67 『失礼だな、純愛でござるよ』
「…………」
そんなつもりは、毛頭なかった。
そんなつもりは微塵もなかった、はずだった。
しかし、知らず知らずのうち、ワタシは自惚れていたのかもしれない。
危険な目には何度か遭遇したけれど、無事でいられた。
微力とはいえ、幾つかの事件解決にも寄与できた、などと思い違いをしていた。
…だから、この異世界では生きていけると、ワタシは自惚れていたのかも、しれなかった。
「…………」
危険な場面からでも生還できた?
そんなモノは、その時々でみんなが助けてくれたからだ。
事件の解決に貢献?
そんなモノは、たまたま必要な情報がワタシの目の前に転がってきただけのことだ。
いつの間にか、それらを自分の手柄のように、ワタシは錯覚していたんだ。
本当のワタシは、みんなの手を借りながらこの異世界をえっちらおっちら何とか歩いているだけの、未熟なひよっこに過ぎないというのに。
「…自分の足で歩き回れることに、酔い痴れていたのかもしれないね」
悪質な病魔に蝕まれていたワタシは、長い間、自分の足で歩くこともままならなかった。
そんなワタシが、この異世界に来てからは何の制約もないまま、好きに出歩くことができた。
お医者さんからの外出許可なんて、必要なかった。
だから、知らず知らずのうちにワタシは自惚れていたのかもしれない。自分が、一端の人物にでもなれたかのように。
その自惚れが、毒牙となってワタシ自身に刺さっていた。そして、いつの間にか麻痺をしていた。
「…だから、ワタシは肝心なことも分からなくなっていたんだ」
近くにあるものほど、見落としやすい。
そんなありふれた常套句を、何度も聞いた。何度も目にした。
…大体は漫画や映画なんかのフィクションで、だけれど。
でも、それらは懇切に教えてくれていたんだ。身近なモノにほど、気を配っておかなければならない、と。なのに、ワタシはその訓戒をこれっぽっちも活かせなかった。
ワタシは、今日もいつもと変わらない目覚めを迎えていた。
けど、ワタシがいつも通りだったとしても、世界がいつも通りとは限らない。
…この日、『花子』が、いなくなっていた。
「散歩にでも行ったんじゃないの?」
朝食の席で、『花子』がいないことを気にかけていた繭ちゃんに、ワタシは軽く言ってしまった。
ワタシは、『花子』がいないことよりも、トーストにジャムを乗せるか目玉焼きを乗せるか、その程度の些細な選択肢に悩んでいた。最近の『花子』は、一人でどこかに出かけることも多かったからだ。
けど、ワタシは知っていたはずだった。
どこか、『花子』の様子がおかしかったことを。
「…………」
そして、ローブの魔法使いにして『源神教』の教祖さま(本人未公認)であるタタン・ロンドさんがドロシーさんから『女神さま』と呼ばれていた。その時から、ロンドさんの様子はおかしくなった。
当然だよね。
身に覚えのない『女神さま』呼ばわりをされて、平静でいられるはずがない。
しかも、そう呼んだのは仇敵である『魔女』だった。
けど、それだけじゃなかった。
ロンドさんだけじゃなかった。
ロンドさんが『女神さま』などと呼ばれたことで動揺していたのは、『花子』も同様だった。
その理由は、ワタシには分からない。
ロンドさんと『花子』にどんな接点があったのか、ワタシには知る由もない。
けど、『花子』自身にもそれは分かっていなかった。
誰よりも、『花子』自身が自分のことを分かっていなかったんだ。
ワタシは、そのことを分かっていたというのに。
…『花子』は、ワタシにはそれとなく自身の不安を伝えていたというのに。
「…………」
あの子は、『邪神の魂』だ。
正確には、ワタシのおばあちゃんが自身の中に封じた『邪神の魂』が、ワタシにも遺伝された存在だった。つまりは、『邪神の魂』のレプリカのようなものだ。
だからこそ、『花子』は自分がナニモノなのか、分からない。
あの『邪神の魂』そのものではなくて。
当然、ワタシと同一の存在でも、ない。
自分の土台になるものがないんだ、『花子』には。
だから、『花子』は自分という存在を構成する要素を、何一つ持ち合わせてはいなかった。
このだだっ広い世界で、自身の指針になるものが、『花子』にだけは、何もなかった。
それがどれほど怖いことか、ワタシなら分かってあげられた、はずなのに。
そのすべてを理解することは無理だとしても、その半分くらいなら。
病気に苦しめられていた時のワタシならば、『何もない自分』という怖さを、誰よりも知っていたはずなのだから。
「…………」
ずっと、『花子』は淡々としていた。この家に来た最初の頃から、『花子』は当たり前のように馴染んでいた。それは、ワタシの記憶が、『花子』の中にもあったからだ。だから、『花子』はこの家でもそこそこ奔放でいた。
…だから、ワタシも勝手に分かった気でいた。
割りとなんでも卒なくこなす『花子』は、なんだかんだで、この世界でもやっていけるのだ、と。
「…そんなわけ、ないよね」
きっと、『花子』にも葛藤なり懊悩なりがあった。
もしかすると、自分が『邪神の魂』などという存在であることを嫌悪していたかもしれない。『花子』だって、みんなから忌み嫌われる『邪神の魂』として生まれたくは、なかったはずだ。普通の子供として、普通の友達が欲しかったはずだ。
しかし、『花子』はそれを表面に出すことはなかった。
だから、『花子』は平気なのだと、気にしていないのだと、ワタシは気にも留めていなかった。
それがただの怠慢だと、ここにきて、ようやく気付いた。
あれだけ、フィクションのキャラクターたちに「なんでそんなことが分からないかな」なんてしたり顔で言っていたというのに。
「…『花子』とは、同じ釜のご飯を一緒に食べてるんだ」
食事というのは、生き物が生きる上でもっとも大切でありふれた行為で、だからこそ神聖な儀式でもある。そのご飯を一緒に食べていたワタシたちは、とっくに家族と同然だった。
だから、もっと気にかけておかないといけなかったんだ、『花子』のことを。
一番この家で危うかったのは、あの子かもしれなかったというのに。
「…………」
そのことに気付いたのは、お昼過ぎになっても『花子』がこの家に帰ってこなかったからだった。
…そして、『花子』にはワタシの『念話』が使えなかった。
だから、『花子』に『念話』で今どこにいるのか、と問いかけることもできなかった。
ここにきて、ようやくワタシの心に不安が沸いてきた。『花子』ならいつでも傍にいてくれると、ワタシは勝手に思っていた。『邪神の魂』から生まれた『花子』なら、勝手にいなくなる心配などないと、高を括っていた。その安心が慢心だと、『花子』がいなくなってようやく気が付いた。
「…………」
本来なら、心配し過ぎということになるのだろう。時間的にはまだお昼過ぎだ。これが夜中などになれば大騒ぎかもしれないが。
けど、今の『花子』は不安定だった。
それに気づかなかった、ワタシの落ち度だ。
…でも、どうするべきか。
ここで『念話』が使えないのは痛手だった。普段なら『念話』は無料でお喋りできる便利スキルくらいの感覚なのだけれど、いざ使えないとなると、その有用性が逆に浮き彫りになる。『念話』は、味方の安否確認が迅速に行える極めて有用なスキルだったんだ。さすがはユニークスキルだよ。けど、『念話』がユニークスキルという弊害が、ここで出てしまった。
本来なら、この世界で『念話』が扱えるのはワタシだけだ。だからこその、ユニークスキルだった。しかし、ワタシと同一人物としてカウントされている『花子』も『念話』を扱うことができた。ただ、同一人物としてカウントされているから、ワタシと『花子』は『念話』で連絡を取り合うことができなかった。自分同士では『念話』は使えないらしい。
「…『念話』が駄目なら」
足で探すしかないか。『花子』に何かあったと考えるのは早計かもしれないが、ナニカがあってからでは遅いんだ。骨折り損なら、それはそれでかまわない。あの子ための無駄骨なら、ワタシは甘んじて受ける。
けど、ある程度の目星くらいはつけた方がいいかな。
…『花子』が行きそうな場所となると。
やっぱり、ロンドさんのところかな。
ロンドさんが『女神さま』などと呼ばれてから、『花子』の様子に変化があった。
おそらく、『花子』自身にも分からないナニカが、そこにある。
「『花子』と…ロンドさんか」
…いや、『邪神』と『女神さま』か。
シャルカさんが言っていた。この異世界で女神といえばアルテナさまだと。そして、アルテナさま以外の女神さまとなると、それはアルテナさまの先代のことだ、と。
しかし、先代の『女神さま』は、過去、『世界の崩壊』を目論んだ『魔女』との戦いで命を落としたとされている。
「正確には、先代の『女神さま』は行方不明だったっけ」
シャルカさんはワタシにそう教えてくれた。
けど、そうなると…先代の『女神さま』がロンドさん、ということになるのか?
…ただ、それもおかしいのではないだろうか。
「そもそも、ロンドさんが『女神さま』だったとしても、『花子』が『邪神の魂』だったとしても、そこに関係はないはずだ」
この異世界において『邪神』は、身を挺して異種族同士の戦争を止めてくれた慈悲の神さまだった。
…その神さまの慈愛を裏切り、骨の髄まで利用したことで『邪神』は破壊の権化へと変貌してしまった。
「…まてよ」
ロンドさんは、過去、生け贄にされかけた。
しかしロンドさんは助けられた。そして、ロンドさんを助けたのが、『邪神』に身を窶す前の『邪神』だったのでは、なかったか?
その時の『邪神』の記憶が、『花子』にも引き継がれていたとしたら?
もし、『花子』の心残りがそこにあったとしたら?
なら、二人の接点はそこか?
けど、『花子』が反応していたのは生け贄のロンドさんではなく『女神さま』だった…。
「だから…それは」
…駄目だ。
ワタシの思考はそこで堂々巡りに陥った。
というか、ここで優先すべきは『花子』の捜索だ。
「とりあえず、ロンドさんのところに行ってみますか」
考えても答えが出ないのなら、足を使って『花子』を探すしかない。
ワタシの足は、今はこうして動いてくれる。なら、働いてもらわないとね、しっかりと。
そして、玄関で靴を履こうしていたワタシに、声をかけてくる人がいた。
「やはり捜索か…いつ出発する?拙者も同行しよう」
「…出発は今すぐですよ」
もう靴を履いてるでしょ?
だから、雪花さんのお遊びに付き合っている時間はないのだ。
「では、拙者も行くとしますか。『花子』殿を探しに行くのでござろう?」
「そうだけど…雪花さんも来てくれるんですか?」
雪花さんも靴を履き、つま先をトントンと叩いていた。
「繭ちゃん殿からも頼まれているでござるからな、花子殿が『花子』殿を探しに行くなら手伝ってあげて、と」
「繭ちゃんが…」
あの子も、大概ワタシのことをお見通しだよね。さすがはワタシの弟なのだ。いや、繭ちゃんの親権は今はワタシが持っているから、さすがはワタシの息子だね、だ。
「あ…でも、雪花さんのことだから繭ちゃんから何か見返りを要求したでしょ」
「いや、そんなことはないでござるよ。ちょっと漫画のモデルになってもらう約束をしただけでござるから」
「ちゃんと不純な見返りを要求してるじゃないですか!?」
「失礼だな、純愛でござるよ」
「ちょっと繭ちゃんと純愛に謝罪してきて!」
などという普段通りのやり取りをしながらも、ワタシたちは出かける準備を進めていた。雪花さんとの会話なんて、90パーセント以上が不毛なものだ。
…けど、こういう時はその不毛がありがたいんだよね。
『ぼくも行きたい』
と、そこにもう一人の同行者が現れた。
「白ちゃん…でも、いいの?」
ワタシは、白ちゃんにそう問いかけた。
『うん、ぼくも『花子』お姉さんが心配だから』
「白ちゃん…白ちゃんはいい子だね」
どこかの雪花さんとは違って。
ワタシは、そこで白ちゃんの頭を撫でた。白ちゃんの犬耳にも手が触れ、モフモフが気持ちよかった。
こうして、ワタシと雪花さん、そこに白ちゃんを加えた三人で『花子』捜索隊は結成された。繭ちゃんと慎吾は仕事だったけれど、ワタシとしては心強い援軍だった。
「よし、それじゃあ行きますか」
白ちゃんが靴ひもを結び終えるのを待ってから、ワタシは雪花さんと白ちゃんに声をかけた。
そして、玄関の扉を開ける。
扉を開けると同時に、昼下がりの温かい陽光と涼しい風が、ワタシたちを出迎えた。
「…………」
ねえ、『花子』。
あなたも、一人じゃないよ。
だから、ナニモノでもないなんてことも、ないんだよ。みんなが、『花子』の帰りを待ってるよ。
帰ってきたら、今日は一緒にお風呂に入ろうよ。お風呂上りには、『花子』の好きなぶどうジュースをみんなで飲もうよ。
ワタシは歩いた。心の中で、『花子』に話しかけながら。当然、それは『花子』には届かない。『花子』に『念話』は届かないからだ。
だから、ワタシはこの言葉を、直接『花子』に届ける。
ワタシの足は、自然と早くなった。雪花さんも白ちゃんも、その速さに合わせてくれる。この二人にとっても『花子』はもう家族だ。特に、白ちゃんは意外と『花子』と仲が良かったんだよね。よく二人で一緒にいるところを見たよ。
「…………」
けど、ワタシたちの覚悟や気持ちを嘲笑うように、『花子』の足取りは掴めなかった。
最初は、『源神教』の事務所に向かった。『花子』の様子が変わったことにロンドさんが関係していたとすれば、『花子』がロンドさんに会いに来ている可能性は高いと思ったからだ。
しかし、それが空振りだった。
というか、ロンドさん自身も戻ってきていなかった。ドロシーさんと出会った、あの日から。
「…………」
そのあとは、虱潰しに街中を歩き回った。その途中で、ワタシはあちこちの知り合いに『念話』を飛ばしていた。どこかで『花子』の姿を見ていないかと、尋ねていた。
けど、誰も知らなかった。誰も、『花子』を見かけてはいなかった。
…いやな予感が、ワタシの中で巣食い始めた。
そして、そんな予感に蝕まれながら、ワタシはあの子に…リリスちゃんにも『念話』を飛ばした。
『ああ、先生ですか…先生と話をするのも、これが最後かもしれませんねぇ』
リリスちゃんからの声は、そこで唐突に途絶えた。
その刹那、世界から音が途絶した。