69 『拙者の妄想は後退の螺子を外してあるのでござるよ』
「…………」
幼い頃のワタシは…いや、大きくなった今でも、ワタシは『不思議の国のアリス』が大好きだった。
普通の女の子が、不思議な異世界で大冒険を繰り広げる姿はかわいらしさの中にも爽快感があった。そして、自分をアリスに見立てて色々と想像したちょっとイタ
とか、正気の沙汰じゃない台詞を口にしてたからね、あの人。
まあ、ある意味ではあの奔放さに羨望を感じることもある。絶対に真似はしたくないけれど。
しかし、不思議の国の妄想は、妄想のままだから心地がいいんだ。
妄想はあくまでも絵に描いた餅のままで、ワタシたちを傷つけることはない。
…不思議の国が幻想ではなくなった時、その幻想はワタシたちに牙を剥く。
そして、その幻想と現実とのズレが大きければ大きいほど、その牙は深々とワタシたちに喰い込む。ご丁寧に、その牙には『かえし』がついていて容易には抜けない。
「…………」
この異世界ソプラノの空に、亀裂が走った。
それは、『世界の崩壊』の前兆だ。
しかも、その亀裂は以前よりも肥大化していた。
このまま順調に肥大化が続けば、最終的に、どうなるのだろうか。
「…………」
通りすがりの女学生たちが、「明日の日本史の小テストかったるいね」みたいなことをボヤいていた。
…ここ、異世界のはずなんですけれど?
なんで、日本史の小テストがあるのですか?
徳川十五代の将軍を憶えたところで、役には立たないはずですよね?
一体いつから、この世界の歴史に江戸幕府が介入していたのですか?
少なくとも、ワタシがこの異世界に来てから、日本史のカリキュラムがあるという話は一度も聞いたことがない。
「…………」
さらに、届くはずのない『念話』が、雪花さんに届いていた。
その『念話』のスキルホルダーはワタシで、この世界ではワタシしか『念話』を扱うことはできない。他のダレにも、雪花さんに『念話』を飛ばすことなんてできな…。
…いや、少し違うか。
雪花さんが言ったのは、こうだ。
「花子殿…どうして、さっきから拙者に『念話』を飛ばしているのですか?」と。
ワタシしか、『念話』は扱えない。
そして、そのワタシは、ここにいる。
雪花さんのすぐ傍にいる。『念話』なんて使う必要はどこにもない。
それなら、どのワタシが、雪花さんに『念話』で語りかけているのですか?
背筋が、凍るほどの怖気を覚えた。
…この異世界には、もう一人のワタシがいるのか、と。
「…………」
ワタシが思う最も怖い話は、現実がほんの少しだけ変質するタイプの、現実と地続きの物語だ。
当たり前のモノが、いつの間にか当たり前ではなくなっていく。
ほんの少しずつ、真綿で首を締めるようにじわりじわり、と。
おかしいのは世界のはずなのに、その変化が巧妙であるが故に、自分がおかしくなったと理不尽に思い込まされる。
それが、もっとも怖い。
…まさに、今のワタシがその状態だった。
「…だって、おかしいよ」
なんで、こんなちぐはぐになってるの?
昨日までの王都と、まるで違う世界だ。世界の景観はそのままなのに、中身だけが少しずつ変色、もしくは腐食している。
…明日になったら、この世界、どうなってるの?
雪花さんは、ワタシを見ていた。ひどく怯える瞳で。もう、雪花さんは言葉も発せなくなっていた。その唇は、軽く蒼褪めている。
…そうだよね、怖いよね。
ワタシが送っていない『念話』が、雪花さんの元にワタシから届いたんだ。
図々しいけど、元凶のワタシも、怯えていた。
そのワタシの怯えが雪花さんにも伝わっていて、波状に拡散していく。恐怖はというものは、感染する。当然、ワクチンなんて存在しない。
「…………」
けど、そんなワタシと雪花さんの手を、白ちゃんが握った。
その小さくて色白なお手手を、か細く振動させていたのに。
…この子も、怖いんだ。
当然、だよね。ワタシや雪花さんがこれだけ怯えているんだ。その異様さは、確実にこの子にも伝わっている。
それでも、この子はワタシたちに手を伸ばしてくれた。
なけなしの勇気を、振り絞って。
「白ちゃん…」
ワタシたちよりも、小さな子だった。
異世界からの、身寄りのない『漂流者』だった。ワタシたちの中で、最も理不尽に翻弄されているのは、この小さな少年だった。
だけど、誰よりも勇敢だった。
だから、ワタシも少し落ち着けた。深く息を吸った。肺の中の酸素を、古いものから新しいものへと入れ替える。ほんの少しだけ、脳がすっきりとした。
「雪花さん…『念話』は、今も聞こえますか?」
ワタシは、雪花さんに問いかけた。ワタシの膝はまだ震えていたけれど、それは無視した。
「それが、雑音混じりで、はっきり聞こえないんだよ…でも、分かる。これは、花子ちゃんと同じ『念話』だよ」
雪花さんは、素の言葉で話していた。その瞳も潤んでいた。それでも、雪花さんも言葉を紡ぐ。なけなしの勇気を、かき集めて。
…ワタシたちは、悲しいくらいに弱い。
ワタシ、雪花さん、白ちゃんの三人は、ワタシたちの中でも一番、怖がりで弱虫だ。
でも、負けない。怖さになんか、負けてやらない。
弱虫でも、今のワタシたちは三人でいる。
三人もいれば、弱虫のままでもチョウチョくらいになれるんだ。
「『念話』…ですか」
ワタシは、小さくつぶやいた。雪花さんが『念話』だというのなら、それは間違いないのだろう。ワタシが『念話』で話す頻度が一番、高いのは雪花さんだ。なんだかんだと、この人と『念話』の無駄遣いを繰り返していた。それだけ、ワタシがこの人に懐いているという証左なのだけれど。
そこで、ワタシは気付いた。
というか、ワタシはすぐに気付かなければならなかったんだ。ワタシだけは、あの子のことを忘れてはいけなかった。
だって、いたじゃないか。
…この世界には、もう一人のワタシが。
ワタシは、その名を静かに呼んだ。会いたいという、その気持ちを込めて。
「『花子』…ですね」
ワタシの声に、雪花さんと白ちゃんが同時に身を固くした。
ワタシのユニークスキルである『念話』はワタシにしか扱えない。そして、ユニークスキルというのはどれも破格の効果を持っている天与のギフトだ。ただし、それらは効果が絶大な分、この世界に負担をかけているのだそうだ。だから、同じユニークスキルを二人以上の人間が所持している場合、両者ともにそのスキルを扱うことはできなくなる。そのユニークスキルの負荷に、この世界が耐えられないからだ。
「…………」
けど、もしも、ワタシと『花子』が同一人物として、この世界にカウントされていたとしたら?
もしそうなら、『花子』も『念話』が扱える可能性はある。
そして、『花子』とワタシが同一人物として扱われているのなら、ワタシが『花子』相手に『念話』が使えなかったことにも納得がいく。自分を相手に『念話』は飛ばせないということなんだ。
まあ、これらは状況から逆算しただけの仮定の話でしかないけれど。
それでも、これは蜘蛛の糸だ。
どこかにいる、『花子』の姿を手繰るための。
「あの子が…『花子』が『念話』を使っているのだとしたら、『花子』の居場所を聞き出すことができるはずです」
ワタシは、雪花さんにそう伝えた。ワタシが『花子』相手に『念話』を飛ばせないのと同様に、『花子』もワタシには『念話』を使えない。だから、『花子』は雪花さんに『念話』で語りかけているんだ。
「でも…ノイズ混じりでよく聞こえないの」
雪花さんは、震える声でそう言った。
「そうですね…多分、『花子』の『念話』のスキルレベルが低いんでしょうね。だから、雪花さんにはっきりとした声を伝えられないんです」
ワタシも、『念話』を使い始めた頃はそうだった。声に雑音が入っていて、うまくメッセージを伝えられなかった。いや、それだけじゃない。
「それに、『花子』のスキルレベルが初期の状態なら、雪花さんの声は『花子』には届かないはずですよ」
初級レベルの『念話』は、発信者からの一方通行になる。だから、情報の交換はきわめて困難だ。
というか、ワタシと同一人物扱いなら、ワタシから分離した時に『花子』の『念話』スキルも完ストの状態にさせておいて欲しかった。ワタシなんて無駄に『念話』を使いまくってたから、ネトゲ廃人並みのスピードでレベルマックスになったのに。
「…なら、私が『花子』ちゃんの声をちゃんと拾わないといけないってことだね」
雪花さんは、そこで軽く瞳を閉じた。視界を閉ざすことで、聴覚を少しでも鋭敏にするために。
「お願いします、雪花さん…多分、『花子』の『念話』はそれほど長くつながらないはずですから」
具体的な時間は憶えていないが、初期状態の『念話』の持続時間は長くない。もしかすると、あと数秒しか持たない可能性もある。
「責任…重大だね」
不敵に笑う雪花さんだったけれど、その表情は浮かない。集中しても、『念話』の内容がはっきりとは聞こえていないんだ。
「お願い『花子』…もう少し、頑張って」
ワタシは、祈るように雪花さんの手を握る。
だって、このまま『花子』とお別れなんて、絶対にしたくない!
あの子が、『邪神の魂』だったとしても、だ!
『雪花お姉さん…花子お姉さん』
雪花さんの手を握るワタシを見て、白ちゃんも雪花さんの手を握った。
傍から見れば、それは珍妙な光景だった。雪花さんを中心に、ワタシと白ちゃんが雪花さんの手を握っている。通りすがる人たちが、遠巻きに奇異の視線を向けているのも感じていた。それでもワタシと白ちゃんは雪花さんの手を離さない。他の人たちに理解されなくたっていい。今、ここでこうして手をつないでいることが、ワタシたちにできる最善なんだ。『念話』は、発動中に体に接触していれば、その相手も一緒に話をすることができる。
…お願い、聞かせて。『花子』の声を、ワタシにも聞かせて。
聞こえないと分かっていても、祈ることはやめられなかった。
そして、現実はいつも、ワタシにやさしくは、してくれない。
「…………」
雪花さんも必死だった。懸命に、『花子』からの伝言に耳を澄ましていた。それでも、『花子』の声は聞こえていない。やっぱり、初期レベルの『花子』の『念話』ではまともに声は聞こえないのだろうか。これで、『花子』の居場所は分からないままかと、絶望しかけた矢先…。
『きいろ…はな』
声を発したのは、白ちゃんだった。白ちゃんも、雪花さんの真似をして瞳を閉じていた。いや、雪花さんよりも固く瞼を閉じている。
「白ちゃん…もしかして」
…『花子』の声が、聞こえているの?
白ちゃんは、あの子の声を、聞いてくれてるの?
『小さい声だけど、聞こえにくいけど…聞こえないことは、ないよ』
白ちゃんは、真っ白な犬耳をぴくぴくと動かしていた。懸命に、『花子』の声を拾おうと、している。
そして、伝えてくれた。『花子』の言葉の、断片を。
『言ってる。『花子』お姉さん…『黄色い服』って。それから、『離れた人同士で話をしてる』って』
白ちゃんは、さらに固く目を瞑る。ワタシたちとつないだ手にも、力を込める。『花子』の声を、ほんの少しも、取りこぼしたりしないように。
「…だったら」
ワタシも、白ちゃんの頑張りを無駄になんてしない。『花子』の懸命な声を、絶対に受け止める。
ワタシは、思考する。いや、深く沈降する。白ちゃんが教えてくれた言葉の意味を、脳裏に刻み込む。
黄色い服…?
離れた同士で話をしている…?
与えられた情報は断片だ。これだけだと、おそらく意味をなさない。なら、その隙間を埋めるピースが必要になる。
…なら、その隙間に嵌まる欠片はなんだ?
ワタシは、『花子』とずっと一緒にいた。あの子の考えなら、ワタシは汲み取れるはずなんだ。集中しろ、ワタシ。もっと集中しろ。
少しくらいなら、脳が焼け切れたってかまうものか!
「白ちゃん…他には、何か聞こえない?」
雪花さんが、そっと白ちゃんに問いかける。
『『花子』お姉さん、その人たちに、連れて行かれたみたい…どこに連れて行かれたのかは、まだ分からないけど』
白ちゃんは、もどかしそうにそう言った。『花子』がナニモノかに連れて行かれたことは分かるのに、『花子』のために手を伸ばすことは、できない。その口惜しさに、白ちゃんは悶えている。
けど、こちらから返事ができないということは、『花子』の方はもっと大きな不安を抱えているはずだ。ワタシたちに向けた言葉がちゃんと届いているのか、それを確認するすべがない。それが不安にならないはずはない。
そもそも、『花子』だって自分が『念話』を使えるなんて思っていなかったはずだ。けど、『花子』は『念話』を使えた。
そこまで追い詰められていたから、『花子』も『念話』を発動できたんだ。
…要するに、『花子』の『念話』は不安の裏返しだ。
『あ、ああ…あぁ』
そこで、白ちゃんが悲しい声を上げた。
その理由は、ワタシや雪花さんも理解できた。
途切れてしまったからだ。『花子』からの『念話』が。
…これで、『花子』からのメッセージを受け取ることは、できなくなった。
「花子ちゃん…『念話』ってどれくらいの時間で再使用できるようになるの?」
雪花さんが、焦燥した声で問いかけてきた。
「…おそらく、今日はもう無理です」
ワタシはその言葉を口にした。したくはなかったけれど、これが、現実だ。『念話』だって、そう連続で使えるものじゃない。特に、スキルレベルが低いうちは一日に一度が限度だ。
「これじゃあ…何も、分からないよ」
雪花さんは嘆きとともに俯いた。その声にも、涙の色が混じり始める。
「…まだ、ですよ」
ワタシは、そこで雪花さんから手を離した。『花子』からの『念話』は途切れたのだから、これ以上、手をつなぐ必要はない。
…でも、それは雪花さんたちに対する拒絶ではないし、『花子』に対する諦観でもない。
「…『花子』は、『黄色い服』と言いました」
ワタシは、繰り返した。
白ちゃんが伝えてくれた、『花子』からの伝言の一つを。
雪花さんと白ちゃんは、そんなワタシを眺めていた。期待と不安が入り混じる瞳で。
「そして、『遠く離れた人同士で会話をしている』とも」
これは、『花子』が伝えてくれた二つ目のメッセージだ。
多分、『花子』はこの二つ以外にもたくさんの言葉を伝えようとしてくれたはずだ。でも、それらは届かなかった。
…いや、この二つが届いただけでも奇跡なんだ。
白ちゃんがいてくれたからこそ起きた、奇跡だ。
だったら…いや、だから、その二つの奇跡には意味がある。
そして、その奇跡の尻尾を掴むのが、ワタシの役目だ。
「最初の『黄色い服』は、『源神教』の人たちが着ている服のことだと思います」
これは比較的、分かりやすかった。『花子』も街中で何度か源神教徒を見かけているし、おそらくはそのことを伝えたかったんだ。ワタシたちならすぐに気付いてくれると願いながら。
「じゃあ、『花子』ちゃんを連れて行ったのは、源神教徒たち…なの?」
雪花さんの問いかけに、ワタシは首肯してから続けた。
「そうでしょうね…ただ、少しだけ分かりません」
「どうして?確か、『源神教』は『邪神』を祀ってるんでしょ?だったら、何か目的があって『花子』ちゃんを誘拐したとしても、おかしくないんじゃない?」
雪花さんは狼狽えていた。
白ちゃんは、先ほど口にした。『『花子』お姉さんがその人たちに連れて行かれたみたい』と。だから、雪花さんは『花子』が誘拐されたと判断したんだ。
「でも、雪花さん。そもそも、源神教の人たちにとって今の『花子』はアンタッチャブルな位置づけになっているんですよ」
「アンタッチャブル…?」
「確かに、『源神教』が崇める神さまは『邪神』です。そして、その化身とも言える『花子』は重要な存在です。けど、だからこそ『花子』は無暗に触れていい存在ではないんです。『源神教』の教祖代理のアリーナさんだって、信徒たちにはそう伝えているはずなんですから」
「…でも、『花子』ちゃんをさらったのは、源神教徒なんだよね?」
雪花さんの問いかけに、ワタシは答えた。
白ちゃんの言葉をつなぎ合わせた、ワタシなりの結論を。
「そうですね。おそらく、ですけれど…『花子』を連れて行ったのは、『源神教』の異分子の人たちです』
「『源神教』の中の…異分子?」
「そして、ここからはさらに仮定の話になるんですけど…『花子』からの二つ目のメッセージが、『花子』を連れ去った理由になります」
二つ目の『遠く離れた人たち同士で会話をしていた』という、『花子』からの言伝。
それは、どう考えてもこの異世界ではありえないものだ。
というか、ワタシを差し置いてそんなことをするのは、あの人しかいない。