾げた雪花さんに、ワタシは説明を始めた。
「少し前に、『洗脳』騒動があったじゃないですか」
その『洗脳』により、この異世界を征服しようとした迷惑な人たちがいた。
「…でも、その『洗脳』計画は失敗したんだよね」
雪花さんが言うように、その計画は頓挫した。いや、最初から頓挫していた、というべきか。
「そうですね。その洗脳計画の肝とでもいうべき魔石機は、誰にも扱えませんでしたから」
ワタシの説明を、雪花さんも白ちゃんも静かに聞いていた。だから、ワタシはそのまま続ける。
「センザキの一部の不届き者さんたちが起こした、洗脳による王都転覆計画ですけれど、実際にはその計画は実行される前から破綻していたんです。洗脳装置を発動させるには、人々の精神の内側にまで『命令』を届けられる『声』が必要でした。あの人たちは、そのお役目としてうちの繭ちゃんに白羽の矢を立てましたが、繭ちゃんという特殊な『声』の持ち主をもってしても、王都の人たちを完全に洗脳することはできませんでした」
「あの繭ちゃんにもできないってことは…他の誰にも、洗脳なんてできないってことだよね」
雪花さんは、そこで安堵のため息をついていた。それは、アイドルとして活躍している繭ちゃん以上に人々の心に訴えかけられる『声』を持っている人間なんて、この王都には存在しないと確信していたからだ。
「それもこれも、雪花さんのお陰ですけどね」
「私の…?」
「だって、雪花さんの『隠形』があったお陰で、ワタシたちは誰にも見咎められることもなくセンザキ本社に潜入、洗脳装置を発見することができたじゃないですか」
「ああ、そうだったね」
実際、雪花さんがいなければあのスニーキングミッションは達成されなかった。
「あそこで雪花さんが洗脳装置を見つけてくれたから、ジン・センザキさんの持つ『解析』のユニークスキルでその洗脳装置を調査することができたんです」
センザキグループの代表であるジンさんも、ワタシたちと同じく『転生者』で、ワタシたちと同じようにアルテナさまからユニークスキルも授けられていた。そのユニークスキル『解析』は、一目見ただけで機械の内部構造の把握ができるという優れものだった。
しかも、『解析』は構造の把握だけではなく、その先の改良点まで示してくれるのだそうだ。そりゃ、そんなトンデモスキルがあったらセンザキグループの代表まで上り詰めることもできるよね、あの人。
雪花さんもだけど、ホントにユニークスキルって反則級のチートスキルばっかりだよ。この世界に負担がかかるっていうのも納得だわ。
ワタシは、さらに解説を続ける。
「そして、ジンさんの『解析』によって、洗脳装置は特別な…『届けられる声』という声の持ち主でなければ完全に発動することができないと分かりましたが、繭ちゃんで無理なら他の誰にも扱えませんよ」
ワタシは、そこで一呼吸を置いてから結論を口にした。
「当然、世界征服などというあの人たちの野望もそこで潰えました」
センザキ潜入の際には、ワタシたちだけではなく、この王都の第二王子であるアイギスさん(偽名)も参加していた。なので、洗脳を計画していた犯人たちもスムーズにお縄につくこととなった。
さすがに、王子さまに現場を押さえられれば言い逃れなんてできるはずもない。
まあ、当の王子さまは勝手に危ない橋を渡ったということで噂の怖いメイド長さんがカンカンになり、物凄い折檻を喰らったそうだけれど。
「それから、洗脳装置は憲兵の人たちに押収されましたし、洗脳装置のサポートに必要だった『テレプス』も、同時に押さえられたんです。元々、洗脳装置だけでは王都の人たち全てを洗脳することなんてできませんでした。『テレプス』を中継点として連結させることで、ようやく広範囲に洗脳の効果を及ぼすことができたんです…いえ、できる予定だったんです」
言い終えたワタシは、そこで小さく冷や汗をかいていた。
もし、あの洗脳装置に完全に人を支配するだけの力があった場合…この王都は、彼らの手に落ちていた。
いや、ちょっと脱線が過ぎた。
…まだ、何も終わってなんて、いないんだ。
先ほどの『念話』で『花子』が伝えてくれたことは二つ。一つは、あの子を連れて行ったのが源神教の信徒たちであること、もう一つは、彼らが『テレプス』を使って遠方の仲間と連絡を取り合っていた、ということだ。
「あれ、でもちょっと待って…『テレプス』って、今は国が保管してるはずじゃなかったの?」
雪花さんが、そこに疑問を持った。
ワタシが、先ほど「『テレプス』は国に押収されている」と説明したからだ。
「それなのに、『花子』ちゃんを攫った人たちが『テレプス』で連絡を取り合っていた、っていうのはおかしいんじゃあ…」
確かに、ワタシは先ほどそう言った。だから、雪花さんはそこに矛盾を感じているんだ。
「そうですね。『遠く離れた人と連絡を取り合う手段』は、『テレプス』しかありません」
ユニークスキルである『念話』を除けば、だけれど。
「でも、花子ちゃん…『テレプス』は全部、国が持って行っちゃったんだよね?」
「そうですね。国側で念入りに『テレプス』を調べ上げ、それでこの国に害を及ぼすことがないと判断されればセンザキグループに返却される予定でした」
ワタシは、アイギスさんから聞いていた話をそのまま雪花さんにスライドして伝えた。
「それなら、『花子』ちゃんを攫った人たちが『テレプス』を所持していたのはおかしいよ…というか『花子』ちゃんを連れて行ったのが源神教徒なら、魔石機は使わないはずだよね」
雪花さんの指摘通り、源神教徒は魔石機の使用に反対していた。街中でデモまで起こしていたほどだ。あの人たちの魔石機アレルギーは筋金入りと言っていい。
「そうですね…源神教の信徒たちも十把一絡げにはできない、ということですよ。ジン・センザキ氏は、源神教の信徒たちの何人かと接触していて、人知れず交友を深めていました」
ワタシは、あの人から聞いた話を雪花さんたちに伝える。
雪花さんたちは、それに何の関係があるのか、という表情を浮かべていた。
…というか、ワタシも気が付いた。
今回の騒動の、深淵にあるものに。
「以前、センザキグループの本社に源神教徒たちが不法侵入したことがありましたよね」
「ああ、あったね。確か、その時に『テレプス』、が消えていたって…」
雪花さんが、そこで言葉を失った。途中で気付いたんだ、そこで失われた『テレプス』の行方に。
続きは、ワタシが引き継ぐことにした。
「そうです。センザキ本社からいくつかの『テレプス』が盗み出されたんです。持ち出したのは、ジン・センザキ氏と関わりのあった源神教の信徒たちです。センザキ氏が指示していたんですよ。自分に何かがあった時には『テレプス』を運び出すように、と」
あの時、あの人は生死の境をさまよっていた。
「しかし、センザキ本社には警備の人たちもいるし、本来ならちょっと侵入しただけで重要機密を持ち出すことなんてできません。事前にセンザキ氏から本社の部下の人たちにも何らかの根回しがあったと推察されます」
センザキ社員に回されたその根回しのお陰で、源神教徒たちはセンザキ本社から『テレプス』を持ち出すことができた。そして、それらは今も彼らの手元にある。
ワタシは、そこで喉の渇きを覚えた。けど、その程度の弱音を吐いていられる状況にはない。
「だから、『花子』を連れ去った人たちは今も『テレプス』で連絡を取り合っていたんです。センザキグループが所持していた『テレプス』は、全て国が押収したにもかかわらず」
「それじゃあ、『花子』ちゃんを連れ去ったのは…」
「ジン・センザキ氏の息がかかった、源神教の信徒たちです」
そこで、風が舞った。ほんの少しの土埃を巻き上げながら。
ワタシの喉は、さらに乾いた。
「でも…どうして『花子』ちゃんを?」
雪花さんは『花子』の身を案じていた。この人にとっても、『花子』はとっくに家族なんだ。ワタシは、そのことがたまらなく嬉しかった。
だから、絶対に『花子』は連れ帰る。ワタシのためにも、みんなのためにも。
「ここからは、本当に推測になるのですけれど…」
それでも、おそらく、間違いではない。
「もしかすると、ワタシと間違えたのかも、しれません」
「花子ちゃんと?」
驚きを声にしたのは雪花さんだったけれど、目を丸くしていたのは白ちゃんも同様だった。
そんな二人に、ワタシは告げる。
「さっき、雪花さんたちも聞きましたよね。『日本史のテスト』があるって話していた女学生たちの会話を」
「そうだね…聞いたよ」
雪花さんも、それがどれだけありえないことか理解している。理解をしているからこそ、その表情から血の気が失せていた。
「けど…それと『花子』ちゃんを連れ去った理由と、どう関係があるの?」
「本来、この異世界ソプラノには日本史なんて授業はありえません。なら、それを仕込んだダレカがいると考えるんが自然です。いえ、仕込んだのではなく捻じ込んだ、でしょうか」
「捻じ込んだって…あの子たちの学校の先生が?」
雪花さんも、大きく息を吸っていた。気持ちを整理するためには、酸素が必要だったからだ。
そんな雪花さんに、ワタシは答えた。
「いえ、完全な余所者です」
「余所者…?」
「余所者は余所者ですよ。異世界からの余所者です」
ワタシの言葉は、そこで、一気に浸透した。
雪花さんの中に。白ちゃんの中に。
「当然、あの子たちは日本史なんてものは微塵も知らなかったはずです。けど、その日本史を当たり前のモノとして受け入れていた。そんなこと、あり得るはずはないというのに。このズレは、どこからきているんでしょうね」
当たり前の日常が、いつの間にか当たり前ではなくなっていく。
それが、どれだけ異質で異常なことか。
ワタシは、その異質について口にした。
「けど、そのズレを埋められるものが、一つだけあります…」
「花子ちゃん…」
「ええ、『洗脳』ですよ」
それも、完璧な洗脳だ。
誰も違和感には気付かず、当たり前ではないものが、いつの間にか当たり前に挿げ変わっていく。
これが完璧な洗脳ではなくて、なんだろうか。
「でも、花子ちゃん…洗脳計画は、できないはずじゃなかったの?」
雪花さんは、縋るような声だった。いや、実際にワタシの服の裾に縋りついていた。
「できないはずでしたね。人々の精神の内側にまで届けられる『声』がなければ」
ワタシは、雪花さんの手に、自分の手をそっと重ねた。
二人分の体温が重なったはずなのに、温もりは感じられなかった。ワタシの手も雪花さんの手も、どちらも等しく冷たかったからだ。
それでも、ワタシは続ける。
これが、『花子』につながる道だからだ。
「でも、あったんですよね。そんな、わけの分からない『届ける声』とかいうものが」
そもそも、『届ける声』ってなんだよと思わなくもない。けど、連想してしまえば、なんとなくの納得はできた。
ワタシの手に縋る雪花さん手に、また少し、力が入った。
「花子ちゃん…でも、何なの、それは?」
「『念話』ですよ」
簡潔に、そう言った。何の飾り気もなしに、そのままの姿で。
「念…話?」
「その完全な洗脳に必要なものが相手の精神の奥に何かを『届ける声』なのだとしたら…『念話』はうってつけだったんでしょうね」
洗脳とは、問答無用で相手の精神を汚染する行為。
しかし、相手の精神の中には、そう簡単に侵入できるものではない。
そして、『念話』は問答無用で相手に言葉を伝える力だ。全ての壁を、『念話』は通り抜ける。
だからこその、『念話』だった。
相手の精神を中から汚染し、その中身を根こそぎ変遷させるために。その侵入のために。
必要なのは、『念話』だった。
「ああ、そうか…だから、花子ちゃんと『花子』ちゃんを間違えたのかもしれないって言ったんだね」
「そうです…あの人が本当に欲しがったのは、ワタシの『念話』なんです」
完全なる洗脳を、施すために。
しかし、ワタシと『花子』はそこそこ瓜二つだ。よく知らない人からすれば、間違えても仕方がない。
「それじゃあ…花子ちゃんを連れ去ろうとしていたのってダレなの?」
「そんなの、該当するのは一人しかいませんよ」
その該当者には、少し前から気付いていた。
色々と情報を整理している間に、その名前は頭に浮かんでいた。
きたよ、ぬるりと。って感じで。
ワタシは、そのぬるりと来た名を口にした。
「センザキグループの代表である、ジン・センザキ氏ですよ」