68 『さんをつけろよ、デコ助ニャロウ!』
世の中には、決して容易くは解けない問題…難問と呼ばれる命題が、いくつか存在している。
単純に難解すぎて解けない問題もあれば、心情的に解けない問題というものもある。
そして、ワタシは現在、その後者の問題にぶち当たっていた。まったくの、突発的に。
「…………」
今朝、『花子』が忽然と姿を消してしまった。
ワタシの『念話』は『花子』には届かないので、『花子』を探すのならば、足を使って地道に探すしかない。
そして、ワタシだけではなく、雪花さんや白ちゃんも一緒に『花子』を探してくれることになった。
だから、多少の不安はあっても、心強い味方が一緒だった。
そして、王都の街中を歩き回りながら、ワタシは知り合いに『念話』を飛ばし続けた。
誰か、『花子』を見かけていませんか、と。
しかし、『花子』の足跡を知る人は一人もいなかった。
そんな中、ワタシはリリスちゃんにも『念話』を飛ばした。
「…………」
けど、ワタシが『花子』の話を切り出す前に、リリスちゃんは言った。
『…先生と話をするのも、これが最後かもしれませんねぇ』
…と。
ガラにもなく縁起でもない台詞を、リリスちゃんは弱々しく口にした。
あれだけワタシと一緒にいても、一度もそんな弱い言葉は口にしなかった。けど、ああ見えて、リリスちゃんは洒落にならない冗談だけは言わない子だった。
そして本当に、リリスちゃんの『声』はそこで途絶した。
あの、憎たらしくもかわいい声が、唐突に聞こえなくなる。ワタシが何度も呼びかけても、リリスちゃんからの返事は梨の礫だった。
「リリスちゃんが…リリスちゃんが」
リリスちゃんの身に、生半ではない事態が起こっている。だって、あのリリスちゃんがワタシに憎まれ口の一つも言わなかったんだ。
ワタシの胃の中のモノが、逆流と対流を始めた。猛烈な吐き気に襲われて、脂汗がいくつも額に浮かぶ。そして、視野の狭窄まで、始まった。
…最悪の事態が、ワタシの脳裏に浮かぶ。いや、沈殿する。
それは、ワタシの心の奥の方にこびり付いて、念入りにワタシを腐食する。
『先生…先生』
聞こえないはずのリリスちゃんの声が聞こえた…気が、した。
血だまりに沈みながら恨めしそうな瞳でにワタシに手を伸ばすリリスちゃんの姿が、幻覚となりワタシの中に朗々と映し出された。
本当に、幻覚?
幻覚、のはずだよね?
ただ、現在のリリスちゃんがこうなっていたとしても、おかしくは、ない。
…いやだ。
…リリスちゃんのそんな姿は、いやだ。
ぜったいに いやで。
ぜったい にいやに、きまってい る
「…………」
けれど、『花子』もいない。
消えてしまった。『花子』も。
もう『花子』にも 会えないのだろう か。
それ も ぜったい にいや だよ
「…………」
もしかして、このまま一人ずつ、順繰りにワタシの前から消えていってしまうのだろうか。
シャルカさんが消えて。
白ちゃんが消えて。
繭ちゃんがきえて。
せっかさん もきえ て。
ティアちゃんだ ってき えて。
さいご しんごもいな なる
「…………」
みんなみんなみんな、いなくなってしまうのだろうか。
ワタシの大好きな人たちが、一人残らず。
この世界から。
いなくなて しまうのたろう か。
ワタ シだけ のこ て。
「…………」
窄まっていく視界が、さらに黒く澱む。
呼吸すら、途切れ途切れで息苦しくなる。
周囲の音も、ワタシを置き去りにして遠ざかっていく。
ワタシを覆っていた体温も、徐々に失われていく。
世界と、ワタシの、乖離が始まっていた。
…ワタシが、最初に、この世界から消えるのかと思った。
「…ちゃん、花子ちゃん!」
遠い世界から、茫洋とした声が聞こえてくる。
「花子…ちゃん!」
声は、少しずつワタシに近づいてくる。
それと同時に、ワタシは埋もれていた。
ひどく肉厚な、そのボリュームに。
「雪花…さん?」
ワタシは、雪花さんに抱きしめられていた。というか、雪花さんの胸に顔を埋没させられていた。
…相変わらず、非常識なスケールの乳だね。
というか、息苦しかったのってコレのせいじゃないの?
「ようやく気付いたんだね…びっくりしたよ、急に座り込むし声をかけても反応しないしいきなり死んじゃったかと思ったんだよ!」
雪花さんは、ワタシを胸に埋めたまま捲し立てた。正直、その言葉は半分も聞こえていなかった。ただ、雪花さんがワタシのことを心の底から心配していたということだけは、半ば混濁した意識でも理解はできた。雪花さんの口調が、いつものエセござる口調ではなく素の月ヶ瀬雪花の口調だったから。
「ワタシ…どうして、まひた?」
やや呂律が回らないまま、ワタシは雪花さんに問いかけた。
そんなワタシに、雪花さんは教えてくれた。その声は、か細く震えていた。
「花子ちゃんは、急に、死んだみたいに動かなくなっちゃったんだよ…確か、『念話』を使ってたはずなんだけど」
「…ああ、そうですね」
そういえばそうだ。
ワタシは、みんなに『念話』で『花子』のことを尋ねていた。けど、空振りばっかりで…それから、リリスちゃんにも『念話』を飛ばしたんだ。
…そして。
「というか、雪花さん…そろそろ放してくれませんか」
ワタシはずっと雪花さんの胸に埋もれたままだったので、そこからの解放を求めた。
「…花子殿も、もう大丈夫そうでござるな」
「別に、ちょっとした立ち眩みみたいなものですよ…というか暑苦しいんですけどね、この不快な肉塊が」
「そんなバカな、男の子なら大枚を叩いてでも拙者の胸に飛び込みたいはずでござるぞ?」
「ワタシ的には『ガオリが死んでいぐっ!?』って感じだったんですが?」
あのシーンは、五本の指に入るくらいのワタシのトラウマなのだ。
「まあ、逆立ちしてもできない芸当でござるからなぁ、まな板の花子殿では」
「さんをつけろよ、デコ助ニャロウ!」
このやりとりだけは、もう完全に普段通りだった。かなり不毛だったけれど、少しずつ、ワタシの感覚は元に戻りつつある。そこで、ようやくワタシは気付いた。
「ええと…白ちゃんはどうしたのかな?」
白ちゃんが、ワタシの背中にぴったりとコバンザメのように抱き着いていたことに。
『あのね、ええと、花子お姉さんがおかしくなっちゃったから…でも、ぼく、何もできないから」
白ちゃんはしどろもどろでそう話していた。
ああ、そうか。
この子も、ワタシのことを心配してくれたんだよね。
必死に、ワタシのことをつなぎとめてくれていたんだ。
うん…嬉しいよ、白ちゃん。
だから、白ちゃんに感謝を伝えた。希釈も何もない、原液の感謝を。
「ありがとうね…白ちゃん」
『…でも、ぼく何にもしてないよ?』
「白ちゃんは、とっても大事なことをしてくれたよ…白ちゃんは、ワタシをこの世界に引き留めてくれたんだよ」
ワタシは、そこで白ちゃんの頭を撫でた。ふかふかして気持ちよかった。白ちゃんも、ワタシの手を嫌がったりはしなかった。そこそこ打ち解けてきたよね、ワタシたち。
…となると、憧れのアレをしても怒られない日が近づいているのではないだろうか。
動物好きなら一度は憧れる、あの犬吸いというヤツを。
白ちゃんのモフモフ尻尾なら、きっとお日様のにおいがすると思うんだよね。
「それで、何があったのでござるか」
雪花さんの言葉が、ワタシを現実に引き戻した。
…そうだね、楽しい時間は、とりあえずここまでだね。
「リリスちゃんが…危険な状態にあるかもしれないんです」
ワタシは、先ほどの『念話』でリリスちゃんの声が途切れたこと、その際に縁起でもない言葉を口にしていたことを雪花さんたちにも伝えた。
リリスちゃんに逼迫したナニカが迫っていることは、間違いない。
けど、『花子』だって、放ってはおけない。あの子も、今現在、どこかでワタシの助けを必要としているかもしれない。
…なら、ワタシは、どちらを優先すべきなのだろうか?
リリスちゃんか?『花子』か?
「…選べるはず、ないよ」
どちらも、ワタシにとっては大切な存在だ。
そして、ワタシの手は二本もあるけれど、この手はそこまで長くはない。
おそらく、どちらか一人にしか届かない。
最悪、どちらにも、届かない。
…そもそも、ワタシなんかがダレカを選ぶということ自体、烏滸がましい。
「なら、手分けをするでござるか?」
再び案山子のように動かなくなったワタシに、雪花さんがそう提案した。
「…そう、ですね」
辛うじて雪花さんに返事はしたけれど、それが無理だということも分かっていた。
…リリスちゃんがどこにいて、『花子』がどこにいるのか、その居場所をワタシは知らないんだ。
だから、動けなかった。居場所なんか知らなくても、先ずは動くべきだというのに。それが悪足掻きにすらならなかったとしても。
「よし、じゃあ…」
役立たずのワタシに代わり、雪花さんが陣頭指揮をとろうとした。
…その矢先。
「…………!?」
「…………!?」
『…………!?』
ワタシたち三人を、災禍が均等に包み込んだ。
呼気が乱れ、体の中から汗が搾り取られる。
音が奪われ、視界が閉ざされる。
いや、この世界そのものが、閉じていく。
しかも、これらが幻覚の類ではない。
実際に、世界が閉じているんだ。
この閉ざされていく感覚には、覚えがある。
「…『世界の崩壊』?」
それは、この異世界特有の、極めてふざけた現象だ。
しかも、ご丁寧に『世界の崩壊』などと名付けられている。けれど、それが名前負けではない。実際、あの空の亀裂が肥大化すれば、この世界そのものを分断してしまうと言われている。
ワタシの薄れていく視界の先では、大空に浮かぶ黒い亀裂が広がっていた。青空に浮かぶ世界の亀裂…性質の悪い冗談でしかない自然の光景が、漫然と広がっている。それほど頻繁に起こるものではなく、数百年単位で稀に起こるだけで、この崩壊に対するこの世界の防衛力も働くので、実際に世界が崩壊することはないそうだが。
「けど、その崩壊を利用しようとしている人が…」
そう呟きかけて、ワタシは首を振った。
今は、『世界の崩壊』なんぞにかまけている場合ではない。このくそ忙しい時に、自然現象なんかに邪魔されてたまるか。ワタシは苛立ちを覚えた。一刻も早く、リリスちゃんと『花子』を探しに行きたいん…だ。
どう…せ、あの亀裂もすぐに消え…るはず…なのに?
消え…なかった?
今までなら、数秒ほどであの亀裂は消えていた…という…のに?
「…………?」
消えるどころか…亀裂は…肥大化…していた?
あの亀裂…が、大きくなると…いうこと…は?
このまま…消える?
この…世界が?この…異世界ソプラノが?
ちょっと…まって、よ?
まだ、ワタシ…リリスちゃんにも…『花子』にも会えていない…んだ。
…こんなところで、終われないよ?
「…………」
しかし、そこで停止していた。
いつの間にか、亀裂は、止まっていた…いや、亀裂はそこで、消えて、いた。最初から、そんなものはなかったように。
…世界は、救われた?
「…今、のは?」
雪花さんが、そこで小さく呟いた。おそらく、そう呟くことが限界だった。あの理不尽を目の当たりにすれば、誰でも言葉を失う。
しかも、世界が消えるあの感覚が、以前より強くなっていた?
「…………あ」
ワタシも何かを言おうとしたが、まともな言葉は出てこなかった。動悸が激しく、呼吸もままならない。白ちゃんも、ワタシと同じような状態だった。だから、ワタシと白ちゃんは抱き合った。弱い者同士、身を寄せ合った。白ちゃんとワタシの呼吸は不思議とシンクロし、二人とも少しずつ落ち着いていった。
…けど、これ、絶対に前より深刻になってる。
ワタシたちだけではなく、周囲の人たちも足を止めて不思議がっていた。ただ、ワタシたちほどあの亀裂の影響を受けてはいなかったようだけれど。
だから、町の人たちの再起動はワタシたちよりも早かった。棒立ちのままのワタシたちの傍を、何人もの人たちが素通りしていく。そして、その中にはワタシと同年代の女の子が二人ほど、いた。
「あー、さっき急に立ち眩みしたわー」
「だよねー、なんだったんだろうねー。マジでチョベリバだわー」
女の子二人は、もう何事もなかったように歩いてい…え?
ワタシは、その二人の会話に、自然と耳を傾けていた。
…だって、聞こえちゃいけない言葉が、露骨に聞こえたんだ。
「ところで、明日の授業って朝一で体育でしょ?かったるいよねー、テンションだだ下がるわ」
「それより、あーしは四限目の日本史の小テストがかったるわー。なんで徳川何とかって十五人もえらい人の名前おぼえないといけないんだっつーの?どんだけえらいのか知らないけどさー」
…耳を、疑った。
耳を疑っていたはずだったのに、ワタシは目をこすっていた。それぐらい、ワタシの気が動転していたという証左だ。
「いま…なん、て?」
蚊の鳴くようなワタシの声では、遠ざかる少女たちには届かない。問い質したくても、もう届かない。追いかけることも、できない。ワタシの足が、震えて動かないからだ。
…けれど。
今、言ってたよね?
日本史の小テスト?
十五人の徳川?
「何を…言ってるの?」
ここ、異世界だよ?
エルフもいるし巨人さんもいる。魔法使いもドラゴンもいる。なんだったら、今なら女神さままでいるんだよ?
「けど…徳川家康は、いちゃいけない世界なんだよ?」
江戸幕府も小郡も、この異世界にはないんだよ?
当然、この王都にも教育機関は存在している。寧ろ、教育には力を入れているようだった。この王都の第二王子であるアイギスさんが、いろいろと話してくれたんだ。子供の教育にはいくらでも時間をかけるべきだ、と。
けど、限られた期間の中では、教えられることにも限界はある。だから、教育といえどある程度の取捨選択は必要になる。
…それなのに、なんで日本史の授業があるの?
そんなこと、アイギスさんは一言も教えてくれなかったよ?
「…………」
ワタシの中で、主軸が傾いた。
ワタシがワタシでいられるはずの軸が、大きくそこで、傾いた。
…このままなら、ワタシはワタシでいられなく、なる。
「花子…殿」
先ほどの『日本史』の衝撃を引きずっていたワタシに、雪花さんが声をかけてきた。
「雪花さん…なんです、か?」
さっきから衝撃の連続で、消化不良を起こしているから少しそっとして欲しいところだったが。
…いや、駄目だ。
まだ、『花子』もリリスちゃんも見つけていない。
まだ、何も終わっていないどころか始まってすらいないんだ。
だから、ワタシは雪花さんの方に体を向けた。雪花さんは、二人を見つけるいいアイデアを思い付いたのかもしれない。
「花子…殿」
けど、雪花さんの様子は、おかしかった。
あの『世界の崩壊』のショックをまだ引きずっているのだろうか。けど、ワタシよりもこの人はタフだ。肉体的にも、精神的にも。
…その雪花さんが、さっきよりも動揺していた。
「だから、どうしたんですか、雪花さん」
なんだかんだで、ワタシはこの人を頼りにしている。普段は戯言しか言わないけれど、迷惑ばっかりかけられているけれど、それでも、この人はワタシのお姉ちゃんだ。
そして、『お姉ちゃん』は口にした。慄きながら。
「花子殿…どうして、さっきから拙者に『念話』を飛ばしているのですか?」
その言葉に、ワタシは戦慄した。
わたし、は『ね ん わ』な んて とばし ていない